ROUND4
続きです
ROUND4
◇
十二月十一日。火曜日。今、私の前に箱がある。大きさは縦十センチ、横二十センチ、高さ十センチ。金属の箱で銀色の表面が窓の光を受けてキラキラしている。
今日、押し入れを掃除していたら奥で見つけた。懐かしくてリビングに持ってきた。ホコリは多少かぶっていたが、軽く払ったら光沢がよみがえった。しばらくマジマジと箱を見る。もらった時と変わらない姿をしていた。
「寒かったな。これをもらったとき。」
たっちゃんの顔が思い浮かぶ。でもその顔はこの箱をもらったときより若い感じだ。そうか、初めて会った時の顔なんだ。あの時はまさか結婚するなんて思いもよらなかったな。
ふふふと笑いがもれる。だって変な奴だったんだもん。
◇
高校時代。春。図書室でわたしは本を読んでいた。
「ねえねえ、君さ。」
呼びかけられて顔を上げた。男の子が立っていた。
「何を読んでるの?」
わたしは本に目を戻した。ちょっとちょっとと男の子がもう一度声をかけた。
「話を聞いてよ。」
「あなたは誰?」そう聞いた後で、ああこの人は同じクラスの子だと思い出した。
「おいおい、いっしょのクラスじゃん。出席番号十二番の海藤龍範。」
「そう。」また本に目を戻す。慌てて海藤はそれを遮った。
「僕と話をしてよ。」
「どうして?」
「どうしてって、まあ、そんなのいいじゃん。」
「よくないよ。」
「どうしてだよ。」
「ここ、図書室。」
あっと気づいた海藤が周りを見渡す。かなり注目の的になっていたようだ。恥ずかしそうに、こそこそと海藤は隣に座った。わたしは特に何も言わなかった。
「何を読んでるの?」
少し声のトーンを落として海藤が聞いてきたが答える必要もないから黙っていた。いい加減焦れてしまった海藤の顔がふっと明るくなった。何か閃いたようだ。
「じゃあさ。僕が今、何を読んでいるか分かる?」
わたしは視線を上げ、海藤の方に向いた。海藤が持っていた本を後ろに隠してニヤリと笑う。確かに本を持っている。それを確認して、わたしは視線を本に戻した。
「…物理。」
「え?」海藤が目を丸くした。確かに理系の彼は今ユークリッド力学の本を夢中に読んでいたからだ。
「どうして分かった?」
さっきのちょっかいをかけるような口調は消えていた。わたしはまた本から目を離した。章が一区切りついたから少し時間をとってもいいだろう。
「見えてたの。図書室の本棚って背板がないでしょう。ここからでも本を取っている姿が見えるの。あなた、あの棚から本を取っていたでしょう。あそこは物理関係の本が並んでいるからすぐ分かるわよ。」
「…君さ、図書室の棚の分類、全部覚えているの?」
あの時の驚いたたっちゃんの顔、面白かったなあ。
◇
十二月十二日。水曜日。午前中の打ち合わせが終わり家に戻ってきた。
コツン。
あら?おかしい。自分がいつも車を停めるときはドアミラーを隣にある夫の車のドアミラーに合わせていた。駐車場は玄関の前にあるので、あまり奥に停めてしまうと邪魔になる。その点、夫はいつもいい位置に停めるので、停車するときはそれを目印にしていた。それが車止めに当たったのだ。朝、打ち合わせに行くときはいつもの位置に後輪は確かにあった。
「たっちゃん、どこかに出かけたのかしら。」
家に帰ると夫がソファーに寝転んで本を読んでいた。
「出かけた?」と聞くと「いや、どこにも」との返事。普通の対応だった。それとなく眉を見ても、ドヤ眉は出ていない。気のせいかな?わたしはお昼の準備をする。準備しながらドキドキしていた。キッチンの食器棚の中にそれとなく例の箱が置いてある。夫が気づくか試そうと思ったからだ。キッチンの中に夫はまず立ち入らないので見つけるのは困難だが、食器棚自体はリビングからでも見えるし、それとなくヒントは散りばめてある。
…昔のたっちゃんなら必死に探したかもね。
笑いがこみ上げた。あの頃のたっちゃんは本当に必死なんだもん。でもまだなんとも思ってなかったなあ。
コトコトコトと鍋が音を奏で始めた。
◆
高校時代。夏。彼女は屋上で本を読んでいた。夏の初めで日ざしは強かったが、校舎の影はまだひんやりとしていて心地よかった。
「本が好きなんだね。」
僕は顔を出した。彼女は少しうんざりしたように立ち上がった。
「あなたには関係ないでしょ。」
「冗談じゃない。大ありだよ。」
「なんでよ。」
「何の本かまだ当ててない。」
「はあ。」神津郷子はため息をついた。こんなくだらないやり取りをするには、今日は暑すぎるとでも言っているかの顔だ。そうはいかないぜ。僕はニヤリと笑っていった。
「ミステリーばかり読まずにたまには僕と話そうぜ。」
今日読んでいる本にはカバーがかかっていたが、彼女の趣味は理解している。これでどうだ。すると彼女はするりとカバーを外してみせた。
「これ、源氏物語よ。」
「源氏物語?」予想外の答えに僕は驚く。「まじかよ。ミステリーしか読まないんじゃないの?」
「ばかね。考えが浅いわよ。焼きそばパンがまだ脳に行ってないんじゃないの?」
僕の目が丸くなった。前と同じだ。
「どうしてお昼がやきそばパンだと分かった?」
「かーんたん。海藤君、二時間目の休憩時間に早弁してたでしょう。たぶんそれじゃあ足りないだろうなって誰でも思うわよ。それに…。」
彼女は僕の顔を指さす。
「歯に青海苔ついてるわよ。」
「わっ、やべ。くそ~またか~。」
「ふふふ。」
あの時、初めて彼女は僕に笑顔を見せた。
◇
十二月十四日。金曜日。リビングにて。
「たっちゃん、来週の水曜日は早く帰ってこれる?」
「うーん、ごめん。水曜は遅くなりそうなんだ。」
「そうなの。」
寂しかったが、夫が拝むように手を合わせてあやまっているのを見るときついことも言えない。
「じゃあ、日曜は?」
「それが、仕事が重なっちゃって休日出勤になりそうなんだ。」
「そう。」
「ごめんな。この埋め合わせはちゃんとするからさ。」
「ううん。いいの。お仕事だもん。仕方ないよ。」
朝起きると、もう夫はいなかった。ベッドから起きると一階に降りた。誰もいないいリビングはしんとしていた。
…最近、たっちゃんと話してないなあ。
そう思いながら日課をこなしていく。掃除の最中、何気なく物置を見ると発汗スーツの袖が戸に挟まっていた。
「あれ、どうしたのかしら。」
戸を開けてスーツを元に戻そうとして思い出した。そういえばこの前、たっちゃんがここにへそくりをしていたっけ。あの頃がなぜか楽しく思えて、またへそくりでも入ってないかなと冗談まじりにスーツに手を入れた。ところが、思いがけず指先に何かが当たった。
「あれ?何だろう。」
恐る恐るもう一度、手を入れてみる。そして異物を取り出した。それは茶色い封筒だった。しかも分厚い。わたしは中を覗き込む。
…‼
愕然として、すぐふたを閉じた。お金だ。一万円札が束で入っていた。おそらく二、三十万はある。わたしは慌てて元に戻した。なんなの?どういうこと?混乱して思考が働かない。夫はあのお金をどうするつもりなの?疑惑はどんどん膨らんで止まらなかった。
夜遅くに龍範が帰ってきたが、わたしは何も聞けなかった。夫は疲れきった様子で寝てしまい、翌日、起きたらもういなかった。不審が収まらず、もう一度確かめようとスーツを探ったとき、わたしは目の前が真っ暗になった。
お金が消えていたのだ。
◇
高校時代。秋。教室にて。
「郷子、海藤君と付き合ってるの?」
ごくん。ウィンナーが丸のまま喉を通り過ぎていった。
「な、な、なんでそうなるのよ。」
なんでだろう。顔が真っ赤になる。心臓が暴れだす。そんなわたしを親友の湊静香はニヤニヤしながら見ていた。
「だっていつも一緒にいるでしょ。」
「あれは…。」ハタ迷惑な海藤の推理一人相撲に付き合ってやっているだけだ。
「ふうん。そうかなあ。」
嗚呼、静香はまるっきり信じてない。静香からしてみたらわたしの気持ちなどお見通しなのだろう。ただ自分がよく分かってないだけなのだ。
「ってゆうか、郷子は海藤君のことどう思ってるの?」
「どうって…。」郷子の顔が赤くなった。「そりゃあいっしょにいると楽しいなあとは思うけど。」
「ふうん。」
静香が意外そうな顔をする。
「なによ。」
「あの奥手な郷子がねえ。」
「ちょっと、どういうこと?」
わたしは静香をにらむ。
「別にぃ。」
意味ありげな静香の視線がふとわたしの肩越しに移った。
「おい、神津。」
「あら、噂をすれば、おいでなすった。」
「湊、うるさい。」海藤はそう言うとわたしに向き直った。
「今日こそはお前の本を当ててやるからな。」
わたしは手に持った本を見た。最近は彼の推理用にカバーをつけた本をいつも持ち歩いていた。工夫を凝らして本を選ぶのは楽しかった。
「どうやって当てるのよ、海藤。」
静香がからかう。
「俺は理系だからな。科学で推理するぜ。」
海藤は何枚もの厚紙を取り出した。
「何それ?」
「これは本の大きさを測った型紙さ。この型紙を使えば、神津がどんな本を読んでいるか、一目瞭然だぜ。」
海藤はわたしの本に型紙をあてる。
「よーし、この大きさは173ミリ×105ミリ。つまり新書サイズだ。神津で新書といえば、ずばりミステリーのノベルスだ。どうだ正解だろ。」
「マンガだけど。」
私はカバーを外した。
「マンガあ?」海藤はずっこけてしまった。
「あら知らなかったの?マンガと新書って同じサイズなのよ。」
「神津、お前、マンガ読むのか?」
「あら、読むわよ。知らなかった。」
「…知らなかった。」
海藤はがっくりとうなだれた。「がんばれ、青年。」静香は彼の肩を叩いて励ました。
「でもさ、もう何読んでるかなんて関係ないでしょ。いっそのこと告白しちゃったら?」
「告白…だって。」
海藤の顔がみるみる真っ赤になる。ちらりとわたしを見ると猛スピードで駆け出していった。
「へえ。意外とかわいいじゃない。」
「でもどうして顔を赤くしているのかしら。」
不思議に思って静香に聞いた。静香はハァとため息をついた。
「郷子はなんでこういうのに鈍感なのかしら。」
「えっ?どういうこと。」
わたしが海藤の気持ちに気づくのはもう少し先だった。
◇
十二月十八日。火曜日。自宅にて。
「ごめん。やっぱり明日は遅くなりそうなんだ。」
申し訳なさそうに夫が言った。わたしは何も言わず。ただうなずくだけだった。黙ったまま食器棚を見た。例の箱は夫に気づかれぬまま、まだそこにあった。
…もう、だめかもしれないなあ。
◆
三年前。冬の夜。近くの公園にて。
「何よ、この箱。」
郷子はブランコに座っている。今朝、電話で僕が呼び出したからだ。
二人は高校を卒業後、別々の大学に行ったが、その間も僕の推理勝負は続いていた。そして丁度推理がネタ切れになった頃に彼女と付き合いだした。大学を卒業した後、僕はエンジニアとしてトージンテクノに就職し、郷子はライターとして活動し始めた。それからもう三年が過ぎていた。
「僕は技術屋だから、」僕は精一杯真剣な口調で言った。「これは今、僕が持っている技術を尽くしたからくり箱だ。これを開けてほしい。もし開けられなかったら…。」
緊張してごくりと唾を飲み込んだのは郷子にも分かったにちがいない。
「僕と結婚してくれ。」
真剣な表情がおかしかったのか郷子は噴き出してしまった。
「ふふふ。おかしいわ。普通、開けたらじゃないの。」
「僕はいつも君に解かれっぱなしだったから。絶対に解かれない謎を作れるくらいにならないと夫としての自信が持てないんだ。」
「たっちゃんは昔から変わらないわね。ふうん。」
郷子は箱を手に持つといろいろ角度からじっと見ている。箱は光沢のある金属製で、一見すると蓋の部分は見あたらない。継ぎ目は溶接してある。しかし上部は箱をひと回りするように溝があり、そこに金属板が挟み込まれていた。外観は上部だけ金属板が一ミリほど下に沈んでいるように見えた。しかし普通の方法ではそこから開けることはできない。それがこの箱の肝だった。
郷子はしばらく箱を上から下から眺めたり、触れたりしていたが、
「だめ、分からないわ。降参。」と白旗を上げた。
「よっしゃあ。」
僕はガッツポーズをする。それを郷子は静かに見ていた。少し複雑な表情だった。
◇
十二月十八日。火曜日。自宅にて。
わたしは食器棚から箱を取り出した。電気ポットでお湯を沸かすと箱をシンクに置き、上から熱湯をかけた。ボコンと音がして金属の上の部分が持ち上がった。
「やっぱりなあ。」
試してはいなかったけど予想通りだった。この金属の箱は、箱と上板の材質が違う。上板はステンレスのような金属と他の金属を張り合わせた合金だった。金属は熱に膨張する。そして膨張率は金属によって違う。龍範はその膨張率を正確に計算し、絶妙な配置で張り合わせてあった。箱の溝もその膨張率に合わせて、その深さを調整してあった。そのため熱湯をかけるとうまく金属が関係し合って上板が薄くアーチを描くようにもりあがるのだ。それにマッチ棒を入れて跳ね上げると外れる仕掛けになっているのだ。
…でも今はそれがどうだというのだ。わたしはなすすべなく箱をずっと見ていた。
ボコンと音がした。箱が元の姿に戻った音だった。
◇
十二月十九日。水曜日。カフェにて。
「よっ、神津さん、誕生日おめでとう。」
松下さんが花束を手渡してくれた。わたしは照れくさそうにお礼を言う。
「結婚記念日も今日なんだって?」
「うん。」
わたしはこれまでの様子を松下さんに話した。
「なによ、それ。ひどい旦那さんじゃない。」松下さんは夫の行動に憤慨したようだ。「神津さん、今日は帰らなくてもいいわよ。私が付き合うからとことんお祝いするわよ。」
まだまだよと息巻く松下さんを宥めて、ようやく家に帰ったのは八時を過ぎていた。真っ暗な家はまるで息をひそめているように見えた。夫はまだ帰ってきていない。
…たっちゃん。
わたしの目から涙があふれ出た。たっちゃん、たっちゃん、寂しいよ。寂しいよお。わたしは部屋に座り込んだ。嗚咽だけが響いていた。
パチン。
急に部屋が明るくなった。驚いて前を見ると、龍範が立っていた。
「郷子、誕生日おめでとう。」
「たっちゃん‼仕事じゃなかったの。」
「今日のために休みを取ったんだよ。この休みを取るために残業いっぱい…」
龍範の言葉が終わらないうちに、わたしは彼に抱きついた。
「どうして教えてくれなかったのよ。」
彼の胸の中で泣いた。夫は優しく抱いてくれた。
「ごめんな。郷子を驚かせたかったから。」
「もう、どうしてよ。どうしてよ。」
「あのう。」
夫の後ろで声がしたので、驚いて肩越しに向こうを見ると湊静香がクラッカーを持ったまま固まっていた。他の友人も同じく固まっている。
「私たち、どうすりゃいいのよ。」
息をひそめていた我が家はたくさんの笑いに包まれた。
「ありがとう、たっちゃん。ありがとう、みんな。」
夫と友人に囲まれてわたしの孤独の涙は嬉しさの涙に変わっていた。
「郷子、あの箱を開けられたか?」龍範の手にあの箱があった。「食器棚にあったぞ。」
「ううん。やっぱりだめだった。」
「だろ?これは僕の自信作だからな。じゃあ教えてやる。見てろよ。うっしっし。」
夫はドヤ眉全快でお湯を沸かし始める。その後ろ姿にわたしは小さくつぶやいた。
「指輪、ありがとう。それも二つも。」
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