さんなんさん
沼に川水が流れ込み、島を中心にぐるりとまわって外に出ていった。
村娘が桶ですくった水を見せてもらったら、その水までがぐるりと渦を巻いている。娘は近くの小さな草葺きの家に入っていった。
鮒に網を打って暮らす数十の漁家を濁った水と蒲が囲っている。村で唯一の白く乾いた道に沿って、人家が並び、店屋が一軒、据え置いた二桁の数のようにひっそりと置いてあった。
わたしは無精ひげを手でこすりながら、垂らした筵を横に除けて、店に入る。干した鮒のにおいがこもる店の表に黄ばんだ大福帳が置かれた帳場があり、お手玉のようなものが見世棚に並べてある。奥から、あいあい、と声がして、老婆のような顔をした若い男があらわれた。
わたしは先日、燃え上がる伏見の奉行所から逃げ延びた新撰組隊士の姿形や顔つきを男に説明する。すると、男はその隊士はさんなんさんにお参りに行ったと教えてくれた。さんなんさんはこの島の守り神である。古い船と板でつなげた浮き橋が村外れにあり、その先の浮島に小さな祠がある。そこにさんなんさんがあるという。島にヤマモモの老木があるから、その喬木を目印に進むよう言われる。
外に出る。村の外れへ歩いていくと、白く乾いた道の端がじんわりと湿り始めていた。
道のそばの丸石に腰を下ろして、にぎった麦飯を食い、香の物を三切れかじる。店を出てきたときはまだ真昼だった気がするが、いまは雲もないのに薄暗い。陽は丸く青い空にかかっているが、道も水も影のなかにこずんでいた。
そばの舟着きからやってきた男が鰻でいっぱいになった魚籠をかかえて歩いていく。世は大きく変わろうとしているが、この村の漁人は鮒の網に鰻や鯉がかかってくれれば満足だった。佐幕も尊王も攘夷も開国もない。黒船が川水に乗って、池をぐるりとまわって、出ていかない限り、世情を知ろうとは思わない。わたしの袖の錦の切れ端が何を意味するのかも知らない。きれいな端切れくらいだと思うくらい。
わたしは寂しさを感じた。自分が勝ち馬に乗っているのにちっとも満たされず、それどころか自分が逃げているみたいに焦りを感じる。なんとしても討たねばならぬ仇が、この旅路の終わりがそばにいるのにわたしの息が肺臓のなかで震えていた。
道を歩いていると、どんどん暗くなり、陽は黒ずんだ空に白く輝いている。道の左右で高い葦叢が黒く塗られた見えない舌でなめられたみたいにサワサワと擦れている。冷たい汗が首筋を伝い落ちた。
西洋外套の内側にたばさんだ二刀が急に重く感じられ、仇を討つこと敵わず、血まみれで転がる自分の姿が黒い空にかかる陽のなかにちらつく。目をきつく閉じるとまぶたの裏ににっくき仇がわたしの首を沼のなかに蹴転がすのがぐわんぐわんと大小変じ続ける陽の影のなかに何度も繰り返された。
暗い道は浮かべた舟に渡した板に変わった。踏み外すと、池にはまりそうだ。新撰組隊士がどこかで待ち伏せているような気がする。水鳥が細かい雷のような羽音を打ち鳴らして、頭上をまわる。その影がどこか死に物狂いで、まるで今日のこの日までに死んでいった敵味方の人全ての魂が鳥の姿を借りて、地獄にどう落ちたものかと判じかねているようだ。自分も近いうちにあの群れに加わりそうな気がしてならない。
「せめて相討ちにしたいものだ」
わたしは自分の剣がそこまでの域に達していないことを知っている。冷たい汗がぶわりと首筋に浮かび、シャツの首まわりが肌にはりついた。袖で首と額の汗を何度も拭いながら、さんなんさんの浮かぶ島へ歩く。
ごうごうと鳥の羽音が響く。島に一瞬だが鬼火が咲いた。葦がなびく。島は水の上を左に右に揺れ、それに合わせて、浮き橋の板も動く。気づくと鳥の羽音はなくなって、舟をつないだ縄が軋むのがきこえるようになった。
嫌な風をうなじに感じて、振り向くと、村のあるあたりに紅く大きな火が練り上げるように広がっていた。もともと墨のように黒い空に火薬まじりの煙が白々とのぼり、陽は燐をくべたようにに強く輝いている。ボーンボーンと遠い砲声もきこえた。
わたしはもう戻れない。仇を殺すか、自分が殺されるかなのだ。
浮き島を踏むと、靴底の下で水を吸った草がジワリと沈む。目印に歩いていた大きなヤマモモの木が立ち上がるように生え、村を焼く火で樹皮や葉が赤い毒虫のように蠢いていた。その根元の祠のそばにほっそりとした仙人のヒゲのような白煙がのぼっていて、誰かがうずくまっている。
刀を抜き、やや下段に構えると、自分の影が赤く縁取られて伸びていく。祠の前の泥団子のような人影に声をかけた。
「おい」
人影は動かないので、思い切って踏み込んで一太刀叩きつけようとしたところで刃が止まった。
白と浅葱のだんだら羽織をつけた若い侍が短刀でかきまわした腹から臓物をぶちまけていた。左手には雷管をはめた小さな単発銃を握っていて、白いひと筋の硝煙がゆらゆらとのぼる。心臓の拍動に合わせて、こめかみに開いた穴からどす黒い血があふれ出していた。
切妻屋根の小さな祠を見る。七寸の扉が開いていて、闇のなかでぼんやりと赤く見えるのはだんだら模様が彫られた木像で、その顔は自分で自分の介錯をした男に優しく笑いかけている。
だらだらと流れた汗で刀が手から滑り落ち、わたしはその場にへたり込んだ。
滂沱に震え、からからに渇いた喉から喜声とも悲鳴ともとれないものが迸り出た。
「竜馬!」