魃の話
蝉の脂っぽい泣き声が耳元にまとわりついた。その大きな水に通った堤で息をつけるのはときおり松の木陰を投げるくらいで、後はただひたすらに暑く、物の筋道さえ狂ってしまいそうだった。
堤の左右は真水でそれが海のように広がっている。葦の群れて生えるあいだに竿を差す小舟が見え、その向こうには真白い四角の帆が身のふり方を忘れたように硬直していた。
葦簾につっかえ棒をしただけの茶屋が遠くに見えたが、いくら歩いても、それは近づかず、ついにとうとう日が暮れたのだが太陽は東に沈んでいった。蒸し暑い夜が西から明けると、帆が長い影を曳き、わたしはその影に身を浸した。
額から汗がふき、目が塩っぽく、茶屋は相変わらず近づきもせず遠ざかりもせず、太陽が南へ沈んだ。
そうやって数夜が過ぎると、太陽がついに西へ沈み、東から昇り、気づくとわたしは茶屋にたどり着いていた。遠くに見たときには粗末な掛け茶屋だったが、いまでは瓦葺の二階建てで格子窓から狐の面をした誰かがこちらを見ていた。
茶屋のなかには客が大勢いて、みな露台に座り、茶碗が汗をかくほど冷たい水をすすっていた。誰もしゃべらず、しんとして、ただ、水を呑む音だけがびちゃりびちゃりときこえてくる。
水は店の底にある甕から注いでいる。水を一杯所望すると、牛のような顔の親爺がやってきて、ひしゃくから茶碗に水を注いだ。飲むとこめかみが痛くなるくらい、よく冷えた水だった。
「親爺、これはよく冷えた水だな」
「へえ。これは地獄から注いでくる水でございます」
「地獄? 馬鹿を言うもんじゃない。地獄が冷たいものか」
「冷たいのでございます。世間で言われている地獄は嘘なのでございます。そこでは全てのものが凍りつき、退屈が亡者をいじめるのでございます」
「ふうむ。そんなものか。それなら、まだこの堤のほうが地獄らしいぞ」
「皆さま、そうおっしゃるのでございます。ですが、こればかりは真実なので。もう一杯お飲みのなりますか?」
「地獄の水か? いただこう。ところで地獄にはところてんは突くのか?」
「もちろんでございます。ご所望ならそちらをお持ちしましょう。そちらを食べたほうがご到着もはやくなりましょう」
黒蜜のかかったところてんはとても美味で、こんなうまいところてんが食えるのなら、地獄行きも悪くないと言うと、客のひとりが笑い転げた。あまりに笑い方が大きいので茶碗を取り落とし、砕けた上に転がったので、皮を切り、血が、浅いいくつかの傷からバラバラに流れ出した。気味の悪い光景だが、他の客は何も言わず、自分の水をびちゃりびちゃりと吞んでいる。客は転がり続け、そのうち頭のてっぺんから足まで血みどろになった。と思うと、ぴたりと笑うのをやめ、すっくと立ちあがったのだが、わたしはその客を見て、悲鳴を上げて、ところてんの鉢を取り落とした。
それはわたしが国許で斬り殺した遊女だった。頸が半ばまで斬り込まれていまにも滑り落ちそうな顎から舌が伸びて、自分の血をなめると、びちゃりびちゃりと音がした。
すると、また客のひとりが笑い出し、自分で落とした茶碗の破片の上を転がって、血みどろになり、立ち上がると、五日前の見回りで出会い斬り捨てた浪士になり、また別の客が転がり立ち上がると、新身試しに斬った乞食に変化した。
客たちはみな一様に特徴がなかったが、笑い転げて、血を流し、立ち上がると、これまでに斬った誰かになった。そのなかにはいつ斬ったのかも覚えていないものもいた。
わたしは剣を抜き、近づいた化け物から斬って伏せようとしたが、親爺が説くように手をあげた。
「お待ちください。お侍さま。何もわたしどもはあなたを害しようとは思っていませぬ」
「嘘を申すなッ。ここにいるのはみな幽的ではないか」
「幽的なのは、お侍さまも同じでございます」
そうきいた途端、親爺以外のものはみな消えてなくなった。
「おれは死んだのか?」
「そのようです。ところてんもいただきました。きっと早くお着きになれるでしょう」
「おれは地獄に落ちるのか?」
「きっと違いましょう。地獄はこの茶屋の底にございます」
それから親爺は店から出て、遠く続く堤の道を指差した。
「ここを真っ直ぐお行きなさい。あなたさまが行くべきはそこでございます」
また歩き出す。陽は呵責なく照りつけ、蝉の声が耳にまとわりつく。雲はひとつもなく、松の木陰は頼りなく、水の上には動いているのか止まっているのか分からない帆がいくつも立っている。
振り返ると、先ほどの茶屋は消えていた。
そして、わたしが進むべき道の先にはまた葦簾の掛け茶屋が見える。
これら全てがわたしひとりのためだけに用意された罰なのだと悟る。
目が塩っぽい……。




