あめあめぬるぬる(1)
「姉様? ねーさまー?」
暗く長い廊下。降りしきる雨。
「ここかな?」
開かれた扉の先、部屋の中には誰もいない。
「どこ行ったんだろ?」
少女は首を傾げると、また廊下を歩きだした‥‥。
「まさか、君もリブラに行くところだったとはなあ」
「私、言ってませんでしたっけ」
「どうだったかなあ?」
雨音に声をこもらせて二つの影が道を往く。
「とはいえ、こうやって話し相手がいると、歩くのも苦じゃなくなるよ」
そう言って画家の男——ブルートは、傘を片手に、布をかぶせた絵を雨に濡れないよう大事に抱え直した。
「まあ、それもそうですね」
隣を歩く黒髪の女は、雨音に紛れるよう「まあ、僕達には縁の無いない話だけど」と静かに呟いた。
纏う黒のローブ、そのフードを深く被る彼女——リオネとジェルソは一つの体を二人で分かち合い歩く。
ぬかるんだ道に残る三人(二人)の足跡。跳ねた泥がその足元を汚している。
「やっぱり、雨の中を歩くのは大変だなあ」
ブルートの言葉に、リオネ達は「そうですね」と軽く仰ぎ見た。
「でも、絵を届けないと」
「分かってますよ」
そう言いながら、リオネ達の口から漏れた息は、白く霧の様に昇った‥‥。
青を求めた冒険の後、ブルートが絵を完成させた後のこと——。
「よし、じゃあ早速僕はこの絵を届けに行くよ」
「今からですか?」
「ああ。もちろんさ」
「雨降ってますけど‥‥」
窓外に目を向けたリオネ達に倣うよう、ブルートもそちらを見ると——、そこはまさしく大雨。雨粒の描く線で森は覆いつくされているのだが——、
「それでもいかないと」
ブルートの口から出たのはそんな言葉だった。
「どうしてですか?」
リオネ達の問いにブルートは、既に出かける準備をしながら「納期がね‥‥」とポツリ呟いた。
「別にいんじゃないですか? 少しくらい」
「もう伸ばせないんだよ。そろそろ本気で怒られるんだあ」
これまでの無邪気な笑顔はどこかへ、口元を引きつらせて笑うブルート。
「なるほど」とリオネ達も苦笑を浮かべて頷いた。
「だからさ、僕は行くね。君たちはもう少しゆっくりしてってもいいよ」
準備を終え、ドアノブに手をかけてひねったブルートに、リオネ達は「いえ。私たちも行きます」と共にアトリエを後にした。
そして三人(二人)歩きだしたのだが、三度分かれ道を過ぎようと両者変わらず隣を歩いていた。
「あの、ブルートさん。ちなみにどちらまで?」
「もちろんリブラさ。そういう君は?」
その言葉に、リオネ達はどこか気まずそうに笑って口を開いた。
「あ、私たちもです‥‥」
そうして現在も、二人は同じ目的地に向けて歩を進めていた。
相も変わらず左右は木々生い茂っているが、道は断然に広くなっており、すれ違う馬車の数も増えていた。
「ところで君は、傘を差さなくてもいいのかい?」
「はい。どうにかなります——」
「ヒヒーーーーンッ!!」
雨音を裂いた馬の嘶き。リオネ達の視線は直ぐそちらに向いた。
リオネ達の進む先、一台の馬車が轍を外れた。繋がれた馬は——濡れたたてがみから水滴を散らして、足を滑らせる。
ズザアァァッと横転する馬車。荷台に乗っていた野菜は帆布に飛び散る。そして、手綱を握っていた男は、放り出され地に伏していた。
彼がうな垂れながらも見上げると——、
そこには大きな口。さらに、中から細長い舌が鞭のようにしなり勢いよく男めがけて飛び出した。
(リオっ)
斬撃一閃——。
「ゲゴォォ!」
奇妙な鳴き声と共に赤い飛沫が男の頬を掠めた。
ビチャと泥を飛ばして地に落ちる舌先。そこからじんわりと血が滲む。
「大丈夫ですかっ」
眼前を覆う黒のローブに、男は「はい」と力なくも確かに頷いた。それを認めてリオネ達はほっと安堵の溜め息を吐いた。
「ギリギリ間に合った」
そう言ってからリオネ達はじっと前方を睨みつけた。
やけに湿り油の様に照る皮膚。そこから粘液を垂らして——。つぶらな瞳だけはかわいらしくあるが、それでも気味悪い浅緑色のその相貌には余計に不和を生んでいる。
リオネ達が睨みつけた先には、大きな蛙が二匹、仁王立ちの様に行く手を阻んでいた。
――そうして、数舜の睨み合いの後。
降る雨に垂直に交わり水弾が二つ宙を裂いた。
「バシャバシャッ」
ぬかるんだ地面に伏す肉塊二つ。その眉間は貫かれ溢れる血が雨に流される‥‥。
蛙が倒れたのを認めるや否や、リオネ達は背後に倒れる男の前に屈んだ
男はというと半開きの瞳で、苦しそうに浅い呼吸をしていた。
リオネ達は右手を彼の胸のあたりに添えた。強い雨足の中で、ほんの薄く二人の指先に光が纏い、それが男の胸元に伝播した。
すると、次第に男の表情は穏やかなものへと変わり、その呼吸も落ちつきを取り戻し始めた。そして彼の全身から力が抜け、男はそのまま眠りにつくように気を失った。
「大丈夫かいっ?」
声を荒げて駆け寄って来たブルートに、リオネ達は頷くと横たわる男を抱え上げた。
「気を失っているだけです」
「そっか。良かったあ」
リオネ達は「ブルートさん、ちょっと見ていてください」と男を脇の木へともたれさせ、今度は横たわったまま、微かに唸りを上げている馬の元へと歩み寄った。
ピクピクと足を震わせて、うな垂れる馬に、リオネ達は優しく「大丈夫だよ」と微笑むと、指先で濡れた毛並みの馬の脚に触れた。
「ブルートさん、ちょっと目を瞑って——」
そう顔を上げたリオネ達の目は一瞬で大きく見開かれた。
大きな蛙がまた一匹口を開けていた。そして、その舌先は——今まさにブルートを捉えんとしている。
「危な——」
「バァアンッ」
リオネの声と雨音を掻き消す轟音。泥に混じり鮮血は飛び散る‥‥。
リオネ達の見開かれたままの瞳に映し出されたのは——、
豪雨の道に突き刺さる大斧だった。それは細長い舌を引きちぎって、次には蛙の胴体へと向かい——、瞬く間に一刀両断。
それらをやってのけた小さな体躯の少女は、二つ縛りの髪から雨と共に血を滴らせて、振り返り様ににっこり微笑んだ。




