6話 ワタリガラス
『風が吹きさらしの木に、九夜吊り下がり
オーディン、私は私に身を捧げた
パンもぶどう酒もなく、私は苦しかった
下をうかがうと光があった
私はうめきながらそれを掴んで、木から落ちた』
-高き者の歌 ルーンの起源-
アキ達はいくつかの部屋と扉を通り抜け、やっと建物の外に出ることができた。人の気配はない、時刻は深夜、街は暗闇が支配している。
「とりあえず街を離れよう」
「城門は固く閉じられ、跳ね橋が上がっています。開くことは簡単でしょうが、かなり目立つかと。それより適当な宿に入ってはどうですか?あなたにとってどんな強固な扉も意味をなしません」
アキはクロボの提案にはあまり気乗りがしなかった。勝手に入って泊まろうというのだ。すでに追われる身だが、自分から犯罪者にはなりたくない。
思案しながら通りを歩いていると、目の前に黒いものが動くのが見えた。漆黒の体、一羽のカラスだ。目は赤く、ルビーのように輝いている。カラスはこちらを見た。そして何もなかったかのように飛び去っていった。
「カラスを追うぞ」
「え?どうしました?アキ様?」
カラスの正体にある予感がしていた。都合がいいタイミングだが、賭ける価値はある。カラスはゆっくりと低空で飛び、やがてある明かりのついた建物に入っていった。中からはざわざわと人の話し声が聞こえる。アキは扉に手をかけ、鍵はかかっていないようだ、慎重に開いた。
建物の中は、いくつかのテーブルがある。男たちが腰掛け、盃を持って騒いでいる。酒場のようだ。カラスを探して目を走らせると、いた。端にあるテーブルに座っている灰色のローブの男の肩に止まり、何かを耳打ちしている。アキは男の前に歩いていった。
「人間よ、座ったらどうだね」
つばの広い帽子に隠すような隻眼、灰色の髭をたくわえた老人。肩に止まるのは世界を周り、起きた出来事をオーディンに耳打ちするワタリガラス。加えて今の言葉。間違いない、北欧神話における主神。戦争と死、知恵と神秘の神オーディンその人だ。
アキは緊張しながら勧められた椅子に腰かけた。
「何か飲むかね?」
問いかけに対し、アキは無言で首を振った。オーディンは微笑むと、自分の分のぶどう酒を注文した。
「ふむ、フギンに君のことは聞いたよ。ロキが人間に血を与えたとは今までなかったことだ。なにか、企んでいるのかね?」
「い、いえ、ロキ….様の気まぐれだと思います」
「そうであれば良いがな、しかし奴は気まぐれに大変な事件を起こす」
肩に止まるワタリカラスのフギンを撫でながらオーディンは穏やかに話す。微笑んではいるが、目には強い光が宿っているのをアキは気がついた。
「ところで君は、私を探していたようだが、なにか用があったのかね?」
「あの…実はオーディン様にお願いがありまして」
「ふむ…ここでその名前は相応しくないな。私のことはサズ、もしくはハールと呼びたまえ」
真実のもの、片眼のものどちらも五十を超えると言われるオーディンの二つ名だ。アキはゴクリと生唾を飲んだ。果たして自分の要求が、この世界で最も高きもの、主神へ通じるのだろうか。
「では、ハール様。実は私はこの国で手配されているようでして。大変恐れ多いのですが、私の契約神であるロキ様が渡したニーズベルンの指輪をいただけないでしょうか?」
「ふむ…」
アキは話している途中で、目の前の神が何の対価もなく指輪を手放さないだろうと確信していた。北欧神話の主神オーディンは、戦死した英雄をヴァルハラへ送り、自分の軍隊である、死せる英雄たちの軍を強化することにしか興味がない。そのためなら仲良く暮らす兄弟や家族へ不和を撒き、無用な争いを引き起こすほどだ。
「指輪は私の大切な帽子が汚された対価に受け取ったものだ。これが欲しいのであれば、君にも何か代償を支払ってもらわなければならない」
「私にできることがあればなんでも」
アキはそう言いながらも、自分には何も差し出せるものがないと思っていた。オーディンは微笑みながら続ける。
「よく言ってくれた。君には私が今取り掛かっているある仕事を手伝ってもらいたい」
「といいますと?」
「人間は今、血を与えることでしか能力を使うことができん。魔術師と呼ばれとるものはおるが、それは錬金術師であったり、薬師だったりするだけ。本物の魔法使いではない。私はどうにかして、魔法使いを作りたいのだ」
話を聞きながらとうてい自分には力になれないと思っていた。魔術師の神でもあるオーディンが挑戦しているのだ。自分の出る幕などない。
「それは素晴らしい考えですね。えっとルーン文字を使ってみるのはどうでしょう?」
「ルーン文字だと?」
ルーン文字は神秘の力を秘めた文字である。オーディンが宇宙樹ユグドラシルで首を吊り、オーディンに身を捧げたことで思いついたと言われる。自分に自分自身をを捧げたのだ。アキもよくわからなかったが、資料にそう書かれているのだ。そういうものだと思うしかない。
「ルーン文字とはなんだ?文字に魔法の力を入れるという考えは悪くなさそうだが…」
「宇宙樹であなたが首を吊って思いついたものではないのですか?」
「自分で首を吊る?何故そんなことをしなければならないのだ。意味がわからんな」
俺だってわからないよ!叫びたかったが、言葉を飲み込んだ。どうやらまだ、ルーン文字は開発されていないらしい。余計なことを言ったかと心配するアキをよそに、オーディンは考え込むように言葉をブツブツと呟きだした。
「宇宙樹から特別な文字列を使って接続を確保するか…?しかし、魔力と世界の流れが暴発するおそれがあるな…。上手く回路を迂回させれば、コラテラルを抑えられるか…?」
「あの…ハール様?」
「すまんが集中している。適当に食べ物を食べて待っていてくれ」
何かを聞くのは無理そうだ。アキは初めて目の前のテーブルに乗った食べ物に目を移した。よく考えれば、この世界に転移してきて不思議と食欲が湧かず、何も食べていなかった。ちらりとオーディンを見ると、ブツブツと呟きながら、どこからか取り出した羊皮紙に、何かを書いているようだ。仕方ない、この時間を使ってアキは自身の食事を行うことに決めた。