『この先 何回目かのお茶会』
※今回、差別的な意味を含む、とテレビでは放送禁止用語にされている言葉が出てきます。自己責任でご閲覧ください。
◆◆◆
あの意識不明の患者さん、マンションから落ちたらしいよ。
ひぇっ。
警察の人が来てたよ。注意深く見ててくださいって。何かあったら連絡くださいって主任さんに説明してるの聞いた。また申し送りとかあるだろうね。でもどこまで教えてもらえるかは分かんないな。
どういうこと?
えーとね。しばらくして、あの患者さんの先生が慌てて病院にやってきてね。安否確認と、もしあの子を訪ねてくる奴がいたら、すぐ教えてくれって。連絡先もらった。あ、もちろん主任さんにそのこと報告したよ。なんか、デリケートな話っぽい。あれは痴情のもつれとみた。
……突き落とされたってこと?
さあ。怪しいのはそれだけじゃなくってね。先生曰く、第一発見者の男 がまだ見つからないんだって。通報してすぐどっか行ったみたいで。
事情聴取とかされるの嫌だったんじゃない?
かも。でも、先生はその人が怪しいって。
うわ怖い。突き落として、自分で通報したってことか。
でも、ほんと奇跡としか思えないよね。だって落ちたのって、五階からでしょ。で、地面はコンクリート。クッションも何もなかったみたい。無事ではないけど、よく生きてたなって。
ああでも、もう一人の方は危ないんでしょ……?
もう一人?
みたいだね……まだ手術中だよ……。
ちょっと待って、話が見えないんだけど。もう一人ってどういうこと?
◆◆◆
『この先 何回目かのお茶会』
そんな白いプレートを下げた猫は、もう暗い森の奥に消えてしまっている。
はて……チェシャ猫は原作ではどうだったか……ああ、違う、そのチェシャ猫はアニメの……。
注意深く森へと足を進めれば、すぐに闇の奥へとのびる黄色い道を見つけた。
最初にいたスポットライトが差したあの場所と同じく、暗闇はとても濃い。進むことができたのは、何故かやけにはっきりと見えるその道のおかげだった。
しばらくすると、明かりのある広場に出た。
木はドームのように湾曲し、空を覆っている。枝にはいくつも古めかしいランプがつりさげられ、その長さも全てバラバラだった。
広場には真っ白なテーブルクロスを敷いた長いテーブルがあり、その上に、ポットやティーカップ、和洋混在した菓子が、たくさん置かれていた。
席にはシルクハットを被った黒い背広の男と、灰色のベストを着た、人でも入っていそうな大きさの茶色い兎、それから茶色い毛玉……ヤマネがいた。これはきっと帽子屋と三月兎に眠り鼠だ。
テーブルの一角に、またダイロクの姿を見つけた。
ダイロクは髪をおろし、青色のエプロンドレスを身につけていた。
おそらく、アリスの衣装なのだろう。彼女は子どものように目をキラキラさせてお茶会に参加していた。
傍にあった木にもたれて腕を組む。誰も僕に気付いていなかった。あるいは、気付いてはいてもただ無視しているだけなのか。
この場でダイロクがアリス役なのは明白だ。
最初は白兎もといバニーガール。次は西洋人形みたいな格好のダイロクに、ひどく悲壮感に溢れていたダイロク。
本物はどれだ。いや、これが夢の世界であるならば、偽物という言い方も本物という言い方も違う。僕が『ダイロク』と認識するのであればそれは『ダイロク』なのだ。ああ、この夢から覚めたなら夢占いの本でも見ておこう。
「してお嬢さん。君も何か話しておくれ」
帽子屋がバターを塗ったパンを片手にダイロクに言った。
声が大分若い。きっちりと黒い背広を着込んではいるが、小柄な体系のせいで少年がふんぞり返っているようにしか見えない。ただ、顔は見えなかった。丁度男の斜め後ろあたりに僕は立っている。
アリスもといダイロクが帽子屋にぷんすか訴える。
「も、って何よ。わたしはまだ何も話を聞いてはいないわ。も、と言うならあなた方誰か一人以上が話をしなければならないわ」
「ふむ……まあそれもそうだ」
と帽子屋。
「それもそう」
と三月兎。
「そう……だね」
最後にヤマネ がもぞりと動いてぼそりと言った。
「では、まずわたしから」
帽子屋がえへん、と咳をして話を始めた。
「いいかね、最初に言っておく。此の世界に存在する者は、そのことこそが此の世界にいるという証拠になる。
では、此の世界で存在する者が彼の世界にいたとしよう。その者は必ず他とは気が違っているはずだ。なぜならこの世界にいる者は皆気違いだからな」
「あら、ならあなたは自分が気違いだって思うの?」
「ああそうさお嬢さん」
「嫌だわ、お嬢さんだなんて。わたしの名前は――よ。――と呼んで。お嬢さんだなんて呼ばないで、帽子屋さん」
ダイロクがそう熱心に言うと、帽子屋は「ああ分かった分かった。では――」と言った。何故か一部だけ声が聞こえない。そこは恐らくダイロクの本名なのではないか、と思った。彼女ははっきりと言っているのに、どうして僕には彼女の名前が分からないのだろう。
ガリ、と知らず歯ぎしりをしていた。思い切りやってしまって、口内を少し切った。痛みの味が広がる。ああ痛い。とても痛くて、苛々する。不公平だ。僕は知っているべきだ。
帽子屋に名前を呼ばれたダイロクは、なあに? と嬉しそうに身を乗り出した。
「一つ例え話をしよう。ある人がある所にいた。そのある人は、その人を好きになった。だがその人は自分にとって高嶺の花とも言わんばかりのお人だった。お譲さん、いや、――。君ならどうする?」
「決まっているわ」
ダイロクは胸を張って、自信満々に答えた。
「高嶺の花なら、なんとかしてさっさと摘んでしまえばいいの。自分の持つ花瓶に挿してしまえばいいの」
「花瓶にかい?」
「ええ」
「――は、それが出来るのかい? 彼の世界で」
「……彼の世界、で」
急にダイロクの表情が苦しそうに歪む。
「わたしはもうそれを摘んだのよ。わたしの花瓶はとっても綺麗なの。その花があるから」
「それは本当に君の意思なのか?」
「ええ、そうよ。その花が枯れると分かって、わたしは手を伸ばしたの。あなただって、そんな風に摘んだことぐらいあるでしょう?」
「いやそれはないね。今もわたしの花はきれいに咲いているよ。……今は少ししおれているが、きっとまた元気になる。わたしのこの手によって、ね」
「あなたが愛した花……その花はきっと幸せね」
ほほえみ、ダイロクは一粒だけ涙を流した。何もかも諦めたような顔。それは見る者がすがすがしくなるような笑みだった。
ダイロクには好きな人間がいる。それは分かった。だが摘んだ、というのは、つまり、その人間を……?
「ダイロクさん」
気付けば彼女を呼んでいた。
テーブルの一角にいたダイロクが、はっとした表情で一度こちらを見て、すぐに視線をそらした。
帽子屋や他の動物は何食わぬ顔でティーカップを傾け、パンやビスケットをかじっていた。そこにいるダイロクとなら、今までのダイロクたちよりもまだいくらかまともに話が通じそうなのに、茶会は一向に終わりそうもない。
「――。――。あんたは一体何回同じことを言うんだ? あんたの本当の願いはなんだい? この哀れな三月兎に教えてくれよ」
ティーカップを乱暴に降ろした三月兎が言う。
「哀れ? どうしてあなたは哀れなの?」
「そんなことを聞くもんじゃない。おいらはずっとずっとあんたの話を聞いて、あんたのその涙を見てきた。おいらほどあんたを理解している者はいないと思うよ。あんたはもっとありがたみを持っておいらに接するべきだ。だっておいらはあんたにとっての高嶺の花だったんだからね」
傲慢だわ、とダイロクは嘲り笑った。
「あなたが何をしてくれたというの。あなたはただわたしの話を聞いて、わたしの涙を見ただけじゃない。あなたがわたしを理解するだなんて怖気が立つわ。あと、わたしの名前を呼ばないでちょうだい」
「――。あんたは本当に強気だ。だけど分かっているよ。それが全て牽制だということ。あんたは本当はとても怖がりで、とても恥ずかしがり屋なんだ。ああ、だから、――。あんたのその睨んだ目さえおいらには愛おしいんだ」
「気持ちが悪いわ。止めてよ」
「――、おいらはね、本当にあんたのことを考えているんだよ。なのに、いつまでたってもあんたはおいらが淹れた紅茶を飲みやしない。砂糖もミルクもたっぷり入れてやったのに、あんたは一向に味わおうとしないんだ」
「三月兎」
不意に帽子屋が口を挟んだ。
「――は甘い甘いミルクティーなど好まないのだよ。思い上がりは自身を滅ぼす。胆に銘じておくといい」
そう言って、帽子屋はバターを塗ったパンを一口かじった。
「ふむ、美味い」
歯型の付いたパンがちらりと見えた。たっぷりと塗ったバターはてかてかと光って、今にも滴り落ちそうだった。美味しそうだった。
三月兎はそれからずっと無言だった。しかしダイロクに甘いミルクティーを淹れるのだけは止めなかった。
ダイロクは目の前に置かれるそのカップを持ち、そのまま傾けてテーブルに中身を全てぶちまける。そのたびにダイロクの顔は暗くなった。
帽子屋はそれを静観し、ヤマネはミルクティーの水飛沫で毛を濡らし、ぶるぶると体を震わせた。
帽子屋が言っていたことを思い返す。
『此の世界』と『彼の世界』の話。
もし、この世界が個人の夢ではなかったとしたら。ここは全く別の……そう、小説にあるような異世界なのだとしたら。
何かを隠喩したようなできごとの数々。
この世界で最も目立っているのは、僕とダイロクだ。もし、どちらとも現実に存在するとしたら?
「ダイロクさん」
たまらず彼女を呼んだ。どうしてだろう。さっきまで頭に霞がかかったようだったのに、今は目の前の光景がやけにはっきりと見える気がした。
『不思議の国』は夢の世界なのだから、持つ意識によって色々と変わるのかもしれない。
ダイロクはまたはっとして、今度は静かに席を立った。こちらへと歩いてきて、きっと僕を睨んだ。
「何してるの……早く出て行ってよ……!」
拳を作ったダイロクの手をすくい上げ、両手で包んだ。怯んだように彼女が後ずさろうとしたが、その前に彼女が安心できるよう、僕は優しくほほえんだ。
「僕は、ダイロクさんと一緒にここを出たいです」
ダイロクが目を見開く。それからうつむき、口だけをぱくぱくと動かした。
「わたし……わたしは……何を……ここは……」
彼女のこめかみに汗が一筋流れた。混乱しているのが見て取れた。正気に戻りかけている、とも言うのかもしれない。
行こう、と右手だけで彼女の手を握り、軽く手を引けば、そのままついてきた。
出席者が一人いなくなったお茶会を横目に、ダイロクと森の出口を目指して歩き出した。