すみません、出戻りです。
古い畳のにおいがする。じわじわと横を向く脇腹に汗がにじむのを感じる。気怠い瞼を開けると襖の隙間から漏れ出る朝日が見えた。昨日付けたまま寝た腕時計を確認してみれば八時半を少し過ぎたくらい。高校生のときも東京で働いていたときもどんなに遅く寝たって七時には起きていたのに、まだ眠い。起きたくなくて無意味に仰向けになってみた。枕にして寝ていた左腕にじんわりと血が通っていく。ああ、だめ、このままだと今日は何もしなくなっちゃう。一限は八時五十分からだから、今ならご飯は食べられないけど化粧ならできる。時計の針は八時四十分を指そうとしていた。
今の家を借りるときに大家さんが置いていってくれた自転車に乗って、生徒の足によって整備された土の道を駆け抜けていく。広大な敷地の大半は緑に覆われ、その土地のほとんどは整備されていない。涼やかな音を立てて流れていく小川が大学の構内にあることさえここでは普通のことなのだ。慣れないわたしがそんな小さなことに驚いては、わずかに羨望を孕んだ口調で「これだから東京の人は。」と鼻で笑われた。彼らの目にはわたしがどう映っているのだろう。きっと良くは映っていないと思う。それくらいは分かる、わたしだって思うもの。見つかりやしない自分を探して、わざわざ東京から逃げてきた空しい女だって。彼らの目にどう映っているのかわからないのは、わたしがわたしのことをよくわかっていないからだと思う。どうしても逃げたくて仕事まで辞めてここまで来たのに、欲しかったものを手に入れたはずなのに、どうしてこんなに空しいの。やり切れない悔しさから自転車のハンドルを強く握りしめた。全く上の空で走っていた目の前の景色にようやっと焦点を合わせた。むだよ、考えたって。そう思っては何度も答えを出すことから目を背けていた。背の高い草の生い茂る脇道から白くて細いものが突然出てきた。思考と現実を行ったり来たりしていたせいで、突然の障害物に対応出来なかった。あ、と思った時にはガンッと音を立ててわたしの視界には眩しい初夏の青空が広がっていた。
「ぶつかってきて何も言わないの、東京のお姉さん。」
不機嫌な声がどこからか降ってきたと思ったら視界の青空を遮って、見覚えのある制服の少女が見下ろしてきた。白くて細い何かは、この子の足だったのか。彼女はなかなか起き上がらないわたしに痺れを切らしたのか、無理やりわたしの二の腕を掴んで上体を引っ張り上げた。
「ごめんね、ありがとう。」
ひっくり返った自転車を立てながら小さくそう言えば、少女はちらりとこちらを見て、また興味無さげに制服についた土埃をはらっていた。少女の名前は知らないが、今の家の近所に住んでいる子だ。いつも回覧板を回しにやって来る。県内随一の進学校の制服を着て、いつも不機嫌そうな顔をしている。皮肉っぽく「東京のお姉さん」と呼ぶのは、どうやら彼女だけではないらしい。何も言わずに立ち去ろうとした彼女は、数歩歩いてからまるで大きな決断をしたかのように力みながらわたしの方へ振り返った。
「ねえ、お姉さんさ、東京から来たんだよね。」
問いかけというより断定に近い響きだった。さっきも「東京のお姉さん」って言っただろ、と少し心の中だけで悪態をついた。
「そうだよ、いつもそう呼んでるじゃん。」
「なんでこんなとこ、来たの。」
痛いところを突かれたと思った。土埃を払う手を止めて静かに彼女のことを見つめた。黒々とした瞳がわたしの中にある真実を突き止めようと必死に見つめている。そんな一生懸命見たってたいした真実なんてないよ、そう自嘲したくなった。
「わかんない。」
「わかんない?わかんないのにこんなとこ来て、そんな顔してるの。」
「そんな顔って?」
緊張した面持ちで向き合っていた彼女は、突然ふと表情を和らげた。
「わたしね、東京に行きたいんだ。」
わたしの問いかけには答えず、少女は隠し切れない期待と羨望のきらめきを瞳に映して、わたしにそう宣言した。ああ、この子もこの田舎と呼ばれる地域によくいる東京に憧れる無垢な少年少女の一人なのだ、そう他人のように思った。
「そう。大学は東京の大学に行くのね。」
「ううん、大学なんかじゃない。今すぐ、今行きたいの。」
今?随分急な話だと思った。若さ特有の一人旅への憧れかなんかだろうか。自転車を手で押し、少女に近づいた。
「なんで今なの?学校だってもうとっくに遅刻でしょう。」
たしなめるようにそう言えば、彼女はまた捻くれたような不機嫌な顔で馬鹿にするように言った。
「そんなのお姉さんだってそうじゃん。それに、今日はもう決めたの。東京に行くって。だから、学校はいいの。」
「一人で行くつもりなの。」
「うん。」
輝きに満ち溢れた表情で彼女は歩き出した。だめよ、あの町に一人で行くなんて。成功を夢見て老若男女みな東京に集まってくる。でも、あの町のきらびやかなネオンの下には跡形もなく敗れた夢の屍や後戻り出来ないどうしようもない人生が転がっている。思い付きと感情だけで一人東京に乗り込もうとする無垢な少女の後ろ姿を止めようとした。けれど、どうしようもなくその後ろ姿が輝いて見えた。
「待って、わたしも行く。」
なにかが見える気がした。また元の場所に戻って、わかることなんて無いと思っていた。でも、保証のない自信と運命に導かれるまま前に進む少女となら、わたしの道も見える気がしたんだ。
大学の課題で提出した作品のリメイクです。面白い話では(多分)ないと思います笑 どうしても鬱屈とした自分の気持ちを発散させたくて勢いで書いたので(´-`).。oO
基本なにも起きない話ですが、1話は特に何も起きないので退屈させてしまったらすみません…。何はともあれもし、ここまで読んでくださった方いらっしゃいましたらありがとうございます。初心者なので変なことをしていたら生温い目で見守ってください。




