3.11あの日の一連の流れは思い出したくもない過去
東日本大震災のあの日の事を書いてあるので苦手な人は読まないように。
気づけば3月11日が過ぎてましたね。
この日に、予約投稿していたのでした。おかげで、アクセスが少ない日でなぜかなと思ってました。今日ようやくわかりました。震災の日だから?
私は直接被災していません。実家に住むようになって感じるのは、家が傾いてるってことくらいなものです。
こんな家は被災地ではあるあるなので、なんの感傷にも浸れません。家があるだけマシだと思わないと。
みなさんも何かしらの悔しい思いや悲しい思いをしてこられたのでしょう。
実家は、幸いなことに地面が砂の上なので大きく傾くことはなく僅かな傾きで済んだ。他に、瓦屋根を固定させていたことで落下したり割れずにすんだ。などありますが、家の壁には多数のヒビが入りました。その壁隠すように塗装してカバーしています。褒める事しかできない業者は、「新築かと思った」と謎の発言を数度聞いてます。木造住宅としては価値のない年数なのですが。
あの震災が無ければ家は古いなりにも傾かずヒビも入らずに済みました。
わたしは直接の被災者ではないと言ってますが、その日は家には居ませんでした。全く揺れを感じない西の方にいたのです。おかげで今でも「あんこはいいよな。あの恐ろしい地震を知らないんだから」とよくわからないマウントを取られるのこと毎年。
恐らくこの文章を読まれてる方の中には、3.11級の地震を経験した事のない人もいると思いますが、あの日の震災の大半は津波によるものなので揺れくらいなら多くの人が経験してると思われます。とどのつまり、震度5を超えれば誰でも命の危機を感じるんです。「あの食器棚が倒れたら」「ブロック塀が倒れたら」「電線が切れて感電したら」と思うのです。それが震度5以上で一瞬頭の中を駆け巡るわけなのです。頻繁に揺れてるとそうでもなくなりますが、1か月以上間が開くと恐怖心が高まります。
あの日の津波の映像は今も頭にあります。西の方にいたわたしは、仲間から「あんこ関東だよね?凄いことになってるからテレビ見な!」と言われてなになに?ゴジラでも上陸したん?なんて笑いながらテレビを点けるとパニック映画を見てるかのような映像が。初めは地震の情報で、次に海岸に映像が集中して「津波警報」から「大津波警報」に切り替わり何度もアナウンサーが「ニ波三波と波が大きくなるので」と騒ぐ。解説者がなんか言ってるがよく聞こえないくらいの情報量。
遅れて情報が送られてくる。なので、民放は諦めNHKにすると津波が街中に。人や物や逃げ惑うクルマを。
こんな悲惨な映像は、見たことが無かった。ハリウッド映画なら津波がサーフィンで乗るようなビッグウェーブ、絵に描いたような波が押し寄せるじゃないですか。ソレに慣れてたわたしには、高さのない水が人々を襲うというなんとも地味な映像を見て恐怖した。映画のビッグウェーブって迫り来るスピードがやたらと遅いでしょ?心理的なものを表現してると思いますが。川のせせらぎのような感じで色々あるものを幅広く飲み込む。
大津波警報って聞いて、ビッグウェーブを想像したよね?東京タワー飲み込むくらい?みたいな。実際の津波は地味でした。それが映像から伝わる恐ろしさでしたね。
わたしの実家は、海から近いので砂地なのですが、川が遠く離れていたため津波被害はありませんでした。しかし、わたしは西の方にいたためあの地味で恐ろしい津波の映像を見たため実家に帰るのがとにかく恐ろしく。翌日帰る手筈を取っているのですが、羽田空港は動いておらず。成田空港は一部稼働している。乗り慣れない飛行機に乗ってでも帰ろうと思いましたが、成田空港から実家までどうやって移動したら良いのか。何かとわからない。足止めされてもしんどいし。なら陸路で向かおうと新幹線で移動。東へ向かう新幹線は人が少ない。特に新大阪から東京へ向かう便は信じられないくらい少ない。慌てて帰る必要もないのでひかりに乗り静岡あたりどうなっているのかと心配しながらも見てました。特段問題なく東京へ。ホッとしてあの津波映像はガセなんじゃないか?なんて現実逃避しながら東京駅を歩く。人がまばら。こんな東京駅知らない。後にコロナでよく見る光景になるのだが。時間は夜9時をまわる。こんな時間だから静岡も暗くて見えなかったというのもあるが。色々と混乱していたんでしょうね。街頭の明かりなどでホッとしてたのかもしれません。
東京駅を八重洲口へ。バス乗り場から実家近くのバスが無いかと行くとガラんと。バスが一台もない。その頃電光掲示板も無いので、駅員に聞くと高速道路が使えないためだとか。
バスは諦め鉄道に切り替える。最寄りの駅までの路線を見て思いの外右往左往。もしかしたら、東京駅だけで10,000歩歩いたかも。とにかく歩いて青と白の電車に乗れた。乗っている間何度も地震発生し緊急停車。実家に近づいているのを実感。かなりゆっくりながらも進むことに感謝。後々調べると最終便だったらしい。途中で降ろされることもあるとアナウンスがあるが予定時刻よりかなり遅く2時頃に到着。途中何度も止まり線路の確認をしながら進んだため。彼らも手探りだったのだろう。感謝。
ようやく到着もいつもいるタクシーもいなくタクシー会社に問い合わせるもいつ戻るか分からないとのこと。
仕方なく歩いて戻る途中、歩行者の珍しい田舎では声を掛けてくれました。夜道を歩いて危ないよと。いつもなら断るのに途中まで乗せてもらい。人気のない所へ連れて行かれて襲われました。わたしにとって一番思い出したくない一連の流れです。
と言う事で。オチが酷くて情けないですね。
実際に起きたことを書くとこうなるので、ココ以外では震災に纏わることを書いています。だって、オチが襲われるですよ?大概の人が、共感を求めて読んでくださるのに。まさかのオチですからね。
みなさんもどんな事があろうと、他人を信用しない事です。オチのあった日は厳密に言うと震災翌日に新幹線に乗って実家最寄りの駅に着いたのは震災翌々日。なので、翌々日なのです。
毎年報道は震災を伝えるというお祭りを開催しますが、襲われたキッカケになって日でもあるので、思い出したくないのに日本中でお祭り騒ぎになるじゃないですか。心の傷はそう簡単には癒せません。テレビだけでなくネットも同じように祭りになるので否が応でも思い出させられます。あの日の襲われた流れを。
今回今まで自身のことを書いた者の中で最も酷い話を書きました。自分でもなぜそんな事をしたのか。
地震の恐ろしさを経験してない私に話そうとする方は今もいらっしゃいますが、その翌々日にそんな目に遭遇する人はかなり稀だと思います。私としては、とりあえず話を聞くようにはしてます。話したことでスッキリするなら。私を○○した人はそれでスッキリしたでしょうか?
もう過去の話なので。報道の人たちは、祭りにせず忘れる権利もあるのだといい加減知ってほしいですね。あなた方は、嫌な事は忘れるようにと散々言いますが、震災の日と銘打って「風化させてはならない」と叫びます。私は家が傾きその家に今も住む。風化しないのです。家の傾きは。私が○○されたことも風化しません。
こんな事を書いても誰からも共感さえなく、むしろ罵声しかないのは分かっているのでここだけ話にします。
皆さんも渡りに船は泥舟かもしれないので、簡単に乗らないようにしましょうね。
後日談
夜中男に○○された私は、青空の下で衣服を整え誰に相談もできずに実家へ帰りました。よく犯罪者が口にする「誰でもよかった」なのでしょうね。とばっちりもいいとこです。警察に行くと鼻息の荒いおじさん警官にその日の事を根掘り葉掘り聞かれ○○されたことを伝えると鼻息の荒さは異常でした。私が好んで○○されたかのような感じで気色悪いです。警官の鼻穴が開く感じが嫌ですね。帰り際に、スポットまで教えられました。なんの嫌がらせですか?