閑話 二人の母様
総合評価が1000ptを越えました。たくさん読んでいただいて、本当にありがとうございました。蛇足かなと思いましたが、嬉しくなって閑話を一話書くことにしました。ちなみに続きではありませんし、これ以上他の話を追加する予定も今のところありません。(何かの間違いで10000ptくらいになったら、もう一話書くかもしれませんが。笑)御笑覧いただけたら幸いです。
私の名はアルベルト・ルッツ。でもこの姓になったのは今からおよそ2年前。私が王立学校に入学する直前の冬のことです。それまではサローマという姓を名乗っていました。そう、この栄えあるドルアメデス王国でも有数の大貴族家であるサローマ伯爵家が私の生家なのです。
私は現サローマ伯爵である父ニコルと母エマの間に生まれた7人兄妹の末っ子です。私のすぐ上の姉はこの春に王立学校を卒業し、別の貴族家に嫁ぐことが決まっています。他の二人の姉もすでに王国内の貴族家に嫁いでおり、長男を含む三人の兄たちは成人して領内管理をしているため、学生は私一人だけということになります。
私は幼い頃から年の離れた兄たちが領主一族として様々な仕事をするところを見ていました。だから私も成長したら兄たちのようにサローマ領のために働くのだとなんとなく思っていたのです。
ですが9歳になった時、私は両親から生家を出てルッツ伯爵家の養子になるようにと言いつけられたのです。私にとってはまさに晴天の霹靂でした。
もっともこれに驚いたのは私だけで、両親は私が生まれるずっと前からルッツ伯爵とこのことについて話し合っていたそうです。ルッツ伯爵夫妻は王国貴族なら知らない者がないほど仲睦まじいことで有名ですが、結婚以来ずっと子宝に恵まれなかったからです。口さがない者たちが「ルッツ夫妻は嫉妬の女邪神ナイファズートの呪いを受けたのだ」と噂しているのを私も耳にしたことがあるほどです。
ただ、この噂のせいというわけではありませんが、私は養子の件を両親から切り出された時、正直あまり嬉しいと思いませんでした。もちろん貴族家の一員とはいえ継承権を持たない末っ子の私にとってこの話がどんなにありがたいものかは十分理解しています。
ルッツ伯爵家は官僚貴族家でありながら王都領南の城塞都市、自由自治領ハウルの管理権を有しているため、領主貴族と同等の扱いを受けています。現当主のカール・ルッツ令外伯爵は現国王の相談役として活躍しており、その権勢はサローマ伯爵家に勝るとも劣りません。そんな貴族家の跡取りとして養子に入るのですから、私と同じような立場の貴族師弟なら誰だって小躍りして喜ぶでしょう。
ですが私にはそれをあまり喜べない理由がありました。それは私の伯母に当たるルッツ伯爵夫人ドーラ様の存在です。私は彼女が恐ろしくて仕方がなかったのです。
私の実母、エマ母様は平民の出身です。母様は自由自治領となる前のハウルという小さな開拓村で貧しい木こりの娘として生まれたそうです。ですが生まれつき全属性の類まれな魔力を持ち、齢9歳にて迷宮討伐を達成。王立学校在学中にも数々の偉業を成し遂げた他、王国の食文化を変えたと言われる甘味料スクラ花蜜の開発に成功。その功績で貴族に叙されたという伝説の英雄です。母様の冒険を題材にした歌劇や武勲詩は王都で毎日のように演じられ、人気を博しています。
母様は伯爵家夫人としての役目を果たしながら、今でも王立学校の現役教師兼研究者として活躍しています。私にとっては何よりも自慢の母様なのです。
ドーラ様はそんなエマ母様の姉上様です。エマ母様とドーラ様はそれはそれは仲が良く、二人は忙しい日々の合間を縫っては互いの家を行き来する間柄。私も幼い頃からドーラ様と何度も顔を合わせています。
ただこれは厳密にいえば正しい表現ではありません。なぜなら私はこれまでに一度もドーラ様の顔を見たことがないからです。
ドーラ様は人前に出るときにはいつも日除けのフードを目深に被り、半仮面とベールで厳重に顔を隠していらっしゃいます。物心ついてから初めてドーラ様にお会いした時、私はその姿のあまりの異常さに驚いて泣き出してしまいました。
エマ母様曰く、ドーラ様は若い時分に酷い瘡病にかかってしまい、顔に大きな傷が残ってしまわれたため、それを恥じて顔を隠していらっしゃるとのことでした。その身の上には同情を禁じえませんが、幼い私にとって顔の見えない彼女の姿がまるで亡霊のように不気味に映ったのも事実なのです。
そのせいなのか私は幼い頃から幾度となくドーラ様の悪夢を見ています。夢の内容はいつも同じで、深い森の中、私は家族とはぐれてしまうのです。心細くて泣きながら暗い森の中を彷徨っていると、やがて木々の間に小さい明りを見つけます。慄く私の下にやってきたのは小さな角灯を手にし、顔を隠したドーラ様。彼女は私に「こっちにおいで」と語り掛けてきます。
ですが私はそんな彼女が恐ろしくて逃げ出します。彼女は私を追いかけてきます。私は必死に走ります。しかしなぜか足が上手く動かず結局彼女に捕まってしまいます。
彼女は私を抱きしめます。その時、私が暴れた拍子に彼女のフードが脱げてしまうのです。ハッとして思わず彼女の顔を目にした私は、たまらず悲鳴を上げます。なぜならそこにはあるはずの顔がなかったからです。あるのはぽっかりと空いた黒い空洞だけ。そして目も鼻も口もない空虚な顔で彼女は私に言うのです、「よくも私の顔を見たな」と。そこで絶叫して目を覚ますのです。
この悪夢のおかげでこれまでに何度夜具を汚してしまったか分からないほどです。このこともあり、私はドーラ様に出来るだけ近寄らないようにしていました。
そんな私が敬愛するエマ母様から「ドーラ様の子供になれ」と言われたのです。私の絶望が少しは分かっていただけたでしょうか?
私は王立学校入学を機にサローマ家を離れ、正式にルッツ家の養子となりました。ですから学校の冬季休みになると私は寮を出て、ハウル領のルッツ家で過ごさなくてはなりません。しかし私はドーラ様にお会いしたくない余り、去年の冬は何かと理由をつけては出来るだけ寮に居残るようにしていました。
級友たちもどうやら私の気持ちを察しているようで、同情や憐憫の眼差しを向けてくれました。悪友の中には「まじない師あがりの成り上がり者を母と呼ばねばならぬとは君も本当に気の毒な男だ」と言ってくる者もいます。
私の実母であるエマ母様は平民出身であっても稀代の英雄であり、実力で爵位を勝ち取ったという揺るぎない実績があります。そのため私は出自を理由に蔑まれたことはこれまで数えるほどしかありません。その数少ない相手もすべて私自身の実力で黙らせてきました。
ドーラ様はそんなエマ母様とは違い、伯爵夫人となる前は一介のまじない師としてハウル村で暮らしていたそうです。そこで当時ハウル街道の管理官をしていたカール・ルッツ様に見初められたのだとか。これは王国の貴族ならば誰もが知っていることです。
ルッツ伯爵は類い稀な武芸と領地経営の手腕で王に認められ栄達を果たした方ですが、魔力は下級貴族の中でも最底辺。そのために年配の貴族の中には「王に阿って取り立てられただけの成り上がり者」と言う者もいます。もちろんハウル領の発展を見れば、それがただのやっかみであることは誰だって分かります。ただルッツ伯爵を蔑む気持ちを持っている貴族が少なからずいるというのも、否定しようのないことなのでした。
ルッツ伯爵ですらそのように思われるのですから、ただのまじない師から伯爵家の夫人となったドーラ様は言わずもがなです。「英雄の妹に便乗した下賤な女」「たまたま時流に乗れただけの田舎者」。貴族の集まりでそんな陰口を耳にしたことも一度や二度ではありません。
その度に私は激しい怒りを感じると同時に、自分の養父母をどこか恥ずかしいと思ってしまっていたのです。
あの時ルッツ家の養子に成りさえしなければ。今でもエマ母様の下にいられたらどんなに良かったか。そんな考えが頭の隅に過ってしまうのを私はどうしても止められずにいたのでした。
2年生が終わりを迎えた今年の冬も、私は一番最後に寮を離れ渋々ハウル領に向かいました。領主館ではドーラ様と筆頭侍女のリアが私を出迎えてくれました。地味な灰色のベールで顔を隠したドーラ様に、私は出迎えのお礼を申し上げました。
「お出迎えありがとう存じます、伯母上様。ただいま戻りました。」
ドーラ様を『伯母上様』と呼んだ時、彼女はわずかに肩を震わせました。ですが彼女はそれを無視し、何事もなかったように明るい調子で私に言いました。
「おかえりなさいアルベルト。カール様はまだ執務から戻られていません。さあ、寒かったでしょう。お部屋を暖めておきましたから、こちらへお入りなさい。学校での様子を聞かせてほしいわ。」
「いえ、疲れておりますので自室に下がらせていただきたく存じます。申し訳ございません、伯母上様。」
「そ、そう・・ですか。それならば仕方がありませんね。ではお夕食のときにでも一緒にお話しいたしましょう。」
残念そうに言う彼女の姿を見て、私の心はずきりと痛みました。ですが私はどうしても彼女に優しい言葉をかけることができませんでした。結局私は夕食の時間まで自室で過ごしました。
その日の夕食には養父であるカール・ルッツ伯爵もいらっしゃいました。養父様は私のために執務を早めに切り上げてくださったのです。養父母と私はリアたちに給仕をしてもらいながら三人で食事をしました。
ドーラ様は私にしきりに話しかけてくださいましたが、私はカール様を介してしかそれにお答えすることができませんでした。食事をするときにもベールを外さない彼女に目を向けるのが、何となく躊躇われたからです。カール様もドーラ様もそれに気が付いていらっしゃいましたが、何もおっしゃいませんでした。何となくぎこちない感じのまま、その日の夕食は終わりました。
その後、数日が経っても私はドーラ様に打ち解けることができずにいました。幼い頃と違ってもうすぐ12歳になる今では、さすがに彼女を恐ろしいと思う気持ちは大分少なくなってきていました。それでも私は何かと理由を見つけては彼女を避けてしまうのでした。
そんなことが続いたある日のこと。珍しく早く帰宅した養父様から私は、剣の稽古をしないかと誘われました。もちろん私は一も二もなくそれに応じました。王国ただ一人の神聖騎士である養父様の剣技の凄まじさは諸国にまで鳴り響いており、騎士を目指す多くの若者が彼に憧れていたからです。言うまでもなく私もその一人です。
地味な基礎訓練を終えた後、私は養父様と木剣で立ち合いました。私の祖父ニコラス・サローマ前伯爵は大剣豪として知られる英雄。実父ニコルもその技を引き継いでいます。私は訓練用の剣が持てるようになった時から実父に剣の手ほどきを受けていたため、魔剣術には多少なりとも自信がありました。実際、王立学校では同年代で私と互角に渡り合える相手は一人もいません。
しかしこの時は私がどんなに全力で打ち込んでも、養父様には遠く及びませんでした。50歳をとうに越えているはずの養父様は、息一つ乱すことなく私の攻撃をいなし続けました。私は動けなくなるまで挑み続けましたが結局、養父様の態勢を崩すことさえできずじまいでした。崩れ落ちるようにその場に座り込んだ私は、養父様にお礼を申し上げました。
「本当に、ありがとう、ございました。」
息も絶え絶えに言った私に養父様は小さく頷いた後、おっしゃいました。
「なかなか良い太刀筋だ。だが剣に迷いがある。」
「迷い、ですか?」
養父様は私の問いかけには答えてくださいませんでした。その代わり、私にお尋ねになりました。
「・・・お前はドーラのことを嫌っているのか?」
「いえ、決してそんなことは・・・!!」
私は慌てて立ち上がり、叫ぶように答えました。養父様は探るような目で私をじっと見つめていました。私は極まりが悪い思いを何とかしようと焦った挙句、自分の思いを正直に話してしまいました。
「その、なんというか・・・私もどうしてよいか分からないのです。」
いくら正直にとはいっても、さすがにドーラ様を不気味だと思っていると言うことは出来ません。私はしどろもどろになりながら養父様にそう申し上げました。養父様は小さく頷いた後、顎に右手を当ててしばらく考え込んでいました。そして私にこうおっしゃいました。
「お前はドーラが家計簿をつけているのを知っているか?」
「はい、もちろんです。副官のステファン様から領の経営について説明された時、見せていただきました。」
私がそう言うと、養父様はふと笑って小さく首を横に振りました。
「いや、伯爵家の公的資金帳簿ではない。ルッツ家の『私的』な金銭出納を記したものだ。」
「?? はあ。」
私は訳が分かりませんでした。ルッツ家は官僚貴族家ですが、実質はこの人口10万の城塞都市ハウルを領地としています。自治管理権を獲得している以上、伯爵家は領内の資金を自由にすることができるのですから、ルッツ家の家計簿などわざわざ作るまでもないはずです。
私の間抜けな表情を見て、その思いは養父様にも伝わったようでした。ただ養父様は私の疑問に答えることなくおっしゃいました。
「リアに話しておく。ドーラの家計簿を見せてもらうといい。」
養父様はそれだけ言うと、体を清めるために浴室へと行ってしまわれました。私は訳が分からないまま、しばらくその場に座り込んでいました。
その日の夕食にはドーラ様がいらっしゃいませんでした。理由を尋ねても養父様は「彼女は今休養している」としかおっしゃいません。何とも居心地の悪い思いで食事を終え自室に下がろうとした時、筆頭侍女のリアが私に話しかけてきました。
「旦那様にお話を伺っています。さあ、こちらへ。」
彼女はそう言うと私を置いてさっさと歩き出しました。私は慌てて彼女の後を追います。慇懃で冷たい目をした彼女のことを、ドーラ様とは違った意味で「ちょっと苦手だな」と私は思っていました。
長い廊下を通り私は領主館の奥向きへと向かいました。この先には伯爵夫妻の私室の他に、私に与えられた部屋があります。ですが私は「鍛錬をしたいので」という理由で、屋敷の離れにある別の部屋を自室として使わせてもらっていました。鍛錬をしたいというのは嘘ではありませんが、本当のことを言えばドーラ様の側にいるのが気味悪かったからです。
伯爵家の屋敷とは思えないほど簡素で薄暗い板敷きの廊下に私の足音だけが大きく響きます。小さな油灯具を持って前を歩いているリアは、まるで体に重さがないのかと思われるほど、まったく足音がしません。私は居心地の悪さに耐えられなくなり、彼女に話しかけました。
「なあリア、もう少し明るくは出来ないのか? それになぜ廊下に何も敷いていないんだ?」
「旦那様と奥様がいらないとおっしゃったからです。明かりはこれで十分。さあ、着きましたよ。」
リアは私の方を見もせずにそう答えると、粗末と呼んでも差し支えないような飾り気のない扉の前で立ち止まりました。
「ここは?」
「奥様の寝室です。さあ、お入りください。」
私は思わずぎょっとして息を呑みました。
「い、いや! それはさすがに不味いだろう!? ドーラ伯母上様が休んでいらっしゃるのではないのか?」
怖気づいてそう言った私に彼女はゴミを見るような冷たい視線を投げると、慇懃な態度で答えました。
「旦那様のお許しをいただいているので問題ありません。それに奥様は少なくとも明日の朝までは決してお目覚めになりませんから。」
彼女はそれだけ言うと、使い込まれて摩滅したドアノブを掴んでさっさと扉を開き、無言で私を見つめました。彼女は私の内心の恐れを見透かしたかのように私を見ています。その冷たい目を見た私は、なんだか挑発されているような気持になり次第に腹が立ってきました。
私は勇気を振り絞って暗い入口の前に立ちました。中からは静かな寝息が微かに聞こえます。私はごくりと唾を飲み込んだ後、室内に足を踏み入れました。
私の後に続いて部屋に入ったリアは、音もなく扉を閉じました。彼女の持っている小さな明かりで室内の様子が見えました。
そこはむき出しの板壁に囲まれた小さくて粗末な部屋でした。細長い部屋の奥に重い帳のかかった天蓋付きの寝台が置かれていて、そこから寝息が聞こえてきます。
寝台の横の小さな脇台には、ドーラ様がいつも身につけている日除けのフードとベール、それに半仮面が置かれていました。それを見た瞬間、私の脳裏を夢の中で見たドーラ様の空洞の顔が過りました。私は思わず上げそうになった悲鳴を必死に押し殺さなくてはなりませんでした。
「こちらです。」
急に声をかけられ、驚いて声の主であるリアの方を見ると、彼女が一冊の帳面を手にしているのが見えました。彼女は簡素な書き物机の前に立っています。書き物机の上には自作と思われる筆記具がきちんと整理されて置かれていました。机の脇には小さな長持ちがあり、それがこの部屋の家具のすべてでした。
詳しく知っているわけではありませんが、おそらくちょっとした商家の寝室でも、もう少しは調度などがあるはずです。王都領きっての城塞都市を治める伯爵家夫人の寝室とは思えないほどの簡素さに、私は驚きを隠せませんでした。
短杖を取り出し《小さき灯》の魔法を使った私は、リアから手渡された帳面に目を通しました。驚くほど流麗で几帳面な文字で、事細かに金銭の出納が記録されています。これが養父様のおっしゃっていたドーラ様の家計簿に違いありません。しかしその中身に目を通した私は、思わずリアに尋ねてしまいました。
「・・・これ、桁が三つほど足りないのではないか?」
そこに書かれていたルッツ家の生活費は、驚くほど金額が少なかったのです。もちろん使用人への給与や公務に使用する衣装代などは、さすがに都市を管理する伯爵家にふさわしい金額でした。ただ屋敷内で伯爵夫妻が使っている食費や消耗品費などは、極めて少額だったのです。
呆れたように尋ねた私に、リアは平然と答えました。
「間違ってはおりません。旦那様も奥様も、奥向きでの生活の様子は昇爵する以前とほとんど変わっておりませんから。」
彼女の答えを聞いた私はもう一度、具に家計簿の中身を読んでいきました。すると出納額の端に小さく走り書きのようなものがあることに気が付きました。
『ジャガイモ二袋、ピートさんが届けてくれた。春になってお母さんの病気がよくなったと喜んでいた。私も嬉しい。』
『鶏小屋の雨漏りの修理。ロックさんの新しい徒弟さんはノーザンの出身。夢は指物師の棟梁になることなんだって。』
『配達人のマークさんへ。息子さんが学校帰りにケガをしたらしい。今度こっそり薬を届けよう。』
それを読んだ時、私は頭をドカンと鈍器で殴られたかのような衝撃を感じました。
ドーラ様の家計簿には領民たちとのやりとりが短い言葉で記されていました。それを読んだだけでドーラ様がどれほどハウルの領民たちを大切に思っているかが、私にもはっきりと伝わってきました。
そして読み進めてい行くうちに私は、自分がこれまでハウル領のことについて何も知らなかったことに気づかされました。もちろん領内の統治については養父様の副官ステファン・ルード殿や防衛団長のヴィクトル・ヴァイカード殿から教えられています。
しかしそれはあくまで領経営のための知識として知っている事柄に過ぎません。ドーラ様の領民とのやりとりの様子を知ることで私は初めて、領民たちが私と同じように、自分の人生を懸命に歩んでいる『一人の人間』であると実感させられたのです。
私はそれまでエマ母様から何度も「私たちの役目は領の人たちの暮らしを守ることよ」と言われていました。私はそれを分かっていたつもりでした。が、実は何も分かっていなかったのです。
ドーラ様の家計簿を読んでいくうちに、私は自分の思い上がりがとても恥ずかしくなりました。同時に自分の情けなさが悔しくて仕方がなくなってしまいました。
瞼の内側から溢れそうになる熱いものを飲み下しながら、ぎいっと奥歯を噛み締めます。その時、私はある記述を目にして心臓が止まりそうになりました。
『ガレーロさんに魔獣の革を届けてもらう。アルベルトの剣帯、今度は喜んでくれるといいな。』
私はハッとして顔を上げ、少し離れた場所に立っていたリアに目を向けました。彼女は無言で私を見つめていましたが、やがて小さく息を吐くとちらりと机の脇にあった長持ちに視線を投げました。
私はすぐに長持ちの蓋を開けて中を確認しました。不揃いに細く切られた魔獣の革の中に埋もれるように置いてあったのは、一本の真新しい剣帯。私は震える手でそれを拾い上げました。
「こ、これは、私が森に捨てたあの・・・?」
慄きながら呟いた私に応え、リアが静かに言いました。
「私が回収して奥様にお届けしました。奥様はあなたを責めるようなことは一言もおっしゃいませんでしたよ。『あんまり上手に出来なかったから仕方ないよね』と寂しそうに笑っていらっしゃいました。私はあの時の奥様の目が今でも忘れられません。あなたがエマ様のご子息でさえなければ、私がこの手で殺してやりたいと思ったほどです。」
恐ろしいことをさらりと言ったリア。しかしその時の私はそれを受け止めることができないほど混乱していました。
この剣帯はドーラ伯母上様が私に下さったものです。
魔獣の革を細く割いた紐を幾重にも編んだ品で、王国では王立学校の入学に際して貴族の母親が剣を持つ息子の無事を祈り準備をします。はるか昔にはどの貴族家でも母親が自ら手作りしていたそうですが、今では専属の職人に依頼して贈ることが一般的となっています。
ただ私の兄たちはエマ母様が手作りしたものを使っていて、私はそれをとても羨ましく思っていました。しかし私はルッツ家の養子となったため、エマ母様は私の分を準備してはくださいませんでした。その代わりにドーラ様が私にこの剣帯を贈ってくださったのです。
ですが私は、一度は受け取ったドーラ様の剣帯をこっそり森の中に捨ててしまいました。もちろん兄たちへの嫉妬や反発心もあったのだと思いますが、それ以上に編み目の不揃いなドーラ様の剣帯を何となく気味悪く感じていたからです。剣帯はそれまで使っていたものをそのまま使うことにしました。そして今の今までこの剣帯のことを思い出すことすらしませんでした。
私は夢中で家計簿を捲り、私がルッツ家に養子として迎えられた2年前の記述を探しました。そこにはドーラ様が私のために色々な品を準備してくださっている様子が書かれていました。
ドーラ様は私を迎え入れることを心から楽しみにしていらっしゃるようでした。同時に私に顔を見せることができないことへの苦悩と申し訳ない思いをさせることへの謝罪の気持ち、そして母親として振舞えるかどうかの不安が率直な言葉で書かれていました。
『アルベルトが少しでも喜んでくれるように、しっかり準備しておかないと! そのためにエマやガブリエラさんに色々聞いてみよう。』
私の入学する数か月も前から、ドーラ様はエマ母様に教わりながら私のための剣帯を編んでくださっていたようです。
『やっぱりあんまり上手くできない。どうして私の指は思った通りに動かないの。』
ドーラ様はどうやら手が不自由なようで、指先をうまく動かせないことへの悔しさが何度も繰り返し書かれていました。もしかしたら若い頃に患ったという瘡病の影響が残っているのかもしれません。
そんな中でもドーラ様は諦めることなく剣帯を作り上げていったようです。私がルッツ家にやって来る数日前には、幾晩も眠ることなく作業をしていたらしいことが、家計簿の記述から伺えました。
『やっと完成した! アルベルトが喜んでくれるといいなあ。』
その記述があった数日後、珍しく字が乱れている箇所がありました。それは間違いようもない、私が剣帯を森の中に捨てたあの日の記述でした。
『わたしはアルベルトのおかあさんになるんだ。マリーさんみたいなすてきなおかあさんに・・・。』
書かれていたのはその一言だけ。短い文のあちこちは、水滴で滲んだような虹色の染みが出来ていました。
その染みに新たな水滴がぽたぽたと落ちていきます。気が付いたとき私は大粒の涙を流していました。私は服の袖が汚れるのも構わず、ごしごしと顔を拭きましたが、涙は止まることなく流れ続けました。
私はいつの間にか家計簿を胸に抱きしめたまま、体を二つに折って号泣していました。自分の愚かさが悔やまれて悔やまれて、本当に情けなくて仕方がありませんでした。
その後、どれほど時間が経ったのでしょう。やっと泣き止んだ私が痛みを堪えて泣き腫らした目を開けてみると、部屋は暗闇に包まれていました。《小さな灯》の魔法が切れてしまったようです。私は魔法をかけなおして、短杖の先に新たな明かりを灯しました。
その時にはもう、リアの姿はありませんでした。私はドーラ様を起こしてしまったのではないかと心配になりましたが、寝台からは規則正しい小さな寝息の音が聞こえるばかりでした。
私は長持ちの中に剣帯を戻し、家計簿を書き物机にそっと置きました。そしてそのままドーラ様の寝室を出ようと立ち上がりました。するとその時、寝台の帳の奥から「アルベルト」と小さく私の名を呼ぶ声が聞こえました。間違えなくドーラ様の声です。
「伯母上様? 起きていらっしゃるのですか?」
私は寝台に向かって呼び掛けましたが返事はありませんでした。私はそのまま部屋を出ようと思いましたが、ふと寝台の脇にある仮面が目に留まりました。
その瞬間、私の脳裏に再び、空洞の顔をしたドーラ様の姿が浮かび上がります。私は慌てて頭を振り、それを振り払おうとしました。しかし幼い頃から幾度も私を苦しめた恐怖の幻影はなかなか消えてくれず、私の足を竦ませました。
ついさっきまでドーラ様の真情に触れ、自分の愚かさを心から悔いたはずなのに、私はまたドーラ様のことが気味悪く思えてしまうのでした。私はそれが情けなくて、また泣きそうになってしまいました。
ここで私は一つの決断を下しました。この機会にドーラ様の素顔を見てみようと思ったのです。
もちろん、ドーラ様が懸命に隠していらっしゃる素顔を見ることがどんな彼女を傷つけるか、分からないわけではありません。ですがこのままでは、私はいつまでもドーラ様と正面から向き合うことはできないと思ったのです。
寝台からは相変わらず規則正しい寝息が聞こえています。ドーラ様は深く眠っていらっしゃるようです。今ならばドーラ様は私に素顔を見られたと気が付かないはずです。
私は意を決して寝台の重い帳に手をかけました。そして暗い寝台の中に短杖を差し入れ、その上で眠るドーラ様の顔を照らし出しました。
寝顔を見た私は驚きのあまり、凍り付いたようにその場から動けなくなってしまいました。そして混乱する頭を懸命に回転させ、ようやく絞り出すように小さく声を出すことができました。
「・・・誰?」
それは私の心からの言葉でした。寝台で眠っていたのは、見たこともないほど美しい娘だったからです。
おそらく年齢は15,6歳。私のすぐ上の姉とさほど変わらないように見えます。虹色の光沢を放つ白金色の髪を寝台の上に波打たせた彼女は、実に安らかな表情で眠っていました。彼女の寝台の上には無数の煌めきが散らばっているのが見えます。
よく見てみればそれはピカピカになるまで磨き上げられた銀貨でした。彼女は寝台の上に置かれたたくさんの銀貨の上で、幸せそうな顔をして横たわっていました。
素顔を隠した伯母の姿を確認しようと思ったら、そこにいたのは銀貨に囲まれて眠る女神の様に美しい娘だった。
こんな荒唐無稽なこと、誰に話したって到底信じてもらえないと思います。私だって信じられないのですから。自分でも何を言っているのか訳が分かりません。でも不思議とそれを恐ろしいとも、不気味とも思いませんでした。もしかしたらそれは、眠っている彼女の様子が何となくエマ母様に似ていたからかもしれません。
この娘がドーラ伯母上様なのだということは、なぜか直感的に理解できました。ですが頭の片隅では「ドーラ様は50歳をとうに越えていらっしゃるはずだが、それはどうなのだろうか?」という私の理性(?)の囁きも同時に聞こえます。
私がその場から動けずにいると、目の前の娘がふと寝返りを打って私の方に体を向けました。私の魔法の光に反射して、彼女の髪が朝日の様な金色の輝きを放ちます。彼女は眠ったままにっこり笑うと小さく寝言を呟きました。
「アルベルト、私がちゃんと守ってあげるからね・・・。」
口の端から小さく涎を垂らし、嬉しそうにそう言う彼女の姿を見た時、私は唐突に笑いがこみあげてくるのを感じました。
この人はドーラ様に間違いありません。今まで散々悪夢にうなされ、恐れて逃げ回ってきたドーラ様の真の姿。それがこれか!
私はその場に崩れ落ちると腹を抱えて笑い始めました。同時になぜだか涙も流れて仕方がありませんでした。顔中涙と鼻水に塗れ、ゲホゲホと咳き込みながら、私はいつまでもいつまでも笑い続けました。
その側でドーラ様は涎を垂らしながら、「にへへ」と楽しそうに微笑んでいたのでした。
ドーラ様の寝室を出た私は冷たい水で何回も顔を洗った後、お礼とこれまでのことを謝罪するために養父様の執務室を訪ねました。養父様は書類仕事の手を止めて私の話をじっと聞いてくださいました。そして最後に無言で頷くと、私の髪に右手を当てて乱暴にぐしゃぐしゃとかき回しました。
私が執務室を出ると養父様にお茶を運んできたリアが扉の前で待っていました。リアは私に無言で一礼しました。どうやら私と養父様の話を聞いていたようでした。
相変わらず彼女は冷たい目をしていましたが、私の気のせいでなければその冷たさがほんの少しだけ緩んでいるように感じました。何というか、ゴミを見る目が野良犬を見る目くらいにはなった気がします。
その時私は、いつか彼女にも認めてもらえるよう頑張ろうと心に誓いました。
結局ドーラ様はその後二日ほど眠っていらっしゃったようでした。私が心配してリアにドーラ様のことを尋ねると、彼女は何でもないという顔で「いつものことです」とだけ言いました。
ドーラ様が目覚めるとすぐ、私は彼女に会いに行きました。今まで私が(ドーラ様視点では)入ったことのない奥向きへ急に訪ねてきたことに、彼女はとても驚いた様子でした。
「ど、どうかしましたかアルベルト? 何か困ったことでも?」
私は気恥しい気持ちをぐっと飲み込み、思い切ってドーラ様に話しかけました。
「あ、あの、実は今使っている剣帯がだいぶ傷んできてしまっているのです。それで、その、新しい剣帯を編んでいただけないかと・・・。」
私の言葉を聞いて、ベールの中でドーラ様が息を呑むのがはっきりと分かりました。
「そう、剣帯、ですね! ちょ、ちょうどよかった! 今、作っておいたものがあるんです。すぐに持ってきますね!」
彼女はそう言うと大慌てで自室に戻り、またすぐに帰ってきました。その手には真新しい剣帯が握られています。
「実は以前贈った時は、あまり上手く編めなかったのです。今回はそれよりはましになったと思うのですが、どうですか? エマには遠く及ばないと思いますけど・・・。」
彼女はそう言って私に剣帯を差し出しました。その手は小さく震えています。私は溢れそうになる涙をじっとこらえて、その剣帯をまじまじと見つめました。
まだ目の乱れが多少あるものの、丁寧に心を込めて編んでくださった様子が伝わってきます。心配そうに私を見つめるドーラ様に、私は泣き笑いの顔で言いました。
「こんなに素晴らしいものを贈っていただいて本当に嬉しいです。ありがとう存じます、ドーラ母様。」
意を決して言った私の言葉を聞いて、ドーラ母様はびくりと体を震わせました。そして無言のまま小さく頷くと、私に向かってさっと両手を広げてくださいました。私も無言のままその手の中に飛び込んでいきました。そっと頬を寄せた母様の胸からは、早鐘のような心臓の音が聞こえていました。
まだまだぎこちない感じでしたが、私たちはそうやってしばらくの間、体を寄せ合っていたのでした。
もうじき春になれば私は12歳になり、王立学校の3年生に進級します。3年生になればいよいよ領民を守る騎士として、誇り高い王国貴族として、専門的な教育を受けることになります。学年を越えた競争も激しくなるでしょう。でも私は誰にも負けるつもりはありません。
だって私には、私を信じて応援してくださる二人の母様がいるからです。誰よりも勇敢に領民のために戦ってきたエマ母様と、誰よりも深く領民を愛するドーラ母様。その二人の子にふさわしい人間になれるよう、私はこれからも努力を続けるつもりです。
二人の母様が育ち、愛したこのハウル領を守ること。そのために私はもっともっと領のことを知りたいと思っています。いつかドーラ母様の家計簿を私が引き継ぐその日まで、母様から多くのことを学びたいです。
すでに離れにある自室も引き払い、今は奥向きにある自分の部屋に移る準備を進めています。母様はそのことを殊の外喜んでくださいました。こうしてよく知ってみると、母様はとても素直で無垢な方なのだと思わずにはいられません。そのせいでしょうか。あの日以来、私はあの恐ろしい悪夢を一度も見なくなりました。
正直に言うと、まだまだ二人きりで話すのは少し気恥しいです。私が母様と呼ぶたびに、お互いに緊張しているのが手に取るように分かります。でもいつかこの様子を二人で屈託なく笑い話として話せるようになれたらいいな。今、私は心からそう思っているのでした。
ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。今は別のお話を書いていますが、久しぶりにドーラさんを書けて、とても楽しかったです。多くの方にドーラさんのお話を読んでいただいて本当に幸せです。ありがとうございました。