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  8月3日 床屋にて


 店内に理容椅子は三脚あるが、使っているのはひとつだけだ。

 無人の残りふたつの椅子の背面には魚の絵が描かれている。

 かなり凝ったつくりのものだ。アームの部分などは鉄製で優雅な曲線を描いている。このまま梱包して航空便にだせば、パリの骨董市にだせそうな代物だ。

 もしやとんでもなく高い店であったらどうしよう。

 地震を知らせる大鯰(おおなまず)のように、ざんぶと僕の心配性が顔をだす。

 財布のなかには、確か万札が一枚あったはずだ。だからといって、全部使っていいというものではない。夏のボーナスはでたけれど、次の給料日までだいぶある。

 いつもの床屋なら三千円で釣りがくる。

 僕は店内の壁に視線をはしらせた。

 探している料金表はどこにも見当たらない。

 壁には洋画のポスターが二枚貼っている。「ポンヌフの恋人」と、「存在の耐えられない軽さ」だ。ジュリエット・ビノシュの微笑みも、今の僕の心配をはらってはくれない。

 さて、どうしよう。

 落ち着きなくソファーのうえで尻を動かしていると、隣に座るお爺さんが、「兄ちゃんトイレか?」と聞いてくる。

「いえ」

 頭を振ると、お爺さんは手にしていた雑誌に視線を戻す。

 そうだ。

 お客はたくさんいる。時間がかかりそうであれば、出直します。そう言って席を立てばいいんだ。

 この思いつきに腰をあげると、そこに十歳くらいの女の子が現れた。

 流石は床屋にいる子供だ。長い髪は複雑な編み込みの螺旋らせんをえがき、頭のてっぺんでお団子巻きになっている。

「いらっしゃいませ」

 お盆を胸に抱いて、丁寧に頭をさげる。

 おんなの子は紺色のパーカーワンピースのうえに、真っ白のエプロンをしている。アイロンをかけたばかりみたいな、指で押したらぱりっと音をたてそうな感じのエプロンだ。

「お客様、本日は散髪でよろしいですか?」

 澄ました声でおんなの子が聞く。

「え?あの、ええ。はい」

「分かりました。お客さまは六番目となります。では珈琲と紅茶。どちらがよろしいですか?」

「え?」

 見るとお爺さんたちの前にはそれぞれカップがだされている。お茶請けに、かりんとうと鈴カステラの皿まである。しかし珈琲でも紅茶でもなく、そろって皆緑茶である。

「お薦めはカフェオレです」

 女の子がやけに真摯な眼差しで言う。

 バレンタインに初めて男の子にチョコを渡すみたいな、純真な澄み切った眼差しをしている。そこには大人ならばわずかでも入っているような打算的な愛情は、一欠片も見当たらない。

 ただし残念ながら僕は小学校時代、こんな眼差しで見つめられたことはない。こういうのはサッカーや野球の得意な男の子の専売特許であった。僕はそこから著しく逸脱している地味な子供時代だったのだ。

「あ、じゃあカフェオレで」

 彼女のお薦めを頼むと、実に嬉しそうに、「承知しました」

 丁寧に頭をさげて去って行く。結局僕は席をたつタイミングを逃してしまった。



 おんなの子のいれてくれたカフェオレは、まあ極普通の味がした。どこの家でもあるだろうインスタント珈琲と、レンジでちんした牛乳でつくったものだろう。八月のホットカフェオレは、正直熱かった。そうだ。僕は冷たいものを飲みたかったのであった。

 けれど僕は最後まで飲み干した。すると嬉しそうに空のカップを受け取り、「まだ時間が少々かかりますので、一局どうでしょうか」と尋ねてきた。

 僕は将棋も碁も。チェスだってできない。習ったこともないし、友人の手ほどきをうけたこともない。そういうのは四人になったお爺さんの誰かに頼んだ方がいい。

 僕が鯖屋に入った時に髭をそってもらっていたお爺さんは、カフェオレを飲んでいる最中に帰って行った。お代は2600円。これで僕の心配性の鯰は、安寧あんねいの泥土へとかえって行った。

 僕が正直に、ボードゲームの類いは大概できないと告げると、「オセロです」おんなの子が差し出してきたのはみどり色の盤である

 なるほど。オセロならば僕にもできる。

 おんなの子は空いた席に座ると、「しろでいいですか」

 僕の返事を聞く前に、しろの石をそそくさと置く。

「どうぞ」

 僕はくろを置く。

 ゲームを始めるにあたって、おんなの子に名前を聞くと、「きりんです」と言う。

 きりんとは、これまた奇抜な名前である。

 思わず言葉に詰まった僕に、「動物のキリンでも、樹木希林のキリンでもありません。きりん草のきりんです」真面目くさって説明してくれた。


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