ようこそ、桜庭探偵事務所へ。 ⑩
「証拠!? 警察!? な、んの根拠があるのか知らないが、これ以上は本当に不法侵入で」
「これが裏帳簿、これが税金をちょろまかす仕掛け用の書類。これが改竄されたタイムカードで従業員の給与が正当に支払われてない証拠、と。こんだけあれば調べに入るには十分だろ。」
「なっ、おま、どうして!」
勢いを取り戻しつつあったのか大声を上げる社長の言葉をさえぎって、桜庭さんが話し出す。
軽く挙げられたその手には、何冊かのノートや紙の束、細長い厚紙。
厚紙だけは僕も見たことがある、というか、毎日出退勤の時間を記録しているものだ。
他は見たことがない、けれど、社長のうろたえ具合をみれば、それが不正の証拠だってことは確実なんだろう。
そう、確実、なんだ。やっぱり本当なんだ。本当に僕たちを騙して、自分だけ良い思いをしていたんだと、ようやく染み込んでくる。
厳重に隠されていたはずのそれが何故桜庭さんの手に、という社長の混乱も、予想がつくせいかどこか冷めた目で見てしまう。
水は、薄く細かく姿を変える。
桜庭さんがずっと社長の目の前に立っていたとしても、同時に会社の中を自由に動き回ることができる。
人の手では入り込めないような隙間だったとしても、水には関係がない。
そもそもきっと、桜庭さんはこの会社の中のどこに何があるか全部知っててここに来たんだろう。
「用は済んだ。帰ろうか。」
くるりと桜庭さんが向き直る。
にっこりと笑うその姿には、さっきまでの凍えるような空気は欠片も残っていない。
はい、と自然に声が出て、知らずほっと息がこぼれた。
それが、桜庭さんが元通りになったからなのか……もう、ここに来ることもないから、なのかは、まだわからないけど。
視線が落ちて見慣れた床の模様に、何かを強引にこじ開けるような刺々しい音が被った。
社長の方からだと思うより早く持ち上がっていた視界の正面に、それが映る。
初め、それは真っ黒い円に見えた。
まっすぐにこちらを向く、黒光りする鉄の筒の先端だと、一拍遅れて気付く。
テレビや漫画の中では散々目にしたことのある、だけど現実では見たこともないもの。
人の命を簡単に奪い去る力を持った武器。
拳銃。
それが今社長の手の中にあって、桜庭さんの背をとらえていた。
叫ぶ。手を伸ばす。
それよりずっと早く。
ぱん、と乾いた音が鳴る。
想像していたよりもずっと軽い、風船が破裂するような気の抜けた音。
そのくせ鼓膜に突き刺さるような衝撃。
ずるりと、一瞬。目の前の桜庭さんの体の真ん中が渦を巻いた。
すぐに元に戻った胸元から、桜庭さんの手の上にころりと銃弾が吐き出される。
びっくりしたぁ、とかいう気の抜けた声がやけに遠く聞こえて、どっと汗が吹き出した。
自分で聞こえるほど心臓が早鐘を打っている。
怪我も、命に別状も、ないのか。生きているのか。
せわしい呼吸のわりに息苦しくて、回らない思考の内でも酷く安堵していることだけはわかった。
目頭が熱くにじむのは、きっと一向に入ってこない酸素のせいに違いない。
この人が、無事でよかった。
後ろガラス戸だろ危ないなぁなんてなんでもない顔で言いながら、桜庭さんが柊野君を見下ろしている。
「あれ、銃刀法違反だよな?」
「いえ、殺人未遂です。」
「あそっか。じゃあ緊急逮捕できる案件じゃん。」
「先生は今民間人なので、緊急逮捕はできません。この場合現行犯逮捕が適当かと。」
「んじゃっ、それでー!」
揚々と楽しそうな桜庭さんとは対照的に、社長の顔色は真っ白だった。
カチャカチャと耳障りな音が立つほど手が震えている。
血の気の失せたその口が細くわなないて、空気に溶けるほど小さな、音ともつかない声が。
「……っ、社長っ!」