煙の中の彼女
大学進学を機に上京して暮らし始めた単身者向けアパート。家を探すだけでも大変だった記憶があるが、3年目を迎えた今では、都会での暮らしにも慣れ、なんとかやれている。
ベランダに出てみると星空には郊外だからだろうか、都会よりは星がいくつか瞬いていた。
綺麗だな。ぼうっと思いながらポケットから煙草を取り出した。煙草を吸うようになったのは、大学に進学してすぐ、かっこつけのために吸い始めた。最初はむせたり頭が痛くなったり、謎の罪悪感があったりしたが、今ではそれもなくなった。
煙草を美味しいと感じた事はなく、もはや惰性で吸っているところがある。(そのため週末に1,2本しか吸っていない)
パーラメントを選んだのは特に理由はなく、しいて言うなら自分の喉を傷めるのがこの銘柄だったからだ。
喉を傷めることによって自分が煙草を吸っているという実感が得られる。就職活動の鬱憤を煙草という習慣によって紛らわせている節がある。
火を煙草へと移して一度吹かして、ゆっくりと煙を肺の中へ送り込む。うん。不味い。なにが楽しくてこんな不味いの吸ってんだ。自らを嘲笑しつつ、空へ煙を送り出す。
寒空に煙が風にさらわれて消えていく。しばらく吹かしていると隣のベランダの窓が開いた音がした。
そういえば隣は今日引っ越してきたんだっけ。角部屋で隣が空いていた為ベランダで吸うような日々を過ごせていたが、とうとうこの時間ともお別れか。
そう思いながら灰皿に煙草を押し付けるか悩んでいると、隣から煙が流れてきた。
どうやら隣も同じ目的でベランダに出てきたようだ。ホッとしたのと喫煙者仲間を見つけてなんだか嬉しくなってしまったのか、いつもならしないであろう声かけをした。
「今日は一段と寒いですね。」
訪れた声は予想とは異なるものだった。
「私に言ってる?」
20代後半か30代前半かどちらにしろそれが女性の声だというのに時間はかからなかった。
「あっ。すいません。まさか女性だとは思わなくて。」
思わず柵から手を離して頭を掻く。
「いいよ。学生さん?」
「はい。ここの近くの大学の大学の3年生です。」
「ってことはもしかしてあそこの国立!?すごいね~。頭いいんだ。」
彼女の声のテンションが上がる。
「いえ、それほどでも。今も就活上手くいってませんし。」
「ふーん。どんな感じなの?」
「いや、変な回答はしてないつもりなんですが、いくつかある本命はお祈りばかりで。内定ももらってるところはあるんですけど。」
僕の吹きかけた煙が空に踊る。
「頭いい人は頭いい人で大変なんだ。」
彼女が吹きかけた煙が僕の煙と混ざりあう。
「まあ・・・。あなたは?」
今度はこちらから彼女に質問する。
「お姉さんって呼んで?」
少し猫なで声で言う。
「お姉さんはどうなんですか?」
おとなしく従う。
「私はこの近くの店で働いてるんだ。」
「今日はお休み?」
「うん、今日はお休み。というか大体この日はお休みもらってる。」
「そうなんですね。いつも、この時間に一服してるんですか?」
「そうだね。もう習慣だよ。」
「僕も似たようなもんです。」
フッと笑みをこぼす。隣からも笑みがこぼれる声が聞こえた。
「じゃあまた会えるかもね。」
お姉さんのなんとなしの声がした。
「そう、かもですね。」
僕がそういったのを確認して彼女が窓を閉める音が聞こえた。
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お姉さんとはその後、お互いの一服の時間に話すようになっていった。
お互いが田舎者であること。星空を眺めるのが好きなこと。お互いの学生時代(僕は現在進行形だが)等々色々な話をした。
お姉さんと僕は生活時間が違うようで、アパートの廊下でも会うことはなかった。そのため日が進むたびにお互いがこの日を楽しみにするようになっていった。ある時は互いが窓を開ける音が聞こえたらそれに合わせてベランダに出るようになった。
ある時お姉さんの煙草を始めたきっかけを聞いたことがある。
「きっかけ?好きだった男がヘビースモーカーでね。これもそいつが吸ってた銘柄。」
「不思議なんだよね。そいつもひどい男で、二股してたり友達に借金していたりさ。」
「でも優しかった。今日みたいな寒い日には仕事に行く私に自分の安物のコートかけてくれたり、私の誕生日にはコンビニのケーキ買ってきて、葬儀に使う蝋燭さして、下手糞なバースデイソング歌ってくれてさ。駄目なところばっかりなのに、そんなところも好きだった。」
いったん途切れていた煙が再びこちらに流れてくる。
「それで、そのあと彼とはどうなったんですか?」
お姉さんは何も答えずに煙草をふかしていた。その一息に彼女が何を想い、込めているのかを窺い知ることはベランダの壁に遮られて僕には出来なかった。
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お姉さんとは煙草を吸いながらちょっとした宴会を開くようになった。といってもお互いが適当に買ったおつまみとお酒を楽しむぐらいのものだ。彼女はあたりめと柿ピーが好きなようでよく僕の方にベランダの囲い越しに差し入れてくれた。ある時いつものように差し出された彼女の腕に腕時計がないことに気づいた。月の光を反射するような白く、すらりとしたものであったが、手首の裏に一筋の傷跡が走っているのを僕は見た。隠すこともできただろう。僕はゆっくりと手首をつかんで傷跡に親指をなぞらせた。
彼女は何も言わなかった。
僕も何も言わなかった。ただつかんでいた手首からゆっくりと彼女の手のひらに滑らせて強く握った。
彼女の手のひらはしばらく震えながら、僕の手を強く握り返した。
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それからちょうど1年が経とうとしていた。僕は今日、本命の企業の一つである面接の結果を待っていた。
これまでの経験から面接対策を完璧にしてきた為、今回の面接は手ごたえを感じていた。
そして家で待っていると携帯に連絡が入った。
「はい。お世話になっております。はい。ありがとうございます。」
内定の連絡だった。この喜びと感謝を彼女に伝えたかった。
彼女がベランダの窓を開ける音が待ち遠しかった。
隣はいつもよりなんだか騒がしく、遅くまで続いていた。
静かになってしばらくしてガラッという音の少し後に煙が見えた。僕も煙草をベランダへ急いで持っていく。
「こんばんは。」
僕が窓を開ける音が聞こえたのだろう。彼女の挨拶に僕も答える。
「今日は遅かったね?」
彼女が僕を待ってくれていたという嬉しさを抑えつつ、答える。
「すいません。実は報告したいことがあってお姉さんを待ってたんです。」
「なんの報告?」
「内定もらったんです。第一志望のとこから。」
「おぉ。よかったね。おめでとう。色々頑張ってたもんね。」
パチパチと近所迷惑にならない程度の小さい拍手が聞こえた。
「ありがとうございます。これもお姉さんのおかげです。」
見えてないだろうけど頭を下げる。
「いえいえ、私がしたことなんて落ち込んでる君の背中を叩いて元気づけたぐらいだよ。まあベラン越しじゃ背中叩けないんだけどね。」
「そうだ。お祝いしないとね。待ってて。」
フーっと煙を吹き出した彼女はパタパタとベランダを開けて部屋に戻る。
しばし星空を見上げながら待っていると、彼女が戻ってくる音が聞こえた。
「お待たせ。ケーキなかったからいいウインナーと、いいシャンパンがなかったからいいビール用意した!」
「いつものメニューがグレードアップしただけじゃないですか。」
「今日はちゃんとグラス用意したから雰囲気も違うでしょ?」
ワイングラスにビールを注いでこちらに手渡してくる。
「いや、はい。そうですね。」
苦笑いしながら受け取る。
「じゃあ内定おめでとう!乾杯!」
彼女とグラスを軽く合わせて少し喉にビールを流した。
「でも、これだけじゃ寂しいね。何かあげたいけど何か欲しいものある?」
チーズの箱を開ける音が向こう側から聞こえる。
「いえ、特にありません。」
「え~。つまんないよ。そうだ。お姉さんがいつも吸ってるこいつをあげよう。」
お姉さんはそう言って、自分が吸っている煙草を高そうなオイルライターと一緒に僕に手渡してきた。
「え、悪いですよ。こんな高そうなライターまで。」
「いいのいいの。何かあげたい気持ちなの。それにどうせ吸うんだったら恰好つけなきゃ。仕事も人生も、頑張りすぎずに楽しみな。」
室外機の上にグラスとチーズを置いたのだろう。再び煙が風に運ばれてこちら側にくる。
「そしたらいつかそいつが似合ういい男になるから。」
「じゃあ、はい。有難くいただきます。」
それをポケットにしまってお礼をした僕はふと思いついて彼女に提案した。
「あ、そしたらこれが似合うようになったら顔を合わせて会いませんか?」
「・・・そうだね。・・・・・うん。その時はお姉さんの方から誘いに行くよ。」
「ほんとですか。じゃあ楽しみにしておきます。」
喜びの行方を月を見上げる視線に預けた。彼女も見上げていたのだろう。
「綺麗。今日の月は忘れられないよ。」
彼女の言葉が僕に向けた言葉だったのか。独り言だったのかはわからない。
しかし僕にとっても今日彼女とみる月は特別綺麗に見えた。
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駅からアパートに向けて歩く僕にいたずらするかのように冷たい風が通り抜けていく。
僕はマフラーに顔をうずめて先ほどコンビニで買った弁当とつまみとビールを入れた袋を片手に帰り道を急ぐ。周りの店では飾り付けが行われており、否が応にもクリスマスの近付きを僕に知らせる。
アパートの階段を上がっていくと僕の住む部屋の手前の部屋の表札を横目に確認する。何も書かれていない。これは新しい人が来たかどうかの確認だ。
あれから3年が過ぎた。彼女は挨拶もなしに隣の部屋を出て行った。いや、恐らくあの贈り物と言葉が彼女にとって何よりの別れの挨拶だったのだろう。あの後、数日間隣の部屋から生活音が聞こえなくなり、おかしいと思い、いつものようにベランダに出て彼女を待ってもいつまでも出てこないことで確信した。噂では借金があったとか、田舎に帰ったなど言われていたようだが真相はわからない。
部屋のドアを開け、早々に荷物を下ろし、ジャージに着替え、手を洗い、コンビニ袋の中を探り品物を取り出す。予め温めてもらった弁当を食べながらビールを空けた。
一息つくとあの時のようにベランダを開くと、寒くなった空気に少し鳥肌が立ったのを感じながら、リビングに置いてあったアメスピを取り出す。
彼女に渡され、それから吸うようになったものだった。良し悪しはやはりわからないが少なくとも自分には合っているように感じた。
そして、これまたリビングから持ってきた彼女からもらったライターで火をつける。深く肺に送り込み、吹き出す。冬の澄んだ空気に星と月は一層その美しさを際立たせていた。
もうすぐ彼女が出てくる時間だ。いるはずもない。開くはずのない窓が動く音を聞き逃さないようにと自然に意識は耳に集中していく。
《今日も寒いね~。お姉さん風邪ひきそう・・・。》
彼女がいたらこう言うのだろうか。
だがやはり聞こえてくるのは北風がその寂しさをビルやアパートにぶつけるような音だけだった・・・。
今彼女は何をしているのだろう。
働いているのだろうか、眠っているのだろうか。
泣いているのだろうか、笑っているのだろうか。
ご飯を食べているのだろうか、友達と遊んでいるのだろうか。
はたまた今の僕のようにベランダに出て煙草をふかし、夜空を見上げながら僕のことを想ってくれているのだろうか。
2本目の煙草をつける。ライターを握りしめながら、切なくなる想いを肺いっぱいに吸い込んで、願いを込めるように吹きかけた煙は夜風に運ばれる。
じわじわと燃えて灰になって消えていく煙草が今日の彼女を待つ時間の終わりが近づいていることを告げる。少し遠くに見えるビルの赤く点滅する障害灯が明日の仕事に備えろと急かしていたが、僕は無視して吹かし続ける。
今日も会えなかった。
煙草の煙を見つめながら、もう少し経って、いつかこいつが似合う男になったら、彼女は会いに来てくれるだろうか。
そんなことを思いながら燻っている煙草を空けたビールの缶に押し付け入れて、僕は今日のベランダをゆっくりと閉じた。
終