101 深き森の迷宮 第一階層
感想を書いていただきました。本当にありがとうございます。お休みの日はたくさん書けて嬉しいです。
夏の三番目の月、夜明けとともに東ハウル村を出発した『聖女の導き』一行は、村の北東に出現した迷宮へ向け、森の中を慎重に移動していた。
「私が魔法を使って、皆でぱっと移動できたら楽なのに。ごめんなさい。」
申し訳なさそうに言ったエマに、ガレスが答える。
「いやいや謝ることなんかねえよ。それに《集団転移》なんて魔法、使える方が常識外れなんだからな。」
「エマの周りにいるのが、ガブリエラ様とあのドーラさんですからね。魔法に関しては常識がズレてても仕方ないと思いますよ。」
ディルグリムの言葉に「ちげえねえ」と言って笑うガレス。きょとんとした表情をするエマ以外のメンバーも、思わず笑みを零した。
「道が大分、歩きやすくなってますね。」
「カールお兄ちゃ・・・カール様が衛士たちの人たちと一緒にずっと巡回してくれてたみたいですから。」
テレサの言葉通り、迷宮に続く道の下ばえや小枝などが切り拓かれ、以前に比べると格段に歩きやすくなっていた。
「迷宮の監視は村や街を守る衛士の仕事でもあるからな。それにある程度、人が出入りするようになれば、迷宮の浸食速度も落ちるんだよ。」
「そうなんですか?」
エマの問いかけに、ガレスが頷く。
「ああ、迷宮の浸食は人を食うためじゃねえかって言われてる。迷宮の中に人がいれば、内部が活性化する分、外側への浸食は止まるんだ。」
「へえ、それじゃあ、大人数で一気に攻め落とせば、すぐに討伐できそうですね。軍隊とか騎士団を使えば、あっという間じゃないですか?」
ハーレがそう言うと、ガレスはニヤリと笑った。
「たしかにお前さんのいう通りさ、ハーレ。じゃあどうして、俺たち冒険者が迷宮討伐なんて仕事をしてると思う?」
「え、それは、えーと・・・なんででしょう?」
ガレスに問われたハーレがにへへと笑って頭を掻く。そんなハーレをテレサが鋭い目で見つめた。あー、こりゃ帰ったらお説教だな、とディルグリムは隣で笑っているハーレを気の毒そうに見つめた。
「エマ、お前は分かるか?」
「人間が中にいると迷宮が活性化するんですよね。一度にたくさんの人が入ると、大変なことが起こる、とかですか?」
「ああ、思い出しました!『迷宮暴走』!」
エマの答えを聞いたハーレが突然声を上げた。エマが「それ、なんですか?」と尋ねると、ハーレがエマに説明してくれた。
迷宮暴走は活性化しすぎた迷宮が魔力を暴走させ、内部の魔獣を狂化させて、一気に地上へ解き放つ現象のことだ。
「狂化っていうのは見境なく近くの生き物を襲うようになった状態のことで、これが起こると近隣の村や街がすごく危ないんですよ。」
狂化した魔獣たちは相手が同族であろうが、関係なく襲い掛かる。そのため迷宮暴走が起きると、周辺の魔獣たちが一斉に逃げ場を求めて大移動を始めるのだ。
ハーレの説明を聞いて、テレサがにっこりと表情を和らげた。お説教は回避されたみたいだ、よかったねハーレさんと、ディルグリムは心の中で胸を撫でおろした。
ハーレの説明をうんうんと聞いていたエマがガレスに言った。
「だから迷宮攻略は少人数の冒険者集団で行うんですね。」
「そうだ。それに人が入るようになると、迷宮はどんどん地下へ地下へと伸びていくんだ。冒険者たちはそれを『迷宮が根を張る』って呼んでるぜ。」
迷宮が根を張る理由については諸説あり、はっきりしたことは分からないとガレスは説明した。ただ間違いなく言えるのは、迷宮討伐のためには最深部の『核』を破壊しなくてはならない、ということだ。
「人が全く入らないと、迷宮が周囲を浸食しちまう。かといって入りすぎると、迷宮がどんどん深くなって討伐は困難になる。厄介なもんだぜ。」
ガレスがおどけて肩を竦めた。それを見たエマがようやく笑顔を見せる。迷宮暴走で村が危険かもしれないと聞かされてから、青ざめていた彼女の顔に少し朱が差した。
ガレスのさりげないこの優しさが『聖女の導き』のメンバーを結び付けている。目の前で交わされる会話を見ながら、ロウレアナはそんな風に考えていた。
「まあ、そんなに心配することねえよ。活性化するって言ったって、そんなに急激に迷宮が根を張るわけでもねえ。焦らず、慎重にいこうや、なあ?」
「はい!」
エマの元気な返事で、大人たちが笑顔になった。彼らはすこし速度を上げて、目的地を目指した。
もうかなり歩いているのに、周囲に魔獣の気配がまったくない。おそらく衛士たちの巡回の成果が出ているのだろう。行程は順調に進み、昼よりもかなり早い時間に迷宮の入り口である、小さな広場に辿り着くことができた。
広場の周囲には木組みの簡単な柵が作られ、いくつかの天幕が張られていた。どうやら野営している衛士隊と冒険者たちがいるようだ。
「ガレスさん!それに司祭様も。いよいよ初踏査ですか?」
そう言って声をかけてきたのは、冒険者ギルド長にして、現役冒険者のマヴァールだった。上半身下着姿で随分リラックスしているようだ。
「ええ、そうです。マヴァールさんたちはこれから戻られるところですか?」
「昨日夕方まで探索した後、一晩野営しました。でも雨の季節が明けたとはいえ、さすがに天幕の中は蒸し暑くてね。参りましたよ。・・・司祭様はそんなに厚着で暑くないんですか?」
白い法服をきっちりと着込み、シスターベールで顔以外の肌を隠しているにも関わらず、汗一つかいていないテレサの姿を見て、マヴァールは不思議そうに尋ねた。
「ドーラさんが作ってくれた魔法の下着のおかげです。すごく快適なんですよ。」
彼女はそう言ってにっこりと微笑んだ。ドーラは雨の季節の間に、エマと同じ魔法の下着をメンバー全員分用意していた。この下着には常に温度を快適に保つ《保温》の魔法陣の他、《乾燥》と《洗浄》の魔法が付与されている。もちろん防御力も、並みの鎧以上だ。
「ああ、なるほど。そりゃあ、羨ましい話です。迷宮内は結構過ごしにくい場所もありますからね。」
マヴァールはそう言って、自分が攻略した階層の情報と地図をテレサに開示した。それに対して金を支払おうとしたガレスを、マヴァールが遮った。
「いいんですよ、ガレスさん。代わりにガレスさんたちの情報をギルドに提供してもらえませんか?」
ガレスはテレサを見た。テレサは「もちろん構いません」と請け合った。情報を共有することで、冒険者たちが互いの命を守れれば、それに越したことはないとテレサは言い、マヴァールもそれに頷いた。
通常、大規模な冒険者ギルドでは迷宮に関する情報はそれぞれの冒険者が秘匿するか、もしくはギルドを通じて販売される。そうすることでそれぞれの冒険者が自分の利益を守っているのだ。
だがハウル村の冒険者ギルドにはまだまだ所属する冒険者が少なく、未熟な者も多いため、競合しあうよりも協力し合った方が効率よく利益を上げられる。
わずかな利益を争ってせっかく育った冒険者が共倒れになるよりは、互いに協力し合って安全に攻略を進めたほうが良いというわけだ。
ギルドはこの迷宮を『深き森の迷宮』と名付けたとマヴァールが教えてくれた。「まんまじゃねーか」というガレスの言葉に苦笑するマヴァールに見送られながら、彼らは迷宮の入り口に向け、出発することにした。
情報交換を終えた『聖女の導き』一行は、迷宮の入り口である大木の根元に空いた穴に向かう。
帰り支度をしているマヴァールの仲間の中にいたグスタフが、エマに気づいて笑いながらサムズアップしてきた。ハウル村で育った幼馴染のグスタフは2年前から冒険者見習いとして、ギルドでいろいろな下働きをしている。エマにとっては先輩冒険者だ。
子供のころは正直苦手だったけれど、冒険者見習いを始めた辺りからはすごく大人びたというか、周囲に対して優しく振舞うようになった。エマも何度か彼から仲間に誘われたことがある。
大人に混じって頑張っている彼の姿に励まされたエマは、同じように笑ってグスタフにサムズアップを返した。
そんなエマの様子を見ながら、ガレスは絶対にこの子を守らなくてはという思いを、より一層強くしたのだった。
黒い大穴の縁に辿り着いた。穴はテレサたちが手を繋いで輪を作った時よりも、さらに一回り以上大きい。穴の中からは甘い香りとかすかな血の匂いが漂ってきた。
穴の前の地面には大きな杭が2本打たれていて、そこから穴の中に縄梯子は垂れていた。おそらくカール率いる衛士隊がこの野営地を造成するとき、一緒に作ったものだろう。
「じゃあ、まずは俺が入ってみるぜ。エマ、明かりの呪文を頼む。」
エマが《小さき灯》の呪文を使って、ガレスの周囲にぼんやりとした明かりを灯した。早速梯子を下りようとするガレスをエマが引き留め、さらに呪文を唱えた。
「世界を覆う優しき風よ。その両手で、大地の禍いから彼の者を守れ。《落下速度軽減》」
ガレスの体が紫色の淡い光を帯びる。
「これなら万が一落っこちても、ケガしませんよ。」
そう言って笑うエマをガレスは気遣うように尋ねた。
「ありがてえが、エマ、魔力の残りは大丈夫か?」
「はい、これは風の初級呪文なので全然平気です。」
エマは笑顔で答える。このくらいの呪文なら何十回使っても、全く影響はない。それにいざとなったらドーラ特製の蜂蜜味の上級魔力回復薬もある。エマの言葉に安心したガレスは慎重に縄梯子を降りて行った。
しばらくすると、穴の中から「降りてきても大丈夫だ」というガレスの声が聞こえてきた。穴の底に小さく光が見える。どうやらかなりの深さがあるようだ。
エマは全員に《落下速度軽減》の魔法を使い、そのまま皆で一緒に穴へ飛び込んだ。誰かが「ひいっ!」と軽く息を呑む音が聞こえた。
地面が近づくにつれて、落ちる速度がゆっくりになっていく。エマはガレスの待つ穴の底に、そっと降り立った。
「ちょっと怖いですけど、慣れると楽しそうですね、お姉様!・・・大丈夫ですか、お姉様?」
「だ、大丈夫です。このくらい、ナントモアリマセン!」
テレサは法服の乱れを直しながら、ハーレに強張った笑顔を見せた。目の端にちょっと涙を浮かべたまま、声が裏返ったのをごまかそうと咳払いをする。
「・・・お姉様、もしかして高いところが怖いんですか?」
「な!何を言っているのですかハーレ!聖女様のご加護に守られた私に恐れるものなどありません!」
口ではそう言いつつも顔からは滝のように冷や汗をかいている。魔法の下着が彼女の体から溢れた様々な液体を《洗浄》し《乾燥》させた。
普段冷静沈着で動じることの少ないテレサのそんな姿に、ディルグリムは驚きながらも、ちょっと可愛らしいと思わずにはいられなかった。
「・・・まさか飛び降りるとは思わなかったが、まあ司祭様が縄梯子で動けなくなるよりはマシだったな。こっちだ。」
ガレスの言葉に何か言いかけたテレサだったが、結局小さく咳ばらいをしただけで何も言わなかった。藪蛇になると思ったのだろう。
「精霊の力がほとんど感じられません。」
周囲の暗闇を見ながらロウレアナが不安そうに呟いた。そんな彼女を気遣うようにガレスが、彼女の方を見た。ロウレアナは彼と目を合わせるとゆっくり頷き、自分の守護精霊が入っている水袋を手で触って確かめた。
おそらく迷宮の魔力が強く働いているため、精霊たちが入り込めないのだろうと、エマとテレサは思った。
一行はガレスの案内に従って進むことにした。エマが短杖を取り出し《絶えざる光》の呪文を詠唱すると、周囲に明るい光が満ちた。この短杖もドーラがエマのために作ったものだ。見たこともない素材だが、とんでもない力があるのは魔力のまったくないガレスにも分かるほどだった。
彼らが降り立った場所は小さな広間の様な円形の空洞の中央部だった。空洞からは4方向に洞穴の入り口が見える。土の中のはずなのに、床や壁はつるつるとして石の様に固く滑らかになっている。
「まるで一度地面を溶かして、固めたみたいになってますね。」
エマが足元でコツコツと音を立てる床を確かめながらそう言った。ガレスに言われて、ハーレが戦槌を床にたたきつけてみると、表面にひび割れが出来、その下に土が見えた。
どうやら掘り抜いた大地の表面を、何らかの物質で固めてあるようだった。
「あっ、ひび割れがもとに戻っていきますよ!!」
ハーレが驚きの声を上げる。地面に出来たひび割れは見る見る間に元の様に固まり、無くなってしまった。
「これが迷宮の力ですか?」
「ああその通りさ、エマ。迷宮の中にはどこもこんな感じでな。無理矢理、破壊しようとしても、すぐに元に戻っちまうのさ。そしてこれをやり過ぎると・・・。」
「!! 周囲から何かが近づいてきます!!」
耳の良いロウレアナが叫ぶとともに、弓を構えた。獣の足音や唸り声とともに四方の通路から現れたのは、大小様々な魔獣たちだった。
「・・・やり過ぎると、迷宮を活性化させちまうのさ。」
ガレスが刺突短剣を抜き払いながら呟いた。迷宮での初戦闘は、そうして唐突に始まった。
「数は多かったですけど、あまり強くない魔獣ばかりでよかったですね。」
ディルグリムが愛用の黒い小太刀に付いた魔獣の血を払いながら、そう言った。ガレスは「ああ」と短い言葉でそれに応じながら、早速魔獣の素材を回収していく。
「でも森林狼や一角兎、それに梟熊が一緒になって襲ってくるなんて、初めてですよ。」
「普通では考えられない組み合わせですよね。これも迷宮の力ですか?」
ハーレとエマが襲ってきた魔獣の亡骸を眺めながらそう尋ねると、ガレスがぶっきらぼうに答えた。
「迷宮が魔獣たちを操っているとも、狂わせてるとも言われてるがな。詳しいことは知らん。」
ガレスは一心に手を動かしながら、素材を回収していく。エマや他のメンバーも採集用のナイフを取り出し、それに加わった。
テレサは若いメンバーに迷宮の危険さを身をもって教えようとしたガレスの意図に気づいて、彼がこの一行にいてくれたことを神に感謝した。
目ぼしい素材と魔石の回収を終えた後、一行はマヴァールの用意してくれた地図で通路を確認した。
「この第一階層?、かなり広いですね。」
ディルグリムが油紙に描かれた複雑な線や記号の集まりを見ながら言った。
「迷宮が浸食した範囲がそのまま地下空間になって広がってるからな。ちょっとした村が入るくらいの広さはあるぜ。」
「この地図がなければ探索は相当困難だったでしょうね。マヴァールさんのお陰で助かりました。」
テレサの言葉に全員が頷く。この地図は先に入った冒険者たちや衛士隊が書き記してくれたものだ。現在第三階層までの情報が書かれている。
彼らは地図に書かれた第二階層の入り口を目指し、ガレスを先頭に通路へと移動することにした。
「ガレスさん、あの魔獣の死骸は焼かなくていいんですか?」
エマが床の上に散らばったたくさんの死骸を指さしながら言うと、ガレスは立ち止まり「見てな」と一行に向かって顎を軽く動かした。
しばらく見つめていると、床の上の魔獣の死骸が揺らぎ、たちまち溶けるように消え去った。床の上に散らばった血痕すら残らず無くなり、さっきまで激しい戦闘があった場所とはとても思えないほど、何もない空間だけが残った。
あまりの出来事に言葉を無くす若いメンバーにガレスが言った。
「迷宮はああやって、魔獣や人を食うのさ。大丈夫だ、生きてる人間が食われることはねえ。」
ガレスが安心させるように手袋を外した手でエマの頭を軽く撫でた。エマはやや青ざめた顔で彼と目を合わせると、こくりと頷いた。
今の光景を見て、若い彼らは改めてここが恐ろしい迷宮の『体内』であることを実感し、言葉を無くした。ガレスは小さく震えるエマの肩を見ながら、こんな小さい子供に迷宮の探索をさせることが本当に正しいことなのか、と思わずにはいられなかった。
「行きましょう!」
そんな沈黙を破るように一際大きな声を上げたのはエマだった。エマはくっと口元を引き締めると、決然とした表情で歩き出した。
大人たちは顔を見合わせて一つ頷くと、エマに続くように隊列を整え、行動を開始した。ガレスは、エマの強い思いに応えるかのように素早く、尚且つ注意深い動きで、仲間を導いていった。
先頭に立ったガレスは、エマのかけてくれた《聴覚向上》の魔法の助けを借りながら、通路を進んでいく。地図には通路に仕掛けられた罠の位置や内容まで書かれてはいるものの、用心するに越したことはないからだ。
ガレスは手袋を外し、壁や床を慎重に調べながら前に進んだ。床や壁のあちこちにごくわずかな亀裂がある。これは強酸や有毒なガスの噴き出す罠だ。ガレスは起動スイッチになっている床のわずかな隆起を踏まないよう仲間に警告し、次々と罠を回避していった。
小規模な戦闘が数回あったものの、どれもさほど強くない森の魔獣たちばかりだった。誰も負傷することなく戦闘を終え、やがて彼らは第二階層へと続く下り坂に辿り着いた。
下り坂は緩やかに左へカーブしながら下へ続いている。ゆっくりと進んでいる彼らの行く手、暗い通路の先にやがて明るい光が見えてきた。風に乗って甘い花の蜜の香りが漂ってくる。
「あ!あれが第二階層ですね!」
地図を確認して罠がないことを確かめたハーレが、先を見ようとガレスの前に出た。そんな彼女の襟首をガレスが強引に掴んで引き戻す。
一瞬前までハーレが立っていた場所から突然、牙を持った巨大な口が出現した。床一杯に広がった口に飲まれそうになったハーレは、寸でのところで危機を回避することができた。口はあっという間に床に溶け込んでいく。
ガレスはハーレを後ろに引き倒すと、腰の小袋から小さな包みを取り出し、口の出現した床に投げつけた。包みは床にぶつかると弾け、ひどい匂いのする赤い汁を床一面に飛び散らせた。
これはガレスが不可視の魔獣対策で準備しておいた目印だ。レドーリアというひどく臭い実の汁を発酵させたもので、豚の内臓で作った特製の包みに入れて持ち歩いている。粘性が高く、一度付くとなかなか落とすことができない。
床に広がった汁が、まるで水の上を滑るように壁、天井へと素早く移動していった。ガレスがそれを目で追いながら、エマに向かって叫んだ。
「床摸倣獣だ!エマ!!」
「はい!雷よ、我が敵を穿て!《雷撃》!!」
エマが短杖を振りかざし、短縮詠唱で素早く《雷撃》の魔法を放つ。エマの魔力によって誘導された一条の雷光が、過たず赤い汁の飛び散った天井を貫いた。
天井は一度ぶるっと大きく震えたかと思うと、彼らの真上に覆いかぶさるように落ちてきた。落ちてきた天井を回避した彼らの目の前で、天井と同じ色をしていた不定形の生き物がどす黒い色に変わり、みるみる小さくなっていく。
薄く広がっていた不定形の床摸倣獣は、汚い体液をまき散らしながら小さめのシーツくらいの大きさにまで縮み、やがて動かなくなった。
ハーレが目の前で蠢いていた魔獣を蒼白になった顔で見つめていた。
「大丈夫か、ハーレ。」
「・・・ガレスさん、ありがとうございました。まさかあんなのが隠れてるなんて、私・・・。」
がちがちと奥歯を震わせながら呆然と呟くハーレ。ガレスはハーレの正面に座り、彼女の肩をしっかりと掴みながら言った。
「ああ、あいつらはよく潜んでるんだ、長いトンネルの出口なんかにな。暗い通路の先に光が見えたら、誰だって気が緩む。それを狙ってやがるのさ。」
ハーレが飛び出した時、わずかな床の動きを見つけたことで間一髪、回避することができたのだ。もし彼女が飛び出していなければ、ガレスが片足を食いちぎられていたかもしれない。
ガレスはそう言ってハーレを慰め、彼女を落ち着かせた。本当なら叱りつけてやらなきゃいけない場面だが、今は逆効果にしかならないと判断したからだ。説教は彼女が落ち着いてから、司祭様と俺、二人ですればいい。
テレサもそれが分かっているのだろう、震えるハーレをそっと抱きしめていた。ガレスはハーレを彼女に任せ、倒した魔獣の魔石を回収する。
子供の握りこぶし程もある、大きな土の魔石が採れた。こいつは魔法でしか倒すことのできない強敵だ。エマがいなければ、ガレスは即時撤退を選択していたはずだった。
倒した魔獣の様子を覗き込みに来たエマに、彼は訪ねた。
「エマ、よくこいつが風の魔法が苦手だって分かったな。」
「何となくですけど、土の魔力を感じたんです。倒せてよかったですね。」
そう言って微笑むエマ。中級以上の冒険者集団であっても苦戦する床摸倣獣を、一撃で葬ったとは思えないほど可憐なエマの様子を見て、ガレスはふと「この娘ならばもしかしたら本当に、迷宮を討伐してしまうかもしれない」と思った。
ハーレが落ち着くのを待って、彼らは先に進むことにした。暗いトンネルを慎重に進んでいく。その先に広がっていた光景に、エマは思わず息を呑まずにはいられなかった。
読んでくださった方、ありがとうございました。