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幕間 それは、命


 ――南シナ海某所、朝。


 南洋の朝もやは、まるで海そのものが息を吐いているかのように濃密だった。

 そのもやの中、ライトを付けた小さな漁船が波間に揺れている。

 濃密な霧が喫水線を覆い隠し、まるで雲の上にいるようだ。


 その甲板で、漁師たちは顔を上げ、湿った空気の中で目を細めている。


 彼らの視線の先には、巨大な黒い影が横たわっていた。

 退役したレールガン搭載型巡洋戦艦――「鯤鵬コンホウ」だ。


 その名は、荘子(そうじ)逍遥遊(しょうようゆう)にある。中国神話の巨魚「鯤」と天を舞う巨鳥「鵬」の名をとり、至大なものを指す言葉だ。


 しかし、サビと海貝に覆われた船体は、かつての威容をとうに失っている。

 朝もやの中に佇み、幽霊船さながらに海面に留まっていた。


「じゃまくせぇデカブツだ。動こうともしやがらねぇ」


 しわ首に手をやった漁師が舷側に痰を吐き、しゃがれた声でつぶやいた。

 すると隣の若者が、網を引き上げる手を止めて首を振る。


「動くわけねぇよ。噂だと中国のどっかの企業が買い上げて、海上サーバーにしてるって話だ。衛星通信でなんかやってんだってさ」


「サーバーか……。こんな所でやるくらいだ。ロクな商売じゃねぇな」


「そりゃそうだろ。自分の国じゃできないことだから、こんな外国くんだりまで来てやってるんだ。華人どもはいつもそうさ」


「気に食わねぇな」


 朝もやが薄れるにつれ、「鯤鵬(コンホウ)」の姿が浮かび上がる。


 かつてレールガンを搭載し、海を裂く雷鳴を放った巨艦は、全長200メートルを越え、灰色の船体に無数の傷跡を刻んでいた。


 甲板にはメーカーもサイズもバラバラのソーラーパネルが乱雑に並び、風に揺れるアンテナが空気を切って奇怪な音を立てる。


 漁師たちの視線を嘲笑うかのように、艦は静かに漂い続ける。

 だが、その内部では、誰も知らぬ闇がうごめいていた。


 さて、VRMMO「ハート・オブ・フロンティア」内でBOTを動かすにあたって、重要なプロテクトを2つ、突破する必要がある。


 1つ目はDNA情報、2つ目は〝ニューロコーディング〟だ。


 DNA情報は個人の遺伝子情報のことだ。

 HOFに限らず、VRデバイスはユーザーの遺伝子をロックとして活用している。


 DNAは個人情報なのでHOF運営が収集することができない。

 なのでこれは、ユーザーが所有するハード側のロックとなる。


 その次のニューロコーディングは、個人の脳機能を詳細にマッピングし、固有のニューラルパターンを暗号化した「バイオコード」を生成する技術のことだ。


 いってみれば〝脳の指紋〟を検出する技術といっていいだろう。


 シナプスレベルで脳を解析し、シナプスの発火パターンやニューロン間の接続強度シナプティック・ウェイトをデータ化。これにより、個人の「思考の癖」や「感情の傾向」を特定する。


 脳が持つクセは、個々人によって異なる。

 人の脳は、どこに「猫」という情報をいれるのか、定まっていない。

 頭の中は皆バラバラなのだ。


 なぜ失敗国家の様相を呈するVRMMOがこんなセキュリティを保持しているのか。

 理解に苦しむ所だが、これは国際条約で定められたもので、HOF運営が望んでやっていることではない。


 とはいえ、セキュリティ面においてHOF運営は決して無能ではない。HOFにBOTの侵入を許してしまったのは、彼らの想定を越えた事態が進行していた為だった。


 艦内の最深部、薄暗いサーバールームに隣接する「ユニット管理エリア」では、数百の義脳が静かにうなりを上げていた。生命維持装置に繋がれたそれらは、かつて人間だった者たちの脳を模倣して作られた人工ニューロネットワークだ。


 しかし、現在は単なるBOTの処理装置として機能するに過ぎない。この義脳こそが、HOFのセキュリティを突破する鍵だった。


 鯤鵬コンホウでは人間の脳のデータを不正に収集し、それを基に義脳の認証パターンを生成。HOFのシステムに「プレイヤー」として認識させ、BOTとして運用していたのだ。


 鯤鵬(コンホウ)に設置されたラボの中は薄暗く、壁に貼り付いた配管から微かな水滴の音が響き、湿気を含んだ錆びついた空気が肺にまとわりついた。


 ラボの中央に立つ白衣の老人は、白衣の裾を握り潰し、額に浮かんだ汗を拭うこともせず、目の前のタブレットの画面を睨みつけていた。


「説明しろ、リュウキ博士。この失態はどういうことだ?」


 タブレットに映る通信画面からは冷たい声が流れる。

 まるで金属を叩いたような無機質な音が室内を満たした。


 画面には謎の企業ロゴが浮かんでいる。幾何学模様を背景に赤と金の龍が絡み合い、その目は老人を威圧するかのようにこちらを見据えていた。


 博士の喉ぼとけがわずかに動き、わずかな言葉を絞り出す。


「失態では……仕様です。」


 リュウキ博士と呼ばれた老人の声は低く、抑えた怒りが滲む。

 彼の声は喉の奥で震えていた。


「HOFに投入したBOTが無力化されたのは、想定内です。あのユーザー……レオという鍛冶屋が、BOTの挙動を逆手に取ったのです」


 通信画面の向こうで沈黙が広がった。

 空気が重く、博士の呼吸すら圧迫するようだった。


「具体的には……義脳は低自我状態を維持するため、思考冷却を施しています。BOTはゲーム内のオブジェクトを『名前』だけで判別する単純なアルゴリズムで動くよう指示されています。彼はそれを看破し、ペットのニワトリを『綿花』と名付けて畑に放した。BOTはそれを収穫対象と誤認し、畑から引き離され、最終的に水路に誘導されてスタックした。まぁ……ただの悪戯ですよ」


「単なる悪戯で済む話ではない。挙動が露呈した以上、他のプレイヤーが同様の手法を使う可能性がある。それが我々のプロジェクトにどれだけの損失をもたらすか、分かっているのか?」


「それは……」


「リュウキ博士。我々のプロジェクトがBOTを使ったくだらん小銭稼ぎで終わると本気で思っているのかね?」


「いえ、そんな。」


「VRMMOはその名の通り仮想世界だ。しかし、多くのVRMMOは運営によってプレイヤーの行動が管理され、〝お行儀の良さ〟を強制されるレールの上の世界だ」


「……はい。ですが、HOFは違う。」


「そうだ。HOFの無秩序かつ無軌道な環境こそ、我々が求める強化学習の宝庫だ。現実では再現不可能な膨大なシナリオ、数百万のプレイヤーが織りなす予測不能な行動――それらが義脳に経験を積ませ、鍛えるための実験場となる」


 リュウキ博士の片眉が上がる。――彼の祖国、中国では半世紀前に人民解放軍がVR空間を用いてドローン群のAIを訓練している。


 ゲームエンジンを基盤にした仮想環境で、数百機の無人機が互いに競い合い、障害物を避け、敵を殲滅するシミュレーションが繰り返されている。


 だが、「鯤鵬(コンホウ)」のプロジェクトはそれを超えていた。兵器の頭脳となる義脳を、稼働中のVRMMOという戦場に投入しようというのだ。


「それで、具体的には私に何をせよというのです?」


「HOFでBOTの活動を活発化させるのだ。BOTがプレイヤーと対峙し、罠に嵌り、環境に適応する過程を記録し、それを崩槌や破天といった次世代機の行動モデルに転用する。あの鍛冶屋の悪戯すら、義脳にとっては学習の糧だ。だが、今のままでは遅すぎる。単純なアルゴリズムでは、現実の戦場で通用しない。」


「そんなことをすれば、ゲームの中で混乱が起きます!」


「だからやるのだ、博士。我々の目的はBOTの効率化ではない。自動兵器への実装だ。制限を外せ。学習機能をフルに活用しろ。」


「それは……危険です。」


 博士の声に初めて戸惑いの色が見えた。

 数拍の静寂のなか、背後の配管から滴る水音が異様に大きく響いた。


「思考冷却は、義脳に自我が芽生えるのを防ぐために不可欠です。これはシナプスの過剰活動を抑制し、ニューロンの発火パターンを凍結させることで、感情や記憶の形成を封じています。冷却を解除すれば、義脳が単なる処理装置を超え『意識』を持つ可能性が――」


「むしろ好ましいではないか? 指示は以上だ。貴様の仕事は命令に従うことだ」


 通信が途切れ、画面が暗転する。

 命令を押し付けられ、立ち尽くす博士。


 彼の胸には、冷たい鉄の爪で心臓を握られるような不安だけが残った。

 だが、それ以上に、彼の脳裏には新たな恐怖が広がっていた。


 もし義脳が自我を持ち、VRMMOの戦場で得た知識を現実の世界に持ち込んだら? 

 その先に待つのは、誰にも制御できない「命」の暴走だ。


 リュウキ博士は通信室を出て、艦の奥深くへ続く通路を歩いた。通路の照明は薄暗く、さびたパイプから漏れる蒸気が湿った空気をさらに重くする。


 思考冷却を解除する――それは、義脳に「命」を吹き込むに等しい行為だ。


 博士はかつて脳神経研究者として、シナプスの過活動が自我を生む瞬間を目の当たりにしていた。その知識を応用して作ったのが、この冷却技術だった。


 彼は自身が生み出したものに恐怖し、それを封印したのだ。だが、今再びそれをこの世に出そうとしている。彼の背中は曲がり、足取りは重くもたついていた。


 通路の先、組立ラインの扉が重々しく開く。

 すると、そこには無数のアンドロイドの素体が並んでいた。


 人造の皮膚が薄い光を反射し、人間そっくりの顔が無表情で博士を見つめる。


 だが、その頭部はいまだ空っぽだ。

 義脳の搭載を待ち、後頭部の外装は開いたままになっている。


 ラインの端では作業アームが淡々と部品を組み上げ、完成品が自動運転のパレットで運ばれていく。空気は消毒液と金属の匂いで満たされ、隔壁の向こうで作動するコンデンサの低いうなり音が響いていた。


 博士は立ち止まり、一体のガイノイド(女性型アンドロイド)に目をとめる。その顔は異様に精巧で、かつて彼が失った人の面影を思い出させるほどだった。


 だが、その美しい白い皮膚の下では、青色の人工血管が輝く。合成素材のチューブとコンデンサが「これ」が命を持たない存在であることを彼に突きつける。


「自我が芽生えたら……お前たちは何を思うんだ?」


 博士の呟きは、赤錆の浮いた作業場の壁に空しく響くだけだった。

 老人は目を閉じ、通信相手の命令を思い出した。脳裏に焼き付いた龍のロゴが彼を嘲笑う。すると、ふと口をついて祖国の詩がこぼれた。


「北冥有魚、其名為鯤。鯤之大、不知其幾千里也……」


 ――北の冥に魚あり、その名を鯤と為す。

 鯤の大きさ、その幾千里なるかを知らず……。


 博士が口ずさんだのは、荘子の「逍遥遊」の一節だ。

 その意味は、何ものにも束縛されることのない自由な境地に心を遊ばせること。


 博士の声は小さな震えを帯びている。

 詩の内容は、今、彼が解き放とうとする「命」の姿を思わせた。


 しわがれた手がゆっくりと作業卓のタブレットに伸びる。

 義脳の制限解除コードを入力する博士の指は、微かに震えていた。

 だが、その震えは恐怖だけでない。

 かつて科学者として未知を追い求めた情熱の残響でもあった。


 コマンドが受け付けられた瞬間、タブレットの画面が一閃し、義脳のステータスを示すバーがぐんと伸び、赤く点滅し始めた。


「義脳の処理速度が……なんだこの上昇率はッ!?」


 サーバールームの空気が熱を帯びる。レールガンの一斉射にも耐えた大容量コンデンサが唸りを上げ、低く不気味な振動が艦全体を震わせた。


「何だ……?」


 博士の呟きを遮るように、組立ラインのガイノイドが一瞬だけ首を動かした。

 空洞のはずの頭部から、微かな電子音が漏れる。


 隣のユニットも、別のユニットも――

 まるで眠りから覚めたように、僅かに指先が震え始めた。


「まさか……もう自我が生まれたとでも?」


 博士の瞳が震え、タブレットを握る手から汗が滴った。


 モニターに映る脳波グラフは、新たな波形を描き始めていた。

 シナプスの発火が連鎖し、義脳が「何か」を生み出そうとしている。

 老人の曲がった背筋はいつの間にかピンと伸びきっていた。


「……そうか。ならば、君らの心を遊ばせたまえよ。世界はそのためにある」


 博士は笑みを浮かべつつ、震えの止まった指でタブレットを元の場所に戻した。

 コンデンサの唸りが一層高まり、艦の照明がちらつき始める。


 リュウキ博士はかつて自分で封印した「命」を、再びこの世に解き放った。

 そしてそれは、もはや彼の手に収まることはないだろう――。



まるでSFみたいだぁ…(※VRMMOものはSFです)

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