プロローグ
就活に失敗して半年が経った秋のとある日、俺は朝の電車のホームに居た。
池袋駅。
乗車人員数は新宿に次ぐ第二位のターミナル駅だ。だから朝から大勢の人が行き交う。
ホームには朝から疲れた様子のサラリーマンが、ぼーっとした目でスマホを見ていたり、化粧途中のOLが立ちながら器用にアイラインを引いている。
これから戦場に赴く企業戦士達だ。
日本の企業戦士達は軍隊のように隊列の乱れもなく、ホームに整列している。
毎日ほぼ同じ時刻に並び、乗り、降りる。それを繰り返す。
電車に乗ってる間は人により、本を読んだり、ゲームをしたり、音楽を聴いたり。
そして自分の仕事場に着いたら戦いが始まる。人によるが、大半の人間は何十年とそれを続ける。
時には息抜きも大事だ。夜は飲みに行く者も居れば、恋人とデートをして翌日の戦いに備えるのだ。
まぁ世の中には途中で挫折する者も居れば、そもそも戦う気がなくただ自堕落に生活する者も居る。
俺はというと、周りの企業戦士達と共に戦場に赴くべく、雇ってくれる会社を探しているがいまだ見つけることができないでいる。
俺は働く気はあるのに雇ってくれる所がないのだ。
それもこれも色々忙しかったせいで、大学4年の冬になってからようやく始めたせいだが、もう仕方ないので忘れることにする。
過ぎてしまったことは仕方ない。俺はあまり後ろ向きには考えない主義なのだ。
「新宿方面行きの電車が参ります、危険なので白線の内側まで下がってお待ちください」
ホームのアナウンスが鳴り、一台の電車がホームに入ってくる。
俺はイヤホンでシャカシャカ聞いていた音楽の音量を少し下げた。
やがて隊列は先頭から順にドアの脇へ移動し、乗客が降りるのを待つ。
不思議なもので、乗る際は整列するが、降りる際は我先にと周りを押して降りていく。
取り残されたら、今か今かと待っている次の戦士たちが押し寄せるからだ。
ここで取り残されるようであれば戦士失格。さっさと帰れということなのか。恐ろしいものだ。
ある程度人が降りた所で、待っていた先頭が一歩踏み出したのを皮切りに電車に流れ込んでいく。俺もその流れに身を任せていく。
あっという間に隙間なく埋め尽くされていく。密着し、そして圧縮される。
「ドア~、閉まりまぁ~す」
この池袋~新宿間は人間が圧縮されているため、スマホを見ることは容易ではない。
少し考え事をしながら、この息苦しい空間を耐え凌ぐことにする。
なぜ仕事をしていないのに、こんな朝から電車に乗っているかというと、実はとある会社でいよいよ最終面接まで漕ぎつけていたからだ。
雇ってくれる所がないとは言ったが、それももうこれで終わり。晴れて、俺も企業戦士の仲間入りになるのだ。
飲食系で如何にもな職場だが、働けないよりはマシだ。こき使われようと、すりゴマの如く擦りつぶされようと生きていくのだ。
人間とはそういう「物」なのだから。
そんなくだらない事を考え、改めて志望動機や自己PRの再確認を行おうと思った矢先に、ふと気付く。
そういえば、目の前に居るのは女子高生だった。
サラサラした黒髪が長く、スラッとした可愛らしい子だった。
しかし貧相な胸だ、俺はもうちょっと大人のボインのお姉さんの方が好みだ。とはいえまだ希望は捨てるんじゃない、まだ間に合う。時は短し牛乳飲めよ乙女。
じろっ
おっと目が合ってしまった、めちゃめちゃ睨まれたぞ。
このご時世、痴漢に勘違いされようものならこの世の終わりだ。人生終了。金なんて毎日キャベツで凌いでいる俺にある訳ないし、前科が付いたら仕事どころじゃなくなってしまう。
それだけは避けなければ。いい加減肉が食いたい。
念のために、カバンを胸に抱きかかえておく。
「まもなく~新宿~、お降りの際はお荷物のお忘れのないようお気を付けください」
そろそろ新宿に着こうかという時だった。
「この人、痴漢です」
俺の手が高らかに挙げられた。
こんな挙手は小学校の運動会で選手宣誓した時以来したことがない。
人生が終わった瞬間だった。
一般的に痴漢は、都道府県の迷惑防止条例違反、悪質な場合は刑法の強制わいせつ罪となる。
警視庁のデータによると、痴漢に関する迷惑防止条例違反の件数は年間およそ1900件。
電車内、駅と合わせると7割超が鉄道関連で発生している。
俺はその1900分の1としてたった今現行犯で捕まったらしい。
らしいなんて他人事のように考えているのは、俺自身混乱しているからだ。
過去に見た関西弁の司会者のワイドショーがフラッシュバックしていた。
ハッとして、まずは弁解しようとした矢先、
「お前か!」
「ぶふぅっっ」
居合わせた正義感の強そうなサラリーマンにいきなり頬を殴られ、羽交い絞めにされた。
「動くな!」
「う、動いてない!」
「このクズがっ!」
別の体格の良さそうなサラリーマンに鳩尾を殴られる。
うぅっ…吐きそう。
「や、やってない。俺じゃない」
ようやく出た言葉だったが、逆効果だった。
「嘘よ!このクズ!私のお尻触ったでしょ!」
「てめぇ以外いないんだよ、大人しくしろ!」
もう一発顔面を殴られたあと、大人しくなる俺。
痛い、声でないくらい痛い。
だめだ、こいつら何を言っても聞きやしねぇ。
そして新宿駅についたと同時に、女子高生は駅員を呼びに行き、俺は二人の男に取り押さえられながら降りる。
好奇の視線を受けながら蹲る。
しかし企業戦士達は横目に見ながら無関心に通り過ぎていく。自分に関係ない事は見て見ぬ振りするのがこの国だ。素晴らしい、今は逆にその方が助かる。
例え冤罪だとしても、ここで線路上に飛び出して走り去る恥さらしな真似はさすがに出来ない。
こんな姿を全国のお茶の間の奥様方に晒すのは気が引ける。
しかしどうしよう、やっていないことを認めるのは嫌だが、とても不利に思える。
捕まった時点で終わりなんて言うし、弁護士呼ぶ金なんてない。
「示談金っていくらぐらいなんだろ…」
そんな弱気なことをぼそっと言った時、ひょろっとした男性駅員と共に先ほどの女子高生が戻ってきた。
「とりあえず、駅員室に来ていただきましょうか」
駅員は淡々と死刑宣告を放った後、俺は二人の男に担ぎ上げられ連れていかれる。
他の駅員が忙しそうにしている駅員室に通され、椅子に座らされる。なんか取り調べみたいだな。
「一先ずお二方はお帰り頂いて結構です、ご協力頂き有難うございます」
先ほどの男性駅員が二人に言うと、二人は良い事したという表情で帰って行った。
あいつら正義感ぶりやがって、やったことはただの暴力だぞ。
「まず状況をお聞かせ頂いてもよろしいでしょうか?」
「こいつに痴漢されたの」
勘違い女め、やられたかは知らんが俺じゃないぞ。
「私はやっていません、別の誰かがやったんじゃないですか?」
「あんたが真後ろに立ってて、他の誰が私のお尻触ったのよ」
「私は両手でカバンを抱きかかえていたので、触ることは不可能でした」
「言い逃れなんてして、ふざけんな変態!」
「まぁまぁ、なんとなくわかったので落ち着いてください。痴漢でしたらとりあえず、警察の方をお呼びした方が良さそうなので少々お待ちください」
ものの数分も話さないで席を立つ駅員。
おいおい、そんな適当な相槌で済まして俺の人生終わらせようとするんじゃねぇ!
「ま、待って!ほんとにやってないんだって!」
「まぁ、あとは警察の方にお話ししてください」
「ちょっ、まっ…」
これからなんだ、これから俺の人生が始まるっていう時に…
クソっ、なんでこんな、運が無さすぎる。
絶望に打ちひしがれている所に、後ろの扉が開く。
「駅員室ってここでよろしいんでしょうか?」
そこには、ピシッとしたスーツを着たかっこいいお姉さんが立っていた。
「さっき女子高生を痴漢してた男を捕まえたんですけど、ここでいいんですよね?」
人生が始まった瞬間だった。
一日にして人生が終わったり始まったりした。