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屠腹

 誰も納得のいかない理由で腹を切ることになった。

 平の隊士から上は局長や副長まで誰も納得がいっていないらしい。一説には会津の中将さまも納得がいっていないとのことだ。

 屯所の敷地にある小さな僧房に閉じ込められたわたしに幹部隊士のひとりがやってきて言う。

「今度の切腹は形だけになった」

「形だけといいますと?」

「腹を切るふりをするだけでいい。腹にちょんと切っ先を触れるだけだ。そうしたら、介錯もエイヤッ!と切るふりをする。これでおしまいだ」

「エイヤッ、ですか?」

「うむ。エイヤッ、だ」

 まあ、誰も納得がいかないのならば、そんなものか。それなら腹を切るふりすら必要ない気もする。腹を切るのはいろいろと準備もあるし、面倒だ。寺のなかで自害するにしても、生き入定ならまだしも武士が腹を切るのに場所を借りるとなると、しなければならない届け出も多い。

 ただ、法度があるので、やはり何もしないというわけにもいかない。

 幹部隊士は朗らかに笑って、何も起こらないのだと請け合った。笑うと頬にふたつ小さなくぼみができるのがかわいらしく、ピンと張った緊張の糸を緩めてくれるようだ。

 わたしもまさかあんな理由で腹を切ることになるとは最初から考えていない。腹を切るなら切るなりにもうちょっとしっかりとした理由があればいい。

 呉服屋から浅葱色の裃が届いたというので、切腹は明日となった。

 その日の夜はももんじ屋から取り寄せた近江の牛の味噌漬けを焼いて食べた。これはいくらふりとは言えども、腹を切るのだから、ちょっと胆力をつけさせようとしたらしいのと、腹を切る前に食べる魚や粥を外して、わたしを落ち着かせるという意味もあった。腹を切ると、その日の前に食べたものが当然出てくる。そのとき、獣肉なんぞ食べたら、気持ちの悪いものが流れ出る。だが、白身の魚や粥を腹に詰めておけば、白くてきれいなものが出るという。

 灯明皿のちらつきのなかで床の間に飾られた梅の花が白く咲き乱れたが、それが変に不安な気にさせる。豊臣秀吉の命令で誰だったかが納得のいかない理由で腹を切らされ、怒りのあまりハラワタをむしり取り、床の間の掛け軸に投げつけたという話をきいたが、そのときの花が梅の花だった気がする。わたしは灯芯草の芯を鉄箸でつまみあげて、吹き消すと、布団に潜り込み、とっとと寝てしまうことにした。

 次の日の朝、白い玉砂利を敷いた小さな庭に裏返しにした畳が置かれ、わたしはそこで浅葱の裃を着て、ちょこんと座った。密生したイヌツゲの緑でぐるりを囲ったその庭に局長と副長以下幹部隊士が床几に座って、わたしを待っていた。そのなかには昨日会ったエイヤッの幹部隊士もいて、その朗らかな顔を見ると、これから自害の真似事をするのだとは信じられなかった。

 介錯にはいつもニコニコしている童顔の剣士が命じられた。黒い稽古着みたいなものをたすき掛けにして、袴の股立ちを高く取り、裸足である。

「よろしくお願いします」と童顔の剣士がぺこりと頭を下げる。

「こちらこそよろしくお願いします」と、こちらもぺこり。

 わたしの前に三方にのせられた短刀がやってきたので、これを奉書紙で巻いて、肌脱ぎをした我が身に真っ直ぐ向ける。

 わたしはわたしの切腹を見届ける人たちを見た。誰もがニコニコしていて、心配することはないのだと言おうとしているようだ。

 紙で巻いた刀身に介錯人である童顔の剣士の顔が写る。玉垣刃の太刀を八双に構えて、ニコニコしている。

 わたしは急に不安に襲われる。わたしは気づかないうちに何か重大な法度を破り、形だけの切腹という虚言に騙されて、殺されようとしているのではないかと。

 突然、短刀の紙に巻かれた三角形の切っ先が陽光を集めてギラリと光る。その光が眩くて、目を閉じかけた。ギラギラとした光は脹らんだ。光が眩すぎて、物の輪郭が崩れ、溶けるように周囲を吞んでいく。三方を呑み込み、わたしが脱ぎ捨てた裃を呑み込み、局長の岩を思わせる張った顔や気が高ぶるとべらんめえ口調になる副長、エイヤッの幹部隊士の輪郭がほつれ、溶け、呑まれていく。

 ニコニコと笑う童顔の剣士の八双に構えた玉垣刃の太刀だけが飲み込まれた様々なものの中心にくっきりと存在していた。それは全てを吞みながら、脹らみ、わたしを呑もうとしていた。

 わたしの輪郭が溶けていく。わたしは身を縮こませて、首をすくませた。

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