すみません、前を向きます。
「お姉さん、アイス食べる?」
手入れのされていない縁側から彼女は現れた。束の間の逃避行のときのような制服姿ではなく、清楚なワンピース姿で気だるそうにアイスの袋を差し出してきた。
「一応不法侵入になるんだからね、庭でも。」
「こんなボロい家に不法侵入するバカいないよ。」
なんか当たり強くなってないか。明日提出のレポートを書きながら、彼女のアイスを受け取った。彼女はそのままサンダルを脱いで、縁側に座り込んだ。どうもあの日から彼女はわたしのことを親戚のおばさんぐらいに思っている節が見られる。
「え、お姉さん、なにパソコンないの。」
ガリガリとシャーペンでレポート書き連ねていくわたしの手元を覗き込んで、信じられないとでも言うような顔をしてきた。
「暑さにやられてぶっ壊れた。」
扇風機で夏を乗り切ろうとしていたが、わたしが乗り切れてもパソコンには無理な話だった。1日で天に召されてしまった。わたしは動かし続けていた手を止め、アイスに口をつけた。
あの日、見失ってしまった彼女は意外にもあっさりと見つかった。見慣れない制服姿で夜の歌舞伎町を走り回っていたら一瞬でお縄についたらしい。そりゃそうか。とりあえず交番と思って、駆け込んだらそこには既にふてぶてしいまでにすっきりとした表情の彼女がいた。お互いに名前も知らない間柄故に、保護者と言い張るのが難しかったが、彼女が姉ですと言った途端すぐに引き下がってもらえた。こちらへ戻る道中で彼女はどこに行っていたかは教えてくれなかった。ただ一言「やっぱり無かったよ」と言っただけだった。行くときと変わらずほとんど無言の帰り道だったが、行きよりグルグルと無駄なことを考えずにいられた。行くときは彼女についていけば何か自分にとって正しいことが見つかるかもと思っていたけど、そんなものは無いことに気づいたからかもしれない。正しい正しくないなんていうのはいつまでも自分の中で疑問になることなんだと思う。いつでも正しさは変わり続けるから。それでもわからないなりに悩んで選びながら生きていくんだ。至極シンプルで簡単なことなのに気づかずにいたのは、後悔していたからだろう。
「てかうら若い年頃の女の子がこんなとこ来てなにしてんの。遊びに行きなさい、遊びに。」
「いやぁ、お姉さんもう帰ったのかなって思ってたから。あんなに泣いてたし?」
してやったり顔でこちらを見るんじゃない。未だに達観したような雰囲気が残っているが、彼女はあの日の逃避行から帰って来て、それなりに年頃の女の子(むしろ男の子?)のような表情をするようになった。変に動揺すると面倒なので、平静を装いながらも背後から彼女のつむじを突いてやった。
「そんないきなり帰れるわけないじゃない。今年分の学費払っちゃってるんだから、背に腹はかえられないわ。元は取ってやるんだから。」
「あれ、ってことはいつか帰んの?」
「うん、必ずね。」
ふぇ〜っと納得してるんだか馬鹿にしてるんだかわからない返事をする彼女の横に腰かけた。
「今となっては全部正しかったって言えるのが不思議。情けなく逃げて来た日も、女子高生にキスされたことも、今こうやって呑気にアイス食べてるのも全部今の自分にとって必要なことだって思えるの。」
東京から逃げ出した日も、諦めたと思ってヤケになっていた日も、それでも諦めきれなくて馬鹿みたいに苦しんでいた日も、がむしゃらに迷子の彼女を探したあの日も全部今とこれからの自分にとっては必然の出来事だと気づかせてくれるためのものだったんだ。まだ全部の点が繋がったわけじゃないから姿形はわからないけど、必要なことだってことはわかる。
「まあ人生で無駄なことって起きないらしいからね。」
「あのキスも無駄じゃなかったと?」
ちょっと意地悪な質問かなとも思ったが、彼女は案外けろりと答えた。
「少なくともわたしにとってはね。わたしさ、親愛でも友愛でも恋愛でも人の事好きになることがよくわからなかったんだよね。だから、初めて先生のこと好きなのかもしれないって自覚したとき、『ああ、わたしちゃんと人間なんだな』って安心したの。でも、その後から自分女の人のこと好きってやばいのかもとかも思ったの。」
なんでも見通せるような顔をして、大人より大人びて見えた彼女は実はもっと根本的で深い悩みを抱えていた。『人間なんだ』と言って安心したその時の彼女はどれほど不安だっただろうか。
「こんなちっさな町じゃ、そんなこと許されないから、だから東京に行かなきゃって思ったの。わたしみたいな人間なのかよくわかんないのいっぱいいるかなって。でもね、行く間にお姉さんを先生の代わりみたいに見てたら、段々自分の感情がよくわかんなくなってきたの。」
「わかんない、と。」
「そう。お姉さんと一緒にいんの楽で心地よかった。でも、別にキスしたいとかセックスしたいとかは思わなかったんだよね。あれ?重ねてるはずなのに思わないって、もしかして先生への気持ちも同じなのかなって気づいたんだよね。」
彼女はアイスの棒をぽいっと袋に投げ入れ、縁側に寝転がった。
「だから、キスしてみたの。確かめてみようって。まあなんもなかったんだよね、それに東京に出て行っても行かなくてもこの問題関係ないやって思った。思い返してみたら、友達もほとんどいないあたしに先生としての愛情をくれたことにただ喜んでただけなのかなって思い始めてたんだ。」
無造作に目にかかる彼女の前髪を優しく梳いた。たしかに、こんなふらふらと危うい子がいたら大人から見れば放っておけない。だからといって同年代の彼らの中に紛れてしまえば、どこか邪険に扱われ浮いてしまう。
「人はどうしようもないほど残酷で冷たい部分を持ってる。」
自分の安いプライドのためなら家族さえも地の果てへ突き落とすことだってできる、地位もなにもないのに狭い世界だけで振るえるだけの権力を振るって他人のことを傷つけることだってできる、他人から奪った職で明日の飯を食う奴もいる。一度人からつけられた傷は、どんなに治そうとしても、忘れようとしても、ことあるごとに抉るような痛みを伴いながらじくじくとその存在を知らしめてくる。死んでもこの痛みを忘れさせてはくれないのだ。
「でも、どうしようもなく人は優しくて温かいのよ。なにがあったって、どんなにひどい傷をつけられてもその温かみに触れてしまえば癒えてしまうの。不思議よね、きっとそれがあなたの知らないことなんじゃない?」
少女の人生に今までなにがあったのかは知らない。それにこの先なにがあるのかも分からない。でも、おそらく彼女は人との繋がりが希薄だったんだろう。人間には汚くて怖いところもあるが、恐ろしいほどに温かくて優しいところもある。その温かさが愛情なのだ。
「先生に対して自分もまた一種の愛情を持ったから、なにか感じたんじゃない?」
前髪を梳いていた手を退けた。ぼおっと天井を見つめる彼女の瞳にはキラリと宝石のように光る涙が溜まっていた。その瞼に唇を軽く乗せるだけのキスを落とした。
「これはわたしからあなたへの感謝と友情のキスよ。」
彼女もわたしも全く交わることのない悩みを互いに抱えながら、この町で出会い、東京という街を目指した。結局、立場も違えば状況も違う、その時々でなにが自分にとって正解かなんて違っている。じっと苦しみをその場で耐えるのも、思い切って逃げ出すのも、誰かに相談するのも、正しいのだ。ただ、不思議なのは要らない悩みだと思ったことも振り返ってみると今の自分に必ずつながっているのだ。歩みを止めさえしなければ、振り向いたときにわたしの歩いてきた道は必ずつながっているのだ。そう、信じているからわたしはまた歩くことができるの。
終わりました!大学一年生の一年間の気持ちの浮き沈みをガリガリと書いただけの話ですが、2016年中に書けてよかった!笑 ここまで読んだ勇者(笑)がいるかは分かりませんが、お付き合いいただきありがとうございました\( ˆoˆ )/




