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Missドラゴンの家計簿  作者: 青背表紙
165/188

159 砂漠

今週忙しくて3日で1話しか書けませんでした。来週はもう少し書きたいです。

 ハウル村を離れてから6日目。湖に浮かぶ美しい城塞都市を後にしたエマは、無理をしないよう《転移》を繰り返しながら西へ西へと進み続けていた。


 昨日はドーラの作ってくれた魔力回復薬を飲みながら、一日に何度も《転移》の魔法を使ったせいで、少しずつ詠唱速度が上がり、魔力の消費も少なくなってきている。


 エマは以前ガブリエラが「同じ呪文を何度も使うと体の中に魔力の回路ができやすくなる」という話をしていたことを思い出した。ただ成長期にそれをやりすぎると、魔力の成長に偏りが出るから気を付けなさいと言われたことも。






 エマは今、王立学校のアンフィトリテ先生の下で治療と訓練をすることで、何とか魔力の成長バランスを取っている状態だ。《転移》のように魔力消費が大きく、詠唱時間も長い魔法を繰り返し使ったことで、きっとまたバランスが崩れてしまっていることだろう。


 成長期の魔力の偏りが大きくなると体の機能を失ったり、体調を崩したりする症状が現れはじめ、最終的には命に係わる状況に陥ることもあるという。


 エマだって死ぬのは怖いし、体が動かなくなるのは嫌だ。でも今は一刻を争う状況。深く考えると怖いので、今はそのことを考えないようにしようと決める。彼女は体調の変化に注意を払いながら、その後も《転移》の魔法を使い続けた。






「そう言えば《転移》って空間魔法よね。分類的には無属性魔法に分類されるはずだけど、魔力が無属性魔法に偏ると一体どうなっちゃうんだろう?」


 エマは回復薬の効果が出るのを待つまでの間、魔法のホウキで移動しながらそう呟いた。空を移動中は魔力の制御以外、特にすることもないので、つい色々なことを考えてしまう。


 母のことやドーラのこと、村のこと。残してきた家族のこと。そしてこの先に待ち受ける、まだ見ぬ敵のこと。


 一人でいる不安感が募り心細さに負けそうになるのをごまかすため、エマは周囲の景色に目を向けた。






 眼下には大きな川と、その河口に寄り添うように集まった六つの城塞都市群が見える。その先には広々とした砂地がずっと遠くまで続いていた。砂地の端はゆらゆらと風景が揺らめき、はっきりと見えなかった。


 砂地の上を白い帆をかけた舟が滑るように走っている。まるで砂でできた海のようだとエマは思った。上から見ると、あの舟は先に見える泉を目指しているようだ。泉の周りには小さな森と畑、そして色とりどりのたくさんの天幕が立っていた。


 ちょうど手持ちの食料も少なくなってきているところだし、あそこで何か食べ物を分けてもらおうかな。ついでにここがどの辺りなのかも教えてもらえるといいんだけど。


 欲を言えば、夏用の衣服も手に入れたい。村を出てきたときは凍えるような寒さだったため、かなり厚着をしているうえに、風を通しにくい外套まで着ていたのだ。


 でもこの辺りの気候はハウル村の真夏よりもずっと暑い。もう少し北寄りに移動すれば涼しくなるのかもしれないが、余り進路を変えすぎて迷子になると困るので、あの湖上都市からずっと西に進み続けてきているのだ。


 今は外套を脱いで、着る服を減らすことで何とか耐えているけれど、これがあと2、3日も続けば、完全にばててしまうだろう。


 エマは《不可視化》の魔法を自分にかけると、泉の側に降り立つために高度を下げていった。






「あの舟、近くで見るとすごく大きいや・・・でも、あの後ろの煙みたいなの何だろう?」


 上空からははっきりと見えなかったが、近寄ってみるとスーデンハーフからの塩運搬船くらいの大きさの船の後ろに、不自然な盛り上がりがあり砂煙が上がっている。


 船は風を巧みに捉まえジグザグに移動しているが、盛り上がりはその後をぴったりとついてきていた。


 ひょっとしてあの船はあの盛り上がりから逃げているのかしら。


 エマが不思議に思って空中に静止したままじっと観察していると、突然砂の盛り上がりからすごい勢いで砂が噴き上がり、直後、赤黒い色をした巨大な魔獣の頭が出現した。目も鼻もないその頭は緩慢な動きで大きく口を開き、すぐ前を走る船に噛みつこうとした。


 魔獣は巨大なミミズのような見た目だが、その口の中には粘液の滴る鋭い牙がずらりと並んでいた。吹き上がる砂の直撃を受けた船は制御を失い、速度が落ちている。船を一飲みにできるほど巨大な口が、船の上から覆いかぶさった。







 エマは咄嗟にホウキの速度を上げ、魔獣の前に飛び出していた。


「《炎の槍》!」


 空中に炎でできた槍が無数に出現し、魔獣の口中に飛び込んでいく。魔法を行使したことによって《不可視化》の魔法が解け、エマの姿が露になった。


 エマの放った炎の槍は魔獣の口の中で炸裂した。魔獣はその勢いで大きくのけ反り、空気を震わすような怒りの叫びを上げた。しかし、余りにも巨大な魔獣に対して、炎の槍はさほど効果がなかったようだった。


 両手でホウキを握っていて短杖ワンドを使えなかったため、十分に火力を出せなかったせいもある。それでも並みの魔獣であれば一発で焼き尽くせるほどの炎の槍をあれだけ口内に受けて、ほとんど傷を負わせることができないとは、呆れるほどの頑丈さだ。






 魔獣が大きくのけ反り動きを止めた隙に、船も制御を取り戻したようだ。滑るように魔獣から離れていく。エマも魔獣から離れるため、高度を上げようとした。


 しかし彼女の動きに合わせるかのように、魔獣がその巨大な体を上へ大きく伸ばした。まるで小山が伸び上がっていくような迫力がある。魔獣はその大きく伸びた巨体を、ゆっくりと砂上に叩きつけた。


 余りの衝撃で凄まじい勢いで砂が舞い上がり、エマを直撃した。彼女の視界が砂で一杯になり、全身に熱い砂が降り注ぐ。エマは爆風でクルクル回転するホウキから振り落とされまいと、体ごとホウキにしがみついた。


 魔獣の起こした衝撃波は砂の上に大きなうねりを生み出した。まるで逆巻く波のように砂が動き、それに巻き込まれた船はきりもみしながら横転して動きを止めた。魔獣がゆっくりと体を起こし、巨大な口を開いて船へと迫っていく。






 何とか空中で体勢を整えたエマは腰のベルトから短杖を取り出し、ホウキを魔獣と船の間に滑り込ませた。


 エマが魔獣を迎え撃つため杖を構えると同時に、背後の船から声が上がった。


「こいつに炎は効かない! 逃げろ!!」


 エマは瞬時に炎の魔力を高め、素早く呪文を詠唱した。


「世界を包む大いなる炎よ。今ひと時その歩みを留め、凍てつく刃となりて我が敵を切り裂け!《氷雪の嵐刃》!!」


 エマの眼前に迫っていた魔獣の巨大な頭を中心にして、白い霜を含んだ激しい風が巻き起こった。渦巻く極寒の風は魔獣の硬い外皮を瞬く間に凍り付かせ、霜は鋭い氷の刃となって魔獣をズタズタに切り裂く。


 無数の炎の槍の直撃を受けてもびくともしなかった魔獣が、断末魔の声を上げながらゆっくりと倒れていった。






 巨大な魔獣を一撃で葬り去ったエマの魔法。しかし魔獣との距離が近すぎたため、その威力は術者であるエマをも巻き込んでしまっていた。


 発動と同時にその場からの離脱動作をとったことで魔法の直撃は免れたものの、風に煽られ体を切り裂かれて、エマは細い悲鳴を上げながらホウキと共に砂地に落下した。


 ホウキにかけられた《浮遊》の魔法が自動で発動し、落下速度は落ちた。しかし落下の勢いを完全に殺すことはできず、砂に激しく叩きつけられてエマは意識を失った。


「ガブリエラ様に知られたら、きっと、すごく、怒られちゃうな・・・。」


 急速に暗くなっていく視界の端でこちらに向かって人影を捉えながら彼女の脳裏によぎったのは、魔法を使う時の安全距離を口酸っぱく言い聞かせる師匠ガブリエラの姿だった。











 涼しい風に頬を撫でられ、エマはゆっくりと目を開けた。草と魚をモチーフにしたきれいな模様の天井がその目に映る。


「!! よかった。気が付いたんだね。」


 シュウシュウという奇妙な音と共に発せられた言葉の方に目を向けたエマは、「きゃ」っと小さく悲鳴を上げて慌てて飛び起きた。


 そんな彼女を首をかしげて心配そうに見つめているのは、赤い鱗に覆われた巨大な蜥蜴だった。二本足で直立した蜥蜴はエマが見上げるほど身長が高い。多分普通の男の人よりもずっと大きいだろう。鋭い爪のあるその手には、砂で汚れた布が握られていた。


蜥蜴人リザードマン族を見るのは初めてかい? ならさぞびっくりしただろうね。驚かせて悪かったよ。」


 蜥蜴は目を細め、両端を釣り上げた口からシュウシュウと息を吹き出した。






 もしかしたら笑っているのかしら。


 そう思って彼女が改めて観察してみると、恐ろしげに見えた顔にも優しい表情があることが分かった。蜥蜴は彼女に笑いながら自己紹介をした。


「あたしは『輝く赤鱗』族のガーシャ。この行商隊キャラバンの長ザラの『いちの雌』だよ。」


 ガーシャは誇らしげにそう言うと、長い舌をぺろりと口から覗かせた。エマは思わずぎょっとしたが、ガーシャは非常に機嫌がよさそうに見える。きっとこれは彼女の嬉しい時の仕草なのだろう。


 状況が分からず戸惑うエマに、彼女は言った。


「あんたの魔法すごいね。あの大砂虫を一撃で倒す魔法使いなんて初めて見たよ。助けてくれてありがとう。」


 彼女はそう言って長い尻尾の先をピッと立てた。


「私こそ助けてもらったみたいでありがとう。」


 エマは彼女にぺこりと頭を下げた。彼女はエマに短杖とホウキを手渡してくれた。






「大砂虫が死んだ後、死骸からすごい勢いで砂が吹き出してきてさ。砂に埋まりかけてたあんたとこの杖とホウキを、皆で慌てて掘り出したんだよ。体中砂だらけだったから、さっき少し拭かせてもらってたんだ。続きは自分で拭くかい?」


 彼女はそう言って手に持っていた濡れた布をエマに差し出した。言われてみれば髪や服の間に砂が入り込んでいる感じがする。エマは彼女の布を丁重に断り、自分に向かって《洗浄》と《乾燥》の魔法を使った。


 彼女はそれを見て「へえ、便利なもんだね!」と言って、口からふしゅうと息を吹き出した。


「ガーシャさん、ここは一体どこなんですか?」


 エマがそう尋ねると彼女は金色の瞳をくりくりと回して「あんた自分がどこにいるかもわからず、この大砂海を越えるつもりだったのかい」と呆れたように言った。






 彼女によるとここはガンド大砂海と呼ばれる広大な砂漠の、南端にあるオアシスの一つだそうだ。大砂海にはこのようなオアシスが点在していて、彼ら行商隊はそれを魔道具と星の動きを頼りに中継しながら、砂船で横断しているのだという。


「オアシスを見つけられなかったら、すぐに干からびて骨になっちまうんだ。自分の居場所も分からずに大砂海に迷い込むなんて、死にに行くようなもんだよ。」


 彼女はそう言ってから「ああ、でもあんたは空を飛べるんだったね」と笑った。






「私、エクターカーヒーンっていう街に行かなきゃならないんです。ガーシャさんはどこにあるか知ってますか?」


「当たり前だろ。聖女教の聖地なんだから。大陸西部では一番大きな街だよ。あんた、巡礼者なのかい。」


 彼女は一人で納得したように頷いて、聖都の場所を教えてくれた。


 ガンド大砂海の西端にノルン山脈と呼ばれる巨大な山脈がある。それを越えた先には肥沃な大地が広がるティエル平原があり、その更に西を南北に流れるアルム大河の上流、大河が二つに分かれる場所を川に沿って西に進んだ先に聖都エクターカーヒーンがあるという。ざっくり言うと、山脈を越えて北西に行けばよいらしい。


「大砂海を迂回してノルン山脈を抜ける大きな交易路が東西公路さ。あたしらも公路を目指してるんだよ。」


 彼女たちはアルム大河の河口流域に住んでいるという。そこで作られた砂糖を売るために、海路で大砂海の南側からここへやってきたそうだ。彼らの目的地は東西公路を東に進んだ先にある内陸の小さな城塞都市国家群らしい。






「あたしらの国では砂糖がどっさり取れるんだよ。それを大陸の東に持っていけばすごく儲かるんだ。」


「分かります。私の国でも砂糖はありましたけど、同じ重さの金と同じ値段で取引されていましたから・・・。」


「ええ、そんなに高いのかい!?」


 エマがそう言うと、彼女はシューっと大きな息を吐きだして驚いた。彼女は天幕の片隅に置いてある長櫃をごそごそとまさぐった後、彼女に大きめの皮袋を手渡した。エマが中を開いてみると、中には茶色い石のようなものが一杯に詰まっている。


「それが砂糖さ。あたしらの国ではその袋一つで大体銅貨4枚ってところかね。」


 エマは驚いて手の中にある袋を見た。彼女が勧めてくれたので、小さな石の欠片を一つ摘まんで口に入れてみる。


「!! すごく甘くて、美味しい・・・!!」


 エマは口の中に広がる幸せをじっくりと味わった。以前ドーラに食べさせてもらった星砂糖はひんやりとした食感だったけれど、これは口の中で自然に蕩けていつまでも甘みが残る感じがする。






 嬉しそうなエマの様子を見て、ガーシャが笑いながら言った。


「美味いだろう? あたしらの里のもんが作ったものなのさ。これをあんたの国に持っていけば、ずいぶん儲かるんだろうけど、生憎と蜥蜴人あたしらは寒いのが苦手でね・・・。」


 蜥蜴人は気温が下がると動きが鈍くなってしまい、死んでしまうこともあるという。エマは初めて聞く話にとても興味を魅かれたが、すぐに旅の目的を思い出した。


 彼女に礼を言って天幕を出る。エマの姿を見た蜥蜴人たちがたちまち周りに集まってきて口々に礼を言い、しっぽをピッと立てた。


 エマが旅を続けるために食料や衣服を必要としているという話を彼らにしていると「ならばそれは俺が準備させてもらおう」という声がした。


 周囲の蜥蜴人たちが道を空けた所に現れたのは、一際大きい蜥蜴人だった。その蜥蜴人は輝くような赤い鱗をしていて、頭から尾の先までたてがみのように立派なとさかがある。そして首周りに小さな襟巻のような襞を持っていた。


「俺はこの隊の長ザラ。救ってくれた礼を言わせてくれ、空飛ぶ魔法使い。」


 ザラは彼女にそう言って襞を軽く動かし、しっぽを立てた。






 ザラの傍らにはいつの間にかガーシャが寄り添っている。ガーシャの他にも彼女と同じよう何人(?)かの、やや小柄でとさかのない蜥蜴人がザラに寄り添っていた。ガーシャが『一の雌』と言っていたことから考えると全員が、彼の妻たちなのだろう。


 ザラは周囲にいる蜥蜴人たちにエマの希望に沿うものを集めるように指示した。指示を受けた蜥蜴人たちがオアシスの周りにある数多くの天幕へと散っていく。


「魔法使いが自分でオアシスのバザールで買い物してもいいが、質の悪い連中もいるからな。ここのやり方に慣れてる俺たちに任せてくれ。」


 ザラはそう言って笑った。しばらく待っていると、エマの必要なものを蜥蜴人たちが持ってきてくれた。更にはエマの倒した大砂虫の魔石も回収して来てくれた。エマは品物の代金と回収の手数料を支払おうとしたが、助けてもらったお礼だからと受け取ってもらえなかった。恐縮するエマに、ザラは言った。






「では、もしよかったら、あの大砂虫の革を俺たちに引き取らせてもらえないか?」


 大砂虫の革は炎に強いうえに伸縮性に富むので、素材として高値で取引されているそうだ。大砂虫の体の大半は砂で出来ており、死ぬと砂が抜けて皮と僅かな肉、そして内臓だけが残る。


 巨大な魔獣のため、素材の回収や後処理をするのに多くの人手と時間が必要になるが、それだけの手間をかけても十分な見返りがあるのだという。


 先を急ぐエマには当然そんなことをしている時間はないので、二つ返事で了承した。本当は魔石も引き取ってほしかったのだけれど「そんな高価なものはとても受け取れない」と断られてしまった。


 まあ魔石だけなら《収納》の中に仕舞っておけばいいか。そう思ってエマは、金色の光を放つ大きな土属性の魔石を《収納》の魔法で作った物入に放り込んだ。






 ザラはエマに大砂虫の革の代金を渡そうとしたが、エマは丁重に断った。すると彼はエマに砂糖の入った皮袋を一つと小さな魔道具、そして何かの植物の実と動物の骨を組み合わせて作ったお守りを手渡した。


「そのお守りは俺たちの部族の客人の証だ。もし俺たちの里に立ち寄ることがあったら、それを見せるといい。皆、魔法使いを歓待してくれるはずだ。」


 エマは彼に丁寧にお礼を言った。彼の気持ちはもちろん、思いがけなく手に入った砂糖がすごくありがたかった。エマはしっぽをパタパタさせる彼らと手を振って別れ、ホウキで上空に飛び上がった。


 まだ日は高い。ゆっくり休めたことで魔力も十分に回復している。今日はもう少し先まで進むことができそうだ。


 ザラとガーシャの話によると、ここからエクターカーヒーンまでは徒歩で三か月くらいのところにあるらしい。ざっくりとした計算だが、今まで一か月分の距離を移動するのにおよそ2日かかっている。


 つまり最短であと6日もあれば目的地に到着できるということだ。もちろん何もトラブルがなければの話だけれど。






 徒歩で行く場合は大砂海を渡ったり山脈を越えたりする必要があるが、空を飛べるエマは直線的に移動できるので、もしかしたらもう少し早く到着できる可能性もある。彼女は東の空を振り返った。


 待っててね、ドーラお姉ちゃん。私が必ず助けてあげるから。


 エマの胸に東の果てにあるハウル村の情景、そして母の笑顔が思い起こされる。彼女はぐっと目を瞑った後、懐から小さな魔道具を取り出した。ザラからもらったこの魔道具には、方角を示す文字と小さな針が付いている。


 エマの手の中で針がクルクルと回り、やがて北を指してぴたりと止まった。これは方角を正確に知ることができるという魔道具らしい。しかも魔力を持っていない人でも使うことができるのだそうだ。どういう仕組みなのか、無事に帰れたらマルーシャ先生に聞いてみようと、彼女は思った。






 エマは自分の目指す方角である北西に目を向けた。どこまでも続く砂の海の向こうに、うっすらと山の影のようなものが見える。あれがノルン山脈なのだろう。


 彼女は《視力強化》の魔法を使い、目に見えるギリギリの場所を目的地に向けて《転移》の魔法を使った。一瞬にして移動したはずだが、周囲の風景は全く変わっていない。どこまでも広がる砂の海があるだけだ。さっきまで後ろに見えていたオアシスがなくなっていなければ、魔法に失敗したかと思うところだ。


 腰のベルトから魔力回復薬を取り出して口に含む。甘い回復薬が喉を通り抜けると、胸の辺りからじわじわと温かいものが沸き上がってくる感じがした。薬が完全に効果を表し、再び《転移》する魔力が回復するまでは、もうしばらくかかる。


 エマはザラからもらった夏用の外套をしっかりと体に巻き付けると、ホウキを北西に向かって加速させた。水棲魔獣の革で出来ているというこの外套は、太陽の光を遮ってくれる上に風をよく通す。おかげでかなり過ごしやすくなった。


 降り注ぐ真夏の太陽の下、心地よい風を体いっぱいに浴びながら青空を飛ぶ。その涼風はこの先に待ち受けるであろう苦難に対するエマの不安を、少し和らげてくれたのだった。
















 ロウレアナとの遭遇戦の二日後、ルッツ家の侍女リアは間諜仲間たちと共にハウル村に向けて移動を続けていた。


 ハウル村が目前に迫り、枝を伝って木々の上を跳び渡っている時、彼女は眼下にいる人影に気付いて思わず「あっ」と声を上げた。同時に先頭を行く首領こと、リアの祖母コネリも動きを止める。


「おばあ様!」


「リア。行ってきなさい。」


 リアはさっと地上に降り立つと、全身を覆う灰色の地味な装束を脱ぎ、素早く作業服に着替えた。彼女は逸る気持ちを抑えて、少し離れた場所を歩く人影に声をかけた。






「カール様!!」


「・・・リアか!? なぜこんなところに?」


 駆け寄っていくリアを心配そうに見つめるカール。リアは彼の視線を感じ、胸が高鳴るのを抑えられなかった。


「カール様のお帰りが遅いので、探しに参りました。カール様、敵と戦われたのですね?」


「ああ。心配かけてすまなかった。だがもうだいぶ良くなっているよ。」


 言葉とは裏腹に、僅かに顔をしかめたカールの表情が、傷がまだ癒えていないことをリアに伝えた。カールの服はズタズタに切り裂かれ、乾いた血で赤黒く変色している。


「せっかく来てくれたのに申し訳ないが、女の身であまり無茶をするな。私と一緒に村まで行こう。」


 カールはそう言ってリアの頭に手を軽く乗せた。リアは自分の頬と耳の先が熱くなるのを感じた。






 カール様は昔から優しい。優しすぎる。御父上のハインリヒ様がカール様にだけはルッツ家の秘密を明かさず、王家の官吏になるよう勧めたのは、カール様のことを思いやってのことだ。


 リアは昔と変わらず優しい目を向けてくれるカールを、熱を隠した瞳でじっと見つめた。


 カール様、リアは今年で17歳です。もう大人の女なのですよ。


 いつまでも本当の妹であるかのように接してくれるカールの態度が嬉しくもあり、もどかしくもあった。カールとは主従関係であり、自分が彼にとって恋愛の対象でないことは、彼女もよく分かっている。


 しかし幼い頃から憧れ続けたカールへの思いを断ち切ることは簡単ではなかった。彼女は心に秘めた思いが目に現れないよう慎重に隠し、冷静さを装いつつカールに問いかけた。






「カール様、一体何があったのですか?」


 カールは思うに任せぬ体を懸命に動かし、必死に前に進みながら森の中で見たこと、そして半獣人の女と再び戦ったことを話した。たちまちリアの顔色が変わる。


「すぐに村に知らせなくてはなりません!」


「その通りだよ、リア。急ごう。」


 カールは額に脂汗を浮かべ、歩を速めた。リアはカールに気付かれないように、そっと樹上に目をやる。リアと目を合わせたコネリがこくんと頷いた。コネリも今の話を聞いていてくれたようだ。コネリがさっと手を振ると、配下の一人が木から音もなく飛び降り、カールの前に立った。






「何者だ!?」


 鋭い動きで剣を構え誰何するカールに対し、覆面で顔を隠した灰色装束の男はおもむろに跪いた。


「カール・ルッツ令外男爵様でいらっしゃいますね。私は王家にお仕えする間諜の一人でございます。」


 男はそう言って装束を捲り、王家の紋章の入った短刀を示した。


「助かった。陛下が援軍を差し向けてくださったのだな。」


 安心したように息を吐くカールに男が言った。






「いいえ、王都は現在正体不明の集団による無差別攻撃で厳戒態勢になっております。主要な街道と水路は封鎖され、ハウル村へ大規模な援軍を送ることができない状態です。私はハウル村の様子を探るよう命を受け、こちらに参りました。」


 カールとリアは男の言葉にひどく驚いた。もちろんリアは事前聞かされて知っている話なので、驚いてみせただけなのだが。


「そうか。では村へ急ぎ向かってほしい。そしてミカエラ様に伝えてほしいのだ。」


 カールは先程リアにした話をもう一度繰り返した。男は「確かに承りました」と言い、樹上に飛び上がって姿を消した。それと同時にカールはその場に崩れ落ちた。






「カール様!!」


 リアが慌てて彼を抱え起こしたが、すでにカールは深い眠りに落ちていた。カールの性格からして、おそらく傷が十分に癒えないうちから、一睡もせずに二日間歩き続けたのだろう。


 本当に、いつも他人のために無理ばかりして。


 彼女はカールの頭を自分の膝にそっと乗せた。彼の額にかかる髪をそっと指で払い、昔から変わらない寝顔を覗き込む。


 彼女はカールのまっすぐでひたむきな性格を愛していた。しかしそのひたむきさが今はハウル村、とりわけドーラ一人に向けられていることに激しい嫉妬を覚えた。






 彼女はそっと自分の腰に手をやり、服の下に隠した愛用の短刀の存在を確かめた。


 カール様を誰にも渡したくない。いっそのことこのまま、眠っていらっしゃるカール様の首を掻き切ってしまおうか。そうすればカール様は永遠に私の手の中から離れることがなくなる。私だけのカール様でいてくださる。


 カールと共に過ごした日々が彼女の脳裏をよぎる。自分に向けられた彼の優しい眼差しと笑顔。そしてその眼差しがいつか一人の女性だけに向けられるようになったことも。


 リアの頬を伝った涙がぽたりと一粒カールの顔に落ち、彼の頬の血と汚れを流して消えた。彼女は眠る彼の唇にそっと指を触れ、その指を自分の唇に当てた。そして彼女はこれ以上涙を零すまいと、ぐっと目を瞑った。






 これは夢だ。ほんのひと時の、でも私にとっては一生の一度きりの。


「・・・このまま永遠に時が止まってしまえばいいのに。」


 リアはそう呟いて空を見上げた。木々の梢の間に見える灰色の雪雲に覆われた空からは、真っ白い雪が音もなく舞い落ちてくる。彼女はカールの体を冷やさないように姿勢を変え、眠る彼をそっと抱きしめた。


 顔を寄せたカールの胸から温もりが伝わり、規則正しい鼓動の音が聞こえる。彼女にはその音が、幸せな時間の終わりを告げる使者の足音のように感じられてならなかった。

読んでくださった方、ありがとうございました。

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