本の行方(3)
「ごめんなさい。この本人のものだから渡せないの」
「黙ってよこせ」
「話聞いてた?」
「いいからよこせ」
(ジェル、こいつ話聞いてない)
(だね)
リオネ達は、呆れたように首を横に振った。
「よこせ!」
ウオーッと雄たけびを上げながら少年は正面から突っ込んでいく。彼の思い切り振りかぶった右手に炎が纏い、一瞬にして振り下ろされた。
リオネ達は右手で本を抱えたまま胸元で両手を重ね、それを翼のようにぱっと開く。同時に彼女らの正面に大きな水の塊ができた。
少年はその水の塊ごとリオネ達を狙う。
パンッという弾ける音―。その水の塊すべてが爆発するように蒸気と化す。
リオネ達は気化の爆風にうまく乗り、後方へと大きく飛んで少年の攻撃をよけていた。が、宙に浮いたままの二人に、すぐに追撃として大きな紅い炎が周りの木々を飲み込みながら二人までもその渦中に入れようと大きな口を開けて襲い掛かる。
(さすがに大きすぎっ)
(リオ、逃げるの優先ね)
(わかってるっ)
リオネ達は先程同様、両手を大きく薙ぎ払うようにして自分の周りを囲うように丸く水の壁を作った。
これで炎をやり過ごせると二人が思った矢先、彼女らのほぼ真下、ガンッという強い摩擦音と共に地面が突如として隆起し槍のようにリオネ達を突き刺そうとしていた。
「っな」
(リオっ)
歯を思い切り食いしばり、リオネ達は囲う水の壁の一部を歪めて自分自身を後方に突き飛ばした。
判断を間違えば貫かれていた体―。土の槍は二人の鼻先を掠めて空にそびえ立つ。
リオネ達はどうにか着地したが、それでも片膝つかされた。
(ナイス。リオ)
(まだ来るよっ)
二人を取って食わんとしていた炎は、前方の水の玉を安々と気化させ威力は少し弱まりながらも二人に迫る。
呼吸が乱れたリオネ達。それでも左手を開いて目一杯天に伸ばした。
その間にも炎は二人の目と鼻の先まで迫り来る。
熱で歪む空間―。
リオネ達はそれを叩き消すように伸ばした手を振り下ろした。
滝―大量の水のカーテンに火炎が衝突した。バゴォォという地響きが遠くまで轟き、辺りは白の霧に包まれた。眼前二メートルも見えるかの視界。
「ふぅー」
攻撃の波を防ぎ切ったとリオネ達は息を一つはいてから立ち上がった。
(リオネ。今のうちに)
(うん)
リオネ達が視界の悪さに乗じてその場を去ろうとしたとき——、 二人の体の中心を土の槍が貫いた。
霧の中、力なく土の槍にぶら下がる影が一つ。
その手元からは本がするりと音もなく抜け落ちる―。
激動のあとの静けさ。
落ちた本の元に、奥からゆっくりと少年が乾いた足音を立てて歩み寄った。
「これで俺たちはようやく一つに―」
と、少年が本を拾い上げようと手を伸ばしたその時、彼の指先が触れる前に本は濃い霧の一部へまぎれるように姿を消した。
「えっ」と少年は先刻までの鋭さが落ち着いた目を見開いた。そして辺りを見渡そうとするその前に―バギィッと鈍い音がした。
少年の伸ばした右腕がダラっと力なく垂れた。彼の額に浮かぶ脂汗。恐怖と驚愕と激痛が一瞬にして少年を襲った。しわくちゃの顔で彼が叫ぼうとしたとき、またバギィッという鈍い音。今度は少年の右足が膝から崩れ落ちた。ドサッと少年は倒れ込む。
また叫ぼうとすると、今度は彼の腹部に強い衝撃が走る。「うっ」とただ声漏れる。
少年が叫ぼうと、動こうとする度に、彼の体には強い衝撃が走り、その都度少年は息を漏らす。
何十回、下手をすれば百何回もそれは繰り返された。
そしてもう叫ぶ力も残らず、少年はただ目と鼻から体液を漏らして呆然と横たわっていた。一見外傷はないが、彼の服の内、ひいては体の内はボロボロとなっていた。
「ようし、この位懲らしめればいいでしょう」
「だね」
いつの間にか霧が晴れ、そのぐでっと倒れた少年をリオネとジェルは歩み寄るとその前に立って見下ろした。
「ねえ、一つ聞きたいことあるんだけどさ―」
とリオネ達は少年の顔の前に黒の長髪を揺らしながらしゃがみこんだ。
「この本、そんなにすごい代物なの?」
首を傾げて尋ねるリオネに、少年はただ涙と鼻水を垂らすだけで何も応答がない。
「おーい。聞いてる?」
手を少年の前で振るリオネ達だったが、彼は全く動かない。
「リオ、やりすぎたんじゃない?」
「え? でも命は奪ってないでしょ?」
「そうだけど…。結構痛かったんじゃない? 多分」
「はぁー。そうか…。じゃあジェル、よろしく」
「わかったー。でも警戒だけはしておいてね」
「もちろん」とリオネが言うと、彼女らは右の人差し指をぴんと立てた。すると少年を取り囲むように親指の爪程の大きさをした水の玉が無数に沸いた。
「ジェル」
「うん」
ジェルソ達は空いた左手を少年の体に触れるか触れないかまで伸ばした。そして、開いた掌が淡く輝きだしその輝きが少年へと伝播し体を包み込む。
少ししてから「この位かな」とジェルソが言うと、その光はうっすらと消えていった。
光が消えてすぐ、少年は吹き返したかのように息をした。
「あ、変な気おこしたらさっきと同じことするからね」
爽やかな、悪気のない笑顔でリオネが言った。
そんなリオネ達を少年は目だけで見上げた。その瞳には明らかに恐怖が宿っていた。
「どうして…。確かに仕留めたはず…」
少年の口からほとんど息のそんな言葉が漏れた。
「ああ、確かに気持ちよく貫いてくれたよね―」
少年の疑問にリオネは嬉々として答える。
「私たちの偽物。あれ? 分身? それとも…」
「まあ、虚像みたいなものだよ」
「そうそう虚像。水蒸気に虚像を投影したんだ。うちのジェルが」
自慢げに「すごいでしょ」とリオルは言いながら体は胸を叩いた。
「まあ、その前にリオが霧になるくらいの水蒸気作ってくれたおかげだけど」
「いやいや。あれはこの人との合作みたいなものだし」
そう言ってリオネ達は少年を見る。
「いやいや、でもリオネがいなかったら負けてたし」
「いやいや、そもそもジェルがいなかったら犯人見付けられなかったし」
「いやいやそれほどでも」
「いやいやそれほどでも」
二人して頭をかいて照れたように笑った。
それでもその右手の人差し指はぴんと立って、いつでも少年の喉元には切っ先が突きつけられているようなものだった。
「とまあ、冗談は置いておいて、君は―」と言ったところでリオネ達の口が止まる。すぐ近くの木で柔らかく吹いた風に揺られて木の葉が落ちる中、彼女らは口角を上げてから続けた。
「いや、君“たち”はどうしてこの本が欲しかったの?」
その言葉に、少年は少し目を見開いたが、口はつむったままだった。
「あれ? 教えてくれないの? ならまたさっきのやる?」
リオネ達の指先がピクリと動いた。と同時に彼を囲う水玉たちも揺れる。
それに合わせて少年の体が微かに震えた。
「冗談だよ。さすがにもうやらない」とリオネ達は立ち上がった。そして黒いローブの裾をぱっぱと払って、枝と枝の隙間から漏れ見える空を見上げた。
本来であれば水色がいっぱいに広がっている。それでも木々が邪魔してほとんどが緑か茶色で、リオネたちの目に届く晴れた空はわずかだった。
「でも、どうしてこの本が欲しかったのかは教えて―」
リオネ達がもう一度少年へ視線を戻した時、彼女らは一瞬総毛立った。
そこに少年の姿がなくなっていたのだ。
臨戦態勢に入るリオネ達。じっと辺りを睨みつけて警戒する―。
リオネ達の呼吸は少し浅くなり、心拍数も上がっているようだった。
吹く冷たい風が二人の緊張感を煽る―。
(ジェル)
(うん、大丈夫そうだね)
そう言葉を交わすと、二人の体から力がすっと抜けた。
どうやら少年はその姿を単にくらませただけのようだった。
「ねえジェル。私に幻覚見せていたわけじゃないよね?」
「そんなことするわけないよね? 僕が」
「うん、そうだよね」
「うん」
二人黙ってまた空を見上げた。
「何だったんだろうね、今の」
口を本当にそろえて二人嘆いた。
それでも今起きたことが現実であると二人に示すように、焦げた木々と隆起した大地が彼女らの目に映り、焼けた匂いがその鼻を掠めた。
「ライラのとこ、行こっか」
「だね」
二人はその光景を背に街の方へと歩き始めた。