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Missドラゴンの家計簿  作者: 青背表紙
174/188

168 黒竜

最近、終わりに向けてお話を詰め込んでるので、一話が長くなってしまってます。読みにくくてすみません。

「我が名は暗黒竜ヴリトラ。全ての滅びを司り、世界の終末を見届けるものなり。大願を抱きて世界の理を越えし者よ。そなたの願いを聞いて進ぜよう。」


 目の前の巨大な生物が意外なほど美しい声で、エマにそう言った。


「ヴリトラ様、お願いがあります。私のお姉ちゃんを助けてください。」


 水路から這い出したエマは体を乾かすこともせず、ヴリトラにこれまでの経緯を説明した。






「ふむ。人間たちの魔法によって、お主の国が滅びかけておるということじゃな。」


 ヴリトラはつまらなそうに鼻を鳴らす。


「それは人間おまえたちの自業自得というものではないか。なぜ我がそれを救わねばならんのだ?」


「え、だって、お互いの世界の危機には力を貸し合うって巫女様が・・・。」


「ああ、あの『盟約』のことか。あれは闇の種族と人間どもが勝手に結んだもの。我も一応力を貸しておるが、我はその『盟約』には縛られておらぬ。」


 ヴリトラはその巨大な眼を細めて、エマを睨みつけた。


「国が滅ぶなどよくあることではないか。それに小さき者どもは死んでもまたすぐに大地に蔓延る。そんなことで我の力を借りようなどと。呆れたものじゃな。」


 ヴリトラはまた鼻を鳴らした。熱い鼻息で吹き飛ばされそうになるのを、エマは両足を踏ん張って堪えた。






 エマの脳裏にさっき聞いた巫女の言葉が蘇る。彼女は「神の助力を得られるかどうかはあなた次第」と言っていた。


 つまりこの神から「お前に力を貸そう」という約束を引き出さなくてはならないということだ。ヴリトラがすごい力を持っているのは間違いない。まさに神と呼ぶにふさわしい生き物だ。協力してもらえたらドーラを助けるための大きな力になってくれるだろう。


 だけど、ヴリトラにはまったくその気がないようだ。一体どうすればいいのか分からない。商人のカフマンお兄ちゃんなら、こういう説得や駆け引きは得意なんだろうけど・・・。


 そう考えたところで、以前カフマンと交わした会話がエマの脳裏に閃いた。












「エマ、買う気がない相手に物を売るにはどうすればいいと思う?」


「え? 買う気がないんじゃ、売れないでしょう。」


 エマがそう答えるとカフマンはニヤリと笑った。


「いやいや、そんなことないぜ。商品がまっとうな物ならやり方次第でどんな相手にだって売ることができるのさ。」


「ええ、どうすればいいの?」


「やり方はいろいろあるぜ。相手の性格や持っている金、こっちが売りたいものなんかによってそれは無限に変わってくる。でも一番大事なことは一つだけなんだ。それはな、相手を幸せにしてやりたいって思うことさ。」


「?? どういうこと?? 物を売りつけられるんでしょ? お金を払わされて幸せになるなんて、訳が分かんないよ。」


 エマが首を捻ると、カフマンはアハハと笑った。






「まあ、お前は商人じゃないからな。要は相手に『買ってよかった』って思わせることができたらいいってことさ。そのためにはまず、相手をよく知ること。そして相手を思いやることだな。この気持ちを失くしちまったら、そいつはもう商人じゃねぇ。ただの詐欺師さ。」


 エマが「おおー」と声を上げて感心すると、彼は照れた顔をして頭を掻いた。


「まあ、全部じいちゃんの受け売りなんだけどな。でも俺も商売をするうちにその意味がだんだん分かってきたんだ。お前は商人になることはねえだろうけど、まあ、なんかの役に立つかもしれねえから、よかったら覚えておけよ。」


「うん、ありがとうカフマンお兄ちゃん!」












 幼い頃に聞いたカフマンの言葉がエマの心に蘇る。そうだ。まずは相手をよく知ること。そして相手を思いやることだ。


 エマはヴリトラをよく観察してみた。黒曜石のような鱗の中にある、紅玉の色をした瞳がエマをじっと見つめている。吸い込まれそうな美しさがあるが、その輝きがすこし弱いようにエマには感じた。


 絶対的な力を持つ存在である神様ヴリトラ。しかしなぜかエマにはこの神様が幸せそうには見えなかった。どうしたらこの神様を幸せにしてあげられるんだろう。


 エマが紅い瞳を見つめながら必死に考えを巡らせていると、ヴリトラが口を開いた。


「話はもう終わりか? それならば・・・。」


 ヴリトラは顔をエマにぐっと近づけた。






「お主は小さいが、良い匂いがしておる。どこか懐かしい匂いだ。」


 ふんふんと匂いを嗅いだ後、ヴリトラは言った。


「ともかくここでお主の願いは潰え、お主の国は滅びるのじゃ。腹の足しにもならんが、嘆きで味が落ちる前にお主をいただくとしよう。」


 ヴリトラがその大きな口を開いた。エマの三倍以上はあろうかと思われる鋭い牙がずらりと並んでいる。血の匂いがする熱い吐息がエマに吹き付けてきた。エマは夢中で叫び声を上げた。


「待ってください! あなたが私の願いを叶えてくださるのなら、私はあなたを幸せにして差し上げます!」






 鋭い牙がエマを捕らえる寸前、ヴリトラの動きが止まった。巨大な顔がゆっくりとエマから離れていく。


「お主が我を幸せにするじゃと?」


 胸がドキドキし、恐怖で足が竦むのを必死に堪えながら、エマは答えた。


「はい。そうです。」


「・・・面白い。お主に何ができるか言ってみよ。つまらん答えならば喰らうまでのこと。」


 さっきまで暗く沈んでいたヴリトラの紅い瞳に薄く光が差す。それを見た瞬間、エマは自分が何をすればよいか閃いた。


 これまでのヴリトラの口調や仕草、表情。光のない目。つまらなそうに鳴らす鼻。そこから導き出される答えは・・・。






「ヴリトラ様はこの世界のことなら何でも知っていらっしゃるんですよね?」


「ああ、我の魔力はこの世界に遍く広がり、守っておるからな。それがどうしたというのだ。」


 ヴリトラの表情が翳り、目の光が失われる。口調にも苛立ちのようなものが混じっているようだ。その様子を見て、エマは自分の考えに確信を持った。


「でも、人間の世界のことはあまりご存知ないのではありませんか?」


 ヴリトラがピクリと鼻を動かした。鱗に覆われた瞼が紅い瞳を隠し、細くなった目でエマを睨みつける。






「・・・お主、我を愚弄するつもりか?」


 これまでと違い、雷鳴のような音を喉の奥から響かせながら、低い声で唸るようにヴリトラは言った。怒りと苛立ちの混じる声。しかしエマはその目の中にある、こちらを探るような色を見逃さなかった。


 エマはにっこりと微笑んでヴリトラに言った。


「いいえ、そんなつもりはございません。もしよかったら、私の国に伝わる話をヴリトラ様に聞いていただけないかと思いまして。『白百合姫と三つの試練』というお話なんですけど、聞いたことがございますでしょうか?」


「何、お主の国の話じゃと?・・・・いいや、知らん。話してみよ。つまらん話なら喰ろうてくれるからな。」


 素っ気ない口調ながらも、ヴリトラの紅い瞳にはさっきよりも強い光が差している。声も心なしか弾んでいるように感じた。


 エマはこほんと咳払いをしてから、ゆっくりとヴリトラに話し始めた。


「昔むかしのお話です。ある貴族家に一人の男の子が生まれました。名前をニックと言います。ニックのお母さんは・・・。」











「・・・こうして試練を果たし呪いを遠ざけたニックは白百合姫と結ばれました。二人はお互いを思い合い、末永く幸せに暮らしたということです。おしまい。」


 エマが語り終えると同時に、地面に巨大な水滴が落ちてきた。それは地面でパチンと弾けてキラキラと輝く黒い石に変わり、エマにぱらぱらと降り注いだ。


「おおお、ニックは困難に打ち勝ち、姫と結ばれたのだな。なんと素晴らしい結末だ。」


 うっとりと閉じたヴリトラの目からは次々と涙が溢れてくる。涙は地面に落ちるとすぐに黒い石へと変わっていった。


「ご満足いただけましたか?」


 エマがそう尋ねるとヴリトラは目を開き彼女を見た。その目には嬉しそうな光が満ち、キラキラと輝いている。


「うむうむ・・・いや、まだだな。まだ我は満足しておらん。もっと別の話が聞きたい。喰われたくなければ、もっと話をするのだ。さあ、早く!!」






 ヴリトラは目を輝かせてエマに催促した。エマは知っているお話を次々と話していった。


 ヴリトラはそのお話に惹き込まれた。騎士の冒険にハラハラし、冒険者の宝探しにワクワクし、貴族令嬢の悲恋に涙した。間抜けな農夫とエルフの話では声を上げて笑った。日が傾き、街の者たちが何事が起ったのかと家から顔を覗かせるまで、エマはお話を続けた。


「いやいやお主の話は実に興味深い。こんなに楽しんだのは、我に名を送ってくれたあの男が来た時以来よ。さあ、もっと話をしてくれ。」


 すっかり機嫌よくなったヴリトラは更に要求してきた。しかしずっと話続けてきたエマは、ちょっと困ってしまっていた。


 このままでは切りがない。きっとヴリトラが満足する前にドーラが死んでしまうだろう。そこでエマは一計を案じることにした。






「では次は、自分の村を脅かす迷宮を討伐するために、小さな女の子が奮闘するお話です。聞きたいですか?」


「ああ、聞きたい。さあ、早く話せ。さもなくば喰ってしまうぞ。」


 エマは話し始めた。女の子と仲間との出会い、迷宮の探索と発見、挫折と修行、そして迷宮主との出会い。


「・・・ついに迷宮核がその姿を現しました。しかし女の子の仲間だった剣士が、迷宮核の魔力に捕らわれてしまったのです。彼は迷宮核に操られ、人狼となって仲間に襲い掛かりました。」


「おお、なんという卑劣な!! おのれ、迷宮核め!! それで!? それでどうなったのだ?」


「人狼の爪が女の子を引き裂こうとしました。その時、仲間をここまで導いてきた老戦士が、人狼の爪の前に立ち塞がりました。人狼の爪に体を貫かれる老戦士。彼を想うエルフの少女の悲鳴が迷宮に響き渡りました。」


「何ということだ!! こんなことになるのではないかと思っていたのだ!! 心配していた通りになってしまった!! この後はどうなる? 老戦士は、剣士はどうなったのだ!?」






 そこでエマはふうっと息を吐いて言葉を止めた。


「ヴリトラ様、私はもう疲れてしまいました。今はこれ以上お話することはできません。続きはまた今度にいたしましょう。」


「!! 馬鹿な!! あと少しで結末であろう!? 最後まで話せ! 話さぬのならば喰ってしまうぞ!!」


 があっと口を広げてエマに迫るヴリトラ。様子を見ていた街の者たちが悲鳴を上げて家に飛び込んでいく。


 しかし、エマは穏やかな調子でそれに返事をした。


「そう言われても話せないものは話せません。食べても構いませんが、私を食べたらお話の結末を知ることができなくなりますよ。」


「ぐぬぬ、卑怯だぞお主!・・・よかろう。ではいつまで待てばよいのだ?」


 エマはにっこりと笑って、ヴリトラの問いに答えた。


「私は姉を助けに行かなくてはなりません。それが終わってからにいたしましょう。」






 エマの返答にヴリトラは叫びを上げた。


「それでは一体、いつになるか分からぬではないか!!」


 その声で空気がびりびりと震え、おびえた森の鳥たちが一斉に空へと飛び立っていく。


「そうですねぇ。ヴリトラ様がお力を貸してくださるのであれば、きっとすぐにお話しできると思うのですけれど・・・?」


 そう言って上目遣いにヴリトラを見上げるエマ。ヴリトラは喉の奥でぐるぐると唸り声を上げた。


「うぐぐぐ、分かった。いいだろう。お主に力を貸してやろう。だから続きを聞かせてくれ。」


「ありがとうございます。では姉を助けられたら、お話しますね。」


 自分の頼みを笑顔で躱すエマを見て、ヴリトラは衝撃を受けたように目を見開き、ぶつぶつと不平を述べた。


「くうう、やはり人間は油断ならん。あの男と一緒に来たあの緑の髪の娘もそうだった。あの時もいつの間にか、この世界を守るという約束をさせられたのだ・・・。」






 エマは体の力が抜け、その場にへたり込んだ。やり遂げたのだ。ついに神であるヴリトラから約束を引き出すことができた。


 嬉しさと安心感がこみあげてきて、エマは自分の胸に手を当てた。胸にかけた竜虹晶の首飾りに触れる。


 カフマンお兄ちゃんありがとう。ドーラお姉ちゃん待っててね。


 エマの胸がじんわりと温かくなり、自然と涙が零れてきた。エマの涙と魔力に反応し、首飾りが薄い光を放つ。






 するとその光に気付いたヴリトラがエマに尋ねた。


「エマ。その胸にあるものはなんじゃ?」


 座り込んで泣いているエマにヴリトラが顔を寄せてきた。エマは首飾りを取り出して、ヴリトラに見せた。


「私のお姉ちゃんが作ってくれたものです。きれいでしょ・・・・あげませんよ?」


 ヴリトラはそれをじっと見つめていたが、やがて口を大きく開けて笑い出した。エマは風で飛ばされないよう、地面に体を伏せた。


「なるほど、そうであったか。やっと合点がいったわ。」


「?? 何がですか?」


「いや、こっちの話よ。」


 くっくっと笑いながらヴリトラはエマに言った。


「お主は確かに、我を幸せにしてくれるようじゃ。エマ。お主の願い、確かに我が叶えて進ぜよう。」
















「カール様!カール様、目を開けてください!!」


 自分に呼び掛ける必死の叫びを聞いて、カールは目を開けた。目に飛び込んできたのは薄暗い森。そして彼に覆いかぶさるようにして呼び掛けていたロウレアナの姿。


「よかった。気が付かれましたね。かなり長い時間、濁流に揉まれていらっしゃいましたから心配しました。」


「ロウレアナ殿、そのお姿は一体どうされたのですか!?」


 カールは体を起こして彼女の肩を掴んだ。彼女の美しい肌には黒い痣のようなものが広がっている。ロウレアナはカールと入れ替わるように、力なくその場に横たわった。






「水に飲まれたあなたをお救いするため、清流の乙女ウンディーネを憑依させあの水に飛び込んだのです。ところがあの水には呪詛が含まれていたようなのですよ。あの複合獣キメラの女の仕業でしょうね。」


 彼女はげほげほと激しく咳き込み、口から黒い水を吐いた。


「あなたを岸まで引き上げることはできたのですが、清流の乙女を通じて私も呪詛を取り込んでしまいました。」


 苦しそうに彼女はそう言うと、ここがさっきいた場所とハウル村のちょうど中間あたりであると教えてくれた。短い時間でかなりの距離を流されてしまったことに、彼は驚いた。


 ロウレアナは彼を救うため、相当な無理をしてくれたようだ。彼女に礼を言い、すぐに抱きかかえようとしたカールの手をロウレアナはしっかりと掴んだ。






「聞いてください、カール様。私は呪詛を取り込んだことで、奴らの狙いが分かりました。あの水はハウル村を押し流すためのものではありません。水を通じてこの一帯に呪詛を振りまくことこそが、奴らの狙いだったのです。」


「呪詛を? いったい何のためにそんな・・・。」


「村を守るドーラ様の力を・・・弱めるためです。」


 ここまで話したところでロウレアナは顔を歪め、再び黒い水を吐いた。呼吸が浅くなり、肌の色が急速に失われていく。







「ロウレアナ、もう止めるんだ!」


 制止しようとしたカールに彼女は縋りついた。そして彼の頭を抱えるようにして、自分の口を彼の耳に寄せる。


「ドーラ様の聖気により・・悪しき者は村に近寄ることが・・できません。奴らの狙いはそれを汚し、ドーラ様の・・封じている破壊の力を・・解き放つこと。そしてドーラ様の・・・りゅ・う・・の・・・。」


 彼女は息も絶え絶えに彼にそう呟くと、がっくりと意識を失くした。カールはすぐに彼女を抱きかかえると、村に向けて走り出した。






 カールにはこの呪詛をどうすることもできない。助けるためにはハウル村にいる聖女教司祭ハーレの力が必要だ。だが夕闇に沈む森の中を抜けていくのは一人であっても容易ではない。ましてロウレアナを抱えて行くとなればなおさらだ。


 彼の脳裏に光の柱に封じられたドーラの姿が閃いた。


 すでに溢れた川の水は村に到達しているだろう。ロウレアナの話が真実なら、今まさにドーラに危機が迫っていることになる。一刻も早くドーラの下に行かなくてはならない。そう思った瞬間、彼の心に何者かがそっと囁いた。






 ロウレアナは、ここに捨てて行ってしまえ。






 彼は思わず周りを見回した。だが誰もいない。当然だ。今、聞いた声。あれは確かに自分の声だったのだから。


 このままロウレアナを連れていては、確実に手遅れになるだろう。それに連れ帰ったところでハーレがこの呪詛を払えるという保証もないのだ。そうであればせっかく連れ帰っても無駄になってしまう。ならばいっそ、今ここに捨ててしまえばいい。


 いや、捨てるのではない。ここで休ませるのだ。ハウル村は戦場になる可能性が高い。エルフである彼女には森の加護があるはず。せんじょうに連れ帰るよりも、ここで休ませた方がよいかもしれないではないか。


 そうだ。これは彼女を守るためなのだ。さあ、カール。あそこにちょうどいい具合の木のうろがあるぞ。


 あそこに彼女を寝かせておけばいい。きっと森が彼女を守ってくれるさ。そして身軽になって全力で村に向かい、ドーラを救うのだ。


 よく考えろ。お前にとって大切なのはどっちだ? ロウレアナか、それともドーラか。






「黙れ!! 黙れ、だまれ、だまれっ!!!」


 カールは足を止め、心に囁きかけてくる声を打ち払おうと、誰もいない森の中で叫び声を上げた。ハッとして自分の手を見た彼は、自分の手にもロウレアナの体にあるのと同じ黒い痣が広がりつつあることに気が付いた。


「これが呪詛か・・・!!くそっ!!」


 心に響く声を無視しようと努めるが、そうすればするほど思考がまとまらなくなり、平常心が失われていく。何が正しいのか判断がつかなくなり、意識が朦朧とし始めた。


 カールは残された力を振り絞り、手近にあるオークの木に近づくと、その堅い幹めがけて気合の声と共に思い切り頭突きを叩き込んだ。


 目の前に火花が散り、頭に響く声が一瞬遠のく。額が割れて血が滴り落ちた。血が口に入り鉄臭い匂いが舌の上に広がる。彼はその一瞬でドーラのことを強く想った。






 彼女に出会ってからこれまでの出来事が、彼の脳裏に浮かんでは消えていく。彼女の笑顔。そして彼女の涙。


 彼女と共に体験した喜びや悲しみが心から沸き上がるにつれ、彼の心に響く呪詛の声がどんどん小さくなっていく。


 彼は自分に言い聞かせるように叫んだ。


「私は彼女の騎士! 彼女に剣を捧げ、彼女を守ると誓った者! 私が彼女を裏切ることは決してない! 彼女が愛するものを見捨てることも! さあ呪詛よ、我が身から去れ!!」


 その途端、彼の体が強い虹色の光を放った。彼の体に広がっていた黒い痣は、光に溶けるように跡形もなく消え去った。そればかりか、ロウレアナに広がっていた黒い痣も、きれいになくなっている。


 彼の体を蝕んでいた呪詛が消えたことで、彼の体に力が戻ってきた。そればかりか体の奥から、新たな力がどんどん湧き上がってくるような気がした。






「一体、どうなっているんだ・・・?」


 何が起こったのか、彼には全く理解ができなかった。だがとにかく助かったのはありがたい。彼の心にごく自然にドーラへの愛情と感謝が去来する。彼は無意識のうちに大地母神に祈りを捧げる時の姿勢で、目を瞑っていた。


 武技を極めし者が、強い信念と誓いにより覚醒するという神聖騎士パラダイン。彼は今、自分がその資格を得たことに全く気が付いていなかった。


 ロウレアナの呼吸は落ち着き、顔色もだいぶ良くなりつつある。彼はホッと息を吐き、彼女を背中にしっかりと背負うと、沈む夕日を追いかけるように、森の中を走り始めた。














 ごうっという音と共に押し寄せた水が川岸の木々をなぎ倒しながら迫ってくる。衛士隊長バルドンは忸怩たる思いでハウル村の北門の上からそれを見ていた。


 ドルーア川は流れの穏やかな川だ。その両岸は人の身長の二倍ほどの高さの岩場や崖になっている。しかし所々、それが低く平らになっている場所があり、王国はそれを利用して川港や開拓村を整備してきた。


 ここハウル村やすぐ北にあるノーザン村などがその好例である。川べりある低く平らな土地は、舟を着けやすいだけでなく、栄養を含んだ土が溜まっているため、農業にも適しているからだ。






 ハウル村の起源ともいうべきその地の利が今、村を滅ぼそうとしている。


 両岸の岩場を越えられなかった濁流は、全てを巻き込みながら周辺では唯一の低地であるハウル村に流れ込もうとしていた。そして村に濁流が押し寄せてきたということはつまり、カールたちの作戦が失敗したということでもある。


 カールたちは無事だろうか。そんなことを想うまもなく、彼の立っている北門全体にどしんという音と共に衝撃が走った。彼の周りにいた配下の衛士たちが衝撃でバランスを崩し、あわてて石の壁に縋りつく。


 今、村に残っているのは聖女教司祭のハーレとバルドンの配下の衛士たち、そして村の男たちの約半数。全員会わせても100人に満たない数だ。


 先程まで溢れる水に備えて、クルベが魔法で作った仮の堤防を強化する作業をしていたが、今では全員門の上や森の奥に避難している。






 この北門はかなり堅牢な作りになっているが、水で崩れないという保証はない。配下の者たちは濁流に乗って次々と押し寄せてくる岩や大木を不安そうに見つめた。


 これまでの話し合いで、動けずにいるドーラを守ることを最優先にしているため、東ハウル村には堤防が築かれていない。濁流を東ハウル村に誘導することで、少しでも西ハウル村の被害を減らすためだ。


 その狙い通り、濁流の大半は東ハウル村に流れ込んでいった。東ハウル村の船着き場近くにあった宿や冒険者ギルド、聖女教会、そして皆の憩いの場だった酒場『熊と踊り子亭』が濁流にのみ込まれて倒壊していく。


「ああ、俺たちの村が・・・。」


 バルドンの隣にいた衛士の一人が、その光景を見て茫然と呟いた。この衛士はバルドンと同じ王都の出身だ。だが彼はすでにハウル村を自分の村として認識している。それは他の衛士たちも同じだった。


 ハーレは先程からじっと目を瞑り、祈りを捧げている。その手は真っ白になるほどきつく握りしめられていた。


 なすすべなく東ハウル村の建物が押し流される様子を見て、バルドンの心に怒りと悲しみが沸々と沸き上がってきた。





 その時、足元でガンという大きな音が響いた。


「隊長、扉が!!」


 衛士たちが怯えた声で叫んだ。押し寄せる大木の勢いに負けて、北門を塞いでいた扉が押し流されたのだ。やはり急ごしらえの堤防では水を防ぎきることができなかった。黒い水が門を通って街道へと広がっていく。


 行き場を失くし北門の半ばを越える高さまで溜まっていた水が、破れた扉を通じて一気に村の中へ流れ込んでいく。


 市場が開かれていた北門前の広場が、美しいガラスの外装を持つカフマン商会本店が、そして子供たちが笑い声を上げていた学校が次々と濁流に飲まれた。


 もしかしたら東ハウル村の被害だけで済むかもしれないと期待していた男たちの顔に、落胆の色が浮かぶ。村長のフランツは厳しい顔で押し寄せる水の流れを睨んでいた。


 濁流は街道沿いの建物を越えさらにその向こう、農地とドーラのいる広場へ到達しようとしている。






 動けずにいるドーラが濁流に飲まれたら一体どうなるのか。それはバルドンにも全く予想がつかなかった。


 何も起きないかもしれない、というのはあまりにも希望的な観測だろう。ドーラの封じている破壊の力が解き放たれれば、ハウル村どころか王都領全体が灰燼に帰すと、ハーレは言っていた。


 しかし今の彼にはどうすることもできない。悔しさで奥歯をぐっと噛み締めると、苦い敗北の味が口の中に広がった。バルドンは思わず目を閉じ、大地母神に助けを求めた。






「隊長、あれ!! あれ見てください!!」


 唐突に上がった衛士の叫びを聞いてバルドンが顔を上げると、信じられない光景が目に飛び込んできた。


 なんと逆巻く濁流の上を跳ねるように走ってくる人影がある。翻った外套マントの紋章を見て、バルドンは思わず叫んだ。


「サローマ家の紋章! するとあれは!!」


 すらりとした手足を持ち、幼さの残る端正な顔つきをした少年は、辛うじて建っていたバルシュ邸の屋根に飛び乗り、少年特有の美しい声で高らかに詠唱を始めた。






「大いなる力の源、荒ぶる水よ。我が魔力を持ってその姿を変え、穏やかなる流れへと帰れ。《水流操作:静謐》」


 詠唱が終わると同時に、農地へ流れ込もうとしていた水の流れが突然変わった。まるで見えない何かに導かれるように水が穏やかに引いていく。


 西ハウル村に流れ込んでいた水も徐々に勢いが弱まり、やがてドルーア川の下流へ向かう緩やかな流れへと変わって行った。上流から流れてくる水の勢いはまだ強いが、流れが変わったことで北門周辺に押し寄せていた水もすっかりなくなり、周辺には濁流が運んできた木々や岩が散乱するのみとなった。






「彼がサローマ家嫡男ニコルか。強い水の魔力を持っているとは聞いていたが、まさかこれほどとは・・・!」


 バルドンは思わずそう呟いた。一人の術者が変えられる水流の規模を遥かに超えている。エマと同い年の少年が、こんなことを大丈夫なのかと思った途端、ニコルがぐらりと姿勢を崩し、屋根の上に倒れ込んだ。


 おそらく村を救うため、相当な無理をしたのだろう。


「いかん、俺はあの少年を救出する! お前たちはドーラ様のいる広場を守れ!!」


 バルドンは配下の衛士たちにそう叫ぶと、北門から降りるため愛用の槍を掴んで階段に向かおうとした。しかしそれをハーレが鋭い声で制止した。


「いけません、皆さん!!この水は普通の水ではありません! あれを見てください!」






 彼らがハーレの指さす方を見ると、水の引いた後の地面や建物のあちらこちらに黒いシミのようなものが残っていた。


「あれからは強い呪詛の気配を感じます。あれに触れたら・・・。」


「ほう、まだまともな聖職者が残っていたとは。エリザベートめ、本当に役に立たぬ女だ。」


 ハーレの言葉を遮るように、門の下から不気味な声が響いた。驚いて目を向けると、瓦礫の散乱する街道の上に黒い長衣ローブ姿の小柄な人物が立っていた。


 フードを目深に被っているため顔は見えないが、聞いているだけで怖気が立つようなしわがれ声から、おそらく年老いた男ではないかとバルドンは思った。






 「何者だ!?」というバルドンの誰何を無視し、老人はゆっくると両手を掲げた。枯れ枝のように細く萎びた指を広げ、詠唱を始める。バルドンはすぐに老人に向けて槍を投擲したが、まるで見えない壁にぶつかったかのように槍は老人のの手前で跳ね返されてしまった。


「理を打ち破り、真理を悟りし我が呼び掛ける。血と呪詛と穢れより生み出されし者どもよ。現れ出でよ。《呪詛兵召喚》」


 詠唱が終わると同時に、水が引いた後に残っていた黒いシミがぶるぶると震え出し、あちらこちらでまとまり始めた。やがてそれは人型を形作り、黒い法衣を着た女の姿へと変わって行った。


 ざっと見ただけでもその数は100以上。彼女たちは全員が戦槌や鎚鉾、連接棍などを手にし、無表情でその場に立ち尽くしていた。






 突然現れた女たちに言葉を失くすバルドンの横で、ハーレが「ひっ!」と息を呑んだ。


「カリーマ様!? それにサアディーヤにアースィマも!! どうして・・・!!」


「あの者たちを知っているのか、ハーレ殿?」


「私の姉弟子、それに妹弟子たちです。聖都にいるはずの彼女たちがなぜここに・・・!」


 青ざめた顔でそう呟いたハーレの言葉を嘲笑うかのように、黒い長衣を着た男は女たちに呼び掛けた。


「さあ、呪われし乙女たちよ、行け。その聖なる力で、封じられた破壊の光を解き放つのだ!」


 彼の声に合わせ乙女たちが武器を構えた。彼女たちは一糸乱れぬ動きで、ドーラのいる広場めがけて一斉に動き始めた。

読んでくださった方、ありがとうございました。

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