鱒
草原を歩く。
しばらく歩くと、このどこまでも似通った光景にささやかな異なりがあることが分かってくる。単一の地平と思っていた遠くには古の豪族たちが埋葬されている古墳が草をかぶって並んでいることもある。土地の起伏の向こうには灌木の集まりがあるらしく、木は見えないのにさわさわと葉擦れがきこえてきた。それが鏡を磨るような音で、きいているとぼんやりと何か罪を得るようなことがしている気になってくる。そんなときは腰にたばさんだ刀が重く感じるもので、歩き方が少し偏ってくるように思う。刀を左の腰に差してあるくと、下駄なり雪駄なりが左足の先から擦り減るものだ。
しばらくすると、どこからか篠竹の垣があらわれて、生垣を右に道を進むと、竹の切れるあたりで狩りの帰りらしい侍が従者を連れてあらわれた。小柄だが肉づきのよい黒鹿毛の馬にまたがった主人は侍烏帽子に鹿皮の行縢、五人張りの弓を手にして、大きな八の字の髭をたくわえている。その腰からは銀をかぶせた拵えの太刀が吊るしてあり、さらに身分の高い侍らしく従者に毛皮鞘の太刀をもう一本持たせていた。まるで荘園を見回る鎌倉時代の地頭のようで、わたしたちのほうをちらりと見ると、不逞浪士相手では見られない鋭い眼光を投げられた。ありえない話ではあるが、この侍は何百年も前の時代、海の向こうから大宰府へ攻め上った蒙古を逆打ちにした侍のようだ。裸足の従者たちは眉間に矢が刺さった大きな鹿の手足を棒に結びつけて吊るし、ふたりがかりで運んでいた。従者は全部でふたりいて、皆が皆、行器を担いだり、薙刀を運んでいたりしている。侍の一向がわたしたちの来た道を歩いていくのを見守りながら、わたしはほうっと胸をなでおろした。
「このあたりでは武士のことを二本差しと呼ばないそうです」友連れのいつもにこにこしている童顔の隊士がさえずるように言う。「刀を差すとも言いませんし、佩びるとも言いません。吊るすというのです。いえ、まったく。古風ですね。いいものを見ました」
その夜、月夜を屋根に眠ったが、金色の雲がゆっくり動くたびに光が息づき、小さな丘がぞわりと動いた。こんな広い草原のどこに価値があるのか想像もつかないが、道は一本しかなく、わたしたちは進むしかなかった。なぜ進むのかはよく分かっていなかったが。
翌朝、静かに降りた露が夜明けの光とともに色のない霧となり、見えない冷たい手のようなものに鞘を撫でられた。黒い川面があらわれて、丹塗りの橋を渡るとき、僧形の男が釣り竿を手に橋桁で渦を巻く水に糸を垂れていた。足元には魚籠があり、そのそばには腹を裂かれた鱒が一尾転がっている。相方がその魚籠を覗こうとすると、僧形の男は嫌がる顔をして手をふった。童顔の隊士は魚籠に手をあわせて、何かつぶやいた。
橋をしばらく過ぎてから彼は魚籠のなかに観音さまがいたと教えてくれた。
川は草原を大きく蛇行しながら流れているようだった。水のにおいもしないほど遠ざかったかと思うと、突然、わたしたちの前に深い淵を抱いて横たわり、必ずしも橋がかかっているとは限らなかった。そのときは渡れそうな浅瀬を見つけて、袴を股立ちにし、流れに足をさらわれないように歩いた。細かい泡が巻き上がっては消える不思議な水面が川上にあり、なぜかわたしの足はそちらへ流れていくような気がした。
「なあ、きみ。きみの足もそうか?」
「はい。きっと川底に観音さまがいるのでしょう。ありがたや。ありがたや」
童顔の隊士は川に立ちながら、また手をあわせた。
川を渡り、しばらく歩き、いくつか丘を登っては下りを続けていくと、丘のあいだにまたあの川が流れ、擬宝珠を添えた立派な橋が真新しい木目を見せて川をまたいでいる。このように辺鄙なところにこんな立派な橋を立てたのはどこの藩だろう? それともここは天領なのか。それがわたしには分からない。童顔の隊士にも分からないようだった。彼は橋のなかば、一番高いところから川を覗き込んだ。わたしも隣に立って川を覗くと、澄み切った水の底に背が青い大きな鱒が何尾か流れのほうへ頭を向けて、ゆったりと鰭を動かしている。
「観音さまは鱒の腹のなかにいるのです」
隊で切腹があると、介錯を務めることの多い童顔の隊士は人の腹に比べて鱒の腹はなんともありがたいものです、と、にこにこして手を合わせる。




