肆/あわいの恋
A:akio
夜半おとこが、やって来る。
背の高い。立派な躯つきの、着物姿の男だ。髪は短く、目つきが鋭い。
男は部屋の窓を握った掌で鳴らす。
硝子はしんと冷えた空気のなかで、いつでもばらばらになる準備に震えている。震えが音になり、僕の内耳へと伝わってくる。
カン。 カン。 カン。
単調な合図で、僕はどんなに深く眠っていても、目を覚ます。
紺色のカーテンは開けたままにしている。
ベットのうえで上半身を起こすと、硝子越しに、男が僕のほうをじっと見つめている。
ただ。ただじっと見つめている。
ここは二階だ。
けれど男は不自然さなど、どこにも感じさせずに、窓硝子の向こう側に佇んでいる。
おとこの背後には、星が瞬いている。
しろい。
よわいひかりの星だ。
けれど僕は知っている。
もっと昔。
確かにあの星は、今より強いひかりを地上へと放っていた。
その光りを道標に、僕と男は冬の海へと、我と我が身を投げ出したのだ。繋いだ手のぬくもりが、水の冷たさが、一瞬僕の脳裏によみがえる。
「アキヲ」
硝子窓の向こう側で、男が名を呼ぶ。
僕の名前だけれども、僕のなまえではない字を、男は指で硝子窓にしるす。
「晶緒はとうに死んだよ」
自分でも驚くほど、平坦な声がでる。
僕はベットのうえから動かない。
おとこに捕まるわけにはいかないのだ。
今は、まだ。
男の眉が悲しげによる。
「アキヲ」
男が名を呼ぶ。
悲しげに、目元がたわむ。
名をかたちつくる舌先が、愛おしいと僕に告げる。
僕は羽布団を頭からかぶり、男へ背を向ける。
男に捕まる気はないのだと、背中に無言の抵抗を乗せる。
それでも男は明日の夜もまたやって来るのだ。
紺色のカーテンは冬の間中、役目を失ったまま、だらりと垂れ下がったままだ。
僕の内の晶緒が微笑む。
僕の閉じた瞼の裏側で。
彼女の着物の裾がはらりと揺れる。
僕はきつく目を閉じる。
僕には、むかしの恋人がいる。
そう言うと母は「あら、そう」とぞんがい軽く笑うのだ。おおざっぱ。良く言えばおおらかな母である。
なんでも僕はこのひとのお腹にいた時に、「アキヲです。これからよろしくおねがいします」と、母に深々とお辞儀をしたそうだ。
その時の着物姿の、見目麗しい少女の姿に母はすっかり僕をおんなのこと決めていた。産着はすべてしろと桃色で、写真のなかの赤子の僕は、それこそおんなのことして写っている。
しかし母にも知らぬことがある。
むかしの恋人は、今でも僕を待っているのだ。
途切れとぎれの記憶は、ぽっかりと脈絡もなく頭のなかに浮かんでくる。欠けたジグソーパズルのようだ。
組み立てていくと、晶緒と呼ばれたおんなの僕と、彼は道ならぬ恋人同士であった。結ばれぬ仲で、どうしてそうなったのか、最後には冬の海で共に死んだ。
心中だ。
僕はひととして母の腹のなかに生まれ変わり、彼はひとならざる者として、生前のまま僕を求めて彷徨っている。
報われぬ。
不毛な恋だ。
もはや恋とも呼べぬであろう。
僕には人ならざる男と寄り添うつもりはない。
紺色のカーテンは十二の年に閉めた。
おとこを閉め出したまま、僕は成長する。
N:nanao
恋人を見つけた。
随分久しぶりだった。
最初恋人は笑いかけてくれた。
幼い、無垢な笑みであった。
母親がすぐ側にいた。今度の親は良いひとらしい。俺は一旦かえることにした。幼い恋人を母親から引き離すのは忍びない。
それに恋人は忘れているようだった。
二回目。
「七尾さん」
俺の名を呼び、アキヲはすぐにも俺の胸へと飛び込んで来た。
三回目。
時間はかかったが、アキヲは俺を選んでくれた。
どちらのアキヲもおんなであった。
だからこそ、今生のアキヲに戸惑わなかったわけではない。
四回目。
今のアキヲはおとこのこだ。
見つけた時は驚いた。
まさかおとこになろうとは、思いもしなかった。
しかしひとで無くなった俺に比べたら、ましであろう。アキヲはアキヲなのだ。
そう考えると、あとはもうアキヲしか目にはいらなくなった。
夜半。
アキヲの眠る窓を叩く。
幼かったアキヲは俺を見つけると、「サンタさん?」と聞いた。違うと答えると、がっかりしていた。申し訳なく思った。俺もがっかりすると、優しいアキヲは、「いいんだよ」と、俺を励ました。
幼いアキヲと窓越しに話しをした。
なかには入れてもらえなかった。母親との約束を守るアキヲは、とても良い子だ。
八才になったアキヲに俺は叱られた。
「晶緒へ」と書いて、窓へ手紙を差し込んだのだ。
「これは僕じゃない」と、アキヲは怒った。
「秋生」と、教科書に描かれた名前を示した。
アキヲはアキヲだ。
そう言うと、「そうかも」と、簡単に納得した。
もっと大きくなると、窓越しの会話は無くなった。
俺はアキヲを見るだけになった。
更に大きくなると、カーテンは閉められた。
俺はアキヲを見られなくなった。
真昼の世界は俺の目を焼く。
俺は夜しか会えないというのに。それさえアキヲに拒否されたなら、俺の恋情はどこにいくのだろう。
あの凍てついた冬の海で、俺の恋情は凍り付いた。そのまま躯の、もっとも深い部分に根をはっている。そこから長い根を伸ばし、今や俺の躯の、どんなちいさな隅っこにさえはいりこんでいる。
この思いをどうするのだと、アキヲに問いたい。七世を誓った約束は、ほどけて散ってしまったというのだろうか。
アキヲ。
アキヲ。
俺がおれでいられるうちに、思いだしてくれ。
酷いことをさせないでくれ。
俺のこころを、もらってくれるだけでよいのだから。
「 あわいの恋 」 完
原稿用紙換算枚数 9枚
「あわい」は、間の意味の方です。