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おくたん  作者: カトラス
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プロローグ~ROUND1

昔書いた小説です。人も死なない、特に大きなことも起きない、変わらない日常のお話ですが、私は気に入っています。

 プロローグ

            ◆

 心地よい風が吹いていた。新緑がまぶしい。

「じゃあ、お願いね。」

 私の隣に彼女は立った。白いワンピース姿に、麦わら帽子。帽子から流れるように黒髪が肩まで伸びて太陽の光をキラキラと反射させていた。持っている白い日傘をクルクルと回しながら彼女は私ににっこりとほほ笑んだ。

「さあ、あなたも笑って。」

…可愛い。

私こと海藤龍範かいとうたつのりは今、幸せを噛みしめている。私の隣でほほ笑んでいる彼女、神津郷子かみづきょうこは私の妻だからだ。

美しく、そして賢い、私の好敵手。

なぜかそんな形容詞が頭に浮かんだ。しかし、言いえて妙だと思う。

「どうしたの?」

 不思議そうに郷子が私に問いかけた。くりくりとした瞳も愛らしい。

「あ、いや、ごめん。」

「じゃあ、撮りましょうか?」

 目の前にはカメラがあった。郷子は撮り手に向かって合図を送る。私も緊張した面持ちでカメラにぎこちない笑顔を向けた。

「はい、チーズ。」


…これがあんな悲劇につながるなんてあの時の私には到底、想像がつかなかった。


ROUND 1 

           ◆

 私にとっては良い一日の始まりだった。

 「朝からすまんね。」

 経理部長の横山はでっぷり肥えている割にはせっかちだ。用事はいつも朝一番に済ませるのが常だった。今日も朝イチに私はデスクに呼ばれた。

「この前の東京出張の精算だけどね。」

「そうそう。すっかり忘れていましたよ。ひどいなあ。」

 二週間ほど前にクライアントとの打ち合わせで九州に出張した。申請はすぐ出したのだが一向に精算してもらえなかったので正直忘れてしまっていた。

「いやあ、すまんすまん。あの時はね、私も出張に出ておったので決済に時間がかかってしまったんだ。ほら、宿泊費も加えた四万六千四百九十円、確かに渡したよ。」

 封筒を受け取った。うちの会社、トージンテクノの出張費は経理から直接現金で渡される。思わぬ臨時収入に私はほくそ笑んだ。ただし、問題がひとつ。

…郷子に見つかって、没収は無しだぜ。

 私はしばらく悩んで、そしてひらめいた。


 真夜中、私は作戦の準備を行った。郷子は寝室でスヤスヤと寝息をたてていた。かわいい妻だが、へそくりは別、見つかってたまるもんか。

 準備は完了した。作戦はばっちりだ。

「うっしっし。」

 成功を確信した時の笑いは、小さい頃から変わっていない。

            ◆

 いつものように今朝も郷子に起こされた。

「いい大人なんだからたまには自分で起きてよ」と時々文句を言われるが、本人もあまり気にしていないようなので甘えてしまっている。

「朝ご飯は大丈夫?」

 仕事は間に合うかという意味だ。私は頷いた。一階に下りると食卓にご飯と味噌汁と焼鮭が並んでいた。郷子はパン党なのだが、パンは力が出ないとお願いしてご飯にしてもらっている。食事の後、着替えをすませると郷子が鞄を持ってきてくれた。ふと郷子の目線が私を見て止まった。ドキッとしたが、彼女は何もなかったように鞄を手渡してくれた。

「いってらっしゃい。」

 彼女に見送られて私は家を出た。

…大丈夫。気付かれていない。うっしっし。

            ◇          

 わたしはため息をついた。

 なんか隠してる。夫は気づいていないようだが、隠し事があると彼の右眉が上がる。わたしはそれをドヤ眉と呼んでいた。それに…。カバンの中身。ビニール袋に入った本が透けて見えた。あれは彼がずっと欲しがっていた推理小説だ。わたしもそうだが夫もミステリー好き。一週間前もあの本が食卓で話題になった。あの時も夫は欲しい欲しいって言ってたっけ。

「でも…今のタイミングはないわ。」

 これは妻の勘。締まり屋の彼が何もない時に衝動買いなんて絶対にない。もちろん別に衝動買いをしてはいけないわけじゃない。

「ま、いいか。」

 日課の掃除を始めた。わたしは自分で決めたペースで生きることが性に合っている。だから今の生活は本当にありがたかった。いつもの掃除の順番で夫の書斎に入った。書斎は図書室のようだ。たくさんの本棚があり、中央に夫の机が置いてあった。棚は夫専用というわけではなく、わたしも気になる本があれば読むこともあった。

 わたしはこの部屋が大好きだった。背表紙を見ながらハンディモップでホコリを落としていくのがとても楽しい。本棚全てにモップをかけた頃には朝の不審はすっかり忘れてしまっていた。

…さて、と。

最後の難関だ。龍範の机である。夫は片づけが苦手で、いつも机の上は物であふれていた。こんな状態でよく倒れないなと思うくらいの絶妙のバランスである。これを崩さずにきれいにするのは一苦労だった。別に無理してやらなくていいのだが、きれいにすると夫が喜んでくれるのでついついやってしまう。

…バサバサバサ。バタン。

「ああ、やっぱりやっちゃたあ。」

 分厚い本が一冊床に落ちてしまった。慌てて拾う。周りを見たがへこんだりはしていない。ホッとしながら何気なくページをめくると、はらりと何かが落ちた。拾ってみると五千円札だった。

「ははーん。へそくりだったか。」

 朝のドヤ眉はそういう理由だったか。かわいいわね。わたしは五千円を戻すと掃除を再開した。いつもの朝の様子だった。

 夜、帰ってきた龍範に「へそくりあるでしょ。本に挟んであったわよ。」と意地悪く聞いてみた。

「ああ、悪い。昔、やったような気がするよ。別にいらないし、寄付しようか。」

「別にいいわよ。自分のお小遣いにしたら。」

 五千円くらいで目くじらを立てることない。わたしは大人の対応を取ってあげることにした。「おなかすいたよ」という夫に、はいはいと夕食の準備を始める。

 その時、龍範の右眉がびくりと上がったのがチラリと見えた。気のせいかしら。

            ◇

 翌日。掃除が終わったので、大好きなミステリーを読み始めた。今、事件は中盤で、ある男の容疑が深まってきたところだった。

…その男の名は海藤龍範。

「だめだわ」と本を置いた。気になって集中できやしない。今朝の夫のドヤ眉。あれはしてやったのサインにちがいない。

…まだ何か隠し事をしているな。

 妻の勘でへそくりだろうと見当がついた。あの五千円がずっと前に隠したもののはずがない。昨日の朝にドヤ眉を見たんだから。

…じゃあどこに隠したのかしら。

 財布?ダメね。わたしは首を振った。何かの拍子にわたしが見ないとも限らない。小遣い以上のお金が入っていたら怪しまれることは分かっているだろう。じゃあ、鞄の中?ううん、ちがうわ。夫は身だしなみを気にしないので、替えのハンカチなどはわたしが鞄に入れておくのが夫婦のルールになっている。こういうとかかあ殿下で持ち物は全部、わたしが管理しているようだが、実は全くの逆。夫に泣いて頼まれたのだ。

 さて。じゃあ、背広はどうか。これもだめ。背広はクリーニングに出してしまうから。秘密口座を作るという手も考えたが、夫の性格から考えるとそれはないように思えた。龍範は研究職なので時間が不規則だ。日付が変わることもしばしばある。いくら二十四時間のATMがあるとはいえ、そんなめんどうなことを夫がするとは思えなかった。

「じゃあ、どこ?」

 さすがに場所が思い浮かばない。でも絶対に家の中にあるのは間違いない。昔から夫のドヤ眉はわたしへの挑戦の印。わたしが全く分からないところに隠したりはしない。

「あれ?そういえば、どうして本なんだろう。」

 気になってはいた。なぜわざわざあの本にへそくりを隠したのだろう。いっしょに隠しておけばよかったのに。いや、ちがう。夫はわざと見つけさせたのだ。そしてへそくりはしたけどこれだけでした、と思わせるようにしたのではないか。

「たっちゃんならありえるな。」

 ちなみにたっちゃんとは夫の名前「龍範たつのり」でたっちゃんだ。たっちゃんは策士なところがある。疑問を持たせたままにしておくより、安心させた方がいいと考えたかもしれない。その思考の方向性は間違っていないような気がした。

 じゃあ、どこに隠したのだろう?

「他の本の中かしら?」

 試しにいくつか本を取ってパラパラとめくってみた。しかし、あきらめた。これだけの本を一ページずつめくって調べていたのでは時間がどれだけあっても足りない。それに必ずこの中に隠してあるという確証もなかった。龍範の本はわたしが借りて見ることもある。それは夫も承知しているはず。

 そもそもこれだけ本があると龍範自身も忘れてしまう場合だってあるはず。夫はカードなどの暗証番号の覚えの悪さは天下一品だった。そして大事なのは、夫は自分でそのことをよく知っているということだ。つまり自分が忘れないためのヒントも用意してあるにちがいない。

「あら、もうこんな時間。」

 夕飯を作らなくちゃ。わたしは慌てて準備する。謎解きも大事だが、毎日の家事ももちろん大事だ。今日の予定はハンバーグ。最近、どうしても夜遅い食事になってしまう夫のためにパティに豆腐を加えたヘルシーバーグだ。龍範はいつも食事を本当においしそうに食べてくれる。だから料理はいつも楽しかった。

 材料をこねてパティを作りながら、わたしの推理は進行していた。

…わたしが絶対に触れないものって何かな?

 龍範はあまりプライベートというものがない。わたしが介入しても何も言わないし、むしろそうしてくれたほうが助かると言うぐらいだ。わたしが触れる可能性のあるところに物を隠したりするだろうか?

…わたしの考えすぎかも。

 パティの形を整えながら、自分は疑い深いのかと思ってみたりもする。だったら、夫には申し訳ないことをしてるのかも。

…いいえ、あのドヤ眉は嘘つかないわ。

 あれを見た以上、どっかに隠してあるはずなのは確かだ。そうなるとヒントも夫の身近にあるもののはず。たっちゃんの近くで変化があったものといえば。

「あの本だわ。」

 あれが仕掛けでもありヒントでもあるのか。さすがミステリー好きの夫は演出が凝っている。わたしはパティを冷蔵庫にしまいながらワクワクしてきた。もちろんパティは主人が帰ってから焼いて熱々を食べてもらう予定なのだ。

 料理の準備が終わったので、紅茶を入れて一服しながら例の本を調べてみた。その本は明治時代の有名な文豪の全集だった。装丁のしっかりした本でやたら分厚く、片手で持ち上げられない。パラパラとめくって見たが、なんか違う。ミステリー好きの龍範にしては退屈な本だ。正直、わたしは好きじゃない。わたしが好きじゃないのなら彼もそうだと思う。

「そうだ。これ部長に言われたんだ。」

 社会人ならこの人ぐらい読まないと、と言われて部長に買わされた本だった。五万円以上払ったんだっけ。これを買うぐらいならミステリーが百冊は買えたのにと夫が嘆いていたのを思い出した。

 確信した。夫はこれを読んでない。

 そうなるとこの本には別の意味がある。今度は細部に気をつけてもう一度本を調べ始めた。背表紙をよおく見てみると違和感があった。

「…なんだろう。この染み。」

 背表紙の中ほどに黒くなった染みがあった。よく見るとその染みは折りたたんだように表表紙にもついている。大きな楕円のようにも見えた。裏表紙にも染みはあったが、それは表よりは小さくて指一本分の大きさしかなかった。

…指一本?

 わたしはその染みに親指を置いた。背表紙を掴むように残りの指を表表紙に回してみる。

…ピッタリだ。

 大きさは違うが、位置はピッタリだった。夫はこの本をこうやって持っていたに違いない。でも、どうして?その謎は持ち上げてみて分かった。けっこう重いのだ。

「鍛えてたんだわ。」

 龍範は休日でもジムはおろか外にも出ない。だが体重は気にしていた。部屋でできる筋トレとして思いついたのだろう。これをダンベルのように使っていたのにちがいない。

「たっちゃんもがんばってるんだなあ。」

 夫は努力を表に出さない。そこはえらいなあと思う。ただ長続きしないのが玉にキズだが。それは自分も同じだった。ん?運動…同じ…。わたしの目が大きく開いた。慌てて書斎を出ると物置に向かう。あの本のヒントが分かったからだ。

「これだ。」

 わたしは物置を開けた。そこには通信販売の健康器具が苦しそうに詰め込まれていた。

「さすがにこれはわたしが絶対に触らないわ。」

 夫もうまい場所を見つけたものだ。でもその裏をかけたのが嬉かった。あとは隠し場所だが、ここまでくれば見当がつく。ほどなく銀色の宇宙服のような発汗スーツの中から封筒が見つかった。中を見ると四万円入っているのが見えた。

「これでわたしの勝ちね。」

 明日の朝、封筒をひらひらさせながらなんと言ってやろう。夫は悔しがるに違いない。悔しがって、きっと…。

「ああっ!」

 思わず声が上がってしまった。とんでもないことを思い出したからだ。

 昨日の夜。「へそくり隠してたでしょ。」「悪い。寄付するよ。」「いいわよ、自分の小遣いにしたら。」そう、小遣いにしたら…小遣いにしたら…。

「やられたあ。」

悔しさでいっぱいになった。あの論理を使えば、へそくりは合法的に夫の小遣いになる。もちろん金額は違うが、あの時いくらから小遣いになるとは言わなかった。変に金額を決めたら了見の狭い奴と思われそうだったから。あの時のへそくり騒ぎはこの言質を取るためだったのか。だが夫の二段重ねの作戦には素直に感心した。見つかったとしても龍範はへそくりを自分の物にしようなんて言わないだろう。でも自分もそう言ってしまった以上、没収なんてできない。夫はそれを十分計算に入れているのだ。それが悔しい。

「ようし。みてなさいよ。」

 最後に勝つのはわたしなんだから。

            ◆

 私はクローゼットのある寝室で部屋着に着替えていた。今日も遅かった。時計を見ると十時を大きく過ぎている。疲れた。しかし、気分は落ち込んでいない。それは郷子にしてやったという心地良さからだった。少し鼻歌まじりで私は窓を見た。窓からベランダが見える。そのベランダの物干しに洗濯物が一枚釣り下がっていた。

「おーい、郷子、洗濯物が忘れて…。」と言いかけて、私は絶句した。

…あのスーツじゃないか。

 あの銀色の発汗スーツがかかっていた。なぜ?これがあんなところにあるんだ。その質問に脳が答えるより早く、郷子が階段をかけ上がってきた。

「あら、ごめんなさい。取り込むの忘れちゃった。」

「郷子、これ、どうしたんだ?」

「もちろん汚れてたから洗ったのよ。丸洗いできるからびっくりしちゃった。」

「丸洗い…。」「どうしたの?」「いや。」

 郷子はスーツを取り込むと無造作に床に置いた。隙を見てスーツの中に手を入れてみた。手に触れた物を取り出すと水に濡れてクシャクシャになった紙の塊だった。

…嗚呼、俺のへそくり。

 郷子に文句を言いたいけど言えない。私はがっくりとうなだれた。

「それよりもたっちゃん、今度食事に行こうよ。」

「どうした、急に?」

「臨時収入があったのよ。」

 郷子はにっこりと笑った。


まだ続きます

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