表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Missドラゴンの家計簿  作者: 青背表紙
175/188

169 怪物

書いてから思いましたが、今回あまり必要なかったかも。書き直すかどうか迷いましたが、投稿することにしました。説明が過ぎるような気がしています。

 黒い法衣に身を包んだ乙女たちが、武器を手にドーラの下へ殺到していく。


 ドーラの封じられた光の柱は今や広場をすべて飲み込み、今にもはち切れるのではないか思うほどに大きくなっていた。


 彼女たちは無表情のまま聖女教の聖句を唱えると、手にした武器を光の柱めがけて振り下ろした。すべてを飲み込み、何物をも寄せ付けなかった光の柱は、しかしその武器を破壊することはなかった。


 武器が振り下ろされるたびに、光の柱の表面に薄い亀裂のような光の線が走る。そしてそれは次第に大きくなっていった。ドーラの魔力によって作られた結界が、乙女たちの攻撃によって少しずつ少しずつ削り取られていく。


 このまま一か所でも崩れてしまえば、そこから溢れた破壊の光によって結界は一気に崩壊し、多くの人の命を飲み込む破壊の波となって広がっていくだろう。


 そうなれば当然、乙女たちも無事では済まない。だが正気を失くした彼女たちは命じられるままに、ただ一心に武器を振り下ろし続けた。











「まったく面倒なことだ。あの枢機卿にんげんどもがもう少し利口であれば、わざわざ儀式を執り行った者たちを連れてくるなどという、こんな手間をかける必要もなかったのだが。」


 黒衣の老人は、倒れ伏す衛士たちを見下ろしながらそう呟いた。


 バルドン率いる衛士隊は、乙女たちを止めるため老人に挑んだ。しかし衛士隊の攻撃はすべて見えない壁に阻まれてしまったのだ。


 彼らはそれでも諦めず勇敢に立ち向かったが、老人の放った黒い火球の魔法によって全て打ち倒されてしまった。老人は息絶えた彼らの様子を確かめようと、満足げな表情をしながら彼らに近づいた。






「・・・死んでおらぬだと?」


 衛士たちを覗き込んだ老人は不愉快気に呟いた。衛士たちは全身を炎に巻かれ酷い傷を負っていたが、死んではいなかった。殺すつもりで魔法を放った老人は、じっと自分の手と衛士たちを見比べた。そしてあるものに気付いて、静かに呟いた。


「そうか、お前のせいか。」


 老人は衛士たちに庇われるようにして地面に倒れている白い法服姿のハーレに近づいた。


「瞬時にこれだけの人間を守る防御の魔法を使うとは、なかなかの神力だ。」


 老人はその枯れ枝のような右手で倒れたハーレの首を掴んだ。彼女は「うっ」と小さく呻き声を上げた。老人は自分の倍ほどもある彼女の体をそのまま持ち上げて、その体をじっくりと眺めた。


「体も丈夫なようだし、よい素体になりそうだ。私が手ずから殺し、あの役立たずエリザベートの代わりしてやろう。」






 老人の右手に力がこもる。痛みで目を覚ましたハーレはその手を払いのけようとしたが、万力のように締め付けてくる指を振りほどくことは出来なかった。手で喉を掻きむしり、足を必死にばたつかせる。やがて彼女の目鼻から血が溢れ出した。


 その時、老人の後ろから叫び声が上がった。


「止めろ!! ハーレを放しやがれ!!」


 ハーレの苦悶の声で目を覚ましたフランツは必死の思いで立ち上がると、自分の斧を老人めがけて勢いよく投げつけた。全身に火傷を負いながらも、フランツの全精力を込めた斧は回転しながら凄まじい勢いで老人に迫った。


 だが老人はそれを馬鹿にしたような目で眺めただけだった。自身を守る結界が木こりの斧などに破られるはずがないと分かっていたからだ。


 しかしパリンとガラスの砕けるような音が響いたかと思うと、斧は結界を破壊し老人めがけて一直線に飛んでいった。


 老人は慌てて左手を上げて斧を防ごうとしたが、勢いの付いた重い木こりの斧を止めることはできなかった。斧は老人の左手を粉砕し、その左半身に深々と突き刺さった。






 老人が醜い叫び声を上げて、ハーレを手放した。地面に落ちた彼女は咳き込みながら、びくびくと激しく体を痙攣させ、気を失った。


「な、なんだ、この斧は!?」


 老人は自分の体に突き刺さった斧を抜こうとしたが、斧に触れた途端、手の先が崩れ去ってしまった。


「ぐうう、この魔力!! 私の力を寄せ付けぬとは!!」


 老人が忌々し気に叫ぶと同時に、フランツの鬨の声が上がった。彼は全速力で老人に体当たりした。フランツを払いのけようとする老人だったが、彼はそれよりも早く斧に手をかけ、丸太を叩き割るように斧を一気に引き下ろした。


 老人の下半身が二つに裂ける。老人の悍ましい悲鳴を聞きながら、彼は掴んだ斧を素早く振り上げ、そのまま老人の首めがけて横薙ぎに振り下ろした。まるでよく乾燥した枝を落としたかのように老人の首は易々と切断され、胴体から離れた。






 フランツは斧を手にしたまま、その場に崩れ落ちるように倒れ、大の字になって転がった。耳の奥で自分の心臓の音が響いている。傷ついた体を無理矢理動かしたため、もはや限界だった。彼は間もなく激痛で意識を失った。


 彼が気を失った直後、転がっていった老人の頭が突然黒い炎を吹き上げて燃え上がった。程なくして炎が消えた後、そこには気味の悪い人型の生き物が立っていた。


 腐った肉のような色をした肌とそれを所々覆う黒い鱗。髪のないずるりとした頭部には、耳や鼻がなく、代わりに瞼のない眼球が無数についている。そして本来、口があるべき場所にあるのは蛇のように蠢く無数の触手があった。


 腕や脚には鳥の羽毛がまばらに生えている。水かきのある三本指の手と、猛禽に似ているがどこかねじくれた足先。まるで様々な生物をでたらめに混ぜ合わせてできたような姿だ。






 その怪物は黒衣の胴体に刺さったままのフランツの斧に目を向けると、口の触手をうぞうぞと動かして呪文を詠唱した。


「「「蝕み滅ぼせ。《腐蝕の呪言》」」」


 何人もの人間が同時に声を発したように、いくつもの音で詠唱がなされた。ドーラの作った魔法の斧は輝きを失い、たちまち黒い塵となって消え去った。


 怪物はぶるっと体を震わせた。斧を破壊するため、たったあれだけの多重詠唱でほとんどの魔力を使い果たしてしまったのだ。怪物は失った力を少しでも取り戻すため、黒衣の胴体に右手を伸ばした。三本の指の先から伸びた触手が触れると、胴体はブクブクと泡を立てて溶け崩れ、黒い液体となって触手に吸収された。


「計画の最終段階になって、予想外のことばかりだ。本当に忌々しい。」


 怪物は不確定要素に悩まされ続けたここ数年間を振り返った。大願を果たすため、長年に渡って積み上げてきた道筋に、突然現れた謎の存在。それを排除しようと暗躍すればするほど、状況はどんどん悪化していったのだ。






「だがこれで終わりだ。我らの体を傷つける得るものは消えた。間もなく破壊の光が解き放たれる。この地に死と嘆きが満ちるだろう。そうなれば我らからすべてを奪い去ったあの連中が、必ず姿を現す。その時に備え、今は失った力を戻さねばならぬ。」


 怪物の無数の目が気を失ったハーレに向けられた。


下僕しもべにするつもりだったがまあよい。力を取り戻す方が先だ。他にも素体の候補はいることだしな。この女は、生きたまま心臓を引きずり出し、生き血と共に魂と魔力を食い尽くすとしよう。」


 怪物はハーレに近づくと彼女を引き裂くため、水かきのある三本の指を彼女の胸に伸ばした。















「ニコル! ねえニコル、起きてってば!!」


 小さな手が気を失ったニコルの髪を引っ張り、耳をつねり、ほっぺたをぽかぽかと叩いた。


「ドーラちゃんが大変なんだよ! エマちゃんの村がなくなってもいいの!?」


 エマの名前が混濁したニコルの意識を覚醒させた。彼は目を開けるなり屋根の上で飛び起きた。しかし直後、激しい頭痛と猛烈な吐き気に襲われ、その場に蹲って激しく嘔吐した。


「うわっ!! ばっちいな、もう!!」


 彼と魔力を共有している森の妖精ルピナスはその言葉とは裏腹に、心配そうに彼の周りを飛び回った。黄色と青の色鮮やかな衣装を着た彼女の蝶の羽根が震えるたび、金色の光の粒が飛び散りニコルの体に吸収されていく。






「ありがとう、ルピナス。おかげでだいぶ楽になったよ。」


 胃の中のものをすべて吐き戻したことと、ルピナスが魔力を分けてくれたことで顔色を取り戻したニコルは、汚れた口を拭いながら彼女に礼を言った。


「んー。いいのいいの。服と名前のお礼なんだから。そんなことよりドーラちゃんが大変なんだよ!このままじゃみんな死んじゃうよ!!」


 ルピナスはニコルが気を失っていた間のことを説明してくれた。


「ドーラちゃんの結界を攻撃してるあの人間たちを何とかしないと! ニコル、ぱぱっとやっつけちゃってよ!」


 ルピナスが拳を握って彼の目の前にその小さな手をシュシュっと突き出した。


 出会った頃はもっと穏やかな子だと思ったのに、ずいぶん過激になっちゃった。これってやっぱり僕の影響なのかな。それともお父様のせいだろうか。






 ニコルは苦笑しながら彼女に返事をしようとした。だがその時、視界の端で黒い炎が吹き上がるのが見えた。


 瓦礫だらけのハウル村北門前の広場にたくさんの男たちが倒れている。そして少し離れた場所には、不気味な姿をした怪物が立っていた。


「うっわ気持ち悪!! 何なのあいつ?」


 ルピナスは体をぶるりと震わせてニコルの肩に飛び乗った。怪物は横たわった白い法服姿の女性にその手を伸ばそうとしている。ニコルはすぐに屋根から飛び降りると、怪物めがけて全速力で駆け出した。


「あっ、どこ行くのよニコル!!」


「ルピナス!! 君はドーラさんのところに行ってくれ!! 僕はあの人を助ける!!」


 ニコルは剣を抜き払うと、後ろも見ないで駆け出した。


「もう!! あんな人間なんか放っておけばいいのに!!」


 ルピナスは腰に両手を当てて頬を膨らませた。しかしすぐにその場を飛び立つと、金色の光を振りまきながらドーラのところへまっすぐに向かっていったのだった。






 ニコルは全力で大地を蹴る。水の助けを得られないため、水上を走る時のような速度は出ないけれど、それでも父親であるサローマ伯爵と共に鍛錬しているため、同年代の少年に比べれば信じられないほどの速度が出ている。


 しかし瓦礫だらけの街道を走るのは、そんな彼にとってもかなり困難なものだった。どうか間に合ってくれと祈るような気持ちで走る彼の目の前で、怪物は白い法服姿の女性の胸に手をかけた。


 白い法服の上にジワリと赤いシミが広がり、女性の体が大きくのけ反って痙攣する。魔法で攻撃するにもまだかなりの距離がある。間に合わない!!






 絶望的な気持ちでその光景を見つめるニコルの視界の端で、何かがきらりとが光った。その途端、怪物が女性から離れ、女性は再びぐったりと地面に横たわった。女性と怪物の間のレンガの上に、鋭い音と共に突き立ったのは折れた槍の穂先だった。


「あの見えない壁は、その姿では使えないようだな!!」


 槍の穂先を放った大柄な男が怪物に向かって吠える。男の服は焼け焦げ酷い有様になっているが、よく見れば王国衛士隊の士官服のようだ。おそらくこの村の街道を守る衛士隊の隊長だろう。


 彼は倒れた衛士の傍らに落ちていた槍を拾い上げると、怪物に向かって猛然と突っ込んでいった。だが怪物はその見た目に反して、素早い動きでその攻撃を躱した。


 距離を取ろうとする怪物を隊長の槍が的確に追っていく。槍にはあまり詳しくないニコルでも、彼の槍の技量が並外れて高いことがすぐに見て取れた。






 しかし彼は酷い傷を負っているせいで、本来の力を出し切れていないようだ。怪物は徐々に彼の間合いから遠ざかって行った。ほんの一呼吸か、二呼吸ほどのわずかな距離。だが怪物にはそれで十分だったようだ。


 ルピナスの影響で鋭敏な魔力感知ができるようになったニコルには、怪物の魔力が高まるのがはっきりと分かった。彼は咄嗟に自分が最も得意とする呪文を唱えた。


「《惑乱の水鏡》!!」


「「「《闇の槍撃》」」」


 ごくわずかにニコルの魔法の方が早く発動した。隊長の姿が蜃気楼のように滲んでその場から消え、同時に複数の隊長の幻影が怪物の周囲に出現する。幻影たちは皆、同じ動きを同じ姿で怪物に肉薄していった。


 直後に出現した無数の黒い槍が、隊長の幻影たちを引き裂いた。全ての幻影が消えると、何もない場所から突然隊長が姿を現し、怪物に鋭い一撃を放つ。しかし踏み込みが甘かったため、彼の槍は怪物の右手を刺し貫いただけだった。






 その槍を怪物の右腕から伸びた触手が絡めとった。まさに一瞬の出来事。槍を握る隊長の両手に触手が迫る。


 しかしそれは、ようやく駆け付けたニコルによって防がれた。ニコルは触手に侵食されつつある槍を剣で断ち切った。隊長は槍の柄を投げ捨てて怪物と距離を取り、彼と入れ替わってニコルが怪物と向かい合った。触手に侵食された槍の穂先は、ぐずぐずに腐り落ち怪物に吸収されてしまった。


「助太刀します。その間に回復を!」


「かたじけない。感謝する、ニコル殿!」


 隊長が自分の名前を知っていたことに驚いたがそれを飲み込み、ニコルは怪物と向かい合った。その間に隊長は腰の物入から薬瓶を取り出し、自分と白い法服の女性、そして手近にいた衛士たちに回復薬ポーションを使った。






「次から次に湧いて出おって。目障りな連中だ。」


 怪物は苛立たし気に呟いた。目を覚ました衛士たちが怪物の姿を見て声を上げる。怪物は衛士たちに魔法を放とうとしたが、ニコルはさっと剣で斬りかかりそれを妨害した。


「目を覚ました者は傷ついた者に回復薬を使え。動けない者を北門に退避させるんだ、急げ!!」


 バルドンは新たな槍を拾いながら、目を覚ました衛士たちに指示を出した。配下の衛士や村の男たちの力ではこの怪物の相手は難しいと判断した結果だった。


 衛士たちは素早く動き回って次々に仲間を回復させ、その場から離れていった。動ける程度に傷が回復したバルドンは、ニコルと共に怪物に向き合った。






「私もお手伝いいたします。」


 その言葉と共にバルドンの後ろに立ったのは、聖女教司祭のハーレであった。彼女の白い法服は血で染まり、心臓の部分には溶かされたような穴が開いて、胸の谷間が露出していた。


 足取りはしっかりしているが、顔色はまだよくない。傷は塞がったが、失った血が戻っていないからだろう。


 バルドンはその様子を見て一瞬ためらったが、すぐに「頼む」と言って槍を構えた。ハーレの体は心配だが、この怪物を倒すためには彼女の神聖魔法が大きな力になる。そう思ったからだ。


 ニコルとバルドンがじりじりと間合いを詰めるが、怪物はそんな二人の様子など何事もないというように立っていた。


「間もなく破壊の光が解き放たれ、全ての者が滅ぶというのに愚かなことだな。」


 口の触手が蠢き、何人もの声が重なったような声が響いた。その悍ましさに、ハーレは背筋がゾワゾワと粟立つのを感じた。






「さっきから逃げ回ってばかりのくせに、ずいぶんと上から物を言うじゃないか、化物野郎!」


 バルドンが怪物を挑発しながら素早く槍を繰り出した。傷が癒えたことでその攻撃は鋭さを増している。それに合わせてニコルが水の幻影魔法を詠唱した。三人の姿が霧に包まれたようにぼやける。


 魔法が発動したのを確認したニコルはバルドンと連携して怪物に斬りかかった。この幻影魔法は敵の攻撃を逸らす効果があるが、術者以外の味方同士でも作用してしまう。ニコルはバルドンの動きに合わせて立ち回り、怪物を追い詰めていった。


 二人の攻撃を怪物は腕を使って逸らしている。だが積極的に攻撃しようとはしてこなかった。






 さっき怪物が言った通り、間もなく破壊の光が解放される。このまま避け続けているだけで、怪物にとっては十分なのだろう。それに先ほども距離を取って魔法で攻撃をしていたし、近接戦闘では有効な攻撃手段がないのかもしれない。


 ただ脅威なのは先程バルドンの槍を飲み込んだ触手の攻撃だ。生身であの触手に捕まったら、おそらくひとたまりもない。バルドンもそれが分かっているようで、槍を巧みに操り相手に掴まれないように動いている。


 バルドンが繰り出した腕への攻撃は、まったくダメージを与えられていなかったように見える。しかし今は二人の攻撃を躱しているのだから、武器の攻撃が全く無効ということではないのだろう。きっとどこかに急所があるのだ。


 ニコルはバルドンに密かに目配せを送った。バルドンもすぐにそれを理解してくれたようだ。鋭い槍の連続攻撃を繰り出して、怪物と距離を詰めた。その隙にニコルが体を低くし接近し、素早く怪物の頭めがけて剣を振るった。






 しかしそれは怪物に気付かれていた。怪物は頭を逸らしてニコルの剣を躱す。直後、怪物の脚から伸びた触手がニコルを襲った。


「我が敵を撃て!《鉄槌》!」


 ハーレの放った神聖魔法が怪物の触手を叩き潰した。ぶしゅっという音と共に触手から液が噴きあがり、ニコルの服を濡らす。その部分はたちまち黒く変色して腐り落ちた。


 ニコルの剣を躱し、触手で攻撃したことでほんの一瞬、怪物の動きが止まった。その隙をバルドンは見逃さなかった。


 鋭く繰り出された槍が怪物の側頭部を貫いた。怪物は醜い断末魔を上げた。ぶるっと震えた後、怪物の体がどろどろと溶けだす。






「やった!!」


 ニコルは思わず声を上げた。それに対しバルドンが「下がれ!!」と鋭く怒鳴る。慌てて剣を引き、後ろに飛び退くニコル。


 溶けだした怪物の体液に触れた槍と周辺の瓦礫が瞬く間に腐って消えていく。あと一歩遅かったら、剣ごと右腕を持っていかれるところだった。


「ニコル殿、ご無礼をいたしました。」


 バルドンが先程の発言をニコルに謝罪した。緊急時とはいえ、大貴族家の子息に対して一衛士隊長が言っていいことではない。ニコルはそれを受け入れ「ありがとうございました」と礼を言った。


 北門の上から戦いを見守っていた衛士たちが、三人の勝利を讃えて歓声を上げた。






 怪物は今や眼球の浮かぶ青白い不定形の肉塊となって地面に広がっている。時折ぶるぶると震えるが、動き出す様子はない。


「倒した、のでしょうか?」


 ハーレが恐る恐る肉塊を覗き込みながら尋ねる。バルドンは落ちていた衛士の槍を拾いながら答えた。


「未知の相手ですので油断はできません。迂闊に近づかれませんように。」


 バルドンの言葉で距離を取るニコル。その時、彼の魔力感知が肉塊の魔力が急激に高まるのを感じ取った。


「何か来ます!!」


「聖女よ、守り給え!《聖なる守り》!!」


 ニコルの声に反応してハーレが守りの魔法を使うと同時に、肉塊は急激に膨れ上がった。そして次の瞬間、溶解液をばら撒きながら破裂した。咄嗟に体を伏せたことと、守りの魔法のおかげで直撃は免れたものの、三人の手足に溶解液が降りかかった。






 液に触れた部分の皮膚が黒く変色していく。痛みまったくはなかったが、ニコルは傷から生命力がじわじわと奪われていくような喪失感を感じた。


「世界を照らす聖女の光よ。悪しきものより我らを守り、我らが身を侵す呪詛を払い給え!《呪詛解除》!」


 ハーレの詠唱と共に三人の体が光に包まれる。手足の変色が消えると同時に傷口から血が噴き出し、激しい痛みが三人を襲った。バルドンの回復薬によって傷は塞がったが、ニコルは体からごっそりと力が失われたような感じがした。






「力のほとんどを失っているとはいえ、人間風情にここまで追い詰められるとはな。もう少し油断してくれていたら、呪詛を通じて魂を食い尽くせたのだが。」


 不気味な声に振り返ると、三人の背後にあの怪物が立っていた。怪物はまったくの無傷。それどころか、自分たちから生命力を奪うことで回復しているようだ。この怪物を倒すことはできないのだろうか。ニコルは心に絶望の影が過るのを感じた。


「失くしたのは力だけか、化物野郎。目玉が減っちまってるぞ。」


 槍を構えながら言ったバルドンの言葉で、ニコルは怪物の頭から目玉が少し減っていることに初めて気が付いた。






 怪物は面白がるような調子で、バルドンに答えた。


「やはりお前は一筋縄ではいかんな。こういうことだ。」


 怪物がそう言うと、彼らを取り囲むように怪物たちが次々と地面から沸き上がってきた。今、話している怪物とまったく同じ姿。だが、その頭部には目玉が一つしかついていない。


「一人でお前たちの相手をするのはさすがに難儀なのでな。先程お前たちから奪った力で、こちらも少々体を増やさせてもらった。」


 三人は背中合わせになり、周囲の怪物たちを睨む。ざっと十数体の怪物たちが声を合わせて一斉に話し始めた。


「ちゃちな分身などと思うなよ。全員が私だ。お前たちを喰らい尽くした後は、あの門の上にいる連中の魂をいただくとしよう。」


 その時、表情のないはずの怪物が確かに笑ったようにニコルには見えた。口の触手を蠢かせながら、怪物は言った。


「破壊の光が解き放たれるまでの余興も兼ねているのでな。余り簡単に死んでくれるなよ。魂を喰らう時には、お前たちの嘆きと絶望が最高の味付けになるのだからな。」











 森の妖精ルピナスは、ドーラの封じられている光の柱に辿り着いた。


「うわあ、ドーラちゃんがすごいことになってる!! ちょっとあんたたち、やめなさい!!」


 ルピナスはドーラの結界を打ち破ろうとしている乙女たちを止めようとした。髪を引っ張り、耳に噛みつき、鼻先をぽかぽか叩く。


 しかし彼女の力では呪われた乙女たちを止めることはできなかった。


「ふぬぬぬ、ニコルがいればあんたたちなんかあっという間にやっつけちゃうのに!!」


 手をぶんぶん振り回しながら、空中で悔しがるルピナス。彼女の魔力が金色の粒となって周囲に広がった。


 するとそれをたまたま吸い込んだ乙女の一人が、がくりとその場に崩れ落ちる。驚いたルピナスが彼女を見ると、彼女はすやすやと深い眠りに落ちていた。






「この娘たち、『妖精の眠り』が効くんだ!」


 妖精や精霊と近しい者を悪しき者から遠ざけるため、一時的に魂を凍り付かせて保護する『妖精の眠り』。かつてルピナスは白百合姫ことニコルの母アレクシアを、そうやって守ったことがある。


 しかし一度に眠らせることができるのは、妖精一人につき一人だけ。ここにいる100人以上の乙女たちすべてを止めることはできない。せっかく乙女たちを止められる方法が見つかったのに。ルピナスは途方に暮れてしまった。


「『妖精の輪』を開いて、姉妹たちをここへ連れてこられたらいいんだけど・・・。」


 『妖精の輪』は自然の気が溢れる場所でなければ開くことができない。彼女が普段使っている妖精の輪は、ここから遥か南、スーデンハーフの海辺の森にある。とても短時間で行き来できる距離ではない。


 ルピナスはどうしてよいか分からず、地面に座り込んでしくしくと泣き始めた。そんな彼女の心に、ある言葉が蘇る。






『最後の一瞬まであきらめなかった者だけに、女神様は微笑んでくださる。』


 日頃、ニコルを鍛えているサローマ伯爵がいつも口癖のように言っている言葉だ。普段はニコルの魔力の中に隠れているルピナスも、その言葉を何度も何度も聞かされていた。


 どんなに辛い時でもニコルはその言葉を聞くと、いつも心を奮い立たせて鍛錬に立ち向かっていくのだ。その時、魂の奥から湧き出てくるニコルの魔力が、彼女は大好きだった。


「そうだ。あきらめちゃダメ! きっと何とかしてみせる!!」


 ルピナスは涙を拭いてひらりと空中に舞い上がった。そして「待っててね、ドーラちゃん。必ず助けてあげるから!」と言い残すと、昇り始めた月の照らす暗い森の奥へと消えていった。

読んでくださった方、ありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ