幕間 正義のために
VRMMO「ハート・オブ・フロンティア」(HOF)。
運営がプレイヤーに喧嘩を売り続けるこの電子の肥溜めで、全能者たる彼らが唯一恐れるのは、ログアウト後に誰も戻ってこない静寂だけだ。
まさに「運営vsプレイヤー」の仁義なき抗争が繰り広げられるハトフロだが、そんな世界でもドブ川に浮かぶ一輪の花のような美しい場所が存在する。
――ここは善属性のプレイヤーだけが立ち入りを許される「精霊の庭」。
詐欺、泥棒、PKが日常茶飯事のこの無法地帯にも、「善」をテーマにしたエリアがある。静謐で幻想的な趣のダンジョン。それが精霊の庭だった。
淡い光を放つ輝霊が漂い、小さなフェアリーたちが草花の間を舞う。魔法エフェクトが空気を彩り、ハトフロらしからぬ夢幻の楽園を演出している。
初めて訪れた者はこう思うだろう。「え、ハトフロにプレイヤーの死体以外に飾れるものあったの?」と。この世界の住人にとって〝平和〟とは、それほど異物感のある存在だった。
精霊の庭は、PKKたちの聖域とも呼べる空間だった。この場所にPKや一般プレイヤーは立ち入ることが出来ない。
HOFには名声システムがあり、プレイヤーの行動に応じて、善・中立・悪のステータスが変動する。悪属性のデーモン、オウガを倒すと名声が善に傾き、NPCや他のプレイヤーを攻撃すると悪に傾くと言った具合だ。
ちなみに、詐欺、ギルドに加入しての倉庫ドロボウなど、仕様上OKなグレーゾーン行為は名声に一切影響しない。あくまでもゲーム中のプレイスタイルの評価であり、プレイヤー本人の心の清らかさとは何の関係もないパラメーターだった。
実際、名声システムは「そういやそんなのもあったね」と、たまに思い出される程度の存在でしか無い。
精霊の庭はその忘れられがちな名声システムが機能している数少ない場所だ。
この場所に悪属性や中立属性のプレイヤーが入り込むと、ウィスプとフェアリーたちの攻撃が待っている。彼らの強さはたいしたことないが、小さくてふわふわ浮いているせいで魔法や弓で狙いにくい。さらに雷や光の魔法でしつこく攻撃してくるため、性能以上に「面倒くさい」と感じる敵だ。
しかし、苦労して倒してもドロップアイテムは平凡そのもの。いわゆる「不味い」敵である。そのため、精霊の庭をわざわざ訪れるプレイヤーはほとんどいない。
聖域と言えば聞こえがいいが、実際はただ過疎っているだけである。それでもPKKにとっては特別な意味を持つ。PKが入れない自分たちだけの空間。そんな場所はここ以外に存在しないからだ。
運営とプレイヤーが道徳ランキング底辺合戦をしているHOFでも、この庭だけは静かに輝きを保っている。ハート・オブ・フロンティアという過酷な世界に咲いた、ささやかな希望の光なのかもしれない。たぶん。
一段高くなった祭壇の上に、シルバージークが堂々と立っていた。ウィスプの光が彼の白銀の鎧に反射し、静寂の中でかすかな金属音が響く。
かつてPKとして恐れられたヴェルガの名を捨て、今はPKKギルド『ホワイト・ジャッジメント』の実質的な支配者として君臨していた。
創設者ヒロシがギルドマスターの名を冠しているものの、実務を仕切るのは紛れもなくシルバージークである。彼は加入後、メンバーの支持を集め、独自の位階システムを導入した。イニシエイト、ナイト、パラディン、センチュリオン――功績に応じて昇格する仕組みだ。そして、位階の任命権は彼の手にあった。
今、彼の前に跪くのはレイジ。PKKとして活動する若手の有望株だ。純白の衣装に身を包んだ彼は純白のプレートメイルに身を包み、騎士の風格を漂わせている。
頭を垂れているレイジの前に立つシルバージーク。名を変え、立場すら真逆になった男は手に持ったレア武器「リインカーネーション」を掲げ、その刃先でレイジの肩を軽く叩いた。
武器には似つかわしくない優しげな音色が静かな空間に染みていく。
ウィスプの光が表面に反射する剣の名は「転生」を意味し、彼が過去の自分を仄めかす皮肉として選んだものだ。だが、その仕草に彼に備わる悪辣な嘲笑はなく、むしろ厳粛な雰囲気を周囲に払っていた。
「レイジ。貴公は我々の正義に仕える資格を得た。今日よりナイトを名乗れ」
シルバージークの声は低く、落ち着きに満ちている。
自信に裏打ちされた穏やかな口調は、彼が自分を大物と見せたがる性質を如実に表していた。かつてのヴェルガ時代のような威圧的な荒々しさは鳴りを潜め、今は理知的な指導者としての態度が前面に出ている。
レイジは静かに顔を上げ、目を細めて応える。
「光栄です、シルバージーク様。この命、正義のために捧げます」
緊張が滲む声だったが、そこには確かな決意が宿っていた。彼は悪党ではない。ただ、WJの掲げる独善的な正義に心酔しているだけだ。
シルバージークは小さく頷き、レイジのマントの肩にナイトの証であるバッジを押し付けた。つややかな銀の表面がフェアリーたちが発する燐光を繰り返す。
これは中世の金拍車の儀式を模したものだが、過剰な演出は控えられ、厳かさが保たれていた。彼は人々を屈服させることに快感を覚える歪んだ気性を持ちつつも、ここではそれを抑え、威厳を演出することに徹している。
周囲にはWJのメンバーが数人、静かに儀式を見守っていた。イニシエイトの若者たちは敬意を込めた眼差しを送り、パラディン階級の古参は穏やかな表情で佇んでいる。シルバージークはその視線を感じながら、大きく息を吸い込んだ。
「諸君。この場に集う我々は、正義の執行者だ。弱き者の盾となり、この世界に秩序をもたらす。それが我々の使命だ!!!」
ガントレットをはめた手を胸当てに押し付ける。静かな庭には不釣り合いな、力強く鋼を叩く音が、妖精の光の届かない暗がりの底まで鳴り響いた。
言葉は重々しく、威厳に満ちている。しかし彼の言う正義は独善的であり、時に他者を踏みにじるものだ。だが、ここにいる誰の目にもそれが正しいと映っているようだ。儀式は終わり、祭壇の上からシルバージークが石段をゆっくりと降りる。
すると、パラディンの一人、スクルドが静かに彼の前に進み出た。
「シルバージーク、儀式は立派だった。ただ……君は儀式に熱心すぎやしないか」
彼女の声は穏やかだったが、疑問を投げかけるような空気が混じっていた。
スクルドはヒロシがギルドを結成したときから参加している古参メンバーであり、
PKKギルドを始める前からヒロシと親交のあったプレイヤーだ。
彼女はジークのやり方に時おり異を唱える存在だ。だが、その態度は敵対的ではなく、その言葉はあくまで信頼を置く仲間としての問いかけだった。
シルバージークは視線をスクルドに移し、酷薄に微笑んだ。
「たしかにそうかも知れない。だが儀式は必要だ。シスター・スクルド。このフェアリー・ガーデンは我々の正義を象徴する場所だ。ここで儀式を行うことで、皆の双肩にかかる重みを理解させられる。これをないがしろには出来ない」
言葉には確信が込められ、反論を許さない落ち着きがあった。彼の瞳にスクルドに対する怒りはない。ただ冷徹な理性が宿っているように見えた。
スクルドは一歩下がり、マントを軽く整えて一礼する。
シルバージークはPKKとしての責任を持たせるために儀式が必要だ、と言った。
しかし、本当の目的は違う。
この儀式はヒロシを孤立させ、忠誠を自分に集中させるための仕掛けだった。
彼は権威者として振る舞い、かしずくものには恩恵を、そうでないものには叱責や不名誉という罰を与えることで、メンバーの心を縛ろうと試みていたのだ。彼の立ち居振る舞い、言葉選び、その一つ一つに、常に何らかの計算が働いている。
シルバージークは周囲を見渡し、静かに呟いた。
「行こう。世界を蝕む害悪は、いまだ根絶されることなく息を潜めている」
その声は淡々としたものだったが、内に秘めた執念がかすかにもれ出ていた。
彼にとって、これは単なるゲームではない。使命であり、誓いなのだ。
フェアリーたちが再び宙を舞い始め、ウィスプの淡い光が周囲を柔らかく包み込んだ。WJの仲間たちは、それぞれの役割を胸に秘め、ダンジョンの出口へと足を進めていく。足音が石畳に響き合い、一筋の意志のように聞こえた。
しかし彼らは知らない。この聖域の中ですら、耐え難い邪悪が存在する。
彼らを率いるその男。シルバージークという名の男がそうであることを。
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