ROUND5~エピローグ
続きです
ROUND 5
◆
…あれ?
帰るといつも明るい家が今日は真っ暗だった。まだ郷子は帰ってきていないのか。打ち合わせが長引いているのかな。私は特に気にもせずでリビングで本を読み始めた。しかし帰ってくる様子がない。時計を見ると、針は七時半を指していた。心配になって郷子の携帯に電話したがつながらない。私は以前聞いた松下さんの番号に電話してみた。
「えっ?神津さんなら四時には帰りましたけど。」
松下さんは不思議そうに言った。不安が急に輪郭を帯びてきた。
「何かあったんですか?」
「まだ帰ってきていないんです。あいつ、その後どこかに行くとか言ってませんでしたか?」
「どうだったかな。そういえばそんなことを言ってたような。どこかに寄るって。」
お礼を言い、電話を切った。とりあえず外に出る。寄るってどこだ?買い物か?しかし郷子がいつもどこで買い物しているかなんて分からない。とりあえず商店街で一番大きいスーパーに向かった。店員さんに聞いてみる。
「ああ、女デカ長さんね。」
「女デカ長?」
「そう。あの人ね、いろんなことを聞いてくるんですよ。野菜の見分け方とか、おいしい食べ方とかね。その聞き方がうまくて。だから、つい全部吐いちゃう。だから女デカ長さん。」
郷子はいつも手料理だ。工夫を凝らした料理にいつも感心していたがこんな苦労があったのか。私は今更ながら郷子に感謝した。しかし今日は来ていないと言う。ふと出口を見ると、自動ドアのガラス越しに八百屋が見えた。
…もしかしたら。
スーパーを出ると八百屋に向かう。店先で常連さんと話していた親父に声をかけた。
「ああ、今日見かけたよ。いつもは寄っておしゃべりしてくれるんだけどねえ。」
今日は何も言わずに前を通り過ぎていったらしい。
「なんか考え込んでいたみたいだったねえ。」
「どっちに行きました?」
「あちらの角を曲がって行ったよ。」
わたしは走り出した。角を曲がると商店街はまだ続いていた。この後、郷子はどこへ行ったのか?必死に手がかりを探すと一軒の店の看板が目についた。
『春風堂書店』
思い出した。郷子が買った本の紙袋に書いてあった店名だ。私は店に入ってみた。春風堂書店は二階建てのなにか懐かしい感じのする本屋だった。レジで少し暇そうにしていた黒ぶちメガネの若い店員が居たので声をかけてみた。
「ああ、ミステリーさんですね。来られましたよ。」
「ミステリーさん?」
「あ、すいません。」店員は謝った。「いつもミステリーを注文されるので仲間内でそう呼んでるんです。」
今日はしばらく本を立ち読みして出て行ったらしい。どこに行ったかは知らないとメガネの店員は言った。でも…と店員は言葉を続けようとして、濁した。
「どうしたんですか?」
「いえ、ちょっと変だなと思うことがあって。」
「何が変だったんですか?」
「実はミステリ…いや、奥様はいつも注文だけされるんです。私の欲しい本は普通の本屋には無いからと言われて。でも今日は立ち読みをされたんでおやっと思ったんですけど。」
「何を読んでいたんでしょうか?」
「さすがにそこまではちょっと。でもあの棚の付近でしたよ。」
私は棚を見てみた。その棚は健康関係の本が並んでいた。ダイエット、健康法、そこで視線が止まった。『家庭の医学』の分厚い本が置かれている。
…これかもしれない。
あいつ、何か体調が悪かったのか。今朝はあんなに元気だったのに。私は本屋を出た。郷子はこの後どこに行ったのか。病院か?でも診療時間はもう終わっている。救急病院に行ったのなら私になんらかの連絡が来るはずだが、それもない。私は途方にくれていた。
目の前に交番が見えた。そうだ。捜索願を出さないと。疲れた頭で考えながら交番の戸を開けた。奥にいた若いお巡りさんが慌てて対応にやってきた。
「あれ、この人…。」携帯の画像を見て警官は声をあげた。「アガサさん?」
「アガサさん?」今日はいろんなあだ名に出会う日だ。
「ええ、アガサさんには町の相談事をいろいろ解決して頂き本当に助かっております。」
郷子は僕の知らないところですごい人気者だったのか。
「でもアガサさんなら今日この前を通っておりましたが。」
「本当ですか?」
「ええ、声をかけましたが、上の空みたいで返事もされずに歩いて行かれましたよ。」
何が起こったのだろう。交番を出て、郷子が歩いた方向に歩いてみる。考えろ。考えろ。考え抜いて遂に閃いた。この前の誕生パーティの時のことだ。
「あ、サラダはレモンだけかけてくれるかなあ。」
私は松下さんに電話をかけた。「はい」という声が出た途端、私は質問する。
「今日のエッセイの話題は何だったんですか?」
「え…な、何の話?」
「いいから教えて下さい!」
「は、はい。今日は…。」
携帯から聞こえる松下さんの声を呆然と聞いていた。分かった。理由も、場所も…。私は走り出した。
公園のブランコに郷子は腰かけてゆらゆらと揺れていた。私はその傍らに黙って立った。
「赤ちゃんができたんだね。」
私はできるだけやさしく言った。郷子はゆっくりとうなずいた。
「笑っちゃった。赤ちゃんができると本当に酸っぱいものが食べたくなるんだって。」
郷子の目に涙が浮かんで、そして頬を伝って落ちた。
「でもね。赤ちゃん、消えちゃった。」
だから体調が悪かったのか。家庭の医学で症状を見て悟ったのだろう。そして上の空でここまで来たんだ。
「子供と三人でこの公園に来るのが夢だったもんな。」
「私のせいなの。私、薬を飲んでたの。花粉症の薬。だから赤ちゃんがいなくなったの。」
今回のエッセイのテーマは妊婦と薬との危険性についてだったと松下さんは言っていた。それが郷子に不安を呼び起したに違いない。
「たっちゃん、ごめんなさい。ごめんなさい。」
郷子は泣き崩れる。ブランコが大きく揺れた。慌てて彼女を抱き止めた。
「大丈夫。郷子のせいじゃないから。郷子が悪いわけじゃない。」
「だって…だって…。」
郷子が落ち着いた頃にはすっかり辺りは暗くなっていた。「帰ろう」の声に「うん」と郷子は小さくうなずいた。
「こんな話を聞いたことがあるんだ。」
二人でいっしょに歩きながら郷子に話しかけた。
「ある夫婦の話。最初の赤ちゃんは残念ながら生まれてこなかった。二人はとても悲しんだけど、幸いなことに翌年双子の赤ちゃんが生まれた。二人はすくすく育ち、やがて口がきけるようになった頃、お母さんに言ったんだって。」
「なんて言ったの?」
「最初は僕一人が先に生まれるつもりだったんだけど、弟が心配だったから神様にお願いして二人で生まれてきたんだってさ。」
「まさか。」郷子は笑った。そして夜空を見上げながら、「そうなったら嬉しいな。」
「信じようよ。ちょっと遅れるだけなんだって。信じるものは救われる。」
「あら、技術者のあなたがそんなこと言うなんて思わなかった。」
「技術者だからだよ。技術者だから科学で解明できないことにロマンを感じるのさ。」
「ふふふ。」
郷子は私の腕を組むと寄り添った。
「探しに来てくれてありがとう。」
「う、うん、まあな。」
急に照れて赤くなった。そして照れ隠しに郷子に軽くキスをした。郷子の頬に朱に染まる。
「たっちゃん。」
「うん?」
「今日、会議だったでしょ。」
「ああ、分かるか?」
「分かるわよ。髪の毛が煙草臭いもの。禁煙にならないの?」
「ならないならない。そんなことしたら暴動が起きる。」
もうすぐ家だ。帰ったらまたいつもの日常が始まる。今日はそんな日常の狭間のちょっとしたドラマだったのかもしれない。だったらもう少し主人公になりきってみようか。
「郷子、僕のこと好きか。」
少し気取って聞いてみる。すると郷子は首に手をまわして抱きついた。
「たっちゃん、だーいすき。」
月明かりはそんな二人をスポットライトのように照らしていた。
エピローグ
◇
「あのう。」
彼が申し訳なさそうに私に聞いてきた。
「これなんですけどね。」
一枚の写真を見せる。それには見るも無残な男女二人の様子が写っていた。
「ああ、これね。」
そうだった。すっかり忘れていた。
「ええ、いいんです。これも入れてください。」
「はあ。」
彼は事情を呑み込めていない様子でそれを引き取り、もう一度見た。
…確か風が吹いたんだっけ。
撮影の瞬間、強い風が吹いた。おかげで麦わら帽子と日傘は飛び、髪が振り乱されてしまった時にパチリ。まるで貞子のような私だった。隣の夫はもっとひどい。目が半開きでかなり面白い。いつかのCMで一生残ると言っていたが、たっちゃんも運がないとつくづく思う。
「よろしいんでしょうか?」
納得しきれない彼がもう一度尋ねた。この個人写真館は客離れを防ぐためだろう、『人生のアルバム』キャンペーンを行っている。個人の節目節目の写真をきれいに印刷し、それを人生に沿って並べ、メッセージなども添えて、重厚な装丁の世界に一つのアルバムを作成してくれるのだ。けっこう流行っているらしい。プロ意識なのだろう。店員の彼の不審がそこから来ているのは私にも理解できた。だからちゃんと説明しないといけない。
「記念なんですよ。」
「記念…ですか?」
まだ納得していない彼に私はにっこり笑った。
「ええ、息子が初めて写真を撮った記念なんです。」
それを聞いて彼はまた困惑した。
「あの…じゃあ二枚あるのはどうして…。」
ようやく陽を見せて上げることができました。感想をお待ちしています。