Please, swallow me.
頭に付けた兎の耳を揺らして、女の人はほっとしたように頬をゆるませた。
「よかった……」
丸い目が潤み、彼女はすぐにそれを指で拭った。
立ち上がり、数歩下がる。途端に眩しい光が急に目に入りこんできて、咄嗟に腕で光を遮った。腕を動かしたことで、連動した筋肉や皮膚が激痛を走らせた。息ができなくなり、数秒経ってから、やっと肺の空気を逃がすことができた。
慎重に体を動かして起きあがる。それでも痛みは走ったが、不意打ちでないからか我慢はできた。
数回瞬きし、やっとこの場所が異常であることに気がついた。
真っ暗な空間の中、自分にだけ光が当たっている。手でひさしを作りながら見上げれば、交差したスポットライトが僕を照らしていた。少し歩けば光も一緒についてくる。それ以外が暗すぎて、果てが見えなくて、ここがどんな構造をした場所なのかも分からない。狭いのか広いのか。低いのか高いのか。それとも外なのか。さらには寒くもないし暑くもない。ただ痛みだけは確かにある。痛い。鈍い痛みも鋭い痛みもおり混ざって、混ざりすぎて少し胸が気持ち悪い。叫んでもおかしくない。なのにどうしてか僕はこんなにも冷静に行動いている。そのことがまた奇妙だ。
「はいはーい、起きたらまずはわたしに注目ですよー」
弱弱しさは一体どこに行ったのだろう。
先ほど泣きそうな顔をしていた女の人はにこっと笑い、わざとらしく腰をくいっと角度をつけて立ち、片手を腰に当て、片手でマイクを持っていた。
頭には兎耳のカチューシャがあり、水着にしか見えないぴったりした赤い服はギリギリまで胸を露出している。すらりとのびる細い脚は目の粗い網タイツに覆われ、赤いハイヒールを履いていた。
これがバニーガールというものか。初めて見た。対して僕は白いシャツとスラックス、裸足に擦り切れたサンダルしか履いていない。
不思議なことに、女の人にはスポットライトは当たっていないのにその周囲は明るかった。彼女自身が光を纏っているように見えた。
「ようこそ! ここはかつてアリスが冒険した不思議の国らしき場所! あなたは記念すべき第一名様です! 嬉しいですか? 嬉しいですよね! だってわたしが直々にこんな色気剥き出しの格好をしているんですものね!」
マイクを使っているはずなのに、声はそれほど響いていない。マイクを使っても反響しないくらいこの場所が広いのか、それともあのマイクが壊れているのか。
「あの、ここは」
「導き役はこのわたし! 将来ハートの女王になる予定の、現在庭師をやっておりますダイヤのトランプ、六です! 気軽にダイヤ、と呼んでくださいね! ちゃん付けでもいいですよ!」
「あの」
「おやおやー? 声が聞こえないなー。ダイヤさんでもダイヤちゃんでもいいんですよー? さあさあ恥ずかしがらずに呼んでみてください!」
話すだけ無駄だ。そう判断し、体を労りながら立ち上がった。足を踏み出し光の途切れる部分へと進む。
ここはどこだろう。あまりに感覚がリアルだ。特に痛みの感覚が。そういう夢なのか。ここに来る前のことを思い出せない。それどころか、自分自身のことや知っている人間のことを一切思い出せない。僕はなんという名前で、どんな人間だったっけ。
光と暗闇の境はまた奇妙だった。まるで暗闇自体が壁のように立ち塞がっているように感じた。手を伸ばせば触れそうだった。
すぐ、間近にある暗闇が照らされた。ふと見れば、バニーガールの女の人が焦ったように駆け寄ってきていた。
「ちょ、ちょっと前振りが長かったみたいですね。ではまず今回の趣旨をご説明致します! 一月十日といえば、もうお分かりですね? では言ってみましょう、どうぞ!」
マイクが突き出される。よくよく見ればマイクを360度写した写真だった。
「あれー、おかしいですね。声が聞こえません。仕方がないです。わたしも一緒に言いますからもう一回いきますよー、さんはいっ」
成人式ぃー!
女の人が細い体を曲げて叫んだ。大声だったとは思うがやっぱり響かない。空間に吸収されているみたいだ。よほど響かないよう設計された部屋、という可能性もなくはない。体は痛むがしばらく歩いてみよう。
「ちょ、ちょっと、ねえ!」
肩を掴まれ、女の人が前に回り込む。兎の耳が大きくユサユサゆれた。同時に肩より長い黒髪がさらりとゆれ、そこで初めて彼女がかなりの美人なのだと認識できた。
よく見れば、それほど化粧はしていないようだった。眉やまつ毛に手を加えたような形跡はなく、肌や唇にだけ化粧独特の不自然さを感じた。もしかしたらこの人は化粧が苦手なのかもしれない、そう思った。
綺麗な形をした眉が眉間に寄せられ、女の人は不満そうに睨んできた。
「なんなんですかあなた! さっきからなんでシカトなんですか! こんな可愛いお姉さんが相手してあげてるんですよ。ちょっとは興味持ったらどうですか!」
「ダイヤの六……さん」
「ダイヤでいいです」
「じゃあダイロクさん」
「変な形に略さないでくれますかクソガキ」
「ダイロクさん、ここはどこですか」
「結局それで決まりですか。ほんと最悪だわダイロクとか」
たくっ、と言いながら、彼女はマイクに見えるそれを破り、茶色の小瓶を取り出した。紛らわしい包装だ。
「不思議の国らしき場所って言ったでしょ」
「それは、『わたしを飲んで』ですか」
「なんだ、話は知ってるみたいね。そうよ、『drink me』ってやつね! 不思議の国に来たアリスが初めて口にするものよ。まあ、ここはあくまでも『らしき』場所だから、原作通りにはいかないけど」
「だからその格好なんですか」
「導き役は白兎でしょ。バッチリじゃない」
「ですます、なくなりましたね」
「黙らっしゃい」
ぺしん、と頭を叩かれる。悲しいかな、ダイロクは僕よりもやや背が高い。頭を叩かれたせいか、ギシ、と体が響くように痛んで思わずうなった。そんな僕の様子に怯んだのか、「ご、ごめん。大丈夫?」と彼女が聞いてきた。態度が急に変わるもんだからクスッと笑えばむっとした顔をしてまた頭を叩かれた。でも今度は叩く真似だけだった。
ほら、と小瓶を渡される。さっきはなかったのに、ラベルに『わたしを呑んで』という文字が浮き出てきた。そこは『呑む』ではなく『飲む』だろう。間違っている。
「もういいわ、飽きた。それがわたしからの成人祝いよ。よく味わうことね」
ぷい、とダイロクが背中を向ける。
渡された小瓶をじっと見やった。細くとがった形をした小瓶だ。キラキラと光っているように見えて、とても綺麗だった。軽く振ればタプ、と液体が揺れた。
小瓶をポケットに突っ込み、また歩き出す。さすがにすぐ飲む気にはなれない。確か原作では黄金の鍵で扉を開いたはずだ。この空間から出るにはそれを見つけなければならない。
何の反応もないことを不審に思ったのか、ややあってからダイロクが気付き、ちょっと! と声をあげて僕に慌てて駆け寄る。ダイロクが纏う光がまた目の前の暗闇を照らした。
「何してるのよ、早く呑みなさいよ」
「鍵を探しているんです。黙っててください」
「は?」
「あった」
地面でキラリと反射したものを見つけ、拾った。ダイロクが息を呑む気配がした。彼女はこの世界のことを全て分かっているわけではないのだろうか。
鍵はおとぎ話で出てくるような形ではなかった。日本で広く使われ、よくピッキングの的になっているディスクシリンダという種類のものだ。見覚えのある根付が付いていた。手にとって気付く。これは僕の家の鍵だ。思い出した。
きゃっ、と声が聞こえて顔を上げる。目の前にいつの間にか扉があった。これは、確か僕の家の玄関だ。
迷わず鍵を差し込みドアノブを回した。「待って」とダイロクの声が聞こえたが、扉を開けた次の瞬間、放たれた強烈な光に視界を奪われた。
気が付いたとき、景色はがらりと変わっていた。
風が髪を暴れさせる。ごくりとつばを呑みこんだ。
そこは青々とした草原だった。
今開けたはずの扉が見当たらない。ダイロクの姿もない。代わりに晴れ渡る青空があった。澄み切っていてとても綺麗だと思うのに、何故だか油絵で描かれた空を想起させた。加えて風もなければ草の臭いもしないから、余計に作り物めいていた。
一歩進むと、最初のときと違って足がとても重く感じられた。足の裏が痛い。その痛みが体から力を奪っていく……いや、違う。一歩進むごとに、何かなくしてはいけないものが地中へ流れ落ちていっている……そんな風に思えた。
しばらくすると、横に仲良く並んでいる家を二つ見つけた。
青い屋根と白い壁という配色で、造りは同じ一戸建てだ。しかし雰囲気はまるきり違う。
片方は新築のような真新しさを感じた。家の周りは草が刈られ、よく手入れも行き届いている。ただ、真新しさが先行しているせいか、逆にはりぼてのような印象を受けた。人が住んでいる、という感覚がせず、少しばかり気味が悪かった。
もう片方は見るも無残なボロ家だ。木の板を一部に貼ったつぎはぎの屋根や割れた窓ガラス、灰色のまだら模様になっている薄汚れた白壁など、はりぼてには見えないものの、やっぱりこっちにも人が住んでいるようには見えない。だが気味の悪さはもう片方の家よりはましだった。
こんな奇妙な世界だ。目の前に出現したということは何かしらの意味があるのだろう。
とりあえず、まずはきれいな方の家に向かった。
美しく装飾された(しかしやっぱり板チョコしか思い出せない)茶色の扉をノックした。はーい、という声がして扉が開く。
絶句する。出てきたのはさっきの女の人、ダイロクだった。
彼女はドレスを着ていた。布は首元や手首まできっちりと覆い、ところどころにレースや刺繍があしらわれている。三つ編みのおさげは青いリボンで飾られていた。どこぞのお嬢様か、西洋人形といったいでたちだ。ロリータファッションとはまた違う。
ダイロクがにこっと笑った。バニーガールの格好のときとは違って、どこか少女のような幼さを感じさせる笑顔だった。
「待っていたのよ。さあ入って」
戸惑いつつも中へ足を踏み入れる。こんな異常な場所なのだから、同じ人間が全くの別人として現れることもあるかもしれない。たぶん。
壁紙は蔦と花の可愛らしい模様。飾られた花は色とりどりで、鼻の奥がしゅっと引き締められるような独特の香りが充満していた。磨かれた木の床には光の帯が見えた。
「ここよ」
案内された部屋はリビングだった。
奥にはキッチンがあり、観葉植物が部屋の隅にある。大きな窓があったが、カーテンで閉め切られて外が見えなかった。中央には広いテーブルを挟んでクリーム色のソファがあった。
ダイロクは背筋をぴんとし、足や手をきれいにそろえてソファの一つに座った。
「さあ、どこにでも座って」
どこにでも。そう言われてふと周りを見た。椅子らしきものというのは、ソファしか見当たらない。
向かい側のソファは、バネの頭が見えていたり綿が飛び出ていたり何かの染みが細かくいくつもある。キラリと光るのは針のように尖った針金の先だ。座れば血を見ることになる。
ダイロクの隣に腰をおろすと、変わらない笑顔のままダイロクが顔だけこちらに向いた。
「あなたはどうしてわたしの隣に座ったのかしら」
ここなら安心して座れそうだったから。そう答えるとダイロクはゆっくり顔を正面に戻し、そう、とだけ言った。
ボーンと音が三回鳴った。部屋の中に時計は見当たらなかった。
「お茶にしましょう」
すっくと立ったダイロクは、キッチンに行くとおぼんを持ってすぐに戻ってきた。おぼんに乗せていたのは、急須や湯のみなど、この場では浮くであろう和風のものだった。ダイロクはそれらをテーブルに並べる。
彼女は座ると、ひよこの形をした茶うけの和菓子を串で切り分けた。
「口を開けて」
え、と声を漏らした途端、切り分けた和菓子を口に入れられた。驚いたが、もぐもぐと口を動かすと和菓子の優しい甘さが口の中に広がり、自然に美味しいと声に出ていた。よかった、とダイロクが嬉しそうに微笑む。なんだか気恥ずかしくなって視線をそらした。
それからダイロクは、次々と和菓子を僕に食べさせた。自分で食べると言う前にまた口に和菓子を入れられ、結局そのまま和菓子を完食した。
美味しかったか、と何度も聞くダイロクに適当に相槌を打ち、入れられたお茶を飲む。緑茶だった。甘味と渋みがとても良く作用しあっている、とそこまで考えて、自分は和菓子が好きだったのだと思い出す。鍵を手に取ったときと同じだ。
不思議の国に迷いこんだアリスに起きた変化と言えば、体の異常な伸び縮みだが、自分の場合は記憶ということか。体がそんなにしょっちゅう変化しないのなら、案外楽にこの世界を巡れるかもしれない。
そっと、ダイロクが手に手を重ねてきた。さっきより距離が近くなっている。彼女はじっと僕を見つめていた。目が潤み、口を半開きにしていた。熱をはらんだ声で、ねえ、と言う。落ち着かない様子で、さらに距離をつめようとする。ざわりと、胸の中で何かがざわついた。そういえば『drink me』の他に、『eat me』もあったような……ふと頭に思い浮かんだことに、いやまさか、とかぶりを振った。
「あの、ごちそうさまでした。そろそろお暇しますね」
なんだか危ない雰囲気だ。立ち上がり、入ってきた扉へ向かう。
もう少しいたらいいのにと、引きとめようとするダイロクへ曖昧に返事を返し、早々に家から退散した。彼女は家の外までは追ってこず、玄関の前に立って悲しそうに僕を見つめていた。
罪悪感もあったが、仕方がないと割り切る。彼女の視線には気が付かないふりをして、今度は隣の家へ向かった。
バニーガールのダイロクは、ここは不思議の国らしき場所だと言っていた。ならばある程度進めば、おのずと脱出できるはずだ。らしき、という言葉が付いていても、そこはそうでないと困る。ここが夢の中だとしても自分を起こす方法が思いつかない。痛みで起きようにも、最初から体は痛いままなのだ。今できるのはこの世界をめぐることである。
もう一つの家の扉をノックしようとしたが、それは難しかった。
扉をつなぎとめる蝶番が一つ壊れている。傾いた扉はプラプラとゆれ、ちょっとした風でもギィ、と音が鳴る。
仕方なくすみません、と大声を出す。パタパタパタという足音と共に、はーい、と声が聞こえた。聞き覚えのある声に、嫌な予感がした。
現れたのは、またしてもダイロクだった。
「……え?」
「えっ、て何よ」
彼女が不機嫌そうに眉をしかめる。目元が赤く腫れており、少し充血しているように見えた。化粧を一切していないと分かるのは、彼女の顔が病的なほど白く、目の下のクマや、肌の赤みがはっきり分かったからだった。髪は後ろでまとめているだけのようで、特別きちんとセットしている風には見えない。
今度の格好は、なんだか荒れていた。開いた胸元にはくたびれた様子のブラウスが覗き、青いドレスは色があせていた。前にかけた白いエプロンには染みが付いてお世辞にもきれいとは言えない。
さっき出てきた家を見ると、玄関にはまだきれいな格好をしたダイロクがいた。両手を組んでそわそわと落ち着きなくこちらを見つめている。
ならこちらのダイロクは――
「早く入んなさい」
考える間もなく、目の前にいるダイロクに腕を掴まれ、乱暴に中へ入れられる。つんのめりそうになりながらも、引っ張られてどんどん家の奥へと突き進んで行った。
こちらの家は、なんだか埃臭いし空気が濁っていた。不思議なのはそれ以外の臭いがしないことだ。床には何かが零れたような跡があり、引きずられるように歩きながらも、なんとかそれを避けることに苦労した。
「ほら、適当に座ってて。持ってくるから」
案内された部屋に放り込まれ、ダイロクはどこかへ行った。
彼女に言われた通り、部屋に入るとそれこそ適当に座った。というのも、その部屋では足が折れた椅子や、抱き枕と思しき綿がはみ出たクッション、また洗濯物が山になった場所、裁縫箱が出しっぱなし、紙くずの山などなど……まともな場所がなかったのだ。とりあえず綿がはみ出たクッションが一番ましだったのでそれに座った。
部屋の間取りはさっきの家と同じようだ。部屋の奥のキッチンには、洗われるのを待っている食器がたくさん見えた。あれではすぐに使えない。
ふと、鼻がむずむずしてくしゃみが出た。これは覚えがある。胡椒だ。
「待たせたわね」
戻ってきたダイロクは、錆ついた台にホーローの鍋と器を乗せていた。なんとも美味しそうな匂いがし、思わず唾を呑み込んだ。あれは一体なんだろう。言葉に表せない。甘いような、辛いような。あれがもうすぐ口にできるのか。だがそんな期待も、彼女の目からこぼれた大粒の涙でふっとんだ。
「胡椒がね」
ダイロクが袖で乱暴に目元を拭った。まだまだ涙は止まらなかったが、彼女は気にせず台を僕のそばまで移動させ、器に鍋の中身をよそい始めた。涙が邪魔になるのか、彼女は時折目元を拭う。あまりに痛々しくて、冷水で絞った布を目元に当ててはどうか、と提案した。いらない、と言うだけだった。
「さあ、じっくり煮込んで作ったのよ。飲んで」
器によそったスープを受け取り、眺めた。スープは緑色で、青汁にしか見えなかった。
警戒しつつスープを少量口に含むと、一気に飲みほした。甘いけどしょっぱくて、酸味もあれば、ほどよい苦味もある。何かに例えることができない。こんなに素晴らしい味なのに。不思議なのは、スープがのどを通り過ぎたびに体の痛みが薄れていくことだった。
「美味しい?」
ダイロクが恐る恐る聞いていきた。もちろん、と言えば彼女は涙を流し続けたまま、微笑んだ。
どきりとする。さっきのダイロクとはどこか種類が違う。今すぐ倒れてしまいそうな、消えてしまいそうな雰囲気が、無性に自分の中の何かをせきたてる。なんだろう、これは。
自然に手が出て、ダイロクの頬にかかったおくれ毛を払った。びくりと彼女が驚いて身を引いた。ごめん、気になったから。そう言いながら、触れた肌の感触と涙の温度の余韻を手の中で噛みしめた。
「小瓶の中身を、早く飲んでよ」
くしゃ、とダイロクの顔が歪んだ。悔しそうに、悲しそうに表情が作られる。
「あなたは最初に会ったダイロクさんなんですか? さっきの家の人は?」
「どうだっていいでしょそんなこと。あなたが聞かなくてもいいことだわ。ほっといて。それより、早く小瓶の中身を飲んで。飲んでよ。飲みなさい。じゃないとわたしがあなたを殺すことになる」
涙でいっぱいになった目で、ダイロクが睨む。
そっと、ポケットの上から小瓶の感触を確かめる。この小瓶の中身は一体なんなのだ。
「なんで僕が飲んでないって分かるんですか。もしかしたら小瓶の中身は空かもしれませんよ」
「分かるのよ、わたしには。あなたのことなんて全部分かるんだから」
首にダイロクの手がのび、チクリと小さな痛みを感じた。ダイロクが縫い針の先を押し付けていた。
「飲みなさい、早く」
ぐぐ、とさらに痛みが増す。血が伝っているのが分かった。飛び退くように後ろへ下がり、立ち上がる。ダイロクが針の先をこちらに向けて近づいてくる。
しかし足下に転がっていた椅子の脚と思しき木の棒を踏みつけて「きゃっ」と彼女がバランスを崩した。それを見て咄嗟に手が出た。
「だめ!」
ダイロクは叫んだが、もうすでに僕は彼女の腕を掴み、体を支えていた。
「……どうして」
腕の中のダイロクが責めるような眼で見つめてきた。針は床に落ち、手が僕の胸倉を掴んだ。
「どうして掴んだの。だめよ。それは、だめなのに」
ドン、と僕の胸を押し、ダイロクが後ずさる。その場に座り込んで頭を抱えた。爪を立て、頭を掻く。まとめた髪がぐしゃぐしゃになり、どんどん顔がほどけた髪で隠れていく。ぼたぼたと透明な涙が床に落ちて行く。
「どうして……どうして……わたし……あのとき、あなた……死んじゃうかもしれないのに、わたし……どうして……手を……」
「ダイロク、さん?」
「どうして」
今起こったことだけを言っているのではないことは、明らかだった。
「出て行って……早く、ここから出て行ってよ」
嗚咽混じりの声に、次の行動を迷う。
頭をガリガリと掻くダイロクの手を掴んだ。彼女がびくりと震える。
「その……すみませんでした。だから、もうやめてください」
彼女の爪の先が赤くなっていた。痛々しくて見ていられない。
ダイロクは頭を掻くのを止め、何も言わずゆっくりと部屋の出口を指した。出て行けという意味だろう。気にはなるが、これ以上どうしようもない。
お邪魔しました、と小声で言い、その場を後にした。
ここはなんて気分が悪くなる世界だろう。
振り返り、もう一度あの二つの家を見る。きれいな方の家にいたダイロクは、もう玄関にはいなかった。
原作では、不思議の国はアリスの見た夢だ。夢の内容は何かを隠喩していると聞くが、さっきのこともそうなのだろうか。せめてもっと楽しい内容であったら良いのに。
ニャーと声が聞こえ、見れば足下にいつの間にか猫がいて、僕を見上げていた。まさか、これはチェシャ猫か。ごく普通の虎模様の猫にしか見えない。
猫の首には金でふちどりされた大きめの白いプレートがあった。本来持ち主の名を記されるそこには『この先 何回目かのお茶会』と書いていた。
猫はもう一度鳴くと、背を向けて走り出した。
その先には、うっそうと茂る森があった。