91:骸という名の足場。
高い建物や煙突に遮られ、途切れがちな景色の中。盛りを越えてなお燃える広場が見えてきた。
居並ぶ建物の屋根を蹴りつけてきたレインは、ふわりと壁を駆け着地する。焦土と化した広場の中は、煙とうめき声が充満していた。
蒼い焔が石畳を嘗め溶かしており、いまなお放たれた火焔でなにかを焼いている。あがる罵声、つづく伝令。焔操る彼らの輪に近づいてみれば、焼き焦がされているのは鼠の群れだった。
黒ずくめの部隊――村上の仕掛けておいた伏兵たちは、奴ら鼠によってその数をだいぶ減じた様子だった。湊波戸浪・四つ葉の管理者にして玉木往涯の懐刀。あらゆる土地で暗躍してきた彼との対峙には、さしもの部隊も相当の被害を免れなかったらしい。
歩み寄るレインに気づき、ひとりが会釈した。覆面をしているが声音から察するに、若い男だった。
「――お初にお目にかかります、レイン・エンフィールド様」
「そちらは、わたしを知っているのだな」
「表の刃として、右腕として。村上様の傍らで護衛を担う貴方様のことは、かねてより存じておりました」
どこか陶酔気味でわずか羨望の混じるような彼の口調に、村上に心酔する者のひとりなのだろう、とレインはあたりをつける。村上は呉郡のような変人連中、はたまた睦巳のような異端者など、ありとあらゆる連中を配下につけている。この率いる者としての性質は昔からで、鬼の里への進軍に際しても指揮を任された所以だ。
……皮肉った表情が常態であることといい、けっして人好きする容姿ではないのだが、あれで意外に人望はあるのだ。このような信奉者じみた人物も周囲に少なくはない。男は続ける。
「これまで名乗ることもなかった不義理をお許しください、我々は村上様に擁されている私設部隊〝星火〟と申します」
頭を垂れてレインに名乗った。ほしび。星の、火。
「狐火、というやつか」
レインは周囲を取り巻く火焔の渦を見やる。黒ずくめの集団は、見たところ術式も発動媒介もなく焔を放っている。どうやら日輪とちかい型の人外種であるらしい。なるほど火を以て火を制す、いかにも村上の考えそうなことだと思った。
男はレインの指摘へ応じるでもなく、ただ状況についてだけ語る。
「申し訳ありません、レイン様。部隊は、壊滅に近い状態と相成りました」
「……そうか。状況報告を頼む」
「は。先ほどまで日輪と交戦しておりましたが、中途で向こうが辺りに潜ませていたらしい鼠の襲撃に遭い部隊員の戦力が大幅に削られました。この隙に炎上幕で囲んでいた日輪を鼠に奪取され、いまの現状となっております。もはや顔向けすることもできませぬ」
言葉通りに伏せた顔をさらに深くし、けして顔を見られぬようにしながらレインに謝罪する。星火を名乗る男はこの広場、部隊の惨憺たる有様に忸怩たる思いを抱いているらしく、歯がゆそうな言葉の震えには顔を隠してもあまりあるほどの恥辱と失意が宿っていた。
気持ちは、わからないでもない。いかに日輪と湊波が慮外の存在であろうとも、たった二人にやり込められて部隊が崩壊したのだ。彼の抱いてきた矜持は粉みじんだろう。
レインはあえてこの話題へ触れぬこととし、彼の肩に手を置いて無理に引き起こしながら、周囲の惨状より復帰できそうな人員を呼び寄せ始める。傷ついた兵たちは、それでも指示に従う力が残っていれば、呼び声に応じた。部隊としての練度はすこぶる高い。
「力を尽くした結果ならば、謝罪はいい。それよりもここからの対処だ。日輪を奪取した鼠めはどこへ向かった」
「あのマンホウルから、地下へ……」
指差した方を見ようとして、レインはふと、足元に目をやる。骨の折れた傘が転がっていた。心拍が、いやな感触で跳ねる。あの橘八千草の所持品である傘と、よく似ている気がしたのだ。
身体強化の魔術を極めたと揶揄されるほど肉体の制御に長け、精神を研ぎ澄ましていてなお、たかがこれしきのことで心揺らぐ。井澄に関すること、それと間接的にでも繋がる事実は、いつも彼女の内面を掻きまわす。それは唯一残った人間らしさとも思えたが、同時にこの上ない弱さであるとも捉えられた。
だとしても、この感情と共に生きるほかない……ぼんやりと、奈落のごとく開いた穴を認識した。レインは気の無い風にそこを見やる。
「――またその鼠を追って、確保対象である殺言権・亘理井澄も降りてゆきました」
だがつづく彼の言葉に、もはや揺れる心は静かに保てなかった。冷静さは、四散した。
「なんだと……!」
「面目次第も、御座いません」
思わず語気を荒げたレインに、星火の男は委縮して謝罪を繰り返した。だが言葉はほとんど耳に入ってこない。
井澄が、日輪を追って地下へ。あまり好ましくない状況になりつつあると判じ、レインは星火の男を気遣う余裕もなくなり、舌打ちをかました。
なにしろあの鼠は数の暴力の顕現だ。所詮は人間を相手する暗殺術しか身につけていない井澄では、突破の可能性など絶無と言っていい。日輪・橘八千草を奪い返すことのみに注力したとしても、難易度はさして変わらないだろう。
このままでは、日輪も殺言権も向こうの手に落ちる。玉木往涯を殺すことに成功したとはいえ、湊波戸浪によって二名が確保されてしまえば、せっかく村上が懐柔した統合協会の上層もまた戦へと気をはやらせること請け合いだ。状況は依然、変わりない。
往涯が死しても、大勢は変わらない。であるならば、自分はなんのために戦い、殺したのか。
「いや。まだ、終わってはいない……」
そうつぶやき、惑う気持ちを心の奥深くに隠して。レインはかねてから決意していた通りにことを成すと己に誓う。かぶりを振ったあとには、冷徹な意志だけが残っていた。頬の引きつり、目の渇き。うずく歯の根と舌の根を感じ、レインは自身がどれほどおぞましい表情をしているのか、と思いを馳せる。すぐにやめる。
「行動可能な人員のみで部隊を編成し直せ。多方向から地下水道に降り、鼠を追い詰めろ。確保対象である殺言権への対処はこれまで通りだ」
軋む心の臓が、にぶくなっていく胸の感覚にひきずられるように、頭へ響かせる音を縮めていく。
「発見次第――多少痛めつけてでも、止めろ」
「は。日輪への対処も」
「同様だ。作戦に変更はない」
きびすを返したレインは開き放しとなっているマンホウルへ目を向け、目を凝らすように半目となった。だがその実、見えているのは景色ではない。どこか遠く、遠き日を思い起こすように。
「日輪は、殺害せよ」
断じて、腰に提げた短銃に触れた。
#
六層の天蓋の下まで逃げのびた山井たちは、非戦闘員の避難場所を巡り続けていた。土蔵や半地下の建物など、基本的には堅牢でそれなりに安全であろう、場所。しかし隙間多き閉所は、鼠からすれば住みかに等しい。訪れる場はどこも悲惨な現状を晒しており、崩れ落ちて病に犯された人々がうずくまる。
「……ひどい、わね」
盗神・遠藤の背にからだを預けながら、山井はどこにも安全な場などないと、確信にも似た絶望を抱きはじめていた。そも、戦艦からの砲撃まで届きはじめているのだ。いかに堅牢な建物といっても、さすがに砲弾には耐えきれない。生死の天秤は、各々が持つ運の欠片に託されつつあった。
「生きのびている人々も、これでは長く持ちませんわね」
爪を噛みながら口惜しそうな声を漏らす月見里が、耳目を閉じてしまいたくなるような苦悶の場に弱気を垣間見せる。自分の領地で働き務めてくれた人間たちがここまで壊滅的な状況へ追い込まれていたとは、さすがに想像だにしなかったのだろう。
ぼんやりと、朧になっていく意識の中、山井も気が重くなる一方だった。医者だというのに、もう彼女にできることはほとんど残されていない。普通の黒死病ならば抗生物質の処方などで対処も可能だが、病原菌を媒介にする呪いたる湊波の黒死病にはそれもどこまで効果があるか。栄養剤と生気を補給して免疫力に賭けるのがせいぜいではないのか。
第一に、患者の数が多すぎる。本気で湊波は四つ葉を落とすつもりなのだ。
「……拙者たちまで罹患してはかないませぬ。人のいない場での休息を要します、ぞ」
ずっと背負いどおしで走っているためか、さすがに遠藤も息があがってきた。この提案には、月見里も異論を述べることはない。黙って三人きり、市街地のはずれまで敵に遭わぬことを願って移動した。
その間も時折、月見里は声をかけてくる。その都度手をはなれていきそうな意識の糸を、つかみ直して山井は現状を保った。
が、自分でよくわかっている。鼠に齧られた裂傷が多すぎる。ひとつひとつの傷は浅いが、血を流し過ぎた。喉元から頭へ迫る白い靄が、いまにも意識をのみこんで空白に落とし込んでしまいそうだ。
深く息を吐き、山井は言葉を繋いだ。
「……もし、意識が、……落ちたら」
「なんです」
「アタシを……、置いてって、ください」
もうお役にも、立てませんし。
つぶやいたつもりだが、己の言葉は耳に入ってこなかった。もちろん、月見里の返答も耳には届かない。ばかなことを言うなと励ましてくれたのか、なにも言わずにうなずいたのか。いつのまにやら目も閉じてしまっていた山井には、一切わからない。
短い付き合いではないのだが、彼女がなんと返すのかは想像つかない……だから信じる。山井と彼女の間にある、優しさが無いがゆえの思いやり。その関係性をこそ、信じることにした。ほかに言葉など、要らないのだと。
そのときかすむ頭で、揺れの収まりを感じた。やっと休めるところに来れたのか、と山井は薄目を、開く。
だが目の前に開けていたのは安全な場ではなく、
十字路の角から飛び散る鼠の群れにのまれた、先行く月見里の姿だった。
「……や、まな、」
「おおおおおおおっ!!」
なにも聞こえなかったが、肌に感じた震えが叫ぶ声音を脳裏へ並べた。乱暴に、山井のからだが落とされる。断続的に落ちるまぶたが、動く遠藤の背をとぎれとぎれに追っていた。彼が群れの中に太い腕を差し込み、月見里を抱え上げて放り投げるのが見えた。袖を肩まで食い破られたその腕から、はやくも黒き痣が這い上りつつある。
「―― 、」
腕を伸ばしたままの姿勢で、上体をひねった半身になった遠藤は、どっと汗を吹きださせた。口が動いていたが、山井の耳は音を認識しない。彼は無念そうに山井と月見里を交互に見比べ、顔から眼鏡を落とす。
波のように引く鼠の群れは、マンホウルから地下水道へ逃げていった。遠藤の巨体が山井への視線を遮ってくれたのか、こちらに来ることは、なかった。逃走する群れの足音が生む震動が静まるまでに、彼の巨体が崩れ落ちる。投げだされてうつぶせに転がる山井の目の前、仰向けに倒れ伏した月見里のからだにも痣が浮き出始める。
ああ、と絶望の顕現に山井はまぶたを下ろした。
どうしようも、ない。自分は失血で死にかけ、月見里と遠藤も一気に死の際まで追いやられた。島の各地でも、黒死病が蔓延して幾多の命を蝕んでいる。
自分の力が大きなものだと自尊するつもりは毛頭ないが、これまで積み重ねてきた医者としての行いすべてが、水泡と帰した気がした。一種それが山井にとって己を確たる存在と認識するための一つであったというのに、湊波がなにもかもふいにしてしまった。まぶたを開けると、よく見れば十字路の先にも死屍累々、幾多の骸が伏せていた。
彼にとっては、この景色こそが、目指していた終着点なのだろう。
それも遥かな昔、最初から。この島の開拓に関わったときから。
「みなと……なみ……」
自身の暗躍を悟られぬため、仕立屋などという名を流布させ。表だって動く駒として三船兄妹を扱い、また自分も囲い入れた。その上に日輪などという異能を宿していたらしい八千草、これを追ってきた井澄を雇い。
すべては、この終極に辿り着くため……。
まぶたを下ろす。頭にかかりはじめた靄は、手足の末端にまで流れ着き、動きを沈滞化させていた。目の前に迫る結末に、山井が抗う術はない。
手が空を掻いた。人が死ぬ直前、なんの意味もないとわかりつつこの行動をとるのを、山井は幾度となく見てきた。己もまた彼らと同様の行動をとっていることに、本当におわりが近づいたのだと勘付く。むなしいあがきが、どこかへ届かんと伸ばされる。
かくして指先は、触れた。何に触れたかは、もう手指の感覚だけではわからない。重いまぶたを、これで最期だからと言い聞かせて開いた。
左手は、見知った物をつかんでいた。律儀にも遠藤が背負い運んでくれた人頭杖。
右手は、見知った者をさすっていた。仰向けに倒れた月見里の長い黒髪。
首を山井のほうに傾けていた彼女の白い頬にも、黒い斑点が現れている。だれもかれもが、病に苦しみ臥せる。ここが地獄でなくてなんだというのか……などと、黒闇天の異能操る山井がひとり残されて思うのは、なんの皮肉だ。
ひとり、残されて……残されて。
「…………なぜ…………」
残された。
ひとつ抱いた引っ掛かりが、闇に落ちゆくだけのはずだった彼女の意識に細波を立てる。
殺せる機はあったはずなのに。痛めつけるように、湊波は邸前の門扉にて山井を齧り削った。わざわざ時間をかけて、山井を執拗に攻め苛んだ。なぜ。手間暇かけてまで、その時間をとったのか。
そうしなければならない、事情があったのではないか。
「……もしか、して……」
ぐ、と強く杖を握りこむ。虚ろな視界が、わずかに開ける。
杖を支えに、身を起こす。上体を地面から浮かせるだけでも一苦労だった。しかしひとつ生まれた目的意識が、肉体の悲鳴を無視させつつある。なんとか、片膝を立てた姿勢まで持ち直した。鋭く息を吸っては吐き、山井は頭を働かせる。
『もしかすると』。浮かんだ言葉の持つ淡い希望に従い、彼女は息を整えた。
「――悪厄・集えば災を成す」
かりり、と地面をひっかく杖先に、体重が乗る。からだが芯から冷えていく感触を忘れるよう努め、山井は意識を術式に集中した。詠唱に、気力をすべて注ぎ込む。
「禍福・糾える縄の如し」
すがりつく杖に現れた口が、げらげらと嘲るような笑みを浮かべる。長く、頼ってきた術式と呪具だ。この差し迫った局面での務めにも、いつも通りに応えてくれる。だから……余力は、残さない。緩めれば、気持ちごと力を置いてきてしまうだろうから。
「裏面済世――」
両手で構えた杖を掲げ。
山井は、祈るように文言を終える。
「〝厄廻払い〟」
ひび割れた左顔面から黒煙が吹きだし、彼女の視界を覆った。黒闇天の異能が、再び彼女の身へ宿される。倦怠感を生む黒煙が周囲にまき散らされ、月見里が心なしか苦しそうにうめいた。あわてて、払うように煙を移動させる。
そうして這い寄った月見里の手を取り、山井は傷にまみれた彼女の手の甲を自分の前にかざした。筋張って、細く伸びる指先。よく研がれ輝く爪。痣に覆われていなければ、もう少し魅力的なのだろうと思いつつ。
「……いただくわ、月見里さん」
口づけて、山井は苦い顔のまま、薄く微笑んだ。
#
降りていく井澄の黒い三つ揃えが深い暗闇に溶け込むのを、靖周は見るでもなく見ていた。その背を追って小雪路も跳び下りる。靖周もつづいて、壁を蹴って勢いを殺しながら落ちゆく。
と、鼻腔の奥へからみつく腐臭が重く、はためく衣の擦れる音が耳を打つ。
「……八千草っ」
先に着地した井澄のささやきが、低い唸りのように反響していく。
びしゃ、と浅く汚水に足を浸らせながら、三人は明かりの薄い地下水道についた。天井まで二間ほどの高さで、雫の落ちる音がどこまでもどこまでも、響いて通る。透明度の低い明かりが延々とつづいており、水路の行方は幕で覆うような闇が包み隠していた。
鼠の姿は――ひとまず目につく範囲には、ない。構えた短刀に殺意をみなぎらせながら、靖周はゆっくりと符札を手にする。いくら見えずとも、ここは奴の領域だ。心配はいくらしても足りないが、気の緩みは一瞬で最大級の後悔を靖周に贈るだろう。
「小雪路、まだ追えるか」
隣の彼女に問うと、難しそうな顔でうむむとつぶやきが漏れた。
「ちょっとむずかしい、かも。元々ここって鼠の巣みたいなもんだから、あっちこっちからあの人の気配がしとって。どれが本物かわからんよ」
「そうか。んじゃ井澄、一応きいとくが。お前はここの道を多少なりとも知ってんのか?」
首を振って彼に水を向けると、井澄は眼鏡を押し上げながら弱り顔で口の端を歪ませた。
「水の流れ込む場がさほど多くない六層内地ならば迷わず脱出する程度の知識はありますが、外区である居留地はマンホウルも多いですし。細い道や抜け穴などはまったく」
「はん。あてはなし、と」
「逃げこまれるまでに捕まえられればよかったのですが」
「言うな。全力尽くした結果なら素直に受け入れろ」
「……はい」
「その上で、いまできることをひたすら考えぬけ」
うつむき加減になった井澄から目を逸らす。さて、と道の細かいところを睥睨し、靖周は記憶を探りだした。
だだっぴろい地下水道をあてなくさまようのは危険に過ぎる行いと思えたが、泣きごとを言っていてもはじまらない。心配そうに辺り見回す井澄の肩を叩きながら、靖周はいま目にしている道の様子を確認し、ふっと先を思い浮かべた。
降りてきたマンホウルの位置。その他、通り過ぎてきた幾多の道に点在したマンホウルの位置。その高低差。距離。これらをつないで、滑らかに水が流れるに足る経路を想像し、さらに並行して記憶を掘り進めていく。
作業の完了には、数瞬も要らなかった。
「ひとまず、こっちだ」
二人へ手をあおぐように道を示し、靖周はぱしゃぱしゃと水を跳ねさせる。いきなり迷いなく動きだした彼に、井澄は驚いた顔をした。
「な、なんで、道がわかるんですか?」
「相手は八千草連れてんだ、細すぎて人体が通れない道は使えない。低い位置にある、道全体が常に水で満たされてるとこも使えない。となると、自然と道は限られてくるもんだろ」
「いやそれはそうですが……通れない道を消去法で潰そうにも、消去するための候補をあげられなければ不可能じゃないですか」
「まーそうだな。奴の言うように四つ葉水道局の人間でもなきゃ、候補を出すための道の知識なんざ普通は持ってねぇよ」
じゃ、じゃば、と水に足をとられないようにしながら歩む、この感覚に靖周は己を慣らした。
一層からいくつもの貯水槽をめぐって六層を抜ける川をつくり、雨が最後に流れ込む先であるここ、地下水道。六層の下部に根を張るように巡らされたそれの全容は、易々とは把握できない――普通なら。
「だが俺はある程度わかってる」
「なぜです」
「忘れたのかよ井澄、俺ァ居留地を仕事場にして生きてたんだぜ? ……買われんのしくった時逃げる道くらい考えとかなきゃ、十歳にも満たないガキがこの島で生き延びるなんざ到底無理だよ」
歩みを進めつつ自嘲気味に言うと、井澄は触れるに難い話題に踏み込んでいたと思ったのか、申し訳なさそうにうつむいた。こういうところを見ると、どうもまだ彼は島の外の気質を連れ歩いているな、と思う。この程度の事実は島のどこにも転がる常識だ。だが、いまだ彼にとっては非常識なのだ。
そうわかっているからこそ、靖周はおどけて笑ってみせた。……まぁ、まったく辛くないかといえば嘘だが、要はいま大事にすべきものがなんなのか、の問題だった。
「気ィ遣ってんじゃねーよばぁか。忌むべき過去でも役に立つならいまは御の字だ。こうじゃなかったら、ああしてれば、んなのぜんぶ世迷言だろ」
走りながら手を伸ばして、くしゃりと小雪路の頭を撫でる。されるがまま引き寄せられた彼女は、自分から頭を押しつけてきた。あたたかな感触が掌に溢れる。
あの頃――居留地で身を切り売りしていたころは、こんなに大きく育ってくれるなど思ってもみなかった。日々を生きるのに精いっぱいで、いつしか自分が汚れたと感じて、妹に触れることも自分の過去に触れられることも忌避した。けれどいまこの手は、あたたかだ。
「俺はいま、小雪路とお前らと居る。それで救われたし、だったらうだうだ言う気は起こらねぇ」
ぜんぶ含めて立っているこの場所こそ、三船靖周という存在の土台なのだ。
であるならば、否定も無理も一切しない。在るがままそこに在ろう。
「弱音や愚痴やたらればは、それがなきゃいけない奴らに譲るさ」
へらりとしたいつもの笑みで言葉を切れば、井澄も少し穏やかな、いつもの顔つきを取り戻してくれた。
すると小雪路が、面くらったように言う。
「あ、井澄んいつもの顔んなった」
「……へ。いつもの、顔ですか」
「そーやってしまりねー顔してろよ、その方がらしいぜ」
畳みかけるように言われて、途端井澄は怪訝な顔でかぶりを振った。なんだか不名誉そうだった。
「私、普段からしまりない顔でしたか……?」
「自分では仏頂面してると思ってんのか知らんが、八千草といるときはだいたいそんな感じだ」
「ね。きっとそっちが素なんよ」
ぺたぺたと自分の頬を平手で打って、そんなばかなと言いたげであった。
暗く影を湛えているときもある井澄だが、こうしてふと素に戻る瞬間は年相応に感じる。だがその瞬間が少ないこと自体が、心の内をさらけ出せる相手の少ない人生を歩んできたことを如実に物語っている。
けれど八千草にはすべてをさらけ出せるのだろう。素直な心根を表に出せるのだろう。ならば、そういう相手と共に在れる生を送るべきだ。孤独は、辛いものだから。
「とっとと迎えに行ってやろうぜ。あいつも、待ちくたびれてるよ」
――その後も靖周が記憶の径を辿りゆくと、やがて開けた、太い道に突き当たる。水の流れがこれまでの道より勢いよく、道幅と天の高さも一間は増えた。流れをさかのぼれば巨大な貯水槽へ繋がり、下れば海へ出る道だろう。
道は左右に二つ。小雪路の気配察知が使いものにならない以上、この先は運だめしとなる。
考えているのを察したかのように振り向いた彼女は、両手で双方向を指した。
「どっち行けばいいのん?」
「……すばやく迎えの船に乗り込むため、下る道へ行ってると見るか。それともそう読む俺たちの先を読んで、あえて貯水槽までさかのぼりそこから他の分岐路で海に向かってると見るか。どっちだろうな」
迷っている時間はない。道を、ひとつに定めなくては……思いながらも動けずいると、井澄が左の路へ足を向けた。淀みない動きに、けれど靖周は彼の心情を慮る。
彼に、一番つらい後悔に繋がるかもしれない決断をさせたことへ、若干の申し訳なさを感じていた。だが決めたのならば靖周はなにも言うつもりはない。追従して、下駄を進める。
「いえ、こちらではないです」
背を向けたまま、井澄は片手を後ろに出して靖周の歩みを止めた。急な制止に、呆気にとられた靖周は唇を曲げる。
「なんだ、鼠の気配でも感じたか」
「そういうわけでは。ただ、あなたたちにはこちらではなく、あちらへ向かっていただきたいのです」
指し示すのは彼の背後、もう一方の道。海へつづく、水路の果てであった。
示された先から彼の指、腕、顔と靖周が辿ると、井澄は毅然とした態度でぶれることなくそこに立っている。彼の様にいっそう動揺して、靖周は言葉尻を震わせる。
「おい、ここにきて二手に分かれる、ってのか?」
「時間が、ありません。それに奪還のみが目的で、奴の討滅を狙うわけじゃないでしょう。ならばまず発見の手を広げることこそ肝要かと」
「でも井澄ん、」
「不幸中の幸いと言いますか、私は奴らの計画に必須の存在らしいですから。単独で挑めば、殺されることはないはずです」
言い切って、強い瞳で靖周たちを見据える。それはそうなのかもしれないが、でも結局は憶測だ。それに殺さないという前提を守りつつ人を苦しめ従える方法など、この世には星の数ほどある。殺されないことが必ずしもよい方向に働く要素であるとは、靖周には思えなかった。
身動きとれない井澄と八千草が、互いに互いを人質として命令に従わされる可能性もある。……とはいえ、止められようはずもない。先日自分が小雪路捜索に出ようとした際、激昂して井澄につかみかかってしまったのを忘れてなどいない。
ひとは、時として己の理性とは無関係な場所で、自らの振る舞いを定めてしまうときがある。自分の意志が自分でどうにもならぬときがある。
「……死ぬなよ」
「だから、殺されることはないはずですって」
言いつつ、彼の目は揺れた。確証のない言葉を、己に言い聞かせている様子だった。靖周が思い至ったのと同じ結論は、彼も自分の中に抱いているのだろう。
殺されなくとも、無事ではいられないかもしれない。先ほどはあの火焔を操る連中がいたから、無理にこちらへ深追いしてこなかっただけで。今度は逃げ場のないこんな水路だ、戦闘になればじり貧になることは目に見えている。
それでも彼は行くのだろう。ことここに至り、靖周は止める言葉など持たない。狐の襟巻を翻し、示されたほうへ行き場を定めた。
「行くぞ小雪路」
「……でも」
「死ななきゃ、いいんだ」
後ろで走り出した彼の足音を聞きながら、靖周も歩調をはやめた。滑るようについてくる小雪路が、不安げな顔でのぞきこんできた。その顔へ向きあう表情をもたず、靖周は歩幅を広げ速度を上げた。もっとも、豪脚を誇る小雪路相手ではさほどの意味はもたない。けれど一言紡いで聞かせるには十分な間だった。
「そしたら、助けてやれる」
小雪路が靖周の一歩先で目を見開く。……二手に分かれ、仮に最悪と名付けるほかない事態が起こったとしても。靖周はそこへ対応する手をすでに考えはじめていた。
もちろん実行できるかどうかはわからない。だが想像をめぐらせておくことは、ときにあらゆる状況への対処を可能とする切り札と化す。
「助け、られるんかな」
「びびってんじゃねぇよ、危神の名が泣くぜ」
「からかわんでよ。うち、戸浪んと……あの人と、まともにやりあうんは、むずい」
「むずいさ。きついだろうさ。でも、やるっきゃねぇ」
なにひとつ諦めずに、彼らと歩む先を続けていきたいと願うなら。身近に見てきたからこそよく知る、あの四つ葉一の難敵にも刃を向けねばならない。勝てるかどうかはわからない。だが想像の行き着く先は、もはやそこ以外に有り得ないのだ。
そう思いながら、靖周はさらに走る速度を上げていった。




