167 異界
右目が痛いです。寝不足かな?
ドーラは自分の魂を傷つけようとする痛みに耐えながら、白い光の中を彷徨っていた。
彼女の周りにある白い光の正体は人々の小さな願いや祈りが集まったものだ。誰かの幸せを願い、平穏な生活に感謝する祈り。それは彼女が大好きなものだ。
それがなぜ自分を傷つけようとするのか。それを探すため、彼女は彷徨い続けた。
周囲の小さな願いや祈りは、永遠の輝きを持つ彼女の魂に比べたら本当に小さく儚いもので、触れた途端にちくりとした軽い痛みを残して消えてしまう。しかしこれらは次々と湧き出てくるようで、絶えることがなかった。
果てがないように思える探索。しかし彼女は諦めることなく探し続けた。
そうしているうち、何も見えない白い光の中に、特に強く自分を傷つけようとする痛みがあることに気が付いた。
それは一定の方向から流れてきているように感じる。彼女はその流れを辿っていくことにした。
流れを辿るにつれて次第に痛みが強くなり、嫌な『臭い』がし始める。といっても、今の彼女には鼻がないので、なんとなくそう感じるだけなのだけれど。
この痛みの正体もやはり人々の願いや祈りのようだ。ただしこれらは彼女の好きなものではなかった。
嫌いな誰かを遠ざけたいという願い。自分よりも優れた誰かを妬み不幸を招こうとする祈り。
自分の思うままに相手を傷つけたい貪りたいという願い。そして自分を陥れた者を滅ぼしたいという祈り。
人々の様々な負の感情が流れとなって押し寄せてくる。まるで呪いだ、と彼女は思った。
大好きな人間たちの負の感情に触れることが怖い。でも彼女はそれに立ち向かった。
もしこれが呪いならば、その中心がどこかにあるはず。彼女は自分の魂を傷つけようとする呪いの正体を見極めるため、嫌な『臭い』を辿っていった。
エマはテレサに導かれ、大聖堂の最奥に設けられた長い長い階段を下りていた。
大人が二人並んで歩くのがやっとだろうと思われる石造りの階段は、螺旋を描きながらどこまでも果てしなく続く。
階段の壁は薄く発光しているため、明かりを持っていなくても歩くのには十分な明るさだった。どうやら明かりの魔法がかけられているようだ。エマは歩きながら周りの様子を観察した。
この階段には全く生き物がいなかった。地下によくいる蜘蛛や地虫なども一切いない。それどころかホコリ一つなく、まるでついさっき掃除をしたばかりのように清潔だった。
何かに似ているなと思って考えているうちに、はたと気が付く。迷宮だ。これは迷宮を歩いている時の感じに似ているのだ。ということは、これは迷宮に続く階段なのだろうか。エマは前を歩くテレサにそのことを尋ねてみた。
「言われてみれば、確かに迷宮に似ていますね。ですがこの下にあるのは迷宮ではありませんよ。私もこの先へは聖女の力を受け継いでから一度しか行ったことがないのですが、危険はありませんから安心してください。」
テレサはそう言ってエマに笑いかけた。エマはほっと胸を撫でおろし、もう一度周囲の壁をよく見てみた。
一見すると何の変化もなく見える石造りの壁だが、よくよく見れば石の切り方や積み方に微妙な差があることが分かる。これは明らかに人の手によるものだ。しかも長い年月をかけて、少しずつ作り上げてきたものではないかと思われた。
人の手で作ったものに、何らかの魔法が施されているのだろう。時間をかけて調べたら壁のどこかに、術式を書いた魔法陣が見つかるかもしれないが、今はそんな余裕はない。
この階段をガブリエラが見たらきっと大喜びするに違いないと思いながら、エマはテレサの後ろについて階段を降りていった。
薄明りの螺旋階段をぐるぐるぐるぐる降り続けて、意識が遠のきそうになった頃、やっと階段の終わりに到着した。
階段の終点は小さな石の小部屋になっていた。突き当りの壁には扉のないアーチ形の出口がある。出口は小さく、テレサは少し屈まなければ通り抜けられないくらいの大きさしかない。アーチの先は真っ暗で、中を見ることはできなかった。
「この先は明かりが必要です。エマお願いできますか。」
エマは明かりの魔法を使い、短杖の先に光球を作り出した。テレサに続きアーチを潜ったエマは、明かりに照らし出された光景に思わず声を上げた。
「これは・・・街!?」
彼女が立っていたのは古い石造りの建物が並ぶ通りの端だった。ただしよく見れば、周囲の建物の屋根のほとんどは石造りの天井にくっ付いてしまっている。
ここはとても広い空間のようで、小さな明かりでは全体を見通すことはできない。どうやら彼女は今、巨大な地下空間に築かれた街の一部にいるらしい。
「これは初代聖女様がお暮しになっていた街の一部だそうです。言い伝えによれば当時のままに残されているそうですよ。大聖堂はこの街を包み込むように造られた人口の丘の上に建てられているのです。」
エマは聖都にやってきたとき、最初に見たあの小高い丘が人の手によって作られたものだと聞いて、とても驚かされた。
「そうか! 大聖堂はこの地下の街を守るために建てられたんですね!!」
「その通りです。ここが聖女教発祥の地にして、最も大切な聖地なのです。歴代聖女以外でここに立ち入ったのは、おそらくあなたが初めてでしょうね。」
そう言ってテレサは悪戯っぽく笑った。エマは急に自分が大変なことをしているような気がして、短杖を握る手がじっとりと濡れるのを感じた。
テレサについて通りを進む。水路の作られた通りの両側はレンガや石造りの家が並んでいた。一部木造のものなどもあったようだが、それらは倒壊してしまっていて、原型を留めていなかった。
やがて小さな広場のような場所に出た。広場にはハウル村にあるのによく似た教会と神殿風の建物が隣り合うように建てられ、その前には法服を着た女性の像と、全裸の女神像が並んで立っていた。
広場の反対側には屋根のない大きな屋敷がある。ここは街の中心部だった場所なのだろう。昔はきっとこの広場でも市場などが開かれていたに違いない。エマは一瞬闇の中に、広場を行きかう多くの人々の姿が見えたような気がした。
広場を抜けると、暗闇の中にうっすらと白い光が見えた。テレサに従い近づいてみるとそれは美しい飾り壁に囲まれた白い祭壇だった。飾り壁にはいろいろな絵が浮き彫りで描かれている。どうやらこの街の歴史が描かれているようだ。
エマは何気なくその中の一つを見てみた。多くの子供たちに囲まれている半裸の美しい女性を描いたもののようだが、奇妙なことにその女性の額には小さな角があり、口からは小さな牙が覗いていた。
この人は蜥蜴人族みたいな獣人なのかしら。そう思って浮彫を眺めていたら、テレサに声を掛けられた。
「エマ、こちらですよ。」
いつの間にかテレサとの間が離れてしまっている。テレサを待たせてしまったようだ。エマは「すみません、お師匠様!」と謝って、慌ててテレサの後を追いかけた。
祭壇の一番奥は壁になっていた。そこには白い石で作られた大きなアーチ形の門がある。アーチは大きな馬車がそのまま通り抜けられるくらいの大きさだ。ただし門のアーチの内側は壁で完全に塞がれていて扉などもない。
「これが異界へつながる門です。早速、開くとしましょう。」
テレサはそう言うと、門の前に跪いて美しい声で歌い始めた。その歌には歌詞がなかったが、複雑に変化する音によって、まるで知らない国の言葉を聞いているような気持ちになった。
テレサの歌声が高まるにつれて、白い石の門の表面に光の線が走り始めた。
「これ、立体方形魔法陣だ・・・!」
門の表面に浮かび上がってきたそれは、エマのまったく見たことのない術式だった。《転移》の魔法陣に似ている気がするけれど、それよりもはるかに複雑で難解だ。ガブリエラがこれを見たら狂喜乱舞することだろう。
そう思ってみていると、壁に塞がれているアーチの内側が光りはじめ、やがてぼんやりとした光の幕のようなものが現れた。ディルグリムが使わせてくれたファ族の古代遺物によく似ているとエマは思った。
「扉は開かれました。この光の幕を越えた先は、闇の領域に繋がっているはずです。」
歌を終えたテレサがエマに向き合って言った。エマはぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございました、お師匠様。私、必ずやり遂げてみせますね。」
テレサはエマの前に屈みこむと、彼女を強く抱きしめた。テレサの肩は小さく震えていた。エマもテレサをぎゅっと抱きしめ返した。
「いってきます、お師匠様。」
「・・・いってらっしゃい、エマ。あなたの旅路に神の恵みと聖女の祝福がありますように。」
触れた頬の上で二人の涙が混ざり合う。エマは自分から体を離すと、長衣の袖でごしごしと顔を拭き、にっこりとテレサに微笑んだ。そして光の幕をすっと潜って姿を消した。
テレサは門の光が消えてもしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて踵を返して地上への階段に向かった。歩き出してふと自分の手を見ると、指の先が半透明になりつつある。
「・・・もう時間がありませんね。」
彼女は立ったまま瞑想し、体内の神力を高めた。半透明だった彼女の指先が再び元に戻る。自分の祈りに応えてくださった神に感謝を捧げた後、彼女は誰もいない暗い街並みを歩いて行った。うっすらと光を放つ彼女の姿は、祭壇から遠ざかるにつれて深い闇に飲み込まれ、やがて見えなくなった。
エマは軽いめまいを感じて、慌てて体のバランスを取った。耳がツンと詰まったような感じがする。高低差のある長距離の《転移》後に感じる特有の症状だ。どうやら無事に移動できたようだ。
しかし安心したのも束の間、彼女は目の前にいる生き物の姿を目にして、驚きのあまり動けなくなってしまった。
薄茶色で三角の耳。まん丸の黒い鼻と黒い目。白く短い毛に覆われた大きな口。そしてクルンと巻いたモフモフのしっぽ。
どう見ても犬だ。彼女の前にいたのは、可愛らしい犬だった。彼女もよく見知っている生き物。ただし色鮮やかな服を着て、二本足で立っていることを除けば。
彼女が立っていたのは石畳の敷かれた大きな広場の中央だった。背後には今出てきたばかりの白い石の門がある。
門を取り囲むように低い祭壇が作られていて、その上にはたくさんの花や果物や木の実、陶器の瓶や壺などが供えられていた。彼女の目の前にいた犬も、その丸っこくて可愛らしい手に花束を持っている。
広場では市場が開かれているようで、祭壇から少し離れた場所には色とりどりの天幕や屋台が立ち並び、多くの人(?)で溢れていた。ただ人間の姿はどこにもない。直立して歩く豚や犬、緑の肌をした小人に水色の体をした奇妙な動物など、彼らの大きさも姿も、人間とは大きくかけ離れていた。
驚いて立ち竦む彼女の前で、犬は祭壇に花束を供えその可愛らしい手を胸の前で合わせて目を閉じた。まるで祈りを捧げているような姿だ。
しばらくして目を開けた犬はふと視線を上げた。エマと犬の視線がぶつかる。途端に犬の首の後ろの毛が逆立ち、しっぽが足の間にしゅるんと収まった。三角の耳もへこっと畳まれている。
エマは目の前の犬に向かって話しかけようと思った。だけど犬の言葉が分からない。取り敢えずなんて言えばいいんだろう? 「こんにちわん!」とかでいいのかな?
エマが迷っている間に、目の前の犬がプルプル震え出した。
「おっ・・・。」
「お?」
「おばっ・・・。」
「おば??」
「お化けだーーーーっ!!!!」
「犬がしゃべったーーーっ!!??」
驚いて二人(?)が同時に上げた叫びを聞いて、周囲の目がエマに集まった。途端に響く悲鳴と怒号。その場から我先に逃げ出そうとする者たちによって、広場は混乱の坩堝と化した。動いていないのは茫然とするエマと、その場にへたり込んで動けなくなった犬だけだ。
「魔物が出たぞ!! 鬼士隊を呼べ!!」
「なぜ、街中に魔物が!? 結界はどうなってるんだ!!」
「怖いよー、お母さーん!!」
「さあ、早くこっちへ!! すぐに建物に入るんだ!!」
人間でない姿をした住民たちが、まるで人間たちのような反応を示して一斉にその場から離れていく。と同時に、広場に続く大通りからこちらに向かってすごい勢いでやってくる一団が見えた。
「!! 隊長! 『聖門』に魔物が!!」
「犬人族の子供が魔物の目の前に取り残されています!!」
「何ということだ! よし、俺が救出に行く! お前たちは援護と住民の避難誘導を頼む!」
「隊長、危険です!!」
「馬鹿野郎!! 住民の命を守るのが俺たちの使命だろうが!!」
大声で怒鳴り合いながらこちらにやってくるのは、エマのゆうに二倍は身長があろうかと思われる巨大な人型の生き物達だった。彼らは赤黒い体色と白い髪をしていて、額からは二本の大きな角が生えている。
筋肉の盛り上がった体の上には革の鎧を着け、同じ革のサンダルを履いている。靴を履いていないのは、足の指にナイフみたいな鋭い爪があるからだろう。
背中に背負っているのは彼の身長ほどもある金属製の黒い棍棒だった。棍棒には鋭い棘があり、革のベルトで動かないように固定されているようだ。
先頭を走ってきた一際体の大きな生き物は棍棒を両手に構えると、エマとへたり込んだ犬の間にさっと体を割り込ませて叫んだ。
「聖都マードハルを脅かす魔物め! どうやって巫女の結界を潜り抜けたか知らんが、住民には指一本触れさせんぞ! この鬼士シュタンが相手だ!!」
彼は鋭い牙をむき出しにして、エマに叫んだ。金色の瞳の虹彩が細くなり、油断なく彼女を見つめているのが分かる。気が付くと、エマは周りをすっかり鬼士たちに取り囲まれてしまっていた。
「あ、あの私、魔物じゃありません。」
エマは戸惑いつつも両手を軽く上げ、隊長に向かって言った。周囲の鬼士たちから驚きの声が上がる。
「そんな恐ろしい姿をしていながら、人語を解するとは・・・! 油断ならん相手だ!!」
「隊長、気を付けてください!!」
彼らはじわじわとエマに近寄ってくる。敵意のないことを証明したいが、どうしたらよいか見当もつかない。武装解除して降伏してもよいが、その前にあの棍棒で攻撃されたら一巻の終わりだ。
それにもし捕まって投獄でもされたら、神様を探すという目的が果たせなくなってしまう。
本当は彼らから何ならの情報を得たいところなのだけれど、このままでは無理そうだ。少し迷ったものの、エマは一度この場から逃げ出すことにした。
エマは上げた両手の先に《収納》を開き、中からホウキを取り出すとすぐに起動呪文を唱えた。
「ホウキよ、空を飛べ!!」
両手でホウキにぶら下がったまま、エマはその場から飛び立った。
「逃がすか!!」
隊長の棍棒が唸りを上げてエマを襲う。しかしエマは両手で体を引き上げ、そのままホウキの周りでくるりと体を回転させてその攻撃を躱した。彼女はその勢いを利用してホウキにしがみつき、魔力を流して速度を上げた。
よく晴れた青空に向かってホウキは上昇していく。晴れた青空?
ここは闇の瘴気に閉ざされた世界のはずなのに、なんでこんなにきれいな青空があるんだろう?
エマはホウキに乗ったまま周りの景色を眺め、絶句した。
そこはまるで夢のように美しい自然の楽園だった。
街の周囲には緑成す平原がどこまでも広がっている。その平原にはいくつもの川がキラキラと太陽の光を反射しながら流れていた。
川辺で六足牛によく似た動物たちが草を食みんでいる様子が見える。その側では色とりどりの鳥たちがのんびりと水の上を泳いでいた。
街のすぐそばを流れる大きな川を目で辿るとその先に湿地と巨大な湖が見えた。そして何よりも彼女が驚かされたのはその湖の向こう側にある、目も眩むほど高い崖とそこを流れ落ちてくる巨大な滝だ。
崖があまりにも高いために巨大な滝は途中で細かい水の粒に変わり、霧雨となって下の湿地と湖に降り注いでいる。湖を跨ぐようにして巨大な虹がかかっているのが見えた。
距離があるので滝の音は薄くしか聞こえないが、その迫力はここからでもはっきりと分かる。まさに絶景だ。
湖の反対側にあるのは黒々とした深い森、そしてその遥か向こうに驚くほど高い山があるのが見える。
太陽の位置から考えると、街を中心にして南側に平原、北側に湖、北東に滝、そして南西に深い森があることが分かった。そのどれもが本当に美しい。とても暗黒の瘴気に覆われた世界には見えない。
さっきの人間ではない住民たちを見ていなければ、どこか別の場所に転移してしまったかと思うくらいだ。
エマは取り敢えず一番安全そうな南側の平原を目指すことにした。ホウキを南に向け加速させる。
しかし、いくらも行かないうちに、エマは体全体にものすごい衝撃を受けた。まるで雷にでも撃たれたかと思うほど、目が眩み体が動かなくなる。
意識が遠くなる直前、エマは街の上空に何か目に見えない魔力の壁のようなものがあるのに気が付いた。
さっき鬼士さんたちが言ってた『結界』ってこれ?
加速して結界に突っ込んでしまった自分の迂闊さを呪いつつエマは意識を失い、上空から下の街にめがけて真っ逆さまに落下していった。
「・・・おい! おい、起きろ!!」
肩を軽く揺らされて、エマはハッと目を開けた。硬い石の床に付けていた顔を上げ、起き上がろうとして体を拘束されていることに気が付く。両手は後ろ手に拘束され、足も動かせない。
感触から考えると、金属製の枷のようなものを付けられているようだ。さらに首にも金属の感触がある。
エマが今いるのはどうやら通りの一角のようだ。太陽の位置を見る限り、先ほどからほとんど時間は経っていない。多分、街に落ちた直後に拘束されたのだろう。
彼女の肩をゆすったのは、先程見た鬼士隊長シュタンだった。周囲には鬼士たちが武器を構えて彼女とシュタンを遠巻きに取り囲んでいる。その外側には大勢のやじ馬たちが、彼女を一目見ようとひしめき合っていた。
シュタンは屈みこんで彼女の肩に手を置いていた。すぐ目の前に見える彼の鋭い足の爪を見て、エマはぶるっと体を震わせた。
「どうやっても逃げられんぞ。おかしな真似をするなよ、魔物。」
シュタンは真面目な顔で、エマに言った。
「私、魔物じゃありません。エマっていう名前があります。」
「エマ? 闇小鬼たちの言葉で『地獄の王』か。恐ろしい名前だな。」
シュタンは恐ろしいものを見るような目で、エマを見た。自分の名前にそんな意味があったことに衝撃を受けたエマだったが、ここが別の世界だということを思い出して何とか気持ちを落ち着かせることができた。
「あのシュタンさん。私、この世界に神様を探しに来たんです。どこにいるか知りませんか?」
「神様を探しに?」
シュタンは呆気にとられたような表情をした。さすがにこれは唐突な質問すぎたみたいだ。もしエマが逆の立場で同じことを聞かれても、彼と同じ顔をしただろう。焦っておかしなことを言ってしまったことで、エマは急に恥ずかしくなってしまった。
しかしシュタンの答えは、エマの予想とは大きく異なっていた。
「偉大なる我らの神がお前のような魔物にお会いになるとは思えんがな。」
「!! 神様はいらっしゃるんですね!?」
「?? 何を当たり前のことを。神々がいらっしゃらなければ、どうやって世界が成り立つというんだ。」
シュタンにますます呆れられてしまったようだが、そんなことは彼女にはどうでもよかった。
神様はいた!! あとはどうにかしてドーラお姉ちゃんのことをお願いしなくちゃ。そのためなら私の命や魂を差し出したって構わない。
地面に転がされたまま喜ぶエマに、シュタンは言葉をかけた。
「お前、おかしな奴だな。自分がこれからどうなるか、心配じゃないのか?」
「・・・どうなるんですか?」
そう聞き返したエマの言葉に思わず吹き出してしまうシュタン。彼はひとしきり笑った後、エマに言った。
「それを決めるのは俺じゃない。巫女たちが今こっちに向かってる・・・最悪、殺されるかもしれんぞ。」
「それは困ります! 私、自分の村と家族を救うためにここに来たんですから!!」
エマの言葉に目を丸くするシュタン。彼は何事か考えるように、鋭い指の爪でポリポリと自分の頬を掻いた後、エマの足の拘束具を外してくれた。
「隊長、何してるんですか!!」
「心配するな。俺ががちゃんと見張ってる。それに『魔封じの枷』があれば、おかしな真似もできないだろう。」
そう言われ初めててエマは自分の魔力をうまく扱えなくなっていることに気が付いた。なるほど、シュタンの言う通り、このままではとても逃げられそうにない。
彼はエマの体を片手でひょいっと持ち上げると、横座りの姿勢にしてくれた。
「シュタンさん、ありがとう。実はさっきからほっぺたが痛かったの。」
彼女がにっこりと笑って礼を言い、ぺこりと頭を下げると、シュタンは神妙な顔で頬を掻きながら立ち上がり「ああ」とだけ答えた。エマには、彼の尖った耳の先の色がほんのり赤みを増しているような気がした。
それから間もなく、エマの様子を眺めていたやじ馬たちの間を抜け、通りの北側からこちらに向かってゆっくりと近づいてくる一団が見えた。
先頭に立っている女性はシュタンと同じ赤黒い肌の色をしている。彼女はその豊満な胸と細い腰つきがはっきりと分かる薄い毛皮の衣装を纏い、手には簡素な木の杖を持っていた。
顔立ちはシュタンたちとよく似ているがやや細面で、額の角は一本しか生えていない。彼女の後ろには様々な姿形をした女性(?)たちが並んでいる。おそらく彼女らが『巫女』たちなのだろう。
中点を過ぎた太陽が、彼女の手足や首に付けた不思議な色合いの金属の装身具を輝かせている。まったく似ていないのに、なぜかエマは彼女がテレサに似ているような気がした。
先頭に立っている女性はエマの側に立つ。戸惑っているとシュタンがエマを立たせてくれた。その様子をじっと見ていた女性が、エマに穏やかに話しかけてきた。
「私はこの街の巫女の長イルァツメです。あなたは『聖門』の向こう側から来た者ですね。『人間』という種族ではありませんか?」
それを聞いた鬼士たちが驚きの声を上げる。エマは彼女に自己紹介をし、自分の目的を伝えた。
「なるほど。事情は分かりました。悠久の時を隔てて門が開かれたのは、あなたの世界の危機を救うために我らの神の力を借りるためだったですね。」
「そうです。お願いです。私をあなた方の神様に会わせてください。」
エマは拘束された体でその場に跪き、彼女の足元に額を付けてお願いした。
「頭をお上げください、エマさん。互いの世界に危機が迫った時、それを救うために力を貸す。世界が分かたれたときに結ばれた古い盟約です。私たちはそれに従いましょう。」
「それじゃあ、神様に会わせてくださるんですね!?」
エマがそう言うと、彼女はゆっくりと頷いた。
「我らの神に会わせて差し上げます。ただ我らの神は荒ぶる神。世界を滅ぼしうる力を持つ荒神です。助力を得られるかどうかは、あなた次第。それでも構いませんか?」
「もちろんです! 私はそのためならどんなものでも差し出します。その神様はどこにいらっしゃるんですか!?」
「ここより遥か西の地。恐ろしい魔獣が蠢く暗黒の森の果て。闇の瘴気を吐き出す魔の山の天辺にいらっしゃいます。」
「ありがとうございます。私、すぐに向かいます。この枷を外してもらえませんか。」
彼女がシュタンに目配せすると、彼がエマの拘束具を外してくれた。乱れていた魔力が整い、体内に力がみなぎっていくのを感じる。
「じゃあすぐに出発しますね。私のホウキは・・・。」
そう言って傍らで成り行きを見守っていた鬼士からホウキを受けとろうとしたエマを、巫女が制止した。
「焦る必要はありませんよ。我らが神の力はこの世界に遍く満ちているのです。すでにあなたがここにいることもご存知です。」
「え、それじゃあ・・・!」
「もう間もなくここへいらっしゃるはずですよ。」
「なにぃ!?」
巫女のその言葉を聞いたシュタンは、慌てて鬼士たちに叫んだ。
「すぐに半鐘を鳴らせ!! 通りに出ている連中はすぐに建物の中に入れるんだ! 俺たちも全員丈夫な建物に退避するぞ!!」
街中に独特の調子を付けた半鐘が鳴り響く。その途端、たくさんいたやじ馬たちはあっという間にいなくなってしまった。
「エマ、幸運を祈るぜ。死ぬなよ!!」
「え? ええ??」
シュタンはそう言うと、巫女たちを連れてその場を離れ、近くにあった建物に避難してしまった。その場にポツンと取り残されるエマ。何が起こるのかと思っていると突然、明るい空が暗く陰った。
そして次の瞬間、凄まじい勢いで暴風が通りを走り抜けた。エマは暴風に体を持ち上げられそうになり、通りの脇にある水路の縁を無我夢中で掴んだ。
ごうごうと音を立てて風が吹き荒れる。固定されていない道具類や仕舞い忘れた天幕、荷車などが風に煽られ宙を舞った。太陽は完全に姿を隠し、夜がやってきたのかと思うほど辺りは暗くなった。
石造りの建物の一部がガラガラと音を立てて崩れ、小さな石がエマめがけて降り注いだ。まるで小石の雨のようだ。エマは体を風に持っていかれないよう、何とか水路に入り込んで目を瞑った。体を水路の壁にぎゅっと押しつけて風に耐える。
やがてドシンという地響きがしたかと思うと、唐突に風が止んだ。エマは恐る恐る目を開け、水路から這い出して空を見た。
心臓が止まるかと思った。視界を覆い尽くすほど巨大な爬虫類の顔が、じっと彼女を見つめていた。
キラキラと輝く黒曜石のような美しい鱗を持つその生き物は、茫然と立ち尽くすエマに向かってその巨大な顎を開くと、意外なほど美しい声で言葉を発した。
「我が名は暗黒竜ヴリトラ。全ての滅びを司り、世界の終末を見届けるものなり。大願を抱きて世界の理を越えし者よ。そなたの願いを聞いて進ぜよう。」
読んでくださった方、ありがとうございました。