177 目覚め
やっと一話書けました。すごく眠いです。時間が欲しい・・・。
私は魂が凍り付くような寒気を感じて、ハッと目を覚ました。
薄暗い木の天井が目に入り、慌てて朽ち果てた寝台から身を起こす。枕元にある黒く錆びついた銀貨が、ざらりと耳障りな音を立てた。
「ここは・・・?」
腐り落ちた壁から差し込む光で室内を見渡す。ここは私の部屋だ。エマと暮らしたあの暖かい部屋。しかし室内のものはすべて朽ち果て、床は草に覆われていた。恐ろしい予感に襲われ寝台から降りると、私の体を覆っていた衣服の残骸が、ぱさりと砕けて床に落ちた。
「エマ、みんな、どこ?」
私は震える声でみんなを呼んだ。しかし返事はない。
あちこちに穴の開いた床を慎重に歩きながら、壊れた戸口をくぐって部屋から出る。しかしそこにあるはずの居間は壁も天井もなくなっており、朽ちたテーブルと椅子の残骸が転がっているだけだった。
マリーさんとエマが毎日火を起こしていたかまどは崩れ、錆びついた鍋が一つ床の上に転がっている。フランツさんが大切にしていた陶器の食器類は、割れて床に散乱していた。
恐ろしくなった私は家を飛び出し、言葉を失くした。そこにあるはずのハウル村はなくなっていた。
美しかった水路は、淀んだ汚水が溜まり腐臭を放つ溝に変わっている。私とエマが毎日行き来した水路の脇道も深い草に飲み込まれ、跡形もなくなっていた。
私は村のみんなの名前を呼びながら草を掻き分け、駆けた。しかしそこにあるのは黒い骨組みを晒す家々の骸だけだった。泣きながら走った私は、草の中にあったものに足を取られて転んだ。
倒れ込んだ私の目の前にあったのは、小さな石碑だった。ざっと血の下がる音が聞こえた気がした。耳の奥でどくどくと脈打つ音を遠くに聞きながら、私は恐る恐る身を起こし、周囲を見回した。
「これは墓標・・・?」
よく見れば草の間から小さな石碑が覗いている。それは見渡す限りどこまでも続いていた。衝撃で茫然としていた私は、カタカタという音で我に返った。それは私の奥歯が震える音だった。
「・・・寒い。」
私は両腕で自分の体を抱いた。その時、草の中で何かがキラリと光を放った。私は震えを堪えてそちらに駆け寄った。恐怖で脚がもつれ、何度も転びながら草を掻き分けてみる。
太陽の光を跳ね返して私を呼んだものは、朽ち果てた首飾りだった。私の涙を使って作ったエマの首飾り。それは小さな墓標に供えられているかのように、地面の上に無造作に置かれていた。
半ば土に埋もれた首飾りを掘り出してみると、銀の鎖はあっけなく崩れて落ちた。かつて虹色の輝きを放っていた石は今は光を失い、鈍く灰色の光を反射するばかりだった。
「エマ・・・!!」
私は小さな墓標に縋りついて泣いた。ここにはもう誰もいない。みんな行ってしまった。私を置いて時の彼方へ行ってしまったのだ。
体の震えが止まらない。まるで全身の血が凍り付いてしまったみたいだ。私はエマの名前を叫びながら泣いた。森に私の嘆きがこだまする。
しかし、それに応えてくれるものは誰もいない。ここにあるのは空虚。私を永遠に捕らえて離さない空っぽの檻。絶望が私の心を黒く染める。私の視界を闇が包み込んでいった・・・。
「おねえちゃん!ドーラおねえちゃんってば!!」
体を揺すられて私はハッと目を覚ました。ほとんど金色に見えるほど薄い茶色の髪に縁どられたほっそりとした顔が、心配そうに私を覗き込んでいる。
「エマ・・・?」
「おねえちゃん、大丈夫? すごくうなされてたよ。怖い夢でも見たの?」
「夢・・・。あれは夢だったのかしら?」
恐怖で体が震え、激しい動悸がする。体を起こして寝台に腰かけた私の両手を、目の前にしゃがんだエマがぎゅっと握った。エマの両手から伝わる温かさと力強さとで、次第に気持ちが落ち着いてくる。
「どんな夢を見たの?」
「あ、あのね。ハウル村がなくなって、エマや皆が私を置いていなくなっちゃう夢。」
私が震える声でそう言うと、エマは困ったように笑いながら私の横に腰かけた。こうして並ぶと、私たちの目線はちょうど同じくらいの高さになる。薄茶色のエマの瞳に私の顔が映っているのが見えた。
エマは私の頭をそっと自分の胸に抱き寄せてくれた。マリーさん譲りの豊かな二つのふくらみが、私の顔を包み込んだ。
「確かにハウル村はもうなくなっちゃったもんね。私もあの頃が懐かしくなることがあるよ。」
「エマ・・・。」
寂しそうにつぶやいたエマの顔を見上げると、エマは悪戯っぽい表情でくすりと笑った。
「あの戦いで村が壊れてからまだ5年しか経ってないのにね。ハウル村がすごい勢いで復興して、自由自治領ハウルに生まれ変わったのも、おねえちゃんや皆の頑張りのおかげだよ。ありがとうドーラおねえちゃん。」
エマは私の髪に指を差し込むと、耳の後ろをわしゃわしゃと掻きまわした。私は思わずふみゃあと声を上げてしまう。エマの指の動きが気持ちよくて、私はうっとりと目を瞑った。
ひとしきりそうやってエマが私を撫でているところに、グレーテちゃんが一昨年生まれた弟のアルベルトくんを腕に抱いてやってきた。
「あー、ドーラおねえちゃん! またエマおねえちゃんにあまえてる!! もう、朝ご飯が冷めちゃうでしょ!!」
眦を吊り上げて頬を膨らませるその様子は、マリーさんにそっくりだ。私とエマは顔を見合わせてにっこりと微笑みあった。そしてグレーテちゃんに謝ってから寝台から立ち上がった。エマが私の手を引いて言った。
「さあ行こう、おねえちゃん。お父さんが痺れを切らしちゃう前に朝ご飯を食べに行かなくっちゃ。」
私とエマが前よりもずっと広くなった食堂に入ると、お決まりの席に座ったフランツさんが「おう、ドーラにしちゃあ早かったな」とニヤリと笑いながら言った。
「さあさあエマ、ドーラ。食器を運ぶのを手伝っておくれ。」
お腹の大きくなったマリーさんが、かまどの前から私たちを呼ぶ。鍋の前にいた家妖精のシルキーさんが穏やかに微笑みながら、私に向かって丁寧に頭を下げた。私は洗面台で素早く顔を洗い身支度を整えると、エマと一緒に朝食の配膳をするために、ぱたぱたと動き始めた。
あの戦いからおよそ3か月後。冬の最後の月が半ばを過ぎた頃、私は長い眠りから目覚めた。人間の姿になってからこんなに長い間眠ったのは初めてのことだ。きっとそれだけたくさんの魔力を失っていたからだろう。
それから5年。私は村の人たちと協力して、壊れてしまった村を復興させるため頑張った。復興の陣頭指揮を執ったのは叛徒討伐の功績で令外子爵となったカールさんだ。
その後、見事に復興を果たしたハウル村は、自由自治領ハウル呼ばれるようになった。今はカールさんが領主を務め、住民代表数人と共に領を治めている。
「ふう、終わりっと。さあ、片付けも終わったし、私行ってくるね。」
「エマ、今日は研究室に行く日だっけ?」
「春から新入生を迎えるための準備があるんだ。無属性魔法研究室は平民の生徒に人気があるからね。」
朝食の片付けを終えたエマはそう言って笑うと、ローブを羽織り杖を持って《転移》して出かけて行った。
今は冬の最後の月。エマは3か月前に王立学校を卒業ばかりだ。今はハウル領の魔法守備兵団に所属しながら王立学校の研究室に残って、3年前に新設された平民科の講師を務めることになっている。
エマが出かけたのを皮切りにフランツ家の人たちはそれぞれ仕事に向かう準備を始めた。フランツさんは森へ、マリーさんと子供たちは農場へそれぞれ出かけていく。
私がシルキーさんの入れてくれたお茶をのんびり飲んでいると、フランツさんが声をかけてきた。
「ドーラもそろそろ店を開ける時間だろ。門が開く前に着いた方がいいんじゃないか?」
「雪が深いからあんまりお客さんは来ないんですけどね。じゃあ、行ってきます、シルキーさん。」
「はい、行ってらっしゃいませ、ご主人様。」
私は《転移》の魔法でハウル街道から少し入った路地の奥にある小さなお店に移動した。このお店は職人街の真ん中にある。フラミィさんの鍛冶工房やペンターさんの大工工房も通りをはさんだすぐ近くだ。
お店の扉には杖と薬瓶の描かれた小さな看板が付いており、その下には『ドーラ魔術工房』という文字が書かれている。
遠くから響いてくる槌音を聞きながら、看板の下の木札を『営業中』に変え、素朴な装飾のされた扉の取っ手に手をかざした。かちゃりという音と共に錠が外れ、扉がひとりでに開く。《保温》の魔法がかけられた温かい室内に入ると、魔法の明かりが灯って部屋の様子がよく見えるようになった。
小さなカウンターの向こうの商品棚には、小箱や瓶、袋が整理されて並んでいる。その奥にあるのは倉庫兼作業場。もちろん私のための倉庫や作業場ではない。私が留守の間、店を切り盛りしてくれる人のためのものだ。私には《収納》や《領域創造》の魔法があるからね。
湯沸かしの魔道具に魔力を流した私は、カウンターの内側に積み上げられた紙の束を手に取った。
「よし、注文されてた分を片付けて行こう!」
カウンターの中に整理された注文票を見ながら、私は巻物や短杖、魔法薬を次々と作っていった。素材の分量を量ったり細かい処理をしたりするのも、ここ数年でだいぶ上手にできるようになった。
なんといっても自分で髪を編めるようになったしね。これもすべては王立学校で働いた成果だ。まだ時々失敗することはあるけれど、その頻度もだんだん少なくなっている・・・気がする。
出来上がった商品の注文票には《自動書記》の魔法で印をつけ、倉庫に整理していく。
同時に作る時に使った素材も、帳面に記録していった。足りなくなった分を冒険者ギルドに発注するためだ。私の工房ではギルドに魔法薬を卸す見返りとして、素材を少し安く譲ってもらっている。
ギルド長のガレスさんがいつも言っている通り、ハウル領冒険者ギルドと私の工房は「持ちつ持たれつ」の関係だ。冒険者の人たちから魔道具の修理や作成の依頼を受けることも多い。もっとも雪の深いこの時期は、探索に出る冒険者さんたちが少なくなるので、私も割と暇になってしまうのだけれど。
自分で出来る分の仕事を片付けて出来上がりに満足したところで、工房の入り口に人の気配がした。倉庫から出た私の顔を見て、外套についた雪を払いながら三人がそれぞれに声をかけてきた。
「おはようございます、ドーラさん。」
「ドーラお姉ちゃん早いね。外はすごい雪だよ。」
「ドーラ姉ちゃん、邪魔するぜ!」
「おはようイワンくん、ハンナちゃん。今日もよろしくね。グスタフくんは依頼に来たの?」
私は人数分の自家製香草茶を準備しながら三人に返事をした。三人はハウル村生まれで、エマの幼馴染だ。私も彼らが小さい頃からよく知っている。
私のお店を手伝ってくれているイワンくんとハンナちゃんは、フランツ家の隣に住んでいる兄妹だ。エマより一つ上のハンナちゃんはエマの親友で、エマが何でも話せる大切な友達の一人。これまでは宿屋で働いていたけれど、今は私のお店の接客を担当してくれている。
イワンくんはカフマン商会で商人見習いとして働いていたけれど一人前になった後、私のお店を手伝うために商会から移ってきてくれた。カフマン商会との取引全般はもちろん、素材や商品の管理、会計などお店の細かいことを全部担当してくれて、とても助かっている。
お茶を準備した私とハンナちゃんが接客用のテーブルにつくと、グスタフくんが話し始めた。
「今日はギルドの依頼じゃないんだ。俺が個人的に依頼したいことがあってきたんだよ。」
今では一人前の冒険者となったグスタフくんが、少し照れくさそうに言った。
「個人的な依頼? じゃあ武器の修理とか、魔道具の注文かしら?」
「い、いやそうじゃねえんだけど・・・。」
グスタフくんが赤くなってハンナちゃんと視線を交わす。それを見たイワンくんが苦笑いしながら言った。
「グスタフはハンナのために髪飾りを注文したいんですよ。」
「え、髪飾り!? じゃあ、二人は・・・!!」
「実はそうなんだ。俺、ハンナと所帯を持つことにした。」
「おめでとう!!ああ、なんて素敵なのかしら!! じゃあ腕によりをかけて、最高の髪飾りを作るね!」
「い、いや、ドーラ姉ちゃん、それは困るぜ! 俺の稼ぎに見合ったものにしてくれよ!」
慌てるグスタフくんを見て、みんなが笑った。この王国では意中の女性に結婚の申し込みをするときに、装身具を贈る。
これまでのハウル領では木で作った手作りの櫛などを贈るのが一般的だったけれど、最近はグスタフくんのように職人に依頼する人も少なくない。私の工房にも簡単な守りの魔法やまじないを封じた装身具の注文が、時折来ている。
私はグスタフくんとハンナちゃんに、使う素材や封入する魔法など細かいことをいろいろと聞いていった。
「ふむふむ、その希望だと大体こんなものかな。全部で銀貨10枚になるけど、本当に大丈夫?」
銀貨10枚400Dといえば、一般的な家庭の食費およそ10か月分。かなりの高額だ。でもグスタフくんは胸を張って答えた。
「ああ、もちろん。ちゃんとこの日のために稼ぎを貯めてたんだ。」
得意げにそういう彼を、ハンナちゃんがうっとりした目で見つめている。いくら冒険者は一般の労働者に比べ収入がよいといっても、相当に思い切った買い物なのは間違いない。きっとそれだけ彼女への思いが強いのだろう。
私はイワンくんと顔を見合わせ「どうもごちそうさま」と笑い合った。
「ところでエマはこのことを知ってるの?」
私がハンナちゃんに尋ねると、彼女は残念そうに言った。
「実は一番に知らせようと思って、お店に来る前にフランツさんのお家に行ってみたんですけど、ちょうど入れ違いになっちゃって。」
「ああ、今日は学校で新入生を迎える準備をするって言って、早く出かけちゃったからね。後で《通信》の魔法で知らせておくよ。仕事が終わったら大急ぎで戻ってくるよ、きっと。」
私がそう言うと、グスタフくんが感心したように言った。
「王都で魔法を教えるなんて本当にすげえよな。エマは俺たちハウル領の誇りだよ。」
「王様から直々にお褒めの言葉をいただいて、今でも貴族と同等の身分なんだもん。小さな木こり村の娘でも、才能があれば立身出世できるんだって、証明してくれたんだよね。」
グスタフくんとイワンくんがそう言うのを、ハンナちゃんは何か言いたそうな顔で見つめていた。彼女はきっとエマからサローマ伯爵の子息ニコルくんとのことを聞いているのだろう。
エマとニコルくんは王立学校でもほぼ公認の仲だった。でもエマは身分差や将来の目標、続けている研究のことで悩んでいた。ハンナちゃんはエマがハウル領にいる間ずっと、その相談相手をしてくれていたのだ。
エマがニコルくんと結ばれれば、貴族以外の出身としては二人目の伯爵夫人誕生ということになる。ちなみに一人目は白百合姫ことニコルくんのお母さんのアレクシアさんだ。
ただ彼女の場合は、100年以上『妖精の眠り』に就いていたので出自がはっきりしていない。だから正真正銘の平民出身の伯爵夫人はエマが一人目ということだ。
ちょっと考えただけでもそれがどれくらい大変なことか容易に想像できる。その上、エマは人一倍ハウル領のことを大切にしている。エマは結婚して故郷を離れることに躊躇いがあるのだ。
でも実は私はそんなに心配していない。エマならどんなところでもきっと頑張って上手くやっていくはずだ。エマがハウル領を離れてしまうのは寂しいけれど、会おうと思えば《転移》の魔法で毎日だって会いに行ける。
それにエマとニコルくんの子供を見てみたい気持ちもあるしね。
私がニヤニヤしながらそんなことを考えていたら、いつの間にか三人の話題は二人の王子の結婚のことになってしまっていた。
「春になったらミカエラ様も、リンハルト殿下と結婚するんだよな。」
「ウルス殿下とカッテ家の姫様の婚礼のお祝いも一緒にするんでしょ? 王家の婚礼のお祝いが二組同時にあるなんて、本当におめでたいことよね。ハウル街道も祝賀の祭りに向かう人たちで一杯になるわ、きっと。」
「そりゃあ絶好の稼ぎ時だな。隊商の護衛依頼や素材の発注なんかが一気に増えそうだぜ。」
「うちの工房にもたくさん注文が来そうですね、ドーラさん。」
私はイワンくんの言葉に同意してにっこりと笑った。和気藹々と話をする三人の様子を見ていると、心が浮き立つような嬉しさを感じる。希望に満ちた彼らの目は、未来を切り開いていこうとする人間の美しさが溢れていると思った。
「グスタフくんとハンナちゃんのお祝いもするんでしょ?」
「ああ、ハンナの家ですることになってるよ。フランツ家の人たちも来てくれると嬉しいぜ。」
「もちろん行かせてもらうよ。とっておきの甘いお菓子を準備するから期待しててね。」
私がそう言うとハンナちゃんが目を輝かせた。妹のその様子を見たイワンくんが私に言った。
「ドーラさん、スクラ花蜜の在庫がそろそろなくなりそうですよ。」
「え、秋にたくさん生成したのに、もうなくなっちゃったの?」
「それこそ婚礼の祝い菓子用に、カフマン商会から大量の発注があったんです・・・僕、ちゃんと言いましたよね?」
「えっと、そうだったかしら・・・?」
私がてへへと笑うと、イワンくんは困ったように笑った。
「やっぱり在庫を確認してなかったんですね。」
「あの・・・はい、その通りです。ほんとにゴメン。私、今から農場に素材の買い付けに行ってくるね!」
私がそう言って席を立つと、グスタフくんも「じゃあ、俺もそろそろギルドにもどるわ」と言って立ち上がった。私は店番をしてくれる二人に今朝作った分の商品の説明をし、グスタフくんに《雪除け》の魔法をかけてから、《転移》で王都東門外にある農場へと移動した。
東門の外は私の胸の高さくらいまで雪が降り積もっていた。冬が終わりに近づいているとはいえ、まだまだ毎日のように雪が降り続いているからだろう。当然、農場も閑散としていて人の気配は全くない。動いているのは除雪用の土人形くらいだ。
私は半仮面と長衣をしっかりと押さえ、雪の壁の中を通る小道を辿って人が居そうな場所、家畜舎へと移動した。石の土台と木の屋根を持つ大きめの建物が、王都の東を守る外壁に沿ってずっと遠くまで並んでいる。
一番近くの家畜舎に近づくと、思った通り人の気配がする。私は人間用の出入り口の扉を叩いて、来訪を知らせた。
「ああ、ドーラさん! お久しぶりですね。今日は農場の視察ですか?」
豚の世話をしていた顔見知りの農夫さんが私の顔(といってもした半分しか見えていないけど)を見て笑いながら尋ねてきた。他の人たちも、手を休めて挨拶をしてくれる。
「いいえ、スクラ花蜜の素材を買い付けに来ました。代理人さんはどこにいらっしゃいますか?」
親切な農夫さんは飼料用のルウベ大根の加工を中断して、私を代理人さんのところに連れて行ってくれた。恐縮する私に彼は笑いながら答えてくれた。
「このくらいお安い御用ですよ。ドーラさんのおかげでルウベ大根を安全に栽培できるようになったんですから。」
「いやあ、本当に偶然なんですけどね、あはは・・・。」
彼の言葉に私は曖昧な笑顔で答えた。ルウベ大根は『飢饉大根』とも呼ばれる作物だ。栄養価が高く、荒れた土地でもほぼ年間を通して栽培できる野菜なのだが『腐蝕地虫』という魔虫を呼び寄せてしまう性質がある。
そのためこれまではほとんど栽培されることはなく、見つけたら危険植物としてすぐに駆除する対象だった。
でもノーファさんという農夫さんとの出会いをきっかけに、私とカフマン商会が共同で栽培実験を行うことになったのだ。王都から少し離れた場所に実験用の隔離農場を作り、ルウベ大根を栽培していた。
ついでに同じような危険植物であるスクローラ草も栽培していた。こちらはものすごい甘みを持つ蜜を出すけれど、花の香りを吸い込んだだけで幻覚と眠気に襲われ昏睡状態に陥るという猛毒草。別名は『死の揺り篭』だ。
私は二つの植物の周りに《領域創造》で壁を作り、農場外の人に影響が出ないよう気を付けていた。でも5年前のハウル村襲撃の時に、私が深い眠りに落ちたせいで《領域》を隔てている壁が無くなってしまった。
その上、王都動乱で日頃巡回している祈祷師さんたちが長い間来られなかった。実験農場の中は誰も立ち入ることのできないほど危険な状態になってしまったものと皆は考えた。しかしどうすることもできない。
目覚めた私は代理人さんからの知らせを受けて、すぐに祈祷師さんたちやノーファさん、それにスクローラ草の花蜜毒を研究していた王立学校のベルント学長と一緒に実験農場に向かった。
ところが花蜜毒を避けるための《毒除け》の魔法を何重にもかけて実験農場に踏み込んだ私たちが見たのは、雪の下から顔を覗かせる丸々と太ったルウベ大根だった。
その後のベルント学長の研究で、スクローラ草の花蜜毒は腐蝕地虫を遠ざける効果があることが分かった。まさにいくつもの偶然が重なった結果の発見だった。
さらには一昨年、ベルント先生はエマとの共同研究によりスクローラ草の花蜜毒を無効化する魔術式の開発に成功した。それを元に気化させて吸い込む解毒薬を作り出すこともできた。さすがは私のエマ。かわいいだけじゃなく、本当に賢いよね!
この発見は王国の食糧事情を一変させた。ルウベ大根を安全に栽培できるようになったことで、冬の食糧を安定的に確保できるようになったからだ。またそれだけでなく家畜の飼料を得ることができるようにもなった。つまり、秋に大量に家畜を屠殺しなくてもよくなったのだ。
農家の人たちは年間を通じて計画的に家畜を育てられるようになり、食肉や卵をより多くの人が安価で食べられるようになった。さらにはルウベ大根と麦、そして豆との『輪作』というのが出来るようになったそうで、狭い土地でも効率的に作物を育てることができるようになったそうだ。これは考案者のノーファさんの名前をとって、ノーファ農法と呼ばれている。
また、スクローラ草の花を加工して作るスクラ花蜜が砂糖の代用品として出回ることになり、王国に空前のお菓子ブームが巻き起こった。ただし、このスクラ花蜜は蜂蜜の数百倍の甘さを持つにもかかわらず、栄養が全くないという欠点がある。
ベルント先生は何とか栄養価を高めることができないかと苦心しているらしいけれど、なかなかうまくいかないらしいです。まあ、元が毒だからこれは仕方がないよね。
代理人さんから必要な分のスクローラ草の花を売ってもらった後、私は再び工房の作業場に《転移》した。
「おかえりなさいドーラさん。さっきからお友達が待ってますよ。」
倉庫で検品中のイワンくんにそう言われて店に顔を出すと、接客用のテーブルで香草茶を飲んでいる二人と目が合った。
「おお、ついに巡り会えたな我が同胞よ。これが運命の導きというものか。」
「やあドーラ、またお邪魔させてもらってるよ。」
芝居がかった調子で私に言ったのは、黒曜石のような美しい髪と瞳を持つ浅黒い肌の美女。そしてのんびりと私に挨拶をしたのは、その美女よりも二回り以上大きな体をした穏やかな顔の青年だ。
「いらっしゃいフェルス。それにヴリトラも。それ、また新しいお芝居のセリフ?」
「うむ。この間、ニーナと見てきた新作の舞台のな。いやいつにも増して素晴らしかったぞ。あのターニアという娘はいずれもっともっと素晴らしい演技者になるはずだ。まだ幼い故、主役をすることはできないが、私の目に狂いはない。まず何といっても・・・。」
むふうと鼻息荒くしながらヴリトラが熱弁するたび、彼女の黒い衣装がシャラシャラと音を立てる。王都のドゥービエ工房でお針子として働くニーナちゃんが作ったこの衣装は、細かいレースが全体に施されたとても豪華なものだ。
銀と高純度の青い魔石が装飾として使われており、まるで星空を纏っているみたいに見える。
「ふふふ、ヴリトラは相変わらず人間のお芝居に夢中なんだね。でも僕もその気持ちはわかるなあ。人間の作るものってとっても面白いものねぇ。」
フェルスは細い目をさらに細めながらゆっくりとそう言って、ハンナちゃんが出してくれた来客用のお菓子を手に取った。これは先日、私が『熊と踊り子亭』で買ってきたものだ。私もそれに同意して二人と一緒にテーブルに座り、ハンナちゃんの出してくれたお茶に口を付けた。
この二人は私の古い友達である黒い竜と大地の竜だ。今はどちらも私が教えた《人化の法》で人間の姿に変化している。ただし私とは違って、本当の竜の体を直接変化させたのではなく、魔力で作った分身体なのだけれど。
私の危機に駆けつけてくれた二人のところに、エマを連れてお礼を言いに行ったとき、私は二人にお願いされて《人化の法》をはじめとする人間の魔術をいくつか教えた。
二人はそれを元に、自分の魔力を使って人間型の分身体を作りだした。これは、暗黒竜ヴリトラは闇の種族が暮らす世界を、大地の竜フェルスは妖精郷をそれぞれ守るという役目があり、本体を自由に動かすことができなかったからだ。
分身といっても実際の意識は本竜そのもので、本来の竜の体ほどではないにしろ、魔法を使うことなども問題なく出来る。
分身体を操作している間、竜の本体は休眠状態になってしまうため、あまり長い時間《人化》することはできない。せいぜい3日くらいが限度だそうだ。それでも人間の分身を得てからというもの、二人はこうやってちょくちょく私のところに遊びに来てくれているのだ。
ちなみに大地の竜にフェルスという名前を付けたのはエマだ。何でも王国の古い神話に出てくる山の神様の名前らしい。大地の竜はこの名前をとても気に入っていて、いつも妖精たちに自慢しているんだと妖精騎士がこっそり私に教えてくれた。
雪が深いせいでほとんどお客が来ることはなかったため、午前中の間、私たちはのんびりと互いの近況を語り合った。そして皆でお昼ご飯を食べた後、ヴリトラはドゥービエ工房へ、フェルスはルピナスのところへ行くと言ってそれぞれ帰って行った。
私は店番をハンナちゃんとイワンくんの二人に任せ、作業場でスクラ花蜜の生成作業に没頭した。そのおかげで夕方には十分な量の花蜜を確保することが出来た。最後に二人と共に店の片付けや今日の売り上げと経費の精算などをして、花の甘い香りの漂う工房を閉めたときには、もうすっかり辺りは暗くなってしまっていた。
私は二人に《雪除け》の魔法をかけた後、フランツ家の自分の部屋に《転移》した。部屋から出た私を、先に帰ってきていたエマが迎えてくれた。
「おかえり、ドーラおねえちゃん。今日はどうだった?」
エマは昔とちっとも変わらない笑顔で、私にそう尋ねた。私たちは今日一日にあった出来事を互いに話し合った。私はエマの様子を見ながら、エマが変わらないでいることへの感謝をせずにはいられなかった。
5年前の春。襲撃後の長い眠りから目覚めてすぐに私は、自分が本当は竜であることをエマに告げた。エマと一緒にその告白を聞いてくれたのは、フランツさんとマリーさん、そしてカールさんだ。
私は4人に自分の正体を打ち明け、それまで皆を騙していたことを謝った。それはとても勇気のいることだった。話している間ずっと、声も体もひどく震えていたのを今でもはっきりと覚えている。
でも私は私を愛してくれる人に対して、それ以上自分を偽ることができなかったのだ。その時は気が付かなかったけれど、私が正体を隠していたせいで村が酷い被害を受けたのではないかという自責の気持ちがどこかにあったのだと思う。
私は皆に別れを告げる覚悟で、正体を打ち明けた。4人はそれを聞いてひどく驚いていた。けれど誰も私を責めようとしないばかりか、温かい言葉で私を包み、受け入れてくれた。
「お前が人間でないからって、今更何が変わるもんでもない。そうだろ、マリー。」
「この人の言う通りさ。馬鹿なこと考えるんじゃないよドーラ。あんたはあたしたちの大切な家族なんだからね。」
フランツさんとマリーさんはそう言って、震える私を両側から支えてくれた。
「打ち明けてくれてありがとう。ドーラおねえちゃんの正体が何だとしても、私の世界でたった一人の大切なおねえちゃんだよ。」
エマはそう言って私を強く抱きしめてくれた。そして。
「ドーラさん。あなたは私が剣を捧げると誓った相手です。改めてお願いします。私の妻になってください。」
カールさんは私の前で片膝をつき、胸に手を当てて私を見上げた。私は「はい」と答えたかったけれど、嬉しい涙で胸がいっぱいになってしまい言葉が出なかった。だから彼の目を見つめて、一つこくりと頷いた。
あれから5年が経ったけれど私はそれまでと変わりなく、いや、それまで以上に皆に愛されていると感じることが多くなった。
はじめはただただ興味本位で人間を知ろうとした私を、皆はこんなにも愛してくれている。それが本当に嬉しい。
私は永遠の時を生きる不滅の存在だ。いつかは私を愛してくれる皆と別れなくてはならない日が必ずやってくる。今朝私が見たあの恐ろしい夢のように、それは私を暗い絶望の檻に閉じこめるかもしれない。
でも私は信じている。きっと私は大丈夫だ。たとえ皆と別れたとしても、彼らのくれた愛は私の中に永遠に残る。そう、信じているのだ。
部屋着に着替えた私はエマと一緒に皆の待つ食堂へ向かった。マリーさんが、フランツさんが、そしてエマの兄妹たちが私に笑いかけてくれる。同じように笑った私の目からはなぜか涙が一粒零れて落ちた。
私は、マリーさんが作ってくれた新しい服の正面に付けられた大き目のポケットからハンカチを取り出し、顔をぐしぐしと拭った。そして夕食の準備をするマリーさんの手伝いをするため、エマと共に動き回ったのでした。
読んでくださった方、ありがとうございました。