8月3日 床屋にて
ゲームは二勝一敗。
僕の勝ち逃げで、「次の方どうぞ」と、店主から声がかかった。
外した眼鏡を鏡の前に置いて(僕は酷い近眼だ)、理容椅子に座る。なんだか美術品に腰かけているようで、落ち着かない。僕の座る椅子の背には、ふわりと揺れる尾をした金魚が描かれている。
「立派な絵ですね」
「蒔絵なんですよ」
ぼやけた視界の向こう側でうっすらと、店主が微笑む。
僕らの隣では、空いた席の掃除をきりんがしている。椅子のうえから裸眼で見おろすと、きりんの髪の毛は仏塔のようだ。
「どのようにされます?」
「ええ。と、襟足を短く。あと、全体的に短くしてください」
実に大雑把な僕の言葉に店主は、「はい」と頷くと、リズミカルに鋏をいれていく。
いつもならばカットが始まると、僕はすぐにも目を瞑る。
理容師さんと話すのが余り得意ではないからだ。けれど今日は聞きたいことがあったので、僕は鏡のなかの店主を見つめながら疑問を投げかけた。眼鏡をとると朧にしか映らない。奇麗なひと相手でも割と平気になるのであった。
「ここに来るまでに、床屋はどこもかしこも休みだったんです」
「ええ。そうでしょうとも」
鏡のなかで店主が大きく頷く。
「なにせ、はさみの日ですからね」
あの老婆と同じことを口にする。
「はさみの日は全ての床屋は休みなんですか?」
「無論そうです。全国の理容師が鋏に敬意を表します。鋏に捧げられた一日ですから」
「僕はまったく知りませんでした」
「まあ、そうなんですか!」
大仰に驚いた様子で店主が口を丸くあける。紅をつけた唇が奇麗なOの字になる。
「わたくし共には馴染んだ行事なんですが、まだまだ世間さまには浸透していないようですね。皆様方に認めてもらえるように、次の理容師集会がありましたら、議長に提案してみます」
「いえ、そんな。僕がもの知らずなだけかもしれませんから」
僕はあわてて、首からかけられた布の下で手を振った。布がばさばさと音をたて、切られた髪の毛が床へと滑りおちていく。
「議長さんなんて。そんな大袈裟にしないで下さい。げんにここに来るように教えてくれたお婆さんは知っていましたし」
「そうですか。……なら他の方の意見も聞いてみますね」
「ええ。ぜひそうして下さい」
僕があまりにも勢い込んで言ったせいだろうか。可笑しそうに彼女は約束してくれた。
鯖屋の店主は実に話しやすい。これも客商売でつちかった愛想のよさの賜物なのであろうか。きっと男性客のファンも多いのだろうと僕は思った。
「ところで。ここはお休みにしなくても良かったんですか?」
なにせ鋏に敬意をはらう日だ。
今まさに、鋏は僕の頭のてっぺんの髪の毛を切っている。僕は軽く目を瞑った。はらはらと僕から切り離された髪の毛が、顔に落ちてくるのを感じる。
僕の質問に彼女は、「休日当番医のようなものです」真面目くさってそう答えた。目を瞑っているから、鏡のなかの表情は見えない。
「なるほど」
「お医者さま程ではありませんが、どうしても散髪したいというお客さまもいますから、今年は当店が休日担当理容室となっています」
「え?一年間もですか?」
「ええ、そうです。ですから月曜日も店を開けています。なにせ世間では月曜日だけがお休みという方もいらっしゃいますから」
「なるほど。大変ですね」
鋏は僕の右耳のうえを、すべる様に切っていく。子供の時分から、この耳の側というのがどうしても苦手だ。耳をしゅぼんと切り落とされたらと、頭のなかの大鯰が騒ぎ立てるからだ。鯰はいつだって僕に変な妄想を吹込むのだ。
鋏の冷たい側面が耳うらを撫でていく。
じゃくじゃくと。耳ではなく髪の毛が切り落とされていく。
耳の側が終わり、僕は力がはいっていた躯を和らげる。くすりと彼女が笑った気配がした。僕は臆病な、子供っぽい部分を見透かされた気がしてしまう。恥ずかしい。
「下を向いてください」
店主の指先がそっと、うなじに添えられる。
「剃りますね」
泡立てたシェービングクリームが僕のうなじに塗られる。
シャービングクリームは適度な冷たさで、僕のうなじを飾り立てる。だけどそれはちっとも美味そうには、みえないことだろう。
僕は耳以上に緊張して、店主の施すデコレーションを受け入れる。
僕は顔を剃ってもらうひとを尊敬している。
僕には絶対無理だ。歯医者と同じくらいの確率で、絶望的な想像がいくらでも涌き上がるからだ。
無論。歯医者も理容師も、僕に対して酷いことをしたことはない。今まで出会った彼等は、全般的に信頼に得る働きをしてくれている。
鯖屋の店主など、さらに目に楽しい美しい女性だ。手足だって、驚く程細い。
普段の彼女に対して、僕が恐怖を抱くことはあり得ない。だがいかんせん、この場で手にしているものは、ぎらりと輝く剃刀なのだ。かたや僕は無防備にも、急所を相手に晒している。
頭のなかの大鯰は、僕の不安がとっぷりとたまった水辺で、まるい腹を揺らして狂喜乱舞と騒いでいる。
ああ。緊張する。
世の中には女性に耳掃除をしてもらう為に、金を払う御仁もいるそうだが、僕にしてみれば正気の沙汰ではない。
歯医者も理容師も専門職だ。
彼等は国家資格を得て、業務についている。一方耳掃除をするのは、ずぶの素人ではないか。
虫の居所が悪い日だってあるに違いない。なんらかの悪意で耳掃除の棒を、鼓膜の更に奥に突っ込まれないと誰が言いきれるだろうか。
僕は首筋を走る剃刀の刃から意識を遠のける為に、あらんかぎりのネガティブ発想をかき集め、耳掃除を罵倒した。
それは熱い蒸しタオルが終了の合図で乗せられるまで続いた。タオルはきりんがトンクに挟んで持ってきてくれた。
「お疲れさまでした」
店主が首からかけ布をとってくれ、僕はこざっぱりとした頭髪と、刃物の恐怖からの解放を手に入れた。
ああ。助かった。
僕はこっそりと胸をなで下ろした。
全うな料金を払い、僕は鯖店をでた。
お釣りと共に、奇麗な鋏をもらった。はさみの日来店記念品だ。
鋏は銀色で、夏の日差しを受けてつるんと輝いている。
鯖屋を囲む雑木林は、鬱蒼とした影を地面に投げかけている。木立の影だって切れそうなくらいに、鋏の刃はうすく、切っ先は鋭い。
僕は小道を逆にたどって帰って行く。
やがて林のなかにくるくる廻る床屋のしるしが現れる。
実を言えば、僕は代金を払うさいに、店主に尋ねてみたのだ。すると彼女は楽しそうな笑みを浮かべ、「不思議だと思うのでしたら、小鬼さんに聞いてみて下さいな」そう言うのであった。
僕は林中に乱立するサインポールを見つける度に、鬼のお面を探した。
なのにお面のおとこの子はどこにもいやしない。僕以外誰もいない林で、だんだら縞は廻り続けている。
僕は肩すかしをくらった思いで、鋏を片手に林を後にした。
「 8月3日 床屋にて 」 完
原稿用紙換算枚数 約23枚