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明治蒸気幻想パンク・ノスタルヂア  作者: 留龍隆
終幕 絢乱劫花
89/97

89:巨星という名の燃え滓。

        #


「……焼かれて数を減らされたか。ごく一部に過ぎないが、ね」


 狸寝入りを決め込んでいた八千草の前に、人を模る鼠の群れが顕現する。


 戦火を避けて居留地を港へと下った広場の中央。そこに位置する、大きめのマンホウルへ辿り着いたところで、鼠たちは進軍を止めていた。


 現在地と状況の確認を終えると、すぐに八千草は薄目を閉じる。まだだ。まだ耐えねばならない。日輪の力を使うにも、刀を抜くにもまだ早い。動くべきは、慮外の事態に遭遇して湊波がこちらへの注意を薄めたときだ。


 すると、徐々に体を覆う拘束が緩みはじめた。だがそれは油断してよい時間の訪れでは、なかった。


 びりびりと空気の中を伝わってくる殺気が、群れの大多数を用いて(、、、、、、、、、、)対処すべき事態の訪れ(、、、、、、、、、、)を、示していた。固唾をのんで待つ一瞬一瞬、過ぎ去っていく時の切れ目に、八千草は耳を澄ました。湊波の無感情な声が、だれかに向けられていた。


「〝星火ほしび〟の部隊か……私兵として妖狐の人外を従えていたとは私も予想だにしなかった。なるほど範囲攻撃、私へ切る札としてはうってつけと言える」


 相手の返答はないようだった。なんとか隙間からでも声を拾い、相手の状態を確認したいものだが、鼠に体を包まれているのは依然として変わりない。焦りから早まった行動をとり、逃げ出す機を逸するのでは馬鹿もいいところだ。


 慎重に機をうかがい、対処をせねば――


「――!?」


 と、考えたところで、鼠の群れが八千草を揺さぶり放り投げた。状況わからず振り回され、空中で頭がどこを向いているかわからなくなり、上下左右も曖昧なまま群れの上へ着地する。群れは着地のあともどこか目指して動き続けており、一旦乱れた平衡感覚はなかなか取り戻せなかった。


 それでもなお沈黙を保ち続けたのは、ひとえに彼女の修練の成果だった。己を御して押し通るための鍛錬。自ら折った指の痛みをこらえて、激痛にさえ眉をひそめることもない。


 とはいえ、耐えるより動くべしと判断できるなら話は別だ。幸いにしてか、放り投げる際に体を覆っていた鼠の多くはひき剥がされている。拘束は先ほどまでと比べて明らかに頼りなく、弱くなっていた。


 脱するなら、ここか。


 瞬時に思考を終えた八千草は、群れの背へ手をつき右に体を回転させることで、身に帯びていた残りの鼠を弾いた。突然の出来事に驚愕したか、空中に浮いた八千草へ鼠が追うことはない。


 否、追う余裕が、ないのだ。


 ちりりと肌を焼く気配に見やれば、目の前を凄まじい熱量が埋めてゆくところだった。蒼く焚ける火柱が天高く膨張し、鎚の如く振り下ろされる。八千草を突き飛ばしたのだろう人の模りが、一瞬にして呑まれる。余波が八千草の前へ押し寄せ、足下を埋める鼠の絨毯を端から焼き尽くしてゆく。


「くっ――」


 焔を、掻き消すように。手を横に振り薙ぎながら、視界の焔を強く認識した。


 目を凝らし、火を目指し、意識を溶け込ませる。火焔の中に、自己を認識する。途端、歯車が合うようにかちりとした感触のあと、八千草の前で焔はぐねりと奔流を押しとどめた。太く突きこまれた火柱が、飴細工のように溶けて崩れる。日輪の異能で防御に成功したのだ。初めての試みでうまくいったことに内心で大きな安堵を覚えながら、八千草はふうとため息つく。


 そのとき、足下から幾多の視線を感じた。慌てて八千草はドレスの裾を払うと、地を滑るように歩を描いて危険域を脱する。自分の通った軌道上にも焔を導いて、追撃を防いだ。


「……この戦地で狸寝入りとは恐れ入るね、日輪」


 轟々と燃え上がる火の手の向こう、鼠の集合体が言う。八千草は鼻をひとつ鳴らして、これへ答えず向き直る。広場の向こう七間ほど先では、覆面から装束からすべてを黒で統一した集団が、掌に蒼の焔群をまとわせていた。


 自然の焔ではない、おそらくは術式に似た超自然の焔。そうであっても、無理やりに操作権をもぎとり八千草は操ることができた。それが、日輪。よほど高位の異能なのだろう。


「……なんだかわからないけれど」


 己へ向けられた焔の放射を、視界に捉えざますぐに湊波の方へ流す。彼らは湊波ともども自分を殺しにきた集団だと判ぜられたが、その異能が焔であったことは――


「逃げおおせるには、好都合であるね」


 唸りをあげる劫火を湊波へ注ぎ続け、この焔幕が巡らされる間に死地を離れんとする。長靴ブウツのかかとを擦って後退し、広場から建物並ぶ通りへ。視界の中へ彼らの焔を捉えたまま、素早い挙動で駆けだす。


 感情こそ読めない湊波が、しかしさすがに声に疲れをにじませて、八千草の後ろから声だけで追った。焔の壁を貫き通して、彼の平坦な声が道を這った。


「やれやれ。どこも大わらわで実に面倒臭い。こちらも――あちらも」



        #



 群れ成す水の鞭。数にして八十を越えていたはずの九十九の切り札は、とうとうその数を半数以下にまで減らしていた。


 もちろん、術式で働きかける対象が水である以上、斬られたことによる損害はない。切断された鞭も復元すれば用いることかなうのだが……その復元に思考と術式を割くいとまは、瀬川にとってはあくびが出るほどに遅い挙動となる。


 瀬川が匕首を懐におさめ、長刀の一振りのみで鞭の間隙を抜け、斬り捨て始めて、どれほど経ったのか。九十九も集中を研ぎ澄まし鞭の操作に全力を振り絞っているにも関わらず、〝剣征〟の速度にはまるで追いつけないでいた。


「く、おぉ――」


「鈍間の木偶が、水に戯れて楽しいか」


 鋼鉄の装甲をも一瞬で溶かし飲みこむ一撃。これを重ね連ねて、幕のごとく帯のごとく瀬川を囲っているはず。だというのに、彼の姿は攻め手が成立する前に攻撃圏内から朧げに掻き消える。殺気だけがいつまでも場に沈滞し、九十九の認識を阻害した。


『目を切る』――視界を瞬時に横切る動きで、瀬川は九十九の意識する空間と空間の間隙を縫う。おそらくはただ、経験則という勘の示すまま。そうして九十九が捉えられず惑ううち、彼の斬撃だけが結果を残していく。


 まるで、不可思議な幻術にかかったかのようだった。繰り出しているはずの水の鞭が時間経過に従いことごとく切断されていき、ともすれば己に刃届かんとする一瞬があり、慌てて水流の柵で十重二十重に防御する。そうすれば防御に要した思考の分動きの鈍った鞭を察せられ、切断。また攻撃の手数を減らされる。


 遥か以前に島の覇権を争い、港で戦ったあのときよりも。瀬川の剣は、研ぎ澄まされていた。こちらも操作の水量は増し、術式の威力は格段に上がっているはずなのだが……かつて己が引き分けたとは思えないほど、彼の力量は凄まじかった。己が手のごとく動かせる水の鞭によりこれほど手数を増やしたにもかかわらず、九十九は彼の二本の腕に追いつかない。


 ――速さ。


 それは、身体強化によるものではない。達人の隙間無き動きでもない。だが速い、ただ速いのだ。こちらが意識し行動を起こそうとするまでにこちらの意識していない場へ駆け、応じようと試みてもその実行に至るまでの一瞬を勝ち取り斬り伏せる、単なる思考の最速回転。


 常人が論理的思考によって得る『原因・結果・認識・対応』の過程を飛ばし、本能じみた意識のみで攻め(対応)の一手を選択する。待たず見ず考えず動く。誰一人追いつけない無想の極致の紛い物。


 故に、九十九が原因を待ち・結果を見て・現状を認識し・対応――しようとしたときにはまた駆けだしており、すべては繰り返しとなった。だからといって狙いなく出鱈目に打っても、狙わないという狙いを感知しているのか掠りもしない。


 必要な動きを必要最小限で実現する剣聖の動き。かと思えば素人のごとく粗雑な動きが混じるために技量の振れ幅が広く、予測困難で捉え難い。聖ではなく、あくまでも征のあざなを与えられた所以が、よくわかる。


 彼はあくまで、剣を征したに過ぎない。道具として。


「くそ……砲撃は、砲撃はまだなのか!」


「その必要はないよ」


 九十九へと向かう瀬川の背後数間の位置、そこへ現れたつぶやきを、九十九は認識こそしたものの意識を向けることはない。部外者の参入を認め、言葉をかわす余裕などなかった。


 それは瀬川も同様だったらしいが……ただでさえ気の短い彼が、戦の中途に話しかけられるような面倒を、堪えられるはずはなかった。


「死ねや」


 九十九が抱いた、声への認識によるわずかな動きの淀み。その隙を突いて、瀬川は鞭のいくつかを躱して出来た暇に声の地点へ刀を投げた。もう幾多の水鞭を斬ったがために少しずつ溶かされ傷んでいた刃は、最後の役目を果たして血しぶきにまみれ、刀身半ばで折れる。


 刺さっていたのは、人を模した、鼠の塊であった。死止めたとは言い難い結果に、瀬川は反吐を吐いた。


「っちぃ、人でなしめが」


「そうさ。私は人であるのをやめた身だ」


「その声……湊波、か」


 水鞭で周囲を覆い瀬川の攻撃へ備えは成しつつも、九十九は動きを止めて彼……と呼んでいいのか不明な、鼠の群れを見やる。統合協会より差し向けられた、己と同じ四つ葉の管理者。彼がこの場に現れるということは、つまり。


「……くく。すまないな瀬川進之亟、ここからは二対一だ」


 仮にも〝仕立屋〟の名を島に轟かす、最も兇悪な討ち手の一人に数えられた湊波が加勢に来たのである。単独での打倒はほとんど不可能に近い難事だったろうが、鞭で覆いきれない領域も彼の群れで補えるのなら撃破の難易度はかなり下がる。油断はいまだ許されないが、しかしこれまでほどの劣勢を強いられることはないはずだ。


 そう、思った。張りつめた極限の戦いの中でほんのささやかな弛緩を、九十九は己に感じた――それが、運の尽きだったか。


 指先に小さく痛みが走り、抱いていた弛緩がふたたび緊張へと押し戻される。そして彼は手に目を落とす。


 小さな鼠が、水流により敷いていた周囲の防護柵をすり抜け、九十九の左手をかじっていた。


「……は、」


 ずぐりと刺さった歯牙から、体内に呪いが流れ込む。血管伝いに全身を這いまわる。見る間に、手に足に黒いあざが浮きだしてきた。黒死病の忌むべき呪いがからだを犯している。認識する刻一刻とした時の中、九十九は意識がぼやけるのを感じた。揺れる視界を必死に膝で支えつつ、瀬川の向こうにたたずむ人影へ問う。


「湊、波……きさま、何を……」


「先ほども言ったはずだけど」


 飄々と、感情を表さない声音のままに湊波は告げる。人を模した形の、胸に突き立っていた刃がずるりと抜け落ち、甲板に転がる。


「砲撃の必要はもはやない。なぜなら――命令を出した者も、それを聞く者も。ひとりだって、残ってやしないのだから」


 その向こうに、九十九は見る。


 遠く船影が先行していく。自らが率いていたはずの戦艦が、九十九の指揮下を離れ、勝手に進みだしていた。船首が向き、目標としているのは四つ葉だった。乗組員が九十九の指示なくして戦艦を動かすとは、考えがたい。


 では湊波の言葉通り。もうあの艦内には、ひとりたりとも……部下は、残っていないのか。


 九十九は湊波の鼠が模した、人型を見やる。表情の無い群れの彼は、淡々と事後報告を告げた。


「戦艦はかねてからの契約通り、『軍拡のための他国からの買い取り』と表向きの声明を出した上で明治政府に引き渡す。また戦乱の中で日輪を無事に本土へ届ける役目も果たすよ。これまで御苦労だった、九十九美加登」


「なぜ、だ。なぜ、」


「所詮お前が商人だからだろう」


 鼠の群れが、鳴きわめく。


 九十九は、自己の存在を根底から揺るがす言葉に、耐えきれず手で顔を覆った。――自分は商人だ。平民だ。それで何が悪い、金は力だ力は金だ。得た物駆使して何が悪い。進んで拓いて道を残す。先行き富成し贅を尽くす。求めたのは、それだけなのに――


それだけ(、、、、)が駄目だったのさ」


 湊波の言葉は、先の己の言葉に付随させたものだろう。けれど、九十九には自分の思考を読まれたような、恥辱を覚えるに似た憤りが湧いた。歪んだ頬から手を離し、勢い鋭く振り薙ぐ。水の鞭により、湊波を構築する群れの一部を溶かし払った。


 しかし残存した数十匹でも顔をつくる程度はできたらしく、湊波の声が甲板に張り付く。


「往涯様は利害で動く者を、これ以上統合協会の内部に増やしたくはないらしい」


「私、を……切り捨てる、というのかね……」


「ああ。この国の行く末のため、必要なことだ」


 徹底した合理主義。無慈悲なる宣言に、九十九は張りつめた糸が切れる感覚をおぼえた。膝を屈し、甲板に転がりそうになるのを、すんでのところでこらえる。水流の柵の向こう、瀬川はつまらなそうに自分へたかる鼠を切り伏せていた。


「島を腐らす元凶は、手前もだったか」


「腐るもなにも元より罪人の土地だろう。なにを言われようと気には、」


 つぶやきが途絶える。獅子の気迫に襲われた鼠は、そのすべてが動きを止めた。


やかましい。人をやめた鼠風情が乃公に口を利くな」


 同時に、彼の手には長脇差が現れている。抜いたのだ、湊波と九十九の意識の狭間で。そして抜いたならば、彼がなにかを斬っていないなど在り得ず。


 すでに斬り倒されていた水の鞭が、倒壊する柱のように鼠の上に降り注ぐ。人を模した群れごと溶かし流され、甲板の上には静寂が去来した。あとには、抜き放った長脇差を血振りするように薙ぐ瀬川のみが残る。


「……死ぬのか、九十九」


 朦朧としてきた意識に、彼は一言そう語りかけた。うなずくことすらできずに体の震えのみ表して、九十九は己の思考に、深く沈みこんだ。


 艦内にいた人間が皆殺しなら、医者もいない。手持ちの術式ではこうした呪いへの対抗策はない。かといって術者を殺して術を止めようにも、無理だ。あれは八万四千の群れすべてで湊波戸浪なのだ。すべてを殺して回る時間など当然、ない。


 死は、免れ得ない。


 富も、権力も、今日まで積み上げてきたものが足下から崩れ去っていく。だれも止めることかなわない。九十九は独り、持てる物は己の身ひとつとなっていた。


 そんな状態となるのは、一体いつ以来だろうか。


「死ぬ、か」


 行きすぎた虚無感が、却って平静さを保たせた。身ひとつ、心ひとつとなって、失うものもこれ以上ない。


 果ての無いおわりが眼前に広がってゆく。そのような終極に直面して、九十九はそこにまだ瀬川が立っていることに、ただひとつ心残りのような、違和感を覚えた。どこまで、いつまで、この男は自分の前に立ちふさがるのだろうか。


 己のすべてが終わろうとしているのに。


「……ならば、もうなにも、要らんか」


 なぜお前が、まだそこに生きている。最後に心に抱いたのは、理不尽への憤りだった。存在そのものが不条理で、定石をすべて無視してくるこの男。瀬川の存在こそが、九十九のすべてを狂わせたように感じていた。


 顔を上げた九十九は、ぶらりと両腕を地と水平に掲げた。力なく、頼りなく揺れる姿勢を、そのまま一瞬保持して――ぞぶりと水流の中へ、突き立てた。


 爪が、指が、掌が、手首が、呑みこまれて消え失せる。だくだくと流れる血の一滴すら残さず、九十九は水の中へ流し込む。瀬川が目を見はる間に、肘までが呑まれて激痛を脳髄に届かせた。


 絶叫しそうになる身を思う。どうせあと数分もたぬ命のくせに、なにを無駄な動きをしようとしているのか。


「……瀬川進之亟、せめて貴様を、殺す」


 それだけで、いい。どうせあと数分たらずで死ぬのなら。せめてやり残したことがないよう、やり尽くして死ねばいい。錯乱しかけた頭で唯一抱いた衝動にしたがい、九十九は両腕とその血を支払った。結果として〝勇叉魚神〟の術式が、ぐるりと変貌する。水底にのぞく影が巨きさと密度を増し、水の鞭はそのすべてがあぎとを開いた龍と化す。


 死の際に至った者が、代償を支払ったがために。術式は次の段階へ移行した。


 瀬川は大した感慨も無い顔で、それを見つめていた。


「まあ、構わん。付き合ってやる」


 抜いた匕首と、長脇差が閃いた。と、その動きを見て、九十九は気づく。


 ああ、そうか、この感覚。常に次の一瞬に死を思うこの感覚。瀬川を瀬川たらしめている要因、あのようにすべての所作が攻めと繋がる理由も――おそらくはいまの九十九と同じだ。


 ことここに至って、ようやく同格の領域に達することができた。じつに、無意味だ。だがそもそもこの世は無意味で無常、とにもかくにも知ること気づくことというのは、それ自体が遅すぎるのかもしれない。


 だから速く。早く。なお疾く。


 己を急かし命を急きたて、愚直を極めて邁進する。


 九十九の腕となった水の鞭は――散り際を瀬川に刻まんと、唸りをあげて迫った。



       #



 うねりを帯びた蒼き火柱を、遠く見ている者がある。


 森の中を駆けながら、上空高くそびえる火焔の柱が、溶け崩れてゆくのを見ていた。


「……あれか」


 レイン・エンフィールドはピイスメイカーを片手に森を走る。もう片方の手にとった曲刀で眼前遮る藪や茂みを薙ぎ払って、一直線に進んでいく。目標は、あの火柱が着弾している地点だ。


 いけばわかる、と村上は言った。ほかの言葉はなにひとつ付随させなかったが、レインにはそれで十分だった。長い付き合いなので互いの機微はよく知っている。彼が、己の好む戦闘手段のそれとはちがい、手駒には意外な大胆さを求める性質も知っている。だから、目指すべきはあの場所だ。


 湊波戸浪を狩りだすために用意した伏兵とは、あの獄焔を扱う者どもなのだろう。……焔である以上日輪にいいように操られたりしないか、との懸念はあったが、裏を返せばそちらに目を引いて操作権の奪取に注力させ、視野を狭める効果もあるかもしれない。何事にも多面性はあるのだ。けれどひとは一面のみ、一義的な物の見方に、ついつい依ってしまう。


 だからこそ、なのか。大局見据えて事物を多面的に見る人間には、だれしも心ひかれる。己の持たないものであるから。


 玉木往涯の持つ支配資質カリスマも、そういうものなのだろう。もっとも、レインはそんな未来ばかり見る考えになど、まったくもって賛同できないのだが。


「こっちだな」


 すん、と鼻を鳴らした。強化した聴覚と嗅覚で、レインは彼らの痕跡を追っていく。


 どぶ臭い鼠を追うのは難儀するが、多少の不便に文句を言ってはいられない。なにしろ、視覚の強化(、、、、、)はしばらく使えそうにないのだ――そのとき眼球の奥に鈍く、痛みが根を張る。ふらついて、足下おぼつかなくなる。がたつく節々を意志の力で制御する。


 長く、戦いすぎた。戦闘で疲弊したからだは、常の全力からすれば五割……へたをすれば四割を切る働きしか期待できそうにない。それでどこまであの日輪に太刀打ちできるかわからないが、村上の伏兵と共同戦線を張れるのなら、可能性は残っている。


 低い崖を越え、木の幹を蹴りつけながら樹上を跳ぶ。この調子で進めば、あと三分もしないうちに火柱の根元へ辿り着くだろう。


「そこで――すべて」


 ……おわらせなければならない。


 今日までの日々を。抱いてきた願いを。


 ひたすらに想いつづけてきた〝今〟が目の前に、開けているのだ。



        #



 玉木往涯の亡骸の横で、村上英治は敷嶋の煙草に火を灯した。


 ざわめく森の木々に抱かれながら、腰を下ろした彼は片膝を立てていた。傍らには戦闘に用いた短剣が幾数本も散らばっているが、彼自身どのようにこれらを振るったか思い出せない。無我夢中で、難敵を仕留めることへ尽力した結果だ。


 おわりは呆気なかった。


 レインは宣言通りに、たしかに彼の世界を、止めた。彼女のとっておきの切り札で、往涯の隠形の正体を見破ったのである。この未来が視えていなかったのか、それとも視えていてあえて受けたのか。往涯は心の臓を弾丸に射抜かれ、ここまで数十年生きてきたのが嘘のように、容易く絶命した。


 だがこの過程にも、結果にも、本当に意味があったのかどうか……村上にはもう、わからない。紫煙をゆっくりと口の端より漏れ出でさせながら、彼は完全に尽きた体力の回復を待っていた。ここからの結末は、彼の手も目も届かないところで行われる。


「……、」


 先のことへ想いを馳せる。果たして、いまここで玉木往涯を殺害したことには、どれほどの意味があったのか。今後の統合協会と政府はどう回るのか。それは村上たちや、井澄たちへ、どのような影響を与えるのか。


 往涯はなにもかも、どちらでもよかったのだろう。彼は人という種が上の段階へ進み繁栄することだけが目的だった。手近で出来たのがたまたまこの国を裏から動かすことで、それを実行に移せるだけの力があったから、悲劇を起こしてみた(、、、、、、)だけ。個々人の感情など意にもせず、世界を遊び道具にし、最期はそれに押し潰された。


 託宣で先が見えすぎたため、なのだろう。すべてのひとが可能性を持つナニカに過ぎず、自分も可能性のひとつに過ぎず、ゆえにたとえここで潰えてもいつかはどこかで同じものが現れる。そう考えてしまった。


 自己にも他者にも特別性・唯一性を見出せていなかった。上下のべつなく大きさのちがう歯車に過ぎないと断じていた。……歯車。「それはちがう」とは、村上も言いきれない。国の機構システムの中枢にまで入りこんでしまった村上もまた、権力と引き換えにしがらみを手にし雁字搦めにされている。


 力があるほど不自由になる。近代化は、開化は、すべての人間を機構の部品に組み入れてしまった。もうあとには退けない。だから往涯は構築されたこの枠組みのなかで、最大限ひとが切磋琢磨し発展する道を考案し示した。


 村上は、どうなのだろう。ここからはなにをしようとするのだろう。


「…………、」


 先を、ついつい考えてしまう。


 考えてもどうにもならぬ、今のためにこそ刃を振るう。こう誓ったからこそ、往涯を殺したというのに。村上はレインほど割りきれずにいた。たぶんそれは、村上とレインが目的こそ井澄の救済に一致していたものの、その目的へ抱いている感情が少しばかりちがうからだ。


 村上にとって井澄は、共に暮らした弟のようなもの。彼の未来が奪われることへの恐怖から、さまざまに手を回し守ろうとした。しかしレインは――きっと、弟というよりも男として彼を見ている。


 だから村上よりも、今に対して必死になる。


「……いい歳をして、なんともはや」


 笑みを浮かべて、村上は口から煙草を落とした。吸殻は村上の着るダブルのジャケツの上を転がり、地面に落ちてじゅうと音を立て消えた。


 足の下にできた血だまりが、彼の影に暗くのびる。


 往涯の反撃により、腹部に突き立てられた短剣から、血が滴り落ちていた。下手に抜くこともできないためレインが錬成し直して傷口ごと塞いでいるが、完全には出血も止まっていない。


 ぼんやりと上を向き、村上は煙が空にとける様を眺めながら、ゆっくりと目を閉じた。


 まどろむような闇の中で――村上は、今についてもう少し真剣に考えようと、そう思った。



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