ようこそ、桜庭探偵事務所へ。 ⑪
光のない目が僕に向いた。口が開く。
いつもなら何を言われるのかと身構えてしまう体が、今日は止まらなかった。
「僕をっ、迎え入れてくれたのは、僕が椿木だからですか?」
「はぁ!?」
「僕が椿木の家に生まれて、椿木の情報を持ってて椿木の人間と関わりを持てるから、雇ってくれたんですか?」
「な、にを、突然……」
「僕を! ……僕に、手を差し伸べてくれたのは。僕を利用するためだったんですか。」
胡乱な目をしていた社長の顔に、じわりと笑みが滲んだ。
言葉がなくても、それだけで答えは伝わった。
いや、それより前に、わかってはいたんだ。ただ僕が、僕の中できちんとけじめをつけたかっただけ。
例え最初にどれだけ優しくしてくれても、例えその時どれだけ僕が嬉しかったとしても、それは幻想にすぎなかったのだと。
これがこの人の本性で、僕が信じた社長はどこにもいなかったのだと。だから、迷う必要はないのだと。
そうはっきり突き付けておきたかったんだ。
今この時、僕の原動力が単なる怒りだったとしても、いつかの日にほんのひとかけらでも後悔したくなかったから。
「僕は世間知らずで馬鹿正直で、さぞ騙しやすかったでしょうね。今日までずっと、あなたのことを信じてた。」
「はっ、そんなもの、騙される方が悪いんだ。」
「そうかもしれません。僕に疑う心があれば、もう少しまともな行動ができてたと思います。」
「どうだかな。頭の悪いやつは多少知恵がついても本質は変わらないんだ。お前みたいなのは、俺に使われてるのが似合いなんだよ!」
「それも、そうかもしれませんね。人を率いるのが上手な人もいれば、誰かの下で働く方が向いてる人だっています。だけど。」
深く息を吸う。
僕の言葉は、結局世間知らずの綺麗事なのかもしれない。
現実を知らない子供の話す、夢物語なのかもしれないけれど。
「人の上に立つことは、人を騙すこととは違います。僕は、あなたの元で働きたいと思ったけど、あなたに利用されたいと思ったわけじゃない。」
「それを掌で転がすのが腕の見せ所だろうが。お前には利用価値があったのに。」
「生憎僕は僕です。家族は僕とは関係ないでしょう。」
「お前の意思など知ったことか! 大人しく騙されていれば良いものを」
「なにより!」
自分の出した大きな声に、足が動いた。
僕を制止する桜庭さんの手が触れる前に大股で距離を詰める。
人の胸倉を掴むのは初めてだった。決して背の高くない相手の目が、間近に僕を見ている。
何をするんだとがなる声には怒りとそれに覆われた混乱と、奥底に確かな、怯えがあった。
あぁ、なんて。なんて簡単なことだったんだろう。
この人は圧倒的な力を持った王様でも、絶対的な神様でもない、ただの、僕と同じ人間だったんだと。
手を伸ばせば届く距離で、言葉を交わせば聞こえる相手だったのだと今になって知る。
そのたった一歩さえ踏み出そうとしなかった僕は、この人の言う通り愚かだったのだろう。
それでも。
そんな僕でも、わかることがある。言わなきゃいけないことがある。
「記者にとって言葉は、何よりの武器だ……っ、そんな風に、使っちゃいけないものでしょう……!」
「うるさい、うるさいうるさい!」
後ろに聞こえないように潜めた声が喚き声にかき消された。
どんと肩を突き飛ばされて思わずよろめく。
数歩分開いた距離を埋める様に腕が伸ばされる。その手に握られたまま、僕を向く銃口。
「お前なんて、初めから」
意味などないと分かりつつ、反射的に体を丸めて手を庇う。
もう何の楽器も弾かないのなら、それよりもっと守るべきところがあったのになぁ、なんて他人事のように呑気に思ってから、不自然に訪れたまま破られない静寂に気づいて目を開けた。
正面には、変わらず開かれたままの黒い穴。その奥の、驚愕と混乱に歪んだ顔。軋む音が聞こえそうなほど強張った体。
僕を越えて背後へ向いている視線を追って振り返った先で、桜庭さんが感情の一切が削ぎ落されたような顔をして立っていた。
かつん。革靴が床を叩く音。
空気の漏れるような引き攣れた音が社長の方で鳴ったけど、それさえ耳に届かない気がした。
ゆったりと歩を進める桜庭さんの、その瞳。
海を思わせる青色とは違う、もっとずっと濃い色。
底の見えない、波さえ起らないような大海原を切り取ってきたような、深い、深い紺碧。
ゆるりと傾げられた頭から、一房髪が揺らいでいる。唇に浮かぶ酷薄な笑み。
いっそ恐ろしいほどに研ぎ澄まされた顔の、紡がれる声の、なんと美しいことか。
「君の話は、署で警察が聞く。ここでもうそれ以上、一言たりとも口を開くな。」