88:窮地という名の活路。
突如真上から現れた井澄らへ対して、月見里は怪訝な顔を向けていた。井澄のすぐそばにいた巨漢はひいと悲鳴をあげて離れると、大きな背中でなにか抱え込むような姿勢で部屋の隅へ逃れた。
さて、状況はまたしてもよくわからない方向へ転がってしまった。
「……なんです、あなたがた」
不信感を隠しもせず、月見里が刺し貫く目線で問う。身だしなみには疲れがうかがえたが、居ずまいを正すこと余儀なくさせる気迫はいまだ健在の様子だ。
とはいえ、先日瀬川の殺気に晒されたり、レインと相対することになったときほどの恐怖はない。死地を掻い潜ったことで得たある種の心的麻痺、加えて八千草と沢渡井澄として対するとの決断。ふたつの強い動機づけが、簡単に怖気づくことのない沈着冷静さを井澄の精神に落とし込んでいた。
真っ向から見返す様に以前の井澄との差異を感じとったか、月見里は鼻をひとつ鳴らすと威圧をやめた。そして視線を上にやり、小雪路と靖周に呼びかける。
「上から見下ろされるのは不愉快です。降りなさい」
「言われんでもそうせざるを得ないけど、よ」
とんとんと間をあけず着地した二人を認めて、月見里はわずかばかり驚いていた。後ろ髪なびかせる二人のうちひとりは四天神・危神こと小雪路だったのだから、当然だろう。
だが彼女の視線はすぐに小雪路の顔から離れ、腕の中に落ちる。抱かれるまま虫の息となっている山井を見て、頬をひきつらせていた。
黒闇天の術式も解けて常の面相に戻っていた山井は、血まみれでぬるりとした指先から杖を滑り落とし、靖周の腕と膝にしなだれかかっている。重たげにまぶたを開くと、彼女は靖周、次いで小雪路、井澄を順に見ていった。弱弱しい声が、こぼれ落ちる砂のようにさらさらと室内を這った。
「……んっとに、なに、やってんの、あんたら……、なんでここに、島外に、逃げたんじゃ」
「……湊波に八千草を攫われました。いま私たちは、奪還に向かう中途だったのです」
言うと、山井の黒眼が大きくのぞく。心底まで見透かすような目つきにひるんで、井澄は気まずさに目を逸らした。とたんに厳しい言葉が、井澄の弱気を根っこからひっぱたいた。
「はぁ……甲斐性、無し」
「面目次第もありません」
「アタシなんかに、かかずらってないで……さっさと、取り返してきなさいよ」
「そうしたいのは山々なのですが」
「ちぃとばかし難事だぜ、こりゃ」
少しでも黙りこめば、鼠があたりを掻き毟る爪、駆けずり回る足、さえずる喉。その三つが音という情報で井澄たちの頭を埋める。包囲を抜けだすには難儀しそうなものだった。
「どうしてこうまで囲まれてやがる」
「それはこちらが訊きたいところです。山井も傷だらけになって……もしやあなたがたが、鼠を引き連れているのではありませんこと?」
月見里に猜疑心に満ちた瞳を向けられて、靖周もおどける余裕すらない。
「馬鹿いわんでほしいぜ。こっちも、」
言いつつ靖周は符札を取り出し、見もせずに頭上へ擲つ。途端に風が荒れ狂い、空いた穴から押し寄せんとしていた鼠を吹き飛ばした。
「追われてんのは同じだ」
といってもそんな手は長くつづかない、この屋敷では籠城戦などもってのほかだろう。室内をきょろきょろと見回し、井澄は状況把握に努めた。すると隅の方へ、見覚えのある男が転がっているのを見つける。
先日、呉郡の糸と鋼の剣玉を用いた戦術で井澄を追い詰めてきた奴だ。たしか名はレイモンド・グレゴリー。だが昏倒させられている様子で、後ろ手に手首を縛られている上にぴくりともしない……どうやらいまは捨て置いてもよさそうだ。遮蔽物のない室内、ほかに伏兵もいない。
となれば、やはり対処すべきは月見里と、巨漢の男だけだ。月見里は唇を噛んだまま身動きを止めて、井澄たちと接している現状に対してどう行動すべきか思案していると見えた。
しかしあまり迷わせている時間はない。屋根瓦に穴があいた以上、鼠はすぐに押し寄せるだろう。
「月見里さん。すみませんがあなたを含め、我々にはあまり時間がありません。状況が状況ゆえに疑うのもやむなしとは思いますが、どうかせめて停戦だけは確たるものとしてここに認めていただきたい」
「……急に乗り込んできた身でありながら、身勝手もずいぶん。よい度胸ですね」
「一度でも噛まれたら死にかねない鼠が相手ですので」
「死にかねない?」
「あれは黒死病運ぶ死の鼠。命惜しくば迂闊な接触は避けますよう」
命ずる口調に月見里は気を悪くした風だったが、体裁など構っていられない。必死になって、井澄は対応策を考える。どうにかこの鼠の包囲を突破できないかと考え込んだ。手立ては。道具は。人員は。如何様にすればこの局面を乗り切れるか。
周囲見回せば、なぜか雑多に積まれた得物の山があった。ここになにかないか探り始めると、部屋の隅にいた巨漢がひどく狼狽したが無視する。刀。斧。槍。弓。鎌。その中へ二点、使えそうなものを見つける。一点は、出所の推測はついたのでポケットへしまう。もう一点は、
「発破、ですか」
青水連中が赤火船舶で用いてきたものと同じ品だった……しかし、いかんせん大きすぎる。遮蔽物のないこの室内でこんなものを使えば、鼠と共に井澄たちも焼き尽くされる。もう少し、なにかまともに対応できる道具はないものか。
だが考える間を与えず、湊波が襲来する。気を向け続けていた屋根瓦ではなく――壁の一部を、群れ成す牙と爪で食い破ってきたのだった。入口近くの壁の根元が崩れ、水が流れ込むように鼠が広がり迫る。すべてを飲みこむ死の臭いが、鼠と共に入りこんできた。またたきほどの間で隅に居たレイモンドは群れに呑まれ、ぐむ、といううめき声ひとつのあと鼠にたかられるばかりの静物と化した。
「くっそ、〝空傘〟ッ!」
叫んだ靖周が符札によって正面の群れを押し返すが、数の暴力には抗えない。一時的に進攻を押しとどめることはできても、根本からの解決には程遠い。吹き飛ばしても吹き飛ばしても、群れは数を増して再度攻め込んでくる。無駄撃ちもいいところだった。
「やべぇぞ! どっか抜けるとこはないのか!?」
「抜けたところで外で待ち伏せされていたら無意味ですよ」
「じゃあ、兄ちゃんの風で飛んで逃げるしか……」
言ったものの、小雪路はそれ以上続けない。符札は枚数にも威力にも限度がある。飛ぶ先としての高所が周囲になく、しかも弱った山井まで抱えての跳躍では、とてもじゃないがつづかない。
そも、井澄たちの目的は逃げ切ることではないのだ。この先八千草を追い、取り戻すために行われるだろう戦闘で靖周の術が使えないのでは……奪還の可能性はかなり低くなる。
「――さあ選びたまえ。なにを切り捨てなにを拾うかをね」
湊波の声が、室内に響いた。
部屋の半分を満たしたあたりで進軍を止め、部屋の最奥まで井澄たちを追い詰めておきながら、ここで停止している。ざわりと寄せ集まった鼠たちが小柄な人を模り、のそりと上体を起こす動きと共にのっぺりした顔のようなものが、口を開いていた。聞き覚えのある声に反応した月見里が再び懐疑的な視線を向けてきたが、これは無視して井澄は応じる。
「切り捨てる、とは」
「わかっているのだろう? もう山井は戦力として役に立たない。ここに置いて、月見里たちと共に見捨ててゆくのがお前たちに許された唯一の選択だと」
「…………、」
「目的のための取捨選択はどこにも存在する。選べなければ死するばかりさ」
ぞぶぞぶと蠢く鼠の下、レイモンドのいた位置に出来ていた小さな群れの山が、均すように平たく変じていく。胸糞悪くなる光景にえずきそうになりながら、井澄は堪えて湊波を見続けた。だが形なく人の姿を保つ奴を見ていても、どこに視線を合わせればいいかが、わからないのだった。蠢く鼠は犇めきあって、井澄に選択を迫る。
「なにも選べない人間は、なにかを選んだ人間によって動かされることとなる。是非を問わずね」
「動かす……」
無感情で平坦な湊波の言葉を聞いて、井澄はふっと思い出す。
先ほど、なぜか非戦闘員と見える者たちに囲まれた状況について。赤火でも青水でもなさそうだった彼らが、どうして急に井澄たちへ刃を向けて来たのか。
そうせざるを得ない理由があって、動かされていたのではないか。
「まさか、湊波」
「己の命や身内の命が天秤にかかると、人はああも容易く動く」
「貴様っ――非戦闘員を、足止めに」
「ああ。その通りだ」
最悪に輪をかけた最悪だった。こうまで奴が数を散らし動いていた理由は、彼の手足として動く兵となるように、非戦闘員の一部を人質にとって働きかけていたせいだったのだ。おそらくは井澄たちが八千草に追いつかないように壁として足止めをさせる、ただそれだけのために。
「……我々が追いつかなくとも、これではもはや周囲も貴様を敵視します。時間を稼いでいるだけで逃げられるとでも、」
「思っているよ。迎えがもうじき来るのでね。私はそれまでお前たちやあいつらから逃げられれば、それでいいのさ」
意味深な言葉を告げて、それ以上触れることはなく。鼠の群れをざわめかせながら、湊波は人をかたどる群れたちに肩をすくめさせた。似合わぬ挙動が、鬱陶しかった。
「さてどうする。いまのお前もまた、取捨選択の天秤が眼前に差し出されているわけだが。それとも投降するかい? まあ私の下にくだったところで鼠を止めるわけではないが、手間は省ける」
問いを投げかけながら、湊波はまるで人間のように首をかしげる。歯噛みして、井澄は振り返ることはできない。背後にいる靖周や小雪路、山井を見てしまえば、もはや言葉が出てこなくなってしまう気がした。
八千草を救おうとの思いのために。この三人を、喪ってしまうというのか。過ちとして、彼らの命を刻んでゆかねばならないのか。無理だ、そんなものは受け入れられない。でも。けれど。だとしても。
「……捨てなさい」
そこで山井が、声をあげた。振り返った時、山井を見ていたのは月見里と井澄だった。
「捨てなさい」
強い語調で、もう一度つぶやいた。靖周に抱かれたまま、彼女は薄く開いたまぶたの隙間より、井澄を見つめている。靖周と小雪路は、そんな彼女の言葉を受けて、どこを向いていいか視線と思いがさまよっていると見えた。井澄は、呆気にとられるばかりで、震えていた。
「なにを……あなたは、なにを」
「情とかじゃ、ないわよ……アタシは、医者だから。軍人でも、警官でもなく……医者だから。大義のためとか、先を見据えた、ややっこしいこと、は……どうでも、いい」
は、は、と浅い息使いで言葉を継ぎながら、彼女の視線だけは揺れることなく井澄を芯から見据えていた。
「目の前から、アタシが不愉快になることを、取り除く。……傷あれば、癒す、崩れれば、支える。死にそうなら、助ける。理屈は……要らない。感覚でぜんぶ選ぶ」
だから、と。
彼女が、己を、切り捨てた。井澄に選ばせず、彼女が選んだ。月見里は一歩だけ、そんな山井に近づいて、しかしなにひとつ言葉をかけずに黙ってからだの両脇に拳を握った。
定めている。きっと、遥かな昔から。山井は医者としての生きざまに己を賭すと固く誓っていたのだ。ゆえに選べる、黄泉路であっても他者のため。天秤にかかったのが井澄たちでなかったとしても、当然のようにそうしていたはずだ。こんな島であっても――いや、こんな島だからこそ、なのだろうか。彼女がその道を選ぶのは。
「……やはり理解に苦しむよ」
湊波は言って、群れをわずかに進めた。五寸かそこら歩んだだけだろうに、おびただしい数の鼠が一斉に動く様は、威圧を強めるに足るだけの物量感を投げかけてくる。
「だがそうか、お前はそういう人間だったな……ああ少し、気が変わった。ひとつ提案だ」
「提案?」
「山井、お前が自刃するというのなら、その他全員を助けよう」
威圧の中に、条件を提示する。それは場にそぐわない、奴の性格にも合わない提案だった。
なにを言いだしてもおかしくはない、そういう人物像ではあるが、だからといってこれは井澄も想定したことのない人間性だった。まるでいたぶるように、湊波は残酷な条件で山井に自害を薦める。
そのとき山井は、表情と一切の色を顔から消した。
懐から医術刀を取り出す。あわてて、靖周はその手ごと刃を払いのけた。からんと転がった医術刀は、井澄の足下まで回転しながら滑った。靖周は山井の襟元をつかむと、額を突き合わせるようにして彼女を引っ張った。
「てめっ、も少し逡巡とかねぇのか」
「……アタシも、何度も助けられてきた、命よ。だからその都度、いつなにが、あっても。……納得できるって、思ってきた」
「理屈じゃねぇかそれはよ!!」
「感覚よ。……誇りとか、職責とかじゃ、なく。そうあるのが自然、って、アタシは納得できてる……だから動ける」
悪いわね、と言って、山井は靖周の腰に手を回す。彼の得物である短刀を、引き抜いている。あまりに自然な動きで、井澄も小雪路も傍で見ていて気づけなかった。
望まぬ結末へ、時間が向きを定めようとしていた。井澄が糸を振るって止めようとしたとき――
「取捨選択」
――短刀は、巨漢の手中に収まっていた。
「愚問。捨てるものなどありませぬ。すべては、我がもので御座る」
指示を出したのは、月見里だったらしい。手を上げ山井を示す挙動だけで、巨漢は命を理解し見た目から想像できない速度で山井から短刀を盗み取ったのだ。恐々と巨体を屈めながら短刀をためつすがめつしている彼は、気に入ったのかその刃を手すさびながら井澄たちへ背を向ける。
月見里は、自分が命じたことに納得しきれていない顔で、上げていた手をそっと下ろした。
「……なにをやっているのかしらね、わたくしは」
立場があり、役目があり、諸々成さねばならず死ぬわけにいかないはずの彼女が、山井の手を止めさせた。
「まあ、それで確実に助かるわけではないから、なのでしょうけれど」
言って、月見里は刃のような視線で鼠の群れを射抜く。
「お前を会話に交えたつもりはないよ、月見里さと」
「あら、そう。ならば勝手に嘴を差し入れるといたします」
湊波に向かい、毅然とした態度で意志を告げる。すると湊波は、しばし保っていた人の形を、瞬時に崩して群れの中へ均した。
脈打つように波のように、群れは震えを伝播させて奥から手前へその身を強張らせていった。動きが最前列へ到達したとき、どこからともなく湊波の声が聞こえた。
「交渉決裂、か。うるさいのは苦手でね。提案のまぬならば、生かしておくつもりもない」
ず、と床が軋んで、個々はわずかなはずの重さが群れとなった際の量を感じさせる一瞬。湊波が、緩やかな進軍を再開した。井澄の周囲だけはかわしていく軌道であったが、もはやその他だれにも容赦をするつもりはないと見えた。井澄が後ずさる。
得物の山につまずき、かかとが先ほどの発破を転がす。――そのとき山井が、ふっとそこへ目をやった。ついで、目を見開き、顎をひいて喉に力をためた。群れ押し寄せる鈍い走破の音に負けぬ一声で、井澄に怒鳴る。
「井澄、鎌をこっちに、投げなさい!」
なんらかの手を、思いついたのか。ならば疑うことはない。彼女の直感を信じて、井澄は鎌を蹴って彼女へ滑らせる。山井はこれへ手を伸ばし、残り少ない力を振り絞って握った。それで準備は整ったか、咳き込みそうになりながらも、さらに指示をつづける。
「――発破を、右手の壁に!」
とんでもない指示を、つづけた。この狭い室内でそんなことをすれば、井澄たちも同時に焼かれるはずなのに。
けれど一度信じると決めた井澄に、逡巡するような疑念は欠片ほどもなかった。結果がどうなるかまったく読めはしないが、背を預けてきた仲間の一言に先が開けなかったことはない。だから信じることを、選んだ。素早く擦った燐寸で火を点け、壁に向かって放り投げる。鼠の群れが、発破の落ちる地点から避けつつ言葉を継ぐ。
「お前たち、なにをして」
「悪いわね、湊波――あんただけ、吹っ飛べ」
井澄は腕で顔をかばったが、白く世界が色を抜き、発破の炸裂する直前。山井は頭上に伸ばしていた鎌持つ手を、重力に任せて振り下ろした。
無音の時間が、遠く流れた。すべてが無に帰したがための感覚かと思いきや、そうではない。
焼ける熱も、轟音の衝撃も、井澄たちの左右を通りすぎていく。腕の覆いの下から見れば、鎌を振り下ろした位置から爆風が左右に裂け、鼠と壁だけを焼き滅ぼして通り去った。と、焦げた臭気が鼻に感じられ、ちかちかとする視界の中で死屍累々の鼠の群れ、そして崩れ去った壁が、井澄たちの前に道を開いていた。外に控えた鼠も一掃したのか、もはや湊波の気配はない、と小雪路がつぶやく。室内の群れに数を割きすぎていたのか。
「やっ……た、んですか」
「すご、何なん、これ」
「……〝風切鎌〟。やっぱり、見間違いじゃ、なかった……〝白状物〟に、運ばれてく、あの銃士の娘が……持ってた奴」
どこで拾ってきたのよ、と巨漢を見ながら山井は笑う。井澄らは、山井が取り落とした鎌を見つめる。どうやら普通の農具でも得物でもなく、呪具としての性質を持った『風を斬る』鎌だったらしい。それによって爆風を引き裂いて、自分たちの周囲のみ熱も音も届かない領域を生みだしたのだ。
「なんにせよ、すげぇな……おっと、こうしちゃいられん。早く逃げにゃ」
靖周は山井を膝から背へ担ぎ直そうとした。
だが山井はその手を押しのけると、わざと己を床へ落とさせた。
「なにやってんだ、山井」
「八千草を、追ってるんでしょ……一刻を、争うなら。アタシは置いてきなさい」
「ンなこと言われても」
「大丈夫、よ……こっちの太っちょにでも、運んでもらうわ」
親指を立てて、後ろに控えていた巨漢を指す。示された彼は素っ頓狂な声をあげたが、月見里に指示されると仕方なさそうに山井を抱え上げた。おぶさったところで気が抜けたか、山井はだいぶ脱力した様子で顔色が悪くなった。青白い顔で、視線のみで床の鎌を示す。
「それと、これ。持ってけ」
「さっきの鎌か」
「それ拙者の……」
もごもごと巨漢はなにか言おうとしたが、後ろから山井が腕を回して喉を絞めた。
「持って、いきなさい。あんたの術となら、相性いいでしょ」
「……まあな。んじゃ、ちょっと借りてくよ」
「ふふ」
「んだよ」
「せっかく、ツケはチャラに、してやったのに……またも貸し、作っちゃった、わね」
「また会う理由ができた、ってことでいいのん?」
小雪路が横から、首をかしげつつ割り込む。唐突に前向きな言葉がふってきたので、靖周も山井も固まっていた。それからどちらともなく笑って、屋敷から脱出した。
共に壁より出て。勝手口から外へ辿り着いたところで、山井たち三人は非戦闘員の多い地帯を目指し、鼠に対する注意喚起を行うと言った。井澄たちは引き続き湊波を追うべく、山井が奴と出会った門扉のほうへ向かうと告げる。そこで靖周は後ろについてきながら、井澄に疑問を投げかけた。
「だがどこに逃げたか、アテはあんのか。小雪路も多すぎる気配に惑わされて、どうも奴を見失いつつあるらしいぜ」
「アテというほどではありませんが、奴の言動の中に気になるものがありましたので」
「気になるもの?」
「迎えが来る、と言っていたでしょう」
この辺境の島へ、迎えが来ると確かに言ったのだ。
「……勝利を確信したのか、口を滑らせましたね。こんな島へ来れる迎えなど、船以外にはありえない。ならば来るまでの間隠れ潜んで逃げのびることが可能で、かつ迎えが来ればすぐに移動ができる場所……」
足をとめた井澄は、靖周の方を振り向きながら足元を見やる。
「一層から下ってきた雨水・生活排水による川の氾濫を防ぐため、六層地下に建設された地下汚水処理施設。おそらく奴はそこに、います」
言葉を切ったところで、またも遠く蒼い火柱が立ち上る。曇天の天を焼かんばかりに輝く火柱は、なにか不気味な気配を辺りに振りまいていた。
と、その火柱が、奇妙なかたちにねじ曲がる。溶けた飴のごとく粘度を思わせる揺れ方をして――その様に、井澄は日輪の発現を思い起こした。