165 聖都
ちょっと長いですが、途中で切りたくなかったので、一話にしてしまいました。次回もエマ回です。
「エウラリア様を探せ! 侵入者を捕らえるんだ!!」
暗い石の廊下に大勢の男たちの声と足音が響く。エマは幼い少女を抱きしめて、物陰にそっと身を潜ませた。
少女はぼんやりと焦点の合わない目で、エマにしがみついてきた。エマは少女を安心させるように彼女にそっと囁いた。
「大丈夫よ。私が必ずテレサ様のところに連れて行ってあげるからね。」
虚ろな目で、それでもこくりと頷く少女。エマはこの大聖堂に侵入するまでのことを思い返し、涙を堪えてテレサが囚われている地下牢獄までの道順を頭に思い描いた。
大陸を南北に渡って縦断するノルン山脈。それは高い壁となってエマの行く手を阻んでいた。
少しでも早く山脈を越えようと山壁がやや低くなっている場所を選んで飛行したのだが、それでも冬の空は凍てつくように冷たく、呼吸をするのも困難になるほどで危うく墜落しかけそうになった。
そんな無理をしたおかげで無事に山脈を越えられたものの、体力も魔力も限界まで使い尽くしてしまった。そこで山脈の向こう、広大な農地がどこまでも続く平原に辿り着いたエマは、平原の中にポツンと残った小さな美しい森で休憩を取ることにした。
それが今から2日前のことだ。
この辺りの空気はひんやりと冷たいが、雪は降っていなかった。ハウル村の秋の終わりくらいの気候に似ているとエマは思った。
小さな森の中には泉と祠があり、その横には小さな小屋が立っていた。森の木々からは何かの花だろうか、甘くさわやかな香りがした。
朝靄に煙る森の中には人の気配がなかったが、小屋の煙突からは煙が出ており、何かを煮ているような美味しそうな匂いが漂ってくる。
これまで携帯糧食ばかりを食べ続けていたエマは猛烈な飢えを感じたが、見知らぬ人の家を尋ねるわけにもいかないので、泉で水だけを分けてもらうことにした。
エマが泉に近づいてみると、水の中にキラキラと輝くものが見える。小さな魚でもいるのかと思い覗き込んでみると、それはたくさんの銅貨や銀貨だった。
泉の側の祠にも、見たことのない古い石の女神像が祀られている。ここはどうやら何かの神様の大切な場所に違いない。エマは女神像に向かって「勝手に入ってごめんなさい」と祈りを捧げ、すぐにその場を立ち去ることにした。
その時、祈りを捧げる彼女に、後ろからそっと声がかけられた。
「こんな早くにこの『約束の森』にいらっしゃるとは。何か大切なお願い事でもあられるのかな、お嬢さん。」
エマが驚いて振り向くと、そこには素朴な木の杖を持ったおじいさんが立っていた。おじいさんは細かい装飾の施された緑色の長衣を纏い、頭にもくすんだ緑色の布を巻きつけていた。
おじいさんは白いひげに覆われた浅黒い顔に人の好さそうな笑顔を浮かべて、じっとエマの方を見ている。
エマはおじいさんに知らずにこの森へ立ち入ったことを詫び、すぐに出ていきますと言って彼の前を通り過ぎようとした。
その途端、エマのお腹が盛大な音を立てた。恥ずかしさで思わず顔が熱くなる。
おじいさんはエマに「ちょうど朝飯ができたところでな。大したものではないが、一緒にどうじゃな」と言ってくれた。お腹をぐうぐう言わせながら断るわけにもいかないので、エマはその言葉に甘えることにした。
おじいさんの小屋は小さいけれどこざっぱりとして気持ちのいい場所だった。入ってすぐのところが厨房兼居間になっていて、その部屋の竈に美味しそうな匂いのする鍋がかけてある。
奥に続く扉があるので、向こうはおそらく寝室なのだろう。今いる部屋の壁の至る所には薬草や香草、茸、根菜などが丁寧に吊るされていた。
おじいさんはエマを小さな椅子に座らせた。そして丸太のテーブルの上に「熱いから気を付けておあがりなされ」と言って、鍋からよそった料理を木の椀に入れて差し出してくれた。
薄黄色をしたスープの中に白いふわふわしたものが浮いている。スープからはこれまで嗅いだことのない香ばしい匂いがした。おじいさんがふうふうと息をかけて食べる様子を真似してエマもスープを口にしてみた。
「あ、美味しい・・・ん、でも何だか・・・舌が・・。」
思ったよりもずっとコクのあるスープはとても美味しいが、少し舌がピリピリと痛むような刺激がある。エマはおじいさんがスープに何か薬を入れたのかと警戒し、思わずおじいさんを見上げた。おじいさんはにっこり笑ってエマに言った。
「香辛料の入ったものは口に合わんかったかな?」
「香辛料?」
「ああ、これじゃよ。この辺りではよく料理に使うものでな。寒い時には体が温まるんじゃ。」
そう言われると体がぽかぽかと温まっている気がする。おじいさんは厨房から色とりどりの粒の入った容器を持ってきてエマに見せてくれた。
「そっと匂いをかいでみなされ。」
エマは鼻を近づけて、匂いを確かめる。
「あ、いろんないい香りがする。これは植物の実や葉っぱですか?」
「うむ。この辺りで摂れるものばかりじゃよ。肉の臭みを消したり、食べ物を長持ちさせたりすることができるんじゃ。」
エマに料理を食べさせながら、おじいさんは一つ一つ香辛料の名前と効能を教えてくれた。ちなみにスープに浮いていた白い塊は小麦粉を水で溶いて鍋で煮たもので、口に入れるともちもちしていてとても美味しかった。
全部食べ終わった頃には、エマは汗をかくほど体が温まっていた。おじいさんの差し出してくれた冷たい水が物凄く美味しい。エマがお礼を言うと、おじいさんは嬉しそうに笑ってエマの頭を撫でてくれた。
おじいさんは自分のことを森林祭司だと名乗った。この辺りの領主に雇われてこの森の管理をしているそうだ。
「ここは『約束の森』という聖地でな。果たしたい約束がある者が訪れて、無事に果たせるようにと祈りを捧げる場所なのじゃよ。お嬢さんはこの辺りの者ではないようだが、どこに行きなさるつもりかね?」
エマが聖都エクターカーヒーンに行きたいのだというと、おじいさんは「ああ、なるほど聖女様の聖祭への巡礼者か」と手を打って納得した。
おじいさんは以前、聖都で暮らしていたことがあるということで、聖都のことについて詳しく教えてくれた。
「私、聖女様を探してるんです。聖女様はどこにいらっしゃるのですか?」
「聖女様というとカタリナ様かな? いや、確かカタリナ様から新しい聖女様に代わったと聞いたな。名前は確か・・・。」
「テレサ様ですか?」
「おお、そうそうテレサ様じゃった。歴代の聖女様の中でも極めて強いお力をお持ちで、初代聖女の再来といわれるお方だとか。いつかわしもお顔を拝見したいものじゃ。」
おじいさんの話を信じるなら、テレサはまだ死んではいないようだ。もちろん一般の者には生死を伏せているかもしれないのだが、テレサが生きているかもしれないという可能性が出てきたことで、エマは心にぐっと希望がわき上がって来るのを感じた。
おじいさんは聖女は聖都の西の果て、永遠の暗闇に閉ざされた異界の淵にある西方大聖堂にいると教えてくれた。
「永遠の暗闇に閉ざされた異界? なぜそんな場所に聖女様がいらっしゃるんですか?」
「言い伝えによれば、異界には我々とは異なる者たちが住んでおり、その者たちがこの世界を侵すことがないよう、聖女様のお力で封じておるというぞ。異界に迷い込んだ者は、恐ろしい怪物たちに生きたまま食われてしまうのだとか。お前さんも気を付けなされ。」
おじいさんはエマを気遣うようにそう言って、大聖堂の場所を詳しく説明してくれた。エマはおじいさんに礼を言って出発することにした。ゆっくり休めたおかげで、体力も魔力も十分に回復している。
おじいさんはエマがホウキに乗ってここまでやってきたことを知ると、ものすごく驚いていた。
「ここから聖都まで歩けば一月ほどかかるが、空を飛べるならもっと早く着けるじゃろうのう。聖都はこの大陸最大の都、大聖堂はその西の果てじゃ。迷うことはあるまいが、気を付けていくんじゃよ。」
出発前、おじいさんはエマに「そなたの約束が無事に果たされますように」と祈りを捧げ、おまじないをかけてくれた。
エマは手を振っておじいさんと別れ、《転移》を繰り返してその日のうちに聖都に辿り着くことができた。
聖都の場所はすぐに分かった。何しろ恐ろしく大きかったのだ。巨大な川を挟んで両側にどこまでも白い建物が広がっている。エマはこんなにたくさんの建物見たのは生まれて初めてだった。ドルアメデス王都も大きいと思ったけれど、聖都はその何十倍、いや何百倍もの大きさがある。
そしてその向こうに見えるのは異様な光景だった。
見渡す限り、黒い瘴気に覆われた大地が地平線の向こうまで続いている。瘴気はゆっくりと渦を巻き、うねりながら動いているが、まるで見えない壁に遮られているかのように、聖都の西の端からこちら側へは流れ出てこない。
聖女の力であの瘴気から世界が守られているというおじいさんの言葉が、はっきりと理解できた。あの瘴気を封じているのがテレサの力なのだとしたら、彼女は確実に生きている。エマは何としてでもテレサに会わなくてはと思った。
と同時に、もしもテレサ様が死んでしまったら、あの瘴気はどうなってしまうのだろうと思い、エマは体がぶるっと震わせた。
エマは《不可視化》の魔法で姿を隠すとホウキの速度を上げて、聖都の上空を一気に駆け抜けた。
大聖堂はすぐに見つかった。何しろ聖都の主要な大通りはすべて大聖堂へ続いているのだ。初めて見るエマであっても見間違えようがなかった。
それは聖都の中でも一際目立つ建物だった。彫刻の立ち並ぶ大通りの終点に建つ、壮麗な三階建ての円蓋棟を中心に、ぐるりと回廊状に2階建ての建物が取り巻いている。
大聖堂の横にはドルーア川の何倍もの広さを持つ川が流れていたが、その川は黒い瘴気に向かって流れ込んでいた。流れの先がどうなっているかは見ることができないけれど、微かに滝のような音が聞こえる気がした。
大聖堂は白い石で作られていて、色ガラスの嵌った窓が無数にある。壁面は美しい浮彫や彫刻で装飾されていた。
大聖堂の正面には何段もの広い石の階段が作られていて、周囲の建物より高くなるように作られていた。もともと丘だった場所をそのまま利用したのかもしれない。
階段を登り切った先、正面門には軽く両手を広げた美しい女性の像が祀られている。見上げるほど大きなその石像は、目を閉じ優しい微笑みを湛えていた。まるで巡礼にやってくる人々を優しく迎え入れているようだと、エマは思った。
石像の衣装がテレサのものと同じなので、きっとこれは聖女様の像なのだろう。エマは巡礼者たちでごった返す通りの一角にそっと降り立つと、聖女像に向かって「無事テレサ様に会えますように」と祈りを捧げた。
エマは人込みに紛れながら、大聖堂に向かって歩いて行った。ホウキで空から侵入しなかったのは、もしかしたら何か魔法の防壁のようなものがあるかもしれないと思ったからだ。
確か以前ミカエラが、彼女のいた聖女教の修道院では外敵から建物を守る結界魔法のようなものを修道女たちが使っていたと言っていた。そうであれば聖女教の総本山である大聖堂にも同じ魔法が使われている可能性が高い。エマはそう考えたのだ。
エマは巡礼者たちに紛れて正面門を潜った。巡礼者たちは年齢や性別、肌や髪の色はおろか種族までもバラバラで、多種多様な人(?)たちがいた。彼らは思い思いの巡礼服を纏い、聖女教の聖印を携えている。
大聖堂の入り口には特に門番などもおらず、誰でも自由に出入りできるようだ。人々と共にエマが中に入ると、そこは高い天井を持つ大きな礼拝堂だった。
正面の壁には天から差す光に照らされる聖女の像が祀られていて、その前に大勢の人たちが思い思いの姿勢で祈りを捧げていた。聖女像の脇には重厚な扉があり、その前には輝く鎧を着て鎚鉾を持った僧兵が立っている。
ここは一般用の礼拝所で、おそらくあの奥がテレサたちのいる場所なのだろう。エマはたくさんある石の柱の陰でこっそりと《不可視化》の魔法を使い姿を消した。そして奥の扉へ入る聖職者たちに混ざって、素早く中に入った。
扉の向こうは先程の人で溢れた礼拝堂とは違い、人気のない静かな回廊だった。たくさんの扉があったが、もちろんどこに行ったらよいかなど、エマに分かるはずもない。
潜入している以上、人に尋ねるわけにもいかない。どこから探したものかと途方に暮れていると、ふとエマの心に何者かが囁きかけてきた。
といってもはっきりとした言葉ではない。耳を澄ますと心の中にざわざわと木々が揺れるような音が聞こえ、甘くさわやかな香気を含んだ風が吹き抜けるのを感じるのだ。
エマはその香りに覚えがあった。あの『約束の森』の木々の香りだ。
もしかしたら、おじいさんのおまじないが私を導いてくれているのかも。
そう思ったエマは、その香りがする方へ回廊をどんどんと進んで行った。
途中、幾人かの聖職者や僧兵とすれ違ったものの、誰もエマには気が付かなかった。《不可視化》の魔法に加え、ガレスから教わった潜伏の技のおかげだった。
エマは香りに導かれて更に奥まで歩いて行ったが、やがて地下へと続く階段へと辿り着いた。階段の突き当りには重い鉄の扉があり、その前には僧兵が二人、直立不動の姿勢で立ち塞がっていた。
この奥にテレサがいる。これまで見てきた大聖堂内の様子とはまったく不釣り合いな階段と扉の様子を見て、エマはそう確信した。
あの向こうへ入りたいがおそらく扉には鍵がかかっているだろうし、見張りもいる。どうしようかと思案していたら、廊下の向こうから豪華な衣装を纏った肥満気味の男性が、光り輝く白銀の鎧に剣を帯びた男たちを引き連れてこちらにやってきた。
エマはそっと廊下の端に寄り、彼らを観察することにした。
すると肥満気味の男性のすぐ後ろを歩いていた背の高い男が、見えないはずのエマの方をじっと見つめた。彼は素早い動きで剣を抜くと、エマに向かって剣を一閃した。
「どうしたダウード隊長。曲者の気配でもしたのか?」
「・・・いえ、気のせいだったようです。参りましょう、スタリッジ枢機卿。」
ダウード隊長と呼ばれた騎士は、エマのまつ毛に触れる程の位置にあった剣を自分の腰に収めながらそう言い、他の騎士たちと一緒に階段を下りていく。騎士たちの最後尾にいたのは、虚ろな目をした幼い女の子だった。女の子の首には不釣り合いなほど大きな、白銀の首輪が付けられていた。
エマはじっと詰めていた息をゆっくりと吐きだした。その拍子に失禁しそうになり、慌てて足に力を入れる。
本当に危ないところだった。エマには剣を避ける余裕すらなかったのだ。騎士の動きに気が付いたときにはもう、目のすぐ前に剣の切っ先があった。
恐怖で棒立ちになったことが逆に幸いして、《不可視化》の魔法が解けずに済んだ。もし下手に動いていたら今頃は見つかって、捕まるかそのまま殺されるかしていたことだろう。エマは自分の幸運を、大地母神様や聖女様、それに約束の森の女神様に感謝した。
中に入る絶好の機会なのだが、あのダウード隊長という人がいる限りそれは難しそうだと思った。エマは少し離れたところから、地下室に続く階段の様子を伺うことにした。
しばらく時間が経ち、エマが何回目かの《不可視化》の魔法をかけ直した頃、彼らはようやく地下から出てきた。でもあの女の子と騎士が一人がいない。二人はまだ中にいるのだろう。
肥満気味の男性、スタリッジ枢機卿は、不快そうに顔をしかめながら言った。
「あれはまだ大丈夫なのか? 聖女の力をエウラリアに引き継ぐまで死んでもらっては困るのだが・・・。」
「あの女はまだ生きています。もうずいぶん前から言葉を発することはなくなりましたが、癒しの力は発現しています。」
顔色一つ変えずにそう言ったダウードの言葉に、枢機卿は鼻を鳴らした。
「女、か。あの姿ではもはや人かどうかも判別できん。あのような有様でも生き続けているとは、聖女の力とは度し難いものだな。」
さらに彼は誰に言うでもなく、歯噛みするように言葉を発した。
「あそこまで傷めつけても洗脳すらまったく受け付けんとは・・・。まあもっとも、もうすでに人語を解せるとは思えんがな。」
そして彼は門番の僧兵たちを振り返って言った。
「あれのエサの時間が終わったら、エウラリアを寝所に戻しておけ。決してあの娘を逃がすなよ。いいな。」
門番たちが無言で頷くのを見て、枢機卿はどしどしと足音を立てながら廊下の向こうへ消えていった。
さっきの枢機卿の言葉は、エマに希望と絶望を同時に齎した。テレサはまだ生きている。だがかなりひどい状態のようだ。今のエマの力で、果たしてテレサを救うことができるのだろうか。
どちらにせよ、今はテレサのところへ行くことが第一だ。ダウード隊長がいなくなった今が好機。エマは階段の入り口で騎士と幼い女の子が出てくるのをじっと待ち続けた。
間もなく女の子を急き立てるように騎士が姿を現した。エマは素早く慎重に階段を降りると、壁に身を寄せ彼らの間をすり抜けて扉を潜った。エマの後ろで重い音と共に扉が閉まり、ガチャリと鍵のかかる音が響いた。
扉の先は全くの暗闇だった。自分の手すら見ることができない。エマは《不可視化》の魔法を解除すると、辺りの気配を探った。小さな虫が這いまわるような音がする以外は、何の気配もしない。
ただ闇の奥からは血と腐敗した汚物の強烈な臭いが漂ってくる。エマは本当に小さく指先に《小さき灯》の魔法を発現させ、辺りの様子を見た。
エマが今いる場所は石の廊下の端だった。背後には今入ってきた重い扉がある。
短い廊下の両側に鉄格子の嵌った牢獄がいくつかあり、それを通り抜けた突き当りに下りの階段があった。牢獄は長いこと使われていないらしく、床に薄くほこりが積もっていた。
エマは階段を下りて行った。その後、何層か同じような牢獄と階段を通り抜けたところで、ぐんと血の臭いが強くなった。階段を降り切った先は、少し広い空間が広がっている。
その様子を見ようとして、明かりを少し強くしたエマは思わず息を呑んだ。
周りにあったのは、血の付いた恐ろしい道具類だった。鎖や枷なども所狭しと置いてあり、そのどれもがどす黒く変色した血に塗れていた。さらには家畜を解体するときに使うような刃物類も。エマはまだ真新しい血の滴る刃を見て、ゾッと体を震わせた。
部屋の奥には黒く重い金属の扉があった。扉のすぐ横の壁に掛けてある鍵は、血脂でねっとりと湿っていた。エマは恐怖に慄く心を奮い立たせ、扉の鍵を開けた。
ぎぎぃという軋みと共に扉が開くと、中からむせかえるような血の匂いと強烈な腐敗臭が溢れ出した。エマは吐き気を堪え、明かりを前に差し出して部屋の中に入ろうとした。
すると部屋の奥の暗闇からガチャリと重い鎖の音が響き、かすれた声が聞こえた。
「・・・その魔力は、エマですか? なぜあなたが、ここに?」
ひどくかすれ、空気の抜けるような音が混じっているが、聞き間違えようのない師匠の声。エマは思わず「お師匠様、助けに参りました!!」と叫んで、前に踏み出そうとした。
しかし次の瞬間、「来てはなりません!!」と思いがけず鋭い声で制止され、その場に立ち止まった。
「エマ、私の姿を見てはなりません。」
「で、でもお師匠様、酷いけがをなさっているのではありませんか? 早くこの魔法薬で治療を・・・。」
エマの言いかけた言葉は、テレサの残酷な一言によって遮られた。
「治療薬ではもうどうにもできないのですよ、エマ。」
驚いてエマが闇の中に目を向けるが、闇を見通すことはできなかった。
戸惑うエマにテレサはここにやってくるまでの経緯を尋ねた。エマの話を聞き終わると、テレサは彼女に言った。
「あなたにお願いがあります。私の妹弟子、エウラリアが枢機卿たちに囚われているのです。さっきあなたが見たと言っていた幼い少女がエウラリアです。彼女をここへ連れてきてください。彼女は大切な『聖女の器』なのです。」
「聖女の器・・・?」
「そうです。聖女の力を受け継ぐのにふさわしい資質を持った数少ない人間です。」
「受け継ぐって・・・!! お師匠様、まさか・・・!?」
「・・・お願いです、エマ。私にはもう時間がないのです。」
エマはその場にがっくりと両手を付き、声を上げて泣いた。こんなことが許されていいはずがない。そんなエマにテレサは優しく語り掛けた。
「あなたは優しい子ですね、エマ。だから私はあなたに今の私の姿を見て欲しくないのです。あなたの心が憎しみに染まることを、私は恐れているのですよ。」
ひとしきり泣いたエマは、涙と鼻水まみれの顔を外套でごしごしと拭き立ち上がった。
「お師匠様、任せていてください。エウラリアちゃんは必ず私が助けてここに連れてきます。」
「・・・ありがとう、エマ。」
エマは暗闇に向かってぺこりと一礼すると、テレサの牢獄を出て再び上を目指して階段をかけた。見張りの僧兵がいる扉まで戻ると、内側でわざと鉄格子を蹴飛ばし大きな音を立てた。
狙い通り僧兵が中の様子を調べるため扉を開けた隙に、さっと兵士たちの後ろを通り抜けて外に出た。後はテレサから聞いた聖女の寝所を目指すだけだ。
聖女の寝所は大聖堂の上階にあるらしい。エマは《不可視化》で姿を消したまま回廊から中庭へ出ると、ホウキに飛び乗って目当ての部屋の窓を破り、中に侵入した。
部屋の中にいたのは三人。エウラリアと彼女の世話係と思われる年配の女性、そして白銀の鎧を着た騎士だった。
エマは侵入すると同時に騎士と女性めがけて短杖を構え、素早く魔法を使った。
「《昏倒の眠り》!」
二人は一瞬で意識を失いその場に倒れた。石の床に騎士の鎧がぶつかり派手な音を立てる。部屋の外が騒がしくなるのも構わず、エマはエウラリアに駆け寄り彼女に言った。
「テレサ様があなたを呼んでる! 私と一緒に来て!!」
彼女は虚ろな目でエマを見ていたが、やがて「てれさ・・おねえさま・・・」と呟いてゆっくりと頷いた。エマは彼女を抱きかかえるとホウキに飛び乗り、窓から空に飛び出した。
同時に部屋の扉が開き、騎士たちが飛び込んでくる。「曲者だ!」と叫ぶ彼らに向けて《炎の槍》を撃ち込んで、エマはホウキで地上に戻った。
直撃させたけど鎧があるから死んではいないはずだ。もしかしたら火傷はしたかもしれないが、ここには癒しの力を持つ人がいっぱいいるから、きっと大丈夫!
初めて人間に向かって攻撃魔法を使ったことで、動揺しながら中庭に戻ったエマは、エウラリアを抱えて走り出そうとした。しかし次の瞬間、首の後ろがちりりとするような感じがして、エウラリアを抱えたまま咄嗟に地面に転がった。
一瞬前までエマの首のあった位置を鋭い剣閃が通り過ぎ、背後にあった庭園の木が切断されて轟音と共に倒れた。目に見えない斬撃。おそらく魔剣術と呼ばれる魔力格闘術だろう。
「ただの子供ではないな。何者だ?」
やや離れた場所にいたダウード隊長は次の攻撃の準備をしながらエマに誰何した。エマはそれに答えず無我夢中でありったけの《炎の槍》を放つ。しかしダウード隊長はそれをすべて剣で切り裂き後ろに逸らした。逸らされた炎の槍が隊長の背後に着弾し、中庭の木を燃え上がらせて他の騎士たちを慌てさせた。
エマはその隙に素早く回廊に飛び込み《不可視化》で姿を消した。そして物陰に入り込んで、エウラリアの口を手で塞ぎ、自分も息を詰めた。
エマを追って回廊に入ってきた隊長は、しばらく周囲を探していたが、やがて隊長を追ってきた騎士たちに「大聖堂の全ての出入り口を塞げ。曲者は空を飛ぶ。上空にも警戒するんだ」と指示して、共にその場を離れていった。
咄嗟で狙いが正確に付けられなかったとはいえ、至近距離から放った《炎の槍》をすべて切り裂かれるとは思わなかった。恐るべき剣技だ。エマは物陰を経由し周囲の様子を確認しながら、慎重にテレサの下に向かったのだった。
テレサの地下牢獄に至る階段の前には、多くの僧兵が見張りをしていた。エマは少し離れた位置から彼らに《昏倒の眠り》の魔法をつかった。しかし、今度は誰一人眠りに就くことはなかった。
魔法を使ったことで《不可視化》の魔法が解け、エマとエウラリアの姿が露になった。
「いたぞ!! やはりこの牢獄に入る気だ! 隊長に知らせろ!!」
僧兵たちが呼子を取り出し、独特の節をつけて吹き鳴らした。僧兵たちは武器を構え、一斉にエマたちに襲い掛かってきた。
どうやら彼らは事前に対抗呪文で防御していたようだ。対人戦闘、特に神聖魔法の使い手と戦う場合には、対抗呪文に気を付けるように王立学校の授業で教わったことを、今更ながらに思い出す。
エマは彼らに「ごめんなさい!」と心の中で謝りながら、夢中で短杖を振った。
「爆ぜろ!《火球》!!」
短縮詠唱により生み出された人の頭ほどの大きさの火球は僧兵たちの頭上で爆発し、彼らを吹き飛ばした。僧兵たちは廊下の壁に叩きつけられ、みんな動かなくなった。
魔獣の硬い表皮も打ち砕く《火球》の魔法を使ったことで、エマはついに人を殺してしまったと慄いた。だがよく見ると僧兵たちは皆、酷い火傷を負い手足が折れてはいるものの、死んではいない。
彼らの対抗呪文が火球の威力を軽減してくれたのだろう。エマは詰めていた息をそっと吐きだした。
しかしそれも束の間、廊下に向こうからこちらに向かってやってくる隊長の姿が見えた。
エマはエウラリアを担ぎ上げると、僧兵の一人の側に落ちていた鍵を拾い、階段を駆け下りた。重い扉を背中で押し開ける。隊長が階段の入り口に姿を見せると同時に扉を閉め、内側から鍵をかけた。
すぐに外から激しく扉を叩く音と「合鍵を持ってこい!」という声が小さく聞こえた。エマは《小さな灯》の魔法で明かりを作り出すと、地下に続く階段を大急ぎで駆け下りた。
担いでいるエウラリアの様子が気になったが、今は一刻も早くテレサの下に向かわなくてはならない。幸い彼女は感覚が鈍くなっているようで、先ほどからほとんど身動きすることも、声を立てることもない。
下まで降りた後、脱出する方法を探さなくてはいけないだろうが、それは降りた後で考えればいいのだ。エマはエウラリアを背中に背負いなおし、暗い階段を進んで行った。
最下層まで降りたとき、急に外からの音がはっきり聞こえるようになり、反響音が大きくなった。どうやら扉を破られてしまったらしい。間もなく隊長がここにやってくるだろう。
エマはテレサの牢獄に駆け込んだ。重い扉を内側からしっかりと閉める。扉の鍵がかかると同時に、暗闇から声が響いた。
「エマ、エウラリアを連れてきてくれたのですか?」
「は、はい、ここにいます。」
エマはエウラリアを背中から降ろし、光で彼女を照らしてから、ハッとした。
そうか、お師匠様はもう目が・・・。
ぐっと唇を噛み、涙を堪える。そんなエマにテレサが穏やかな声で語り掛けた。
「エマ、お願いです。この後、エウラリアをしっかり守ってあげてくださいね。」
「!! お師匠様、そんな・・・。」
まるで別れの言葉のようだ。エマの頬を熱い涙が伝う。対してテレサはすべての苦しみから解放されたかのような、安らかな声で呟くように言った。
「ああ、やっと、これで私もやっと・・・。」
「お、お師匠様!!」
「私もやっと・・・・本気が出せます。」
「・・・えっ?」
暗闇の中から突然白い光が溢れ、エマの瞳に突き刺さった。
「目が!! 目が!!」
暗闇の中を進んできたエマは、そのあまりの眩しさに両手で目を覆ってしまった。ようやく光に慣れたエマが目にしたものは、一糸纏わぬ姿で仁王立ちするテレサの姿だった。
テレサは以前と何ら変わりない美しい裸身を晒し、全身から神々しい光を放っていた。いや、変わりなくはない。彼女の肉体は以前よりもずっと引き締まり、しなやかで美しい筋肉に覆われている。まるで闘神のような姿だった。
あまりの状況の二の句が継げないエマにテレサはつかつかと歩み寄ると、彼女を強く抱きしめた。
「お師匠様、酷いケガをなさっていたはずじゃ・・・?」
「ええ、何か月も拷問を受けていましたから。でも私は自分の意識を魂の内側に封じ込め、肉体との繋がりを絶つことでそれに耐えていたのです。完全に繋がりを絶つと肉体が死んでしまうので随分痛い思いをしましたが、おかげでなんとか今まで意識を保つことができました。」
エマはテレサの体を間近でまじまじと見つめた。彼女は生まれたての赤ん坊のようにすべすべした肌をしている。テレサは少し恥ずかしそうにエマに説明した。
「今のこの私の体は、魂の内側に封じていた私の意識を元に、聖女自身にしか使うことのできない治癒魔法《再生》で再構成したものです。今まではエウラリアを囚われていたため、脱出の機会を得られませんでしたが、あなたのおかげでようやく反撃することができます。本当にありがとうエマ。」
テレサは力強い調子でそう言った。エマはテレサの両腕を掴み、顔を覗き込んで尋ねた。
「じゃあ、お師匠様、無事なんですね? 死んだりしませんよね?」
「ええ、大丈夫ですよ。聖女は簡単には死にません。」
にっこりと微笑むテレサの顔を見て、エマは声を上げて彼女の堅い胸に顔を埋めた。これまで感じていた不安が一気に溢れ出し、涙となって流れ落ちていく。
よかった、本当によかった。エマの心には安堵が満ちていった。
テレサはしばらくエマの髪を優しく撫でていたが、扉の外が騒がしくなったことで手を止めた。エマもハッとして顔を上げる。
テレサはエウラリアの首に手を伸ばすと、嵌められていた白銀の首輪を力任せに引きちぎった。途端にエウラリアは体を震わせ、意識を失った。魔道具破壊の反動による衝撃のせいだろうとエマは思った。
「エマ、すぐにここを出ます。・・・ところで何か体を覆うものは持っていないかしら?」
テレサはエマの差し出した服を身に付けた。ただサイズが合わないので、胸と腰回りが何とか隠れる程度しかない。一応、外套も上から羽織ってみたものの焼け石に水だった。
「ま、まあこれで行くしかなさそうですね。非常事態ですし、神もお許しくださるでしょう。」
何とか少しでも腰回りを隠せないかと苦心するテレサに、エマは言った。
「お師匠様、ここから出る方法があるのですか? 隠し扉とか・・・。」
「そんなものはありません。随分前に放棄されていた地下牢獄ですからね。」
「外には凄腕の隊長がいるんです! どうやって出たらいいでしょう? 《不可視化》で姿を隠してもすぐに見つかってしまいそうですし・・・。」
焦るエマに対しテレサはにっこりと微笑んだ。
「そんなものは必要ありませんよ、エマ。正面突破あるのみです。」
テレサはそう言うと、彼女が拘束されていたと思われる部屋の奥の石壁に歩み寄った。そこには凶暴な魔獣でも繋いでおくためものかと思うほど、長くて太い鎖が壁に固定されている。
テレサはそれを両手で掴むと、裂帛の気合と共に力を込めた。彼女の全身の筋肉が盛り上がり、壁に深く打ち込まれた金具と石壁ごと鎖が外れて、ごとりとその場に落ちる。
「さすがに金剛鋼の鎖は千切れませんね。でもおかげでよいものが手に入りました。」
彼女は鎖を握った手にぐっと力を込める。そしてニカっと白い歯を見せてエマに笑いかけた。
「さあ行きましょう、エマ。これからは・・・」
「これからは、何ですかお師匠様?」
テレサの目がギラリと輝く。
「・・・聖女の時間です!」
読んでくださった方、ありがとうございました。