1996年
高度成長期を経た当時。
ブラウン管には当たり前のように、偏見や固定概念が映し出されていた。
貧困脱却、上昇志向、大量消費。
それらは傲慢と理不尽を蔓延らせ、年功序列が跳梁跋扈する恥と外聞に囲まれていた。
だが、贅沢が泡となって消え、不景気と就職難が睨み始めると、民衆は一気に不安を抱え始める。ドラマは生々しいテーマを扱い、音楽は内面の闇をえぐり出し、娯楽産業は過激さをばら撒く。
そんな90年代も半ば。
ルーズソックスと制服をプリクラで彩る少女達が現れはじめた。彼女達は己の意に従い、膨よかな太ももを露わに、社会を堂々と闊歩していったのである。
迸る若さは夏夜の蛍光灯の如く。
この現象に多くの虫達が群がり、それは経済の活性化へと繋がっていく。
ポケベル、PHSは量産され、携帯電話の小型化はエスカレートし、パソコンは手頃な価格となり、インターネットというインフラは、人類が持つコミュニケーションの形態を、新たなる進化へ押し上げようとしていた。
一方、今まで見向きもされなかった病魔達が、我先にと、その姿を露わしてくる。
トラウマ、ドメスティック・バイオレンス、虐待、リストカット、多重人格、サイコパス、ストーカー、そして猟奇殺人。
そう、時代は明らかに80年代の風潮を否定して、悲観的な前世代に回帰していた。繁栄という神話は崩れ去り、エコロジーや心の問題、個性や主体性などが注目を浴びるようになったのだ。
追い討ちをかけるように、西日本で未曾有の大地震が起発生すると、東日本ではカルト教団が細菌テロを起こした。混沌と不安を払いきれないまま、1年が経とうとしていた。
それが、カボティーヌの女と出逢った、当時の1996年であった。