幕間 シルメリアサイド
春の午後、穏やかな陽光がカーテンの隙間から漏れ、灰色のカーペット敷きの部屋に柔らかな光の帯を描いていた。
東京都郊外にある結衣の実家、その二階の一室だ。
埃っぽい本棚にはアニメのフィギュアやライトノベルの背表紙がぎっしりと並び、机の上には分厚い参考書とノートが積み重なっている。
壁には『大学入学資格検定合格証』のコピーが無造作に貼られ、その隣には色褪せた生徒会長選挙のポスターが残されていた。かつての賑やかな日常を思わせる痕跡が、そこかしこに散らばっていた。
部屋の主である結衣は、ベッドの脇に座っていた。ショートカットの黒髪は少し伸びて耳を覆い、大きめのTシャツとスウェットパンツというラフな格好だ。
彼女の背中には、コンパクトな外骨格「エクソスケルトン」が装着されており、軽やかな金属音を立てて動く。
かつて自殺未遂を図った時、彼女は脊椎を損傷してしまった。再生治療によって劇的に症状が改善したものの、手に力が入らないなどの後遺症が残った。
この装置はそうした後遺症を克服するために開発されたものだ。
腰から背中に沿って滑らかな甲羅のようなパーツが伸び、肩甲骨の下から追加の機械の腕――EXOアームが二本伸びている。
結衣の手にはタブレット端末が握られ、画面には大量の文字列が流れている。
端末の表面に指を滑らし、ずいぶんと集中している様子だ。
そこへ、ドアが控えめにノックされた。結衣が顔を上げると、ゆっくりと扉が開き、一人の少女が姿を現した。ショートボブの髪に縁なしメガネをかけた、おとなしそうな少女――佐倉美玲。VRMMO「ハート・オブ・フロンティア(HOF)」で「シルメリア」として名を馳せるプレイヤーだ。
「結衣……久しぶり。入っても、いいかな?」
美怜の声は小さく、どこか緊張していた。手に持った白いビニール袋からはコンビニのロゴが覗き、中には結衣の好きな缶コーヒーとプリンが入っている。
シル姐と呼ばれ、姉御肌をブイブイ吹かせているシルメリアだが、現実の美怜は正反対の引っ込み思案な性格で、こうやって友人の家を訪ねるだけでも勇気がいるようだった。
タブレットを抱えたままの結衣が振り向くと、EXOアームの一つが美玲に向かって軽やかに手を振った。
「おいっす、美玲が来るなんて珍しいじゃん。連絡なしで突撃とか、なんかあった?
ま、上がってよ。散らかってるけど」
美怜は小さく頷き、ドアをくぐって部屋に上がった。
そしてカーペットの上に正座すると、ぎこちなく紙袋を差し出した。
「これ、コンビニで買ってきたんだけど……結衣、こういうの好きだったよね?」
「へえ、気が利くじゃん。ありがと」
結衣はEXOアームで袋を受け取り、もう一本の機械腕で器用に缶コーヒーを取り出してプルタブを開けた。ゴクゴクと飲み干すと、満足げに息をつく。
「なんか……すごいね」
「便利っしょ? タブレットで動画みながらお菓子つまめるし、障害を克服どころか、むしろグレードアップした気分」
結衣がケラッと笑うと、美怜の表情が一瞬曇った。彼女はメガネの奥で目を伏せ、責任を感じるように唇を噛んだ。
結衣の自殺未遂は、HOFでのヴェルガの執拗な攻撃が引き起こしたものだ。そして、それを止められなかった自分を、美怜はずっと責めていた。
「……結衣、ごめんね。私たちが気づいてたら、こんなことには……」
「ん? 何だよ、美怜。暗い顔すんなって。私が勝手にやったことだしさ、今じゃこの通り元気じゃん。EXOアームだって悪くないよ。ほら、見てよ」
結衣が空になった缶を真上に放る。すると彼女の背中から伸びる機械の腕が缶をつかみとり、彼女の背後でお手玉して見せた。
視界の外だと言うのに、二つの腕は正確に缶を受け取ってもてあそぶ。
その軽やかな動きは、まるで手の感覚が本当にあるようだった。
「すっご……」
少しだけ表情を緩めた美怜に、すかさず結衣が微笑んで見せる。
「でさ、何か用? 美怜がわざわざ来るなんて、ただの気まぐれじゃないよね」
美怜は一瞬言葉に詰まり、意を決したように顔を上げ、結衣をまっすぐ見つめた。
「うん……。実は、HOFのことで伝えたいことがあって。
――ヴェルガ、倒したよ」
機械の腕がピタリと止まり、缶コーヒーを握ったまま固まった。
EXOアームがわずかに震え、スチール缶がくしゃりとひしゃげる。
次の瞬間、驚きと喜びが入り混じった笑顔が広がった。
「マジで!? あのクソ野郎の居場所を突き止めたんだ?! 美怜、すげえじゃん!
やっとアイツに鉄槌が下せるんだ!」
結衣の声が弾み、ベッドの上で跳ねるように身を乗り出した。美怜はそんな結衣の反応に少し戸惑いながらも、頬を緩めて頷いた。
「うん……配信でも晒して、WJでの詐欺も全部暴いて、最後は『ラスト・リゾート』で仕留めた。アイツ、もうHOFじゃまともに動けないよ」
「よっしゃ! あ、美怜! それ動画ある? アイツがどんな顔してたか見たい!」
結衣が興奮気味に言うと、美怜は両手の親指と人差指をのばしてLの字にして、枠をつくる。すると彼女が作った指の枠の中でHOFの公式アプリが開き、録画データの再生が始まった。
「ほうほう……?」
結衣が「小窓」を覗くと、シルメリアがヴェルガをレイピアで貫き、冷たく見下ろす姿が映し出される。
ヴェルガの動揺した表情と、最後に赤い剣閃で弾け飛ぶ瞬間がスローモーションで流れ、結衣はEXOアームで手を叩いて笑い出した。
「ざまぁ!! 美怜、リアルじゃおとなしいのに、ゲームじゃ容赦ないね。
サイコーだよ!」
「そ、そんな大げさなものじゃないよ……。
ただ、結衣のために、絶対アイツを許せなかったから」
美怜は照れくさそうに目を逸らし、メガネのフレームを指で押し上げた。
結衣はそんな美怜を見て、ふっと笑みを柔らかくした。
「ありがと、美怜。私がHOFやめた後でも、ずっと戦っててくれたんだね。あの時、私がリアルでやらかしちゃってさ……美怜に迷惑かけたくなくて、距離置こうとしたんだけど」
「ううん、迷惑なんかじゃないよ。結衣がHOFに誘ってくれたから、私、こんなに強くなれたんだし。それに……結衣から預かったもの、ちゃんと使えたよ」
美怜の言葉に、結衣の目がキラリと光った。
彼女はEXOアームでタブレットを掴み、床に座る美怜の隣に移動した。
「それってアレのこと? 私が渡したスクリプト、実行したの?」
美怜はコクリと頷き、タブレットを指で叩いてデータを同期させる。
タブレットにシルメリア VS ヴェルガのログが表示される。するとラスト・リゾートの発動と同時に、奇妙なコードが実行されているのが確認できた。
「うん。ヴェルガを攻撃した時のマクロに結衣がくれたスクリプトを入れてある。でも、こんなデータを何につかうの?」
「ふっふっふ……これこれ! これが欲しかったの! 文字列検索かけてっと……このあたりかな? よーしよし! ビンゴ!」
「???」
結衣がデータの行の一部をハイライト表示させる。
そこには64進数を使った文字データが記載されていた。
「何これ?」
「これはヴェルガの内部IDよ。このIDを使えば、HOFのバイオコード――ニューロコーディングを逆手に取って、ヴェルガの現実の体を特定できるのだ!」
「え、それって本当?」
「うむ! この結衣様を信じなさい!」
不登校になってからも、結衣はその鋭い知性をフルに活かし、ホワイトハッカーとしての腕を磨き続けていた。部屋にこもる日々の中、彼女はネットの闇を泳ぎ、ハッキングコミュニティで情報を集め、VRMMOのセキュリティの穴を探るプロジェクトに没頭していたのだ。
結衣は目を輝かせ、タブレットの画面を指でなぞった。
「さて……つぎにこのIDを所持する生体を特定するプログラムを、オンラインのクラウド処理サービス『出雲』で走らせてっと……。――よし、通った!」
「ど、どうなったの?」
「私の計算通りなら、アイツの位置情報を取得して、電脳にバックドアを仕込める」
「え、電脳を焼くってこと?」
「そんな深刻なハックじゃないよ、ただのイタズラレベル。そうだなぁ……アイツがコンビニで買い物してる時に『俺はヴェルガだ! タダにしろ!』って叫ばせるのはどうかな?」
「え、それって……最高!」
「でしょ?」
「きっとアイツ、大恥かくよ!」
結衣がケラケラと笑うと、美怜もつられてクスクスと笑い出した。
部屋に二人の笑い声が響き合う。
美玲の目の端に光るものが浮かんだ。
久しぶりに温かい時間を共有できたことに涙が浮かんだのだろう。
「結衣、さすがだね……私じゃ絶対思いつかないよ。ハッカーってすごいなぁ」
「いやいや、美怜だってゲーム内でリーダーやってんだから十分すごいよ。私がHOF辞めた後、『ブラッディ・ベンジェンス』をあそこまで育てたんだからさ」
話題がHOFに移ると、二人は自然と学校の近況からゲームの話へとシフトしていった。結衣がEXOアームでタブレットを操作し、「鳩風呂速報」を開くと、そこには新たな記事が飛び込んできた。
「あ、これがその隣に越してきた鍛冶屋のレオってプレイヤーの記事?」
「うん。うん? あ、違う、何か新しい記事が出てる。……え?
――『混沌の鍛冶王、BOT軍団でHOFを支配する模様?!』って何!?」
サイト記事には、HOFの世界を映したスクリーンショット(SS)が載っていた。SSにはやたら低い視点からレオの鍛冶屋が撮影されており、店の中に不自然な数のプレイヤーがうろついている。
そして、画像が添付されている記事には、こう書かれていた。
『〝レオの鍛冶屋〟に集まる謎のBOTの群れ! PKとPKKの戦争を煽った鍛冶屋が、今度はBOTを操って何をするのか?! 勇気ある告発者の報告によると混沌の鍛冶王の次なる野望は「BOTを使った人々の支配」だそうだ!』
「へぇ……何か面白そうなことやってるじゃん」
「レオがBOTを使って人々を支配? そんなことする人じゃないよ」
「へぇ、彼のことよく知ってるんだ」
「う、うん。親切な鍛冶屋さんだよ。まぁ……ちょっと抜けてるところもあるけど」
結衣はニヤリと笑い、タブレットを美怜に突きつけた。
「……なるほどね。この彼、ちょっと興味湧いてきたかも。VRMMOでBOTを動かすのってすごい難しいんだよ。技術的問題ってやつでね」
「難しいって、どういうこと?」
結衣は少し得意げに胸を張り、EXOアームの一つでタブレットの画面をタップして簡易的な図を表示した。そこには「DNA情報」と「ニューロコーディング」という二つの単語が大きく書かれている。
「いい? VRMMO、特にHOFみたいなゲームだと、ログイン情報は二重のセキュリティでガチガチに守られてるの。まず一つ目が『DNA情報』。これはVRデバイスの個人認証のことね。他人のなりすましを防ぐ機能だけど……端末をハックすれば突破可能なの」
「あ、なりすましが防げるなら、サブアカウント主がいるのおかしいもんね」
「そういうこと。そして二つ目が『ニューロコーディング』。これが本命ね。簡単に言うと、脳の指紋みたいなもの。人の脳ってさ、シナプスの発火パターンとかニューロンの繋がり方が一人一人違うんだよ。HOFはそれを解析して、個人の『思考の癖』とか『感情の傾向』を暗号化してカギに使ってるの」
「それってゲームに頭の中を覗かれてるみたいでちょっと怖いね……」
「まぁ、そういう国際条約があるから仕方ないんだけどね。この二つを突破しないと、BOTなんて動かせない。普通はDNA情報を偽装するのも、脳のニューラルパターンを再現するのも不可能に近い。でもさ……」
「?」
結衣は言葉を切り、タブレットの画面をスクロールした。
するとそこには、とあるスレッドの書き込みが表示されていた。
「このBOT騒ぎ、もしかしてこの記事が関係してるんじゃないかって思ったの」
「なにこれ? 南シナ海に浮かぶ……これ、なんて読むの?」
「鯤鵬よ。レールガンを搭載した中国軍の退役巡洋艦。大容量の電源を持っているのを活用して、南シナ海でデータサーバーを動かしてるって話なんだけど……このスレによると、そこで義脳を使った実験がされているらしいわ」
「義脳? 電脳とは違うの?」
「うん。電脳はあくまでもBMI、ブレイン・マシン・インターフェースの延長。脳に機械をつける拡張機能だけど、義脳はイチから脳と意識を作り出す――つまり、人工的に意識を持った生命を作り出す技術ね」
「ちょ、ちょっと、それって……」
「はい、バッチリ違法です!」
「だよね……」
「私、最近ハッキングコミュニティで聞いてたんだ。中国って義脳――つまり人工の脳を使って、こうしたバイオコードを使ったセキュリティを突破してるらしいの。人間の脳データを不正に集めて、ニューロコーディングを偽装してるって話」
「結衣はどうしてそんなこと知ってるの?」
「――まぁ、ちょっとね。私が取り組んでるなんとかっていうプロジェクトの一環で、そこのセキュリティ解析してるんだ」
「でも、レオ君がそんな大事に関わってるなんて思えないよ。ただの鍛冶屋だし……」
「まぁ、レオって鍛冶屋が関わってるかは別として、話が本当なら、BOTを動かしてる奴らは相当ヤバい技術持ってる。……ちょっとワクワクしてこない?」
二人は顔を見合わせ、どこかワクワクした表情を浮かべた。
結衣はタブレットを膝に置き、目を輝かせて言った。
「美怜。私、HOFに戻ろうかな。この騒ぎ、面白そうじゃん」
「えっ、本当に?!」
「もちろん! 私ならBOTのバイオコードをハックして、ヴェルガにやったみたいに義脳の位置を探ることもできる。犯罪組織を一網打尽にできるかも」
「……うん、戻ってきてよ。私、結衣とまた一緒に遊びたい。きっとレオ君も困ってるし、助けてあげようよ」
「うんうん。レオって鍛冶屋、ヴェルガを追い詰めた作戦の立役者なんでしょ?
なら、借りを返さないとね!」
二人の会話は止まらず、部屋は再び活気に満ちていった。窓の外では春の風が木々を揺らし、新たな季節の到来を告げている。結衣と美怜――現実と仮想を行き来する二人の絆は、HOFを舞台に再び試されようとしていた。
・
・
・
――魔王、降臨。
ポンコツ忍者とはレベルの違う〝本物〟が動きだしてしまった…




