焙り茶
軒下にどこまでも堤のような竈が幾百と伸びていて、その端はかすんで見えない。竈では茶があぶられている。あぶっている人はみな火で顔が赤くなり、猿のようだった。からからの鍋のなかで細い楊枝の先のような茶葉が金物っぽい音を鳴らしている。わたしはその竈に燃料をくべる仕事をしている。竈の火が弱くなったと思ったら、あぶり役の足のあいだから燃料をくべるのだが、この燃料とは志である。
攘夷、尊皇、佐幕と違いはあるが、どれも見た目は真っ白なぼろきれのようだった。人間の考えることがこのようなぼろきれに過ぎないのであれば、人間はさほど優れた生き物でもないらしい。ただ、この燃料がどれだけ燃えるかで茶のあぶりの出来が左右される。この時勢、いろいろな志があるが、一番火がつきやすいのは長州の攘夷、激しく燃えるのが水戸の勤皇、しぶとく燃えるのが新撰組の誠だった。
あぶった茶は離れた粗末な瓦葺の家に集められる。そこにはひとり異人がいて、茶を赤く淹れて飲む。異人のそばには白い帷子の男が立っていて、異人の、喉にカエルが突っかかったような言葉を訳して、茶葉の出来を品評した。その日、くべたのは薩摩の攘夷で武蔵生麦で斬ったばかりの異人の血が染み込んでいた。
異人は茶をあぶった火に同胞の血が混じっていたことを知らず、薩摩は自分たちの志が異人の茶となったことを知らぬ。茶のあぶり場ではこうしたことは往々にしてあるのである。




