136 想い人想われ人
書くのは楽しいです。でも睡魔には勝てません。
春の終わりまで残り数日となった今日、エマは学長ベルント・ゴルツの研究室にいた。
「世界を吹き渡る速き風よ。我が声を風に乗せ、彼の者へと運べ。《通信》」
ベルントが真剣な眼差しを向ける中、エマが短杖を構えて呪文を詠唱すると、短杖の先にぼんやりとした光が灯った。しばらくするとエマの頭の中にドーラの声が響いてきた。
『エマ、聞こえるー?』
「聞こえるよ、ドーラお姉ちゃん。私の声はどう?」
エマが声に出して虚空に話しかける。またしばらく後に、ドーラから返事が返ってきた。
『聞こえるけど、所々途切れててすごく聞き取りにくいよー。』
「ありがとう、ドーラお姉ちゃん。魔法を解除するね。」
今、ハウル村にいるドーラに向って再び虚空に話しかけてから、エマは魔法を解除した。
「ゴルツ先生、今の魔法はどうでしたか?」
「うむ。返信の速度はこれまで試した中ではまあまあと言ったところだな。だが音声が安定しないようだ。術式を組みなおす必要がある・・・。」
砂時計と手元に置いた紙を睨みながらエマに説明をしていたベルントだったが、そのうちに自分の考えに没頭し始め、術式の書きだされた大きな黒板の前でぶつぶつと呟き始めた。
エマは黙ってベルントの隣に立つと一緒に術式を睨んで考え始める。すでに何回もこのやりとりを繰り返しているので、もう慣れたものだ。
「先生、外で実験した時の結果はもう少しよかったですよね?」
「ん? ああ、そうだな。前にも話したと思うが、音は振動で伝わるというのは覚えているかね?」
「はい。紙や太鼓を使った実験は面白かったです。」
「うむ。私たちの耳が振動を捉えることで音が伝わるわけだが、屋外の方が振動を遮るものがない分、安定するんだと思われる。魔法でこれを再現するには・・・。」
ベルントはエマに説明しながら、思いついたことを手元の紙や黒板に書き記していく。エマが質問すると、その都度それが更新されていくのだ。
二人はそうやって意見を交わし続け、気が付いたときにはもう夕方になってしまっていた。
春の間続いていたエマの各研究室の見学もいよいよ最後になり、数日前から無属性魔法研究室でこうやってベルントと実験を繰り返している。
先ほど行っていたのはベルントが考案した《通信》という魔法の実験だ。これは空間魔法の一種である《念話》と他の属性魔法を組み合わせることによって、自分の声を遠くに届けるという魔法である。
《念話》は空間を飛び越えて直接自分の声を相手に届けることができるという非常に便利な魔法だが、消費魔力が膨大で使いこなせるものがほとんどいない。
ベルントは《念話》の要素を一部、属性魔法に置き換え、より使いやすくするためにこの《通信》という魔法を考え出したのだ。エマが行っているのは彼の術式の実証実験なのである。
最終的には生活魔法化して、ある程度の魔力があれば誰でも使えるようにするのがベルントの目標だ。そのためには必要最低限の術式で、最大の効果を生むように魔法を組み合わせる必要がある。
この実証には多くの属性魔法を使いこなす素養と、複数回の魔法の使用に耐えられる保有魔力量が不可欠。だからエマは無属性魔法研究室に来たその日からずっと、こうやってベルントの実験に付き合わされているのだった。
夕闇が迫り、手元の文字が見えなくなって初めて、ベルントは長い時間が過ぎ去っていることに気が付いた。
「いかん。大丈夫か、エマくん? また無理をさせてしまったな。」
ベルントは慌てて魔法の明かりで周囲を照らし、傍らにいるエマを気遣った。
「大丈夫です、ゴルツ先生。もう慣れましたから。」
にへへと笑うエマの頭を思わず撫でそうになり、ベルントは慌てて手を引っ込め、咳払いをした。
「ごほん。いつもすまないな。だが本当に助かったよ。君のおかげで多くの成果を得ることができた。」
「私もすごく勉強になりました。先生は本当に魔法が大好きなんですね。でもどうしてこんなに焦って実験を繰り返すんですか?」
「焦って? いや別に焦っては・・・。いいや、そうだな。確かに私は焦っているかもしれん。君が協力してくれるうちに出来るだけ多くの実験をしておきたいのだよ。」
「?? 私はいつでも協力しますよ?」
ベルントは薄く笑い、自嘲するように言った。
「うむ。そう言ってくれるのは嬉しいがな。春が終わって他の研究室に所属するようになれば、そうも言っておられなくなるだろう。君は本当に才能豊かだ。どの分野でも華々しい成果を上げることができる。王国随一の魔導士となることもできよう。地味な生活魔法の研究などに関わることはない。」
「私は別にそんなこと・・・。」
エマの言葉をベルントは片手を挙げて遮った。
「いや、いいんだ。無属性魔法研究室はな、魔導士や騎士としては一流になれない人間がくるところだ。私自身も中級程度の魔力しか持っておらん。」
ベルントは自分の手をじっと見つめながらそう言った。
「私は君が欲しかった。君がいてくれたら、今までできなかった多くの魔法を研究できる。そう思っていたんだよ。だがな・・・。」
疲れたように長い息を吐いた後、彼はエマに向き合い、本当に優しい調子で諭すように語り掛けた。
「私は君のこれまでの様子を見て、その考えを改めたのだ。君は王国の宝だ。まるで神に愛されたかのようなその才能は、王国を守り導くために生かされるべきだと。君には多くの人を守り、救うことができる力があるのだから。」
エマは深い皺の刻まれたベルントの顔をじっと見つめる。ベルントは眩しいものを見つめるように目を細め、エマを見返した。
そこにミカエラの侍女リアが、エマに夕食の時刻を告げるために現れた。ベルントは軽く咳払いをし、視線を逸らしていった。
「おっと、また話し込んでしまったな。悪い癖だ。さあ行きなさい、エマ。時間は守らなくてはいけない。」
「はい。ありがとうございました先生。また明日。」
ぺこりとお辞儀をしてリアに伴われて去っていくエマの後姿を、ベルントは狂おしい気持ちで見つめる。だがやがて大きくため息をついた。
「また明日、か・・・。」
ベルントは実験の結果をまとめた紙を集め丁寧に分類すると、執務机の中にしまい込んで鍵をかけた。そして魔法の明かりを消し、執務室を後にしたのだった。
ドルアメデス王国王太子ウルクの長子であるウルスは、その日もいつものように錬金術研究室の自分の調合机に張り付き、魔法薬の研究をしていた。慎重に材料を調合し、それを魔力鍋に入れてゆっくりと撹拌する。
慎重な火加減の調整が求められる大事な工程だ。だが、ゆっくりゆっくりと単純な動作をしているうちに、彼の思考は次第に鍋から離れて、別のものに囚われていった。
「ウルス。おいウルス! 鍋が煮立ってるぞ!」
師匠であるエルフ族のマルーシャから声をかけられ、ハッと我に返ったウルスは慌てて魔力鍋の火加減を調整した。危うく貴重な素材をダメにしてしまうところだった。ホッと胸を撫でおろしたウルスにマルーシャが声をかける。
「ウルス、どうしたんだ? このところぼんやりしてばかりじゃないか。また従弟殿と何かあったのか?」
「いいえ、リンハルトは関係ありませんよ。大丈夫です。」
ウルスはそう答えたものの、最近の失敗の原因はあの優秀な従弟とも、あながち無関係ではないなと思い返した。だが何よりも錬金術が第一というマルーシャが、彼のそんな思いに気が付くはずもない。
「ふむ。まあ気にするな。従弟は従弟、お前はお前なのだから。いずれはお前の臣下となる相手なのだから、泰然と構えているほうがいいぞ。」
「ありがとございます、先生。」
ウルスの礼を背中で聞いて、マルーシャは自分の研究用の机に戻っていった。彼はまた魔力鍋を撹拌し始めた。
彼自身、確かにこうやってぼんやりとすることが多くなったと自覚している。そしてその原因も。
こうやって鍋をかき回している時や訓練中のふとした瞬間に、彼の心に沸き上がってきて思考を中断させる一人の少女。
やや癖のある柔らかい金色の髪。悪戯っぽい色を湛えた薄茶色の瞳。少しそばかすのある柔らかそうな頬。薔薇色の輝きを帯びた唇。そして自分に向けられたまっすぐな笑顔。
「エマ・・・。」
我知らず口をついて出た言葉にウルスはハッとして、鍋の火加減を確認する。火力が正確なことを確認してまた息を吐いた。危ない、危ない。ホッと胸を撫でおろす。
しかし直後、横からかけられた言葉で、彼は心臓が口から飛び出るかと思うほどに驚いてしまった。
「ウルス殿下、エマさんがどうかしましたか?」
自分と同じ特別研究生であるミカエラが隣の机から声をかけてきた。呟きを聞かれていたことに気付いたウルスは顔を真っ赤に染め、しどろもどろになってようやく言葉を絞り出した。
「いや、あの、エマ、エ・・マ・・・そう!! エンマールシアの花弁を入れてみたらどうかと思ったんだ!」
「ああ、下痢止めの効果のあるあのお花ですね。でも今、殿下が作っていらっしゃるのって外傷用の軟膏ですよね?」
ミカエラが魔力鍋の中身を覗き込みながら、にっこりと笑って尋ねた。
「うっ!・・・うむ、加熱すれば水属性の効力を上げられるんじゃないかと・・・。」
「なるほど、さすがは探求心が旺盛でいらっしゃいますね。それじゃあ私、今ちょうど手が空いてますから取ってきますね。」
「あ、ああ、よろしく頼む。」
トコトコと去っていくミカエラを見ながら、彼は自分を叱咤する。しっかりしろ、ウルス。父上からの密命を忘れてはならん!
彼は自分を鼓舞するように、父である王太子から初めてエマのことについて聞かされた時のことを思い返した。
東宮離宮で久しぶりの里帰りを満喫していたウルスの下に青い顔をした父がやってきたのは、昨年の冬の終わりのことだった。そこで突然、平民の子供を見守れと言われたのだ。
「父上、一体どういうことでしょう。理由を教えていただけませんか。」
「理由は説明できない。とにかくこれは王命である。エマという娘を見守り、彼女が学校生活で辛い思いをしないよう心を配るのだ。だがあくまで秘密裏にな。そのための配下もすでに配置してある。詳細は後程書面にて伝えよう。」
「いくら何でも無茶苦茶です、父上。一体何を・・・。」
父は彼の前にしゃがみこむと、戸惑う彼の肩をしっかりと掴み、目を見て言った。
「王国の、いや世界の命運を左右するかもしれない重大事なのだ。お前だけが頼りだ、ウルス。無茶は承知しているが、これも王権を担う者の宿命と思い、全力を尽くしてほしい。時が来れば、其方にもすべてを伝えよう。」
いつもの優しい父とは違う真剣な表情。彼は戸惑いながらも、自分の責任を自覚し頷いた。
「かしこまりました父上。このウルスの命に代えてもその娘を守りましょう。」
「ありがとうウルス。期待しているぞ。くれぐれもエマ本人を含め周囲に悟られてはならぬ。特にリンハルトには気を付けろ。」
一つ年下の優秀な従弟の名を聞いて、彼の心に嫉妬という名のどす黒い気持ちが沸き上がる。なぜここでリンハルトの名が出るのかと父に問いただしたい。だがその気持ちをぐっと抑えつけて彼は「分かりました」と答えた。
だが2年生は1年生よりも授業の開始がおよそ一か月ほど遅い。これは遠隔地に里帰りしている生徒が、登校する時間を確保するためだが、この学年による時間のずれがウルスにとっては致命的ともいえる事態を引き起こしてしまった。
何とエマは入学早々、同室の友人を侮辱した男子生徒を叩きのめした挙句、直後に行われた適性検査で精神外傷級の魔法を披露し、同級生全員を恐怖のどん底に叩き落したのだ。完全に想定外の事態である。
翌日、なぜか同級生たちの精神外傷がウソのように消え去るという不可思議な現象が発生したものの、エマに対する悪評は瞬く間に広がってしまった。このままではエマや周囲の友人にどんな危害が及ぶともしれない。
ウルスは学校内に潜んでいる密偵を使い、エマに対する悪評を消すように努めた。エマに直接危害を加えかねない強硬派には、様々な方法での『説得』を試み、そのような気持ちを二度と起こすことがないように注力した。
新学年開始直後からエマが引き起こした事態の後始末に追われ、自分の研究そっちのけでこれらの作業にかかりきりにならざるを得ず、ウルスのまだ見ぬエマに対する印象は最悪のものとなっていった。
いったいどんな規格外の娘かは知らないが、よくもこれだけ次々と揉め事の種を撒けるものだ。毎日上がってくる密偵からの報告を読み、それをまとめて父に報告するウルスにとって、エマは本当に頭の痛い存在だったのだ。
しかもあろうことか、ゴルツ学長の授業でエマはリンハルトと模擬戦を行ったという知らせまで入ってきた。男女で授業が分かれるから、二人が接触することはあるまいと油断していた矢先のことだった。
去年、ウルスたちが受けたときには模擬戦などなく、ただ《魔法の矢》を作り出すだけの授業だったはずだ。なのによりによって今年は男女混合の模擬戦。授業内容は教師に一任されているとはいえ、一年でこんなにやり方を変えてもいいのかと、ゴルツ学長に愚痴の一つも言いたくなってしまった。
密偵からの報告を受けたウルスは、騎士クラスの自分の授業が終わると同時に魔力演習場へ向かった。リンハルトはエマを気絶させたという。まったくあの鉄面皮ときたら、女子に対する加減というものを知らないらしい。
配下を使ってそれとなく人払いをさせ、ウルスは魔力演習場の出口でエマが出てくるのを待った。本当はエマとの直接の接触を避けるつもりだったのだが、従弟でリンハルトがエマを気絶させてしまった以上、直接エマの気持ちを聞いておいた方がいと思ったのだ。
そしてウルスはエマに出会った。出会ってしまった。あの日以来、エマは彼の心を捕らえて離さないでいる。
エマの笑顔を思い浮かべその声を思い出すたびに、ウルスは嬉しいような切ないような、何とも形容しがたい気持ちになってしまう。そしてふとした拍子に、エマのことを考えている自分に気が付くのだ。
だが同時にリンハルトのことも考えてしまう。なぜならエマが、自分を気絶させたリンハルトを恨むどころか「もう一度戦いたい」と言ったからだった。その言葉を思い出すたび、心の中にどす黒い感情が沸々と沸き上がってきて、彼を苦しめるのだ。
リンハルトは彼の望むものをすべて持っていた。父親から受け継いだ剣の才能。母親譲りの類まれな魔力量。そして誰もが振り返らざるを得ないような涼し気な美貌も。
彼は一つ年下のリンハルトに、一度も剣で勝ったことがない。それどころかまともに打ち合えたことすらないのだ。それほどに彼我の実力差は圧倒的だった。
そもそも彼は剣が好きではなかった。本当は術師クラスに進学したかったのだ。別に男子が術師クラスに進んではならないという決まりはない。だが慣例として男子は騎士、女子は術師クラスに進学することになっている。
実に馬鹿げた決まりだ。もし将来、王になったらまず一番初めにこの悪習を変えてやろうと何度妄想したか分からないほどだ。だが現実として彼は騎士クラスに在籍し、好きでもない戦闘の訓練に明け暮れる毎日だ。
確かに彼には代々の王に脈々と流れる錬金術の素養がある。だがそれが何だというのか。少しくらい効力の高い魔法薬が出来たところで誰も彼を称えてくれはしない。剣を持って華々しく戦うリンハルトとはまさに雲泥の差。あまりにも惨めだ。
だからエマが自分の作った軟膏を使い、お礼を言ってくれたことは彼にとって望外の喜びだった。もちろん社交辞令だというのは分かっている。だけどあの屈託のない笑顔で、彼女は言ってくれたのだ。ありがとうと。彼にとってはそれだけでもう十分だった。
彼は生まれたときから王子だった。他の生き方を選ぶどころか、それを考えたことすらなかった。祖父も、父も、王国のため民のために、毎日神経をすり減らしながら激務をこなし、重責に耐えている。彼は自分がそれを引き継ぐことに疑問を持ったことはなかった。
もちろんそれは王の後継者としての教育の賜物であるのだが、それ以上に彼自身がこの役目に崇高な意義を見出していたからだ。他の誰にもできないことだから、自分がしなければならない。そう思っていた。
だが逆に考えてみれば、彼の動機はただそれだけだった。彼は民や臣下の暮らしを守るために一生を捧げる決意をしていたが、実際に自分が守るべき民がどんなものであるかは考えたことがなかった。
そんなときにエマに出会った。彼女は彼が守るべき王国の民。貧しい木こりの村で家族と暮らしていた平民の娘。
彼女との出会いは彼を変えた。それまで彼にとって守るべきものと漠然と考えていた『平民』という存在が、エマによって色鮮やかに輝きだし、息づいたように思えた。
そして平民を守りたいと思う同時に、彼は自分の役目を恐れるようになった。年下の従弟にすら劣る自分が果たして平民を守れるのか。それ以上に平民は自分に守られることを受け入れてくれるのだろうかと。
エマのことを思えば思うほど、彼は迷い、悩み、苦しんだ。自分の無力さに。そして自分よりも優れた従弟の存在に。
だがエマの存在が彼を勇気づけてくれたのも事実だった。自分の思いを彼女に伝え、それを彼女が受け入れてくれたら、どんなにか素晴らしいことだろう。
もちろんそれは許されることではない。彼女は彼にとって守るべき存在なのだ。自分とは立場も生き方もまるで違うのだから。
しかし彼は夢想してしまう。あの愛らしい笑顔、優しい手を持つ女の子が自分のことを好きになってくれたらと。それを止めることはどうしてもできなかった。
「ウルス殿下、エンマールシアの花弁、持ってまいりました。」
不意に声をかけられて、ウルスは夢想を中断し、現実へと戻った。もうすっかり鍋の中身は仕上がりつつある。
にこにこしながら花弁を差し出すミカエラを、彼は怪訝な顔で見つめた。エンマールシアの花弁?
私が作っているのは傷用の軟膏だが、一体なぜ下痢止めの素材なんか・・・。
そこまで思考してやっと、さっき自分が言った言葉を思い出した。
「あ、ああ、そ、そうだった。エンマールシア! ちょうど欲しいと思っていたんだよ。ありがとうミカエラさん。」
ミカエラから花弁を受け取ったものの使い道が全く思いつかず、隠すように調合机の引き出しにしまい込む。そんな自分の振る舞いを恥じ、彼は耳の先が熱く火照るのを感じた。
ミカエラは彼の様子をじっと観察しこっそりと微笑んだ後、突然、彼に話を切り出した。
「そう言えば同室のエマさんが、殿下が使わせてくださった軟膏の効果がすごいと言っていました。とても感謝していると伝えてほしいとのことです。」
「何!? そ、そうか。エマさんが私に感謝を・・・。」
思わず綻んでしまいそうになる顔を慌てて引き締め、彼は咳払いをした。
「ゴホン。いや、感謝されるほどのことはしていない。今後も困ったことがあったら何でも相談するよう伝えてくれ。」
「かしこまりました殿下。殿下のお心、確かにお伝えいたしますね。」
「あ、ああ、よろしく頼む。」
せっかくの機会だというのに、気の利いた伝言の一つもできない自分に嫌気が差す。そっとため息を吐く彼に、ミカエラがまた話しかけてきた。
「そう言えばこの間、同室の皆さんとお芝居の話をいたしました。殿下はお芝居はご覧になりますか?」
「芝居? いや、私はあまりそういうものには興味がなくて・・・。」
「そうですか。エマさんは騎士や姫君が登場するお芝居がとても好きなんですよ。最後に二人が結ばれる結末が特に好きみたいです。」
それを聞いて彼は目の前が暗くなるような気がした。やはり騎士か。騎士なのか!
「そ、そうか。エマさんはやはり剣の腕が立つ男が好きなのかな。リン・・、いや何でもない。」
思わず「リンハルトのような」と言いかけてしまい、慌てて言葉を濁す。
「いいえ。お話として見るのが好きなだけで、エマさんの男性の好みは全然違いますよ。」
「な、何!? それは本当か? エマさんはどんな男が好きなのだ?」
ミカエラが彼の慌てぶりを見てくすくすと笑う。彼はまた咳払いをして、浮かせた腰を椅子に戻した。
「エマさんはいつも『結婚するならお父さんみたいな人がいい』って言っております。」
「お父さん? エマさんの父は確か・・・。」
「はい。木こりの親方です。ものすごく体格がよくて逞しい方ですよ。エマさんは頼りがいのある、がっしりした人が好みみたいです。」
ウルスは思わず自分の体を見つめた。がっしりとは程遠い貧相な体だ。ぐぬぬと唸るウルス。
そのことに夢中になるあまり、ミカエラが彼に向ってこっそり「がんばってくださいね」と囁き、部屋を出ていったことに、彼は全く気が付いていなかった。
その日からウルスは毎日のように、寮の自室でこっそりと筋トレに励むようになった。彼の侍女や侍従たちはその急な変化に戸惑いながらも、運動が苦手で引きこもりがちだった主が体を鍛えるようになったことを、密かに喜び合ったのだった。
読んでくださった方、ありがとうございました。