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Missドラゴンの家計簿  作者: 青背表紙
162/188

156 契約

ブックマーク110件いただきました。たくさんの方に読んでいただいて、とても幸せです。最後まで頑張りますので、お付き合いいただけると嬉しいです。

 エマが光の幕をくぐり門から出ると、そこは美しいモザイクタイルで装飾された小さな玄室だった。


「ご利用ありがとうございました。中央諸国同盟ポータルネットワークサービスは、お客様のまたのお越しをお待ちしております。」


 門から声が聞こえ、虹色の光が消えた。玄室が闇に包まれてしまったため、エマは腰のベルトに付けた短杖を取り出し呪文を唱えて、杖の先に魔法の明かりを灯した。


「この部屋、出口がない。」


 小さな明かりを頼りにモザイクタイルの壁を眺めてみたけれど、どこにも出口らしきものがない。天井や床も見てみたけれど、やはり見当たらなかった。






 出た先が行き止まりだなんて。ディルグリムお兄ちゃんにせっかく遺物を使わせてもらったのに、また戻らなきゃいけないのかな。というか、この門また動くのかしら。もし動かなかったら、ここに閉じこめられちゃうことになるけど・・・。







 エマは冷たいモザイクの壁を手でポンポンと叩きながらそう考えた。最悪、魔法で壁を壊せば出られるかもしれないが、あの平原の地下霊廟みたいに地面の底だったら、脱出にもかなりの魔力と時間がかかってしまうだろう。


 その時ふと、迷宮を探索している時のガレスのことを思い出した。彼は迷路の行き止まりの壁に行きついたときには、慎重に壁の模様や反響音の違いを調べていた。


「いいかエマ。こういう模様のある壁はな、完全には隠しておけない仕掛けが紛れ込ませてあるものなんだ。」


 そう言って彼は模様に隠された罠や隠し扉を見つけ出し、仲間を安全に誘導してくれていた。






 エマはモザイクタイルの模様を細かく調べてみることにした。ガレスの教えに従い、最初は離れた位置からじっくりと観察する。接近することで作動する罠や仕掛けがあるからだ。


 タイルとタイルの隙間には特に注意を払う。しかし迂闊に覗き込んだりはしない。


「こういう隙間から酸やガス、毒針が飛び出してくるものなんだ。利き目を失くしたくなけりゃあ、慎重に行動するこったな。」


 彼は鍵穴などを調べるときにも、絶対に直接目を当てたりせず、離れた位置から小さな鏡を使って中を調べていた。


 この玄室にそんな罠が仕掛けられているとは思えないが、用心に越したことはない。エマは採集用短刀の柄を使って壁の反響音を慎重に確かめ、隙間を注意深く観察していった。


 やがてタイルの模様に隠された僅かな隙間の周りだけ、反響音の異なる場所を見つけることができた。どうやらタイルの一部が奥に動くようになっているようだ。






 エマは手を精一杯伸ばし、革の鞘に納まったままの短刀の先でタイルをぐっと押し込んだ。その途端、ゴロゴロと大きな音が響き、正面の壁がゆっくりと上に上がっていった。壁の先は古びた石造りの部屋だった。


 エマは周囲を警戒しながら玄室を出て石造りの部屋へ出た。するとまた大きな音と共に壁が降りてきて、完全に閉じてしまった。こちら側から見ると、何の変哲もない石壁にしか見えない。エマの正面の壁に同じ石造りの通路があり、先は金属製の扉で閉ざされているようだった。


 この部屋は先程の玄室の数倍はある大きな部屋だ。中央には古くて大きな石の棺があり、それを取り囲むように12個の小さな石棺が配置されている。棺はすべて蓋が開いており、中は空っぽだった。


 ただの石造りに見えた部屋の壁にも、よく見れば壁画のようなものの痕跡が見える。ただすべてが色褪せてしまっていて、何が描いてあったのかはまったく判別できなかった。


 エマはこの部屋に見覚えがあった。ここはもしかしたら・・・?






 その時、通路の扉の向こうで複数の人の声がした。


「守護巫女様の聖廟で物音とは、どういうことだ?」


「分かりません。突然大きな音が響いて・・・。」


「すぐに調べるんだ! 聖廟のカギを持っている祈祷師長様に連絡を!!」


 足音と人の声から、扉の向こうには数人の男性がいるようだ。今見つかると、きっと面倒なことになるに違いない。


 エマは咄嗟に《不可視化》の呪文を唱えて姿を消し、棺の陰に隠れた。しばらく待っていると、金属の扉の鍵が開けられる音が響き、明るい光と共に暖かい風が石室に吹き込んできた。


 その後、魔法のランタンを手にして石室に入ってきたのは、白い服を着た数人の男性だった。皆、黒檀のように真っ黒で艶のある肌をしている。


 反りの強い曲刀を下げた男性に守られるようにしているのは、金色の飾りのついた杖を持った白いひげのおじいさんだった。服装も周りの人よりもずっと立派だし、手に金色のカギを握っているから、この人が祈祷師長様に違いない。






「・・・何もないではないか。夢でも見ていたんじゃないのか?」


「いや確かに聞いたんです! ゴロゴロと大きな地響きのような音がしました。」


 美しい長曲刀を持った隊長らしき人がランタンを持った男性にそう言うと、男性は慌てて他の仲間に同意を求めた。周りの仲間もその男性の言葉を認めた。


「よし、では私は入り口を固めておく。お前たちは棺の周りを調べるんだ。祈祷師長様はここで私と一緒にお待ちください。」


 隊長の指示で男たちが部屋のあちこちを調べ始める。エマは壁際に寄り、動き回る男たちを慎重に避けながらそろそろと出口に向かって移動した。






「剣士長、何も見当たりません。」


「そうか。では私が最後に確認しよう。」


 隊長(剣士長という役職らしい)がそう言って出口から移動した。エマは《不可視化》が解けないようにゆっくりと、しかし足早に動いて、部屋を出ようと扉へに足を向けた。ガレスに教わった忍び足の技術が、ここでも役に立っている。


 開いた扉の前には立派な衣装を着た祈祷師長が立っているだけだ。エマは近づいてみて初めて、彼が両目を閉じていることに気が付いた。






 ひょっとして目が見えないのかしら。


 エマが顔を見るために思わず立ち止まった時、不意に祈祷師長がエマの方を向いて言葉を発した。


「そこにおる子供。そなたは何者じゃな?」


 気付かれたと思ったエマが身を翻すのと、剣士長の鋭い一撃が通り抜けるのが同時だった。恐ろしいほどの切れ味を持つ曲刀によってエマの外套の端が切り裂かれ、断ち切られた髪が数本、風に舞った。


 激しく動いたことにより《不可視化》の効果が切れ、エマの姿が露になる。


「女の子!?」


 部屋を調べていた男たちは驚きの声を上げて動きを止めたが剣士長はすぐに、さらに鋭い一撃を放ってきた。エマは石の床に転がってそれを避け、祈祷師長の背中に回り込んだ。


 祈祷師長が邪魔になって剣士長の刀が一瞬止まった隙に、エマは《収納》から魔法のホウキを掴みだし叫んだ。






「ホウキよ、空を飛べ!!」


 片手でホウキを掴んだエマを引きずるようにして、ホウキは外に向かって狭い石の通路を飛行した。後ろで呼子の笛が響き、通路の出口に新たな人影が現れたが、エマは彼らの間をすり抜けるようにホウキを操作した。


 急に飛び込んできたホウキとエマに驚いて、曲刀を持った男性たちが折り重なるように倒れる。エマは彼らに「ごめんなさい!!」と叫んで通路から飛び出し、空へと舞い上がった。


「・・・何、これ!?」


 姿勢を整えようと下を見たエマは思わず声を上げた。エマがさっきまでいた石室は巨大な階段状の建物の最上階だったのだ。目も眩むほどの高さを持つ巨大な石造りのその建物は、周囲を美しい彫刻で飾られている。エマがこれまで見たどの建物よりも、大きくて優美な建築物だった。


 しかしそれに見惚れる間もなく、エマに向って矢や魔法による攻撃が加えられた。エマは両手でホウキをしっかりと掴むと、さらにホウキを速く高く飛行させた。






「逃がすな! 聖廟を侵した不届き物を捕らえるんだ!!」


 部下に激を飛ばす剣士長を、祈祷師長が押しとどめた。


「もうよい。あの者は曲者ではない。」


「!! ではまさかあれが先日の?」


「うむ。わしが守護巫女様よりお告げを受けた『荒ぶる神の愛し子』であろう。」


 祈祷師長は王国の安寧を願う祈祷中、突如として神託を告げるために現れた守護巫女の霊の姿を思い返した。彼女はその場で祈祷師長に、数日のうちに荒ぶる神に愛されし子供の来訪があることを告げたのだ。


 祈祷師長となって数十年、幾度も守護巫女様からの神託を受けてきたが、あんなに楽しそうな守護巫女様を見たのは初めてのことだった。


「巫女様は『約束の地』で安らかに過ごしていらっしゃるようだ。そのことにあの子供が関わっておるのかもしれんな。」


 そう言って彼は盲いた目を空へ向けた。光を映すことのない彼の目には空を行くエマの姿が、夜空を流れる虹色の星のようにはっきりと見えていた。











 空中に飛び上がったエマはようやくホウキにしっかりと座り、辺りを眺めることができた。大きな入道雲に縁どられた青空からは、夏の太陽の光が燦々と降り注いでいる。


 今は冬のはずなのに、どう見ても周りは夏だ。あの門のせいで旅の道のりだけでなく、季節まで飛び越えてしまったのだろうかと思い、眼下に目をやったエマは、思わず声を上げた。


「すっごく、きれい・・・!」






 エマの真下には先程の美しい建築物があり、その横に深青色の巨大な湖が広がっていた。あの建物は湖に流れ込む大河の畔に建てられている。そしてそこからいくつものアーチを持つ巨大な石の橋が湖の真ん中に浮かぶ島へ伸びていた。


 島の中央、一番高い場所には、先の尖った丸屋根を持つ白亜の宮殿があり、それを取り囲むように階段状の城下町が広がっている。建物はすべて白い壁と赤い屋根を持ち、夏の光を受けてキラキラと輝いて見えた。


 湖には白い帆を風になびかせたたくさんの船が行き交っている。その間を水鳥の群れが飛んでいる様子が見えた。


 祈祷師長様は先程の建築物を聖廟と呼んでいた。そう言われてみるとあの巨大な聖廟が、まるで城下町を見守っているようにも見える。


 以前、迷宮主の女王様の霊から聞いたのと同じ光景が、眼下に広がっている。この美しい国があの女王様が治める国だったに違いないと、エマは確信した。美しい街並みとそこで暮らす多くの人を見て、女王様がこの国を命を懸けて守ろうとしたのが分かる気がした。


 ここに来たのも、きっと偶然ではないのだろう。あの女王様がここまで導いてくれたのだ。彼女はそう思い、きっと今は安らかに眠っているだろう女王様に感謝の祈りを捧げた。






「よし、先へ進もう!」


 エマがファ族の地下霊廟で見た球形の地図が正しいなら、今いる場所は大陸の中央よりもやや西側のはずだ。船で進んだら4か月以上かかる道のりを、2日余りで来たことになる。


 大陸の西の端までは残り半分。どのくらい時間がかかるか全く分からないし、行きついた先でどんなものが待ち受けているのかも予想がつかない。


 村とドーラを攻撃した相手がいることを考えれば、おそらくこれまで経験したどんなことよりも、恐ろしく大変な目に遭うことだろう。


 でもエマは不思議と恐ろしいとは思わなかった。ここに来るまで、いろいろな人が助けてくれた。皆が私を支えてくれている。そんな思いがエマの心を強くしてくれていた。


 エマは西の方角を見た。ここは大陸のかなり南側に位置しているようだ。美しい海岸線がずっと遠くまで伸びているのが見える。この先に目指す聖都エクターカーヒーンがあるに違いない。


 エマは吹き付ける風に立ち向かうようにしっかりと目を見開いた。そして体内の魔力を高めると、ホウキを矢のように加速させたのだった。
















「ま、また来たぞ! 今度は冒険者たちだ!!」


 引き攣った顔で衛士が叫ぶ。人形のように無表情の冒険者たちは、切り出した木を使って作ったと思われる急ごしらえの破城槌を構えて、街道を塞ぐ陣地から姿を現した。


 彼らは素早い動きで閉じた門に近づいてくる。すでにハウル村北門の周りを取り囲んでいた衛士や職人、農夫姿の男たちが、門の上から投じられるレンガや石から彼らを守るために大きな木製の盾を上に構えた。


「奴らを門に取り付かせるな!! 真上から石を落とすんだ!」


 バルドンが大声で衛士たちに指示をするが、彼らは泣きそうな顔で叫んだ。


「で、でも隊長!! あの連中、一昨日まで村にいた俺たちの仲間なんです!」


 バルドンにも彼らのその気持ちは痛いほど分かったが、それをあえて押し殺し大声で部下たちに激を飛ばした。


「そう思うんなら、ますます門を破らせるわけにはいかんだろうが! とにかく近寄らせないようにするんだ! 頭ではなく手足を狙え!!」






 そう指示をしたものの、バルドンはそれが難しいだろうということが分かっていた。衛士たちはこの間まで顔見知りだった連中を攻撃することを躊躇っている。ここまで易々と包囲を許してしまったのもそれが原因だった。


 ドーラと建築術師のクルベによって造られたこの防壁はこの小さな村には不釣り合いなほど頑丈なので、たとえ破城槌で攻撃をされたとしても、かなりの間、持ちこたえることができるだろう。また高さもあるので、簡単に壁に取り付かれ乗り越えられる心配もない。


 しかし一度ひとたび侵入を許してしまえば、衛士たちは総崩れになってしまうに違いない。今は援軍が望めず孤立した状態で、ただでさえ隊の士気が低いのだ。そこで元仲間と剣を交えて戦うことなど、出来るわけがない。


 彼の率いる衛士隊は日頃から訓練を重ねているため、練度は決して低くない。しかし長く平和な村で暮らしていたせいで、いつの間にか衛士たちの中に実戦を忌避する心が生まれてしまったようだった。






 本当は街道に面していない東ハウル村に拠点を築き防衛するのが理想的なのだろうが、敵の狙いであるドーラを西ハウル村から動かすことができない以上、それは出来なかった。現在東ハウル村は、貴重品や食料などをすべて引き上げ、放棄された状態だ。


 川を通じて侵入されないよう、ドルーア川沿岸はゴーラをはじめとする土人形ゴーレム部隊を率いてミカエラとクルベが守っている。また可能性は低いだろうが、敵が西側の魔獣の森を越えてくる恐れもあるため、村長のフランツが木こりたちを率いて森の側で警戒を続けている。


 幸い冬に備えてたっぷりと貯えがあったため糧食や水の心配はいらないが、敵に囲まれ孤立しているという不安が、予想以上に村人たちを疲弊させていた。


 包囲を続ける割に無理攻めをしてくるわけでもない敵に対して、バルドン自身もじわじわと首を絞められるような焦燥感と不気味さに囚われているほどなのだ。


「頼んだぞ、カール。」


 彼は西に広がる魔獣の森に目を向けると包囲を続ける敵拠点の様子を探るため、単独行動中の弟の名を我知らず呟いたのだった。












 






 家を失くした村人の避難所になっている学校。村のほぼ中央に位置し門から遠く離れたここにも、風に乗って破城槌の音が響いてくる。しかし大勢の人間が戦っているとは思えないほど、人の声はほとんど聞こえてこない。不気味な静けさが、破城槌の音をより一層際立たせている。


 戦いの合間を縫って、避難所の一室に寝かされたエマの母マリーの元を訪れたハーレは、絶望的な思いで癒しの魔法を使い続けていた。


 マリーはもう3日も眠ったままだ。口に水を含ませれば僅かに飲み込む様子はあるものの、ほとんど水分を摂れていない。当然食事など出来るはずもなく、マリーの衰弱具合は目に見えてひどくなっていた。


 幸い呼吸は続いているので、癒しの呪文で何とか体の機能を維持させようとしている。しかしそれもほとんど手応えがなかった。まるで乾いた砂に水を注ぎこんでいるみたいに、癒しの力が体をすり抜けてしまうのだ。ハーレは何もできない自分の無力さが本当に悔しかった。






「ねえ、司祭様。お母さんは死んじゃうの?」


「!! なんてこと言うんだ、デリア! 死なないよね!? お母さん、もうすぐ目を覚ますよね!? そうでしょう、司祭様!!」


 エマの双子の弟妹、デリアとアルベールが目に涙をいっぱいに浮かべてハーレに縋りつく。ハーレはほんの一瞬逡巡した後、必死の思いで自分を見上げる二人に、ゆっくりと首を振った。幼い二人の顔が絶望に歪む。


 この子たちから母を奪ってしまったのは私なのだ。そんな思いがハーレの胸にこみ上げ、大声を上げて泣き叫びたくなる。しかし彼女がそれをすることは許されない。彼女は二人の前に跪くと、茫然とする二人の手を取って言った。


「私の力ではもうどうすることもできません。あとは神に奇跡を祈るのみです。最期までお母さんについてあげていてください。」


 二人は青ざめた顔でこくりと頷いた。ハーレは「願わくば神と聖女の奇跡がもたらされんことを」と唱えた後、二人を残して部屋を出ていった。






 残された二人は眠り続ける母の手を左右から取り、しばらく茫然としていた。


 お母さんの手はこんなに暖かいのに。それなのに本当に死んでしまうの?


 温もりを小さな手に感じ取り、眠り続ける母を見つめるうちに二人は最初は小さく、やがて声を上げて泣き始めた。






 ひとしきり泣いた後、デリアが双子の兄アルベールに言った。


「お兄ちゃん、神様に祈ろう。司祭様がおっしゃってたじゃない。神様が奇跡を起こしてくれたら、お母さん助かるかもしれないって。」


 二人は幼い言葉で一生懸命うろ覚えの祈りの言葉を捧げた。はじめは大地母神に、そして聖女に。二人が知っているありとあらゆる神に、必死に祈った。






 おじいちゃん、おばあちゃん、お母さんを連れて行かないで。お母さんを助けてください。そのためならどんなことでもします。いい子になります。だからお願いです。お母さんを死なせないで!


 二人は日が落ち、暗がりに部屋が沈むのも気付かず、一生懸命祈り続けた。


 しかし、それに応えるものがいるはずがない。次第に母の呼吸が弱く、細くなっていくのが二人にも分かった。二人はそれでも祈りを止めなかった。幼い二人にはそうすることしか出来なかったからだ。






 規則正しく続いていたマリーの呼吸が、ほとんど感じ取れないほど弱くなった。


「!! お母さんの息が!!」


「司祭様を呼んでこなきゃ!! でもどこにいらっしゃるの?」


 今、村は存亡の危機に瀕している。先程ハーレは戦いで傷つく人の治療を一時中断して、様子を見に来てくれたのだ。そもそも二人は絶対にこの避難所である学校から出ないように厳しく言いつけられている。


 二人はどうすることもできず、母の命の灯が消えようとするのをただ見つめるしかなかった。


「助けて! 誰か助けて! 誰でもいい! 神様でなくてもいい! 誰かお母さんを助けて!」


 部屋を閉ざす闇に二人の叫びが吸い込まれていった。











「僕がお母さんを助けてあげようか?」


 その時、闇の中から声が響いた。二人は驚いてそちらを見た。扉が開いた様子もないのに、部屋の暗がりから現れたのは、白い服を着た背の高い若者だった。短く切りそろえた銀髪をさらりと揺らし、すごく楽しそうに笑っている。


「だ、誰だ!!」


 アルベールが咄嗟にデリアとマリーの前に飛び出し、二人を庇った。しかし彼はそれを無視してマリーの元へすたすたと歩み寄った。近くを通ったはずなのに、デリアもアルベールもいつ若者が通り過ぎたのかまったく分からなかった。


 若者は二人を無視してマリーの顔に耳を近づけた。


「自発呼吸はかろうじてある。死線期呼吸もない。でもかなり弱いね。低酸素脳症が心配だな。」


 驚く二人の前で若者はマリーの手首に指を当てた。


「鼓動はしてるけど極めて弱い。血圧は・・・ぎりぎり75ってとこか。」


 さらにどこからともなく取り出した小さな針でマリーの左手の指を軽く刺した。






「お母さんに何をするんだ!!」


 彼は驚いて声をあげるアルベールを無視し「痛覚反応もなし」と言った。そしてそのままマリーの被っている粗末な毛布を剥がし、スカートを捲り上げた。


 怒って殴りかかろうとするアルベールを「助けたければ黙ってみてなさい」と一喝した後、マリーのおしめを外し中を確認した。


「尿の色は悪くない。臓器が正常に機能してるからだろう。だが量はかなり少ないな。ねえ、君。前におしめを取り換えたのは何時いつだい?」


 急に問いかけられたデリアが戸惑いながら答えた。


「は、はい。司祭様がいらっしゃる前なので、お昼を少し過ぎた頃だと思います。」


「ふむ。じゃあ、これは癒しの呪文のおかげか。本当に便利なものだよね、魔法って。」


 彼は少し寂しそうに笑うと、服を元に戻して二人に言った。






「はっきり言おう。君たちのお母さんは死にかけている。多分、明日の朝日が昇るまでは持たないだろうね。」


 分かってはいたものの、はっきりと母の死を告げられ、二人は顔を歪めて互いを見た。そんな二人に彼はにこやかに語り掛けた。


「僕ならもう少しそれを伸ばすことができる。もしかしたら助けてあげられるかもしれない。でもそれには君たちの協力が必要なんだ。僕を信じて、力を貸してくれないかい?」


「・・・一体、何が望みなの?」


 しばらくの沈黙の後、アルベールがそう問いかけると、彼は本当に愉快そうに声を上げて笑った。


「やっぱりしっかりしてるなあ。そうだよ、僕には叶えたい望みがあるのさ。君たちのお母さんを助けるのも、もちろんそのためだよ。」


 彼は目を糸のように細めにっこりを笑って、顔をアルベールにぐっと近づけた。






「君、さっき、お母さんを助けるためなら何でもするって言ったよね? じゃあ僕と契約を結ぼうじゃないか。僕は君のお母さんを助ける。そして君たちは僕の目的のために力を貸す。どうだい?」


「・・・目的って、何をするつもりなのさ?」


「そんなに心配しなくても、別に法に触れるようなことではないよ。そんなことには興味がない。こう見えても僕は割と金持ちなんだ。力もまあ、そこそこあるしね。ただ今は話せない。こうやって君たちと話しているのも、僕にとっては結構危険なことなんだよ。」


 そう言って彼は両手を上げて、肩をすくめてみせた。






「本当に助けられるんだね?」


「それは君たちの協力次第かな。でも全力を尽くすつもりだよ。」


「・・・分かった。でも約束するのは僕だけだ。デリアには手を出さないで。」


「お兄ちゃん!?」


 デリアが驚きの声を上げる。若者は口をへの字に曲げ、泣き真似をしながら言った。






「美しい兄妹愛だね。僕そういうのに弱いんだ。いいとも、君とだけ契約しよう。」


 そう言って彼はアルベールに手を差し出した。


「約束を守らないなら、協力しないからね。」


 アルベールは若者の手をしっかりと握った。若者は本当に嬉しそうに笑いながら言った。


「もちろんさ。僕はこう見えても、契約にはうるさいんだよ。」











 完全に日が落ちた頃、グレーテの面倒を見ていた村の女性が二人を迎えに部屋にやって来た。しかし部屋はもぬけの殻で二人の姿はどこにもなかった。そればかりかなんと、寝たきりだったはずのマリーの姿まで消えていた。


 村の女性たちは大慌てて三人の行方を探したが見つけることはできなかった。部屋の床には幼い文字で「おかあさんをたすけるためにいってきます。しんぱいしないで」と書き残されていた。


 三人が消えたという知らせはすぐに森で警戒を続けるフランツの元へももたらされた。彼は妻と子供たちが消えたことにひどく驚き嘆いた。しかし今はどうすることもできない。その上、彼には村長として果たすべき責任があった。


 彼は村の女性に「グレーテを頼みます」と言い残して、再び不寝番をするため森へ戻っていった。ドーラが光の柱に封じ込まれてからというもの、森はより一層その闇を濃くしたように見える。


 彼はそんな闇の中を、薄く積もり始めた雪を踏みしめながら一歩一歩、歩いた。彼の姿は降り積もる雪にかき消され、やがて闇の中へ消えていった。

読んでくださった方、ありがとうございました。

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