一人の女 ”リオネとジェルソ”
街を外れた森の奥。夜空にぶら下がる月の明かりも届かぬほど木々生い茂る中に、一軒の小屋がある。
「今日も一日終わりか…」
人一人住むのに丁度良い広さをしたその小屋の中は、中心に浮かぶこぶし大程の白い光の玉に、淡く照らし出されていた。壁伝いにほぼ四方を本棚が囲み、申し訳程度に窓と出入口の辺りだけは隙間が空いている。その窓の向こう側、真っ暗な世界を、墨に塗られたような黒の瞳が飲み込むように捉えていた。
「ねえ、ジェル? 私もう寝たいんだけど」
女が一人、部屋の中心に座す大きめの四角いテーブルに頬杖を突きながら、そのぷっくらとした赤い唇を尖らせて誰かに言葉を投げかけた。が、彼女以外この部屋には誰もいない。その澄んだ声に本来であれば何も返ってくるはずはないのだが――。
「ごめん、もう少しだけ待ってくれない?もう少し、外を眺めて落ち着きたい」
どうしてか声が返って来た。
「いつもそうだけどさ、真っ暗な外を見て何がどうすれば落ち着くの? なんなら窓に反射した自分の姿しか映っていないけど」
窓に映る彼女の黒くまっすぐ伸びた長髪は外の闇にまぎれている。
「その奥に確かにある木々を僕は見ているんだ」
「私には全く見えないんだけど…」
「何言ってるんだよ。ほら、じーっと見てみて」
その言葉に合わせてか、女のつぶらな瞳が少し細長くなって、窓の方をより凝視し始めた。それでもよく見えなかったのか、彼女は眉間にしわが寄るほどにぐっと目を細めた。それによって彼女の通った鼻筋と左右の頬に沿って胸元まで流れる髪が微かに揺れる。
「何も見えないよ」
「そんなことないよ。僕には見える」
その言葉に、女は「はぁー」と声が混じる程のため息をついた。
「あのね、ジェル。同じ目で見ているのにジェルに見えて私に見えないなんてことはないはずでしょ?」
「いや、見えるよ。ほらじっと見て心を通わせてみれば…」
女の手が胸の前で重ねられた。
「ジェル、それ想像してるから。実際には見えてないからね」
「うーん…、それはリオの心が汚れて―」
「もう寝るよ」
そう言って女が白くすらっと細く指の伸びる両手をテーブルに着いたところで、彼女の腕がぶるっと痙攣して固まった。
「ちょっとジェル。お願いもう私眠いの。あなたも眠いはずでしょ?」
「眠いけどさ。ねぇ、もう少しだけ? 駄目?」
立ち上がろうと力を入れている彼女の全身を、まるで押さえつけるかのように見えない力が働いていた。彼女の着る白い半袖ワンピースまでもその攻防を伝える。
「ねえジェル、明日。明日は起きていてもいいから。今日は寝よ?」
「えー。前もそう言ってたけど結局寝ちゃったじゃん」
「それはジェルが寝たせいでしょ? 私は頑張ったよ」
「それは…、そうだけどさあ」
よくわからない言い合いが続いている。が、やはり小屋の中で女以外の姿はない。光の玉は確かにあるが、彼女がそれと会話しているようでもない。
「なに? やっぱりあの夢が怖いの?」
「うっ。それは…」
それでも会話は続いている。
「というか、リオは怖くないの? あの夢」
「怖いも怖くないも、よくわからない風景が流れるだけだから」
それもそのはず―。
「うーん…。そうなのか」
「そうなの」
女が話している相手、それも彼女自身だからだ。
二つの多少異なる声色で、女の口から二人分の言葉が発せられている。
「わかったよリオ、今日は寝るよ」
「ありがとうジェル」
女はようやく押さえつけられていた何かから解放されると、ゆっくりと立ち上がり隅にあるベッドの方へと向かった。それに付き従って光の玉もゆらゆら飛び、彼女の着る麻のワンピースの裾が床と擦れて柔らかな音を鳴らす。
「おやすみ、ジェル」
「うん、おやすみ」
ベッドに座ると、女は右手の人差し指だけ出してポンと宙を叩いた。と同時に光の玉は消え去り、部屋の中は真っ暗となった。
「リオ」
「ん?」
「明日おばさんのとこ行くんだよね?」
「そうだよ。だからできるだけ早く起きたいかな」
「わかった。おやすみ」
「おやすみ」
小屋の入り口、その戸には表札とまで整えられていないような薄い木の板がかけられている。そこに刻まれた“リオネとジェルソ”の文字。
リオネ、ジェルソ、その二つの名前は一人の女のことを指している。
彼女は、いや、彼女たちは今、ベッドの中で微かな寝息と共にゆっくりと眠りについた。