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明治蒸気幻想パンク・ノスタルヂア  作者: 留龍隆
終幕 絢乱劫花
87/97

87:孤兵という名の古兵。

 島へ向けての砲撃が、四つ葉を打ち崩していく。赤火が血迷ったか、と判じながら、式守一総は被外套マントを翻し、制帽の位置を正した。


 六層外区。ライト商会跡地へつづく道の途中。彼と配下の者ども――湊波と往涯の部下は、井澄たちを捜索してここへ辿り着いていた。まさか青水と赤火の戦の中を駆け抜けるとは考えがたかったが、だからこそ、その思考の隙を突いている可能性も否めないと考えたのである。


「どこへ向かったのです、殺人者」


 青水と赤火の戦闘もひと段落ついたか、周囲に人気はない。とはいえどちらの兵に出くわしても、出自の不明瞭な式守たちは戦闘を免れ得ないだろう。慎重な歩みは彼らの神経を削り、曲がり角のたびに暗がりをのぞく心持になりながら一歩を刻んでいく。


 先頭を進み配下を率いながら、式守は道の端から出ようとする。しかしそこで風切る音に気づいて、後続に手をかざして進軍を止めた。次いで腰に提げた二刀の鞘に触れて手刀を下ろし、術式を起動する。


「伏せろッ!」


 爆音があたりを、埋める。とっさのことで剱境負戒の術式を発動し降り注ぐ火の粉と瓦礫を払ったが、大気が壁を成して押し寄せる衝撃には耐えられない。ずん、と肺腑から胃の周りをくだって下腹部まで抜けていった衝撃波の重さへ、式守は膝を屈した。


「ぐ……」


「式守殿!」


「砲撃、です……無闇に進んではなりません、まだつづきが、あるやも、」


 言っているそばから、横合いの建物が震えた。天を突き崩すような破壊の音が轟き、進軍していた背後の兵が崩落に巻き込まれる。被外套が巻き起こる粉塵の風にたなびき、式守の制帽を吹き飛ばす。乱れた髪の隙間から被害状況を確認した式守は、率いた隊六名のうち半数が瓦礫に埋まったことを知った。


 歯噛みして、腰から外した軍刀を支えに起き上がる。残る三名で、任務を遂行せねばならない。ただでさえ難事だというのに。


「……田戸、殿を。水上と倉橋両名で左右索敵。ここからの陣形はこれに決定であります」


「……ハッ」


「陣内、日下部、原田はここへ残して先を急ぎます」


 ふらりとしたのは一瞬に留めて。式守は背筋を伸ばすと、再び歩き出す。中途で制帽を拾い上げ、埃を払って頭に戻す。顔色ひとつ変えずに仲間を斬り捨てた式守に、配下の者どもは何も言わない。


 腹のうちでは思うところもあろう。冷血漢とのそしりも浮かぶだろう。それでも、隊を率いているのが式守である以上、逆らうことはない。より大きな、義のためであれば、ひとは個を殺せる。


 だから謝罪ひとつ口にせず、式守は行くのだ。本土に居た頃からなにひとつ変わってはいない。彼は、彼の正義のため歩みを止めず刃振り下ろしここに辿り着いている。いまさら境を戻るつもりは、ない。


 だが進行を再開してすぐ、背後から悲鳴が上がる。


「田戸?!」


 抜刀して右蜻蛉にとりながら振り返ると、相手を認めるまでに田戸の声は途絶えていた。


 豪と燃え上がる蒼き火焔が、彼の顔を焼いていた。口から注ぐ焔に喉を焼かれ、田戸は沈黙していた。すぐに両翼を守っていた水上と倉橋がエンピール銃を向け焼殺の下手人に銃火を放つが、寸前でかわされ彼らも蒼焔に腕を這い上られる。


 火薬が爆ぜて彼らの腕が吹き飛び、痛みが起こす喉の震えも、焔群ほむらによって焼き尽くされた。


 しんとして独り。孤軍どころか孤兵となった式守は、なおも姿勢崩さず敵手の判別に力を注いでいた。倒れし骸は踏み越える。血を分けた兄弟にすらそうしてきた彼に、揺らぐ隙はない。


 視線の先に立ちつくしていたのは、黒子のように覆面で顔を隠した者たち。漆黒の装いに革の長靴ブウツを合わせる、維新後によく見受けられるようになった格好で短刀を構えている。人数は六。距離にして五間、式守ならばひと息で詰められる。


 けれど詰める気にはならない。下手な動きは向こうの迎撃に遭うことが確定していると思わせるだけの、不気味な実力が感じられた。……男たちは両手に蒼焔を宿しながら、こちらからは表情うかがえぬ覆面の下で、式守を値踏みしている。


「何奴」


 問いかけても、答えはない。ただ、赤火でも青水でもないことは明らかだった。もちろん黄土でも、緑風でもない。


 となれば、彼らの正体は。本土の人間……往涯の派閥ではない、式守たちに敵対する者。ここまで考えたところで、彼らが短刀持たぬ空の手を向ける。放たれた焔が、またたく間に式守の周囲に溢れた。またも剱境負戒で身を守るが、彼の術式の展開はあくまで一瞬。走り抜けて焔から逃れようとしたが、勢い盛んなる燎原之火はあまりに広範囲を焼いていた。


 術式が解けて、被外套にくるまりながら前転して間合いを出ようとするも、足先から頭の端から焦がされる。


「ぐぅぅぅぅ……」


 髪の焦げる臭いに、肌の溶けるおぞましさに顔をしかめていると、次なる放射が迫っていた。


 式守は鞘を払い二刀に構えると、刀を投げる。彼我の間合いを三等分するように、二か所へ突き立てた。次いでそこへ駆けだし、焔が辺りを取り巻くと同時に術式を起動した。


 刀を中心に球状に発生する圧力の領域。ここへ跳び、足場と成した。一歩、二歩と圧力の球を蹴りつけ空中を闊歩し、彼らの真上を取る。同時に背中に隠した最後の一刀に手をかけ、縦に回転する勢いと共に電光の如く振り下ろした。


「ェストォォォォッ!!」


 頭から股下まで斬り下ろす。ぞぶんと手応えが過ぎ去り、地面に深くめり込むまでの斬撃で、襲撃者は絶命した。この死体の襟首をつかんで盾とし、式守は一番近いもう一人の男に向かって踏み出す。剱境負戒の術式で死体ごと跳ね飛ばし、彼が焔を放つ腕を逸らした。


 わずかなこの隙に、相手の首へ切っ先を突き立てる。頸動脈を裂き、派手に噴いた血が焔に触れて赤い霧と化した。残り四人。術式の連発で魔力が尽きる前に、殺し尽くす。


「無辜の民とは言えずとも、志同じくする我が配下。先見る彼らを手にかけた罪、万死に値するのであります――!」


 奪い取った短刀を投げつけ牽制し、三人目に迫る。彼は得物を構えて剣筋を逸らそうとしていたが、それで止められるのならばこの剣技操る者どもがここまで勇名を馳せるはずはない。下手な防禦ならば切り破る。二の太刀要らずが我が本懐!


 ……しかし袈裟に振るおうとした軍刀が届く前に――空が、かげった。


 灼熱の気配を上に感じたときには、式守の下半身が、痛みの中に飲みこまれた。焼けている。熱い。劫火の渦に叩き込まれ、筋肉が収縮し活動を停止するのが感じられた。


 がくんと首が前に折れ、意図せずして背後をかえりみることとなる。巨大な蒼焔の柱が、背後五間ほどを焦土と変えたところだった。


 広範囲攻撃。そうか、群れたる湊波を、殺すための……、


 そこまで考えて、式守の意識は落ちる。


「口惜しや……無、念」


 最期の視界に映ったのは、伏兵もいたのか十数人からなる覆面の男たちが、それぞれ両手に焔を宿す様だった。



        #



 蒼い火柱が、遠くに上がっている。砲撃によるもの、ではないだろう。おそらくはだれかの、なんらかの術式によるものだ。まだ、赤火と青水の戦闘は続いているのだ。


 居留地に踏み込んだ井澄は、廃墟街の様相を呈している通りを見て、立ちのぼる死の臭いに口許を押さえた。戦で生まれる死臭は、殺し屋殺しで個人を殺害するときとはまた違う悪臭であった。


「井澄ん、あの火柱って、その〝日輪〟とかいう異能によるものじゃないのん?」


「どうでしょう。知る限り、蒼い焔を出していた覚えはないのですが」


「でも温度あげりゃああなるんじゃねぇか。細かいとこはわからんが」


「残念ですが、日輪の詳細については私もわからないのです。手帖を見る限りの記憶では、あまり記載がありませんで」


 先を走っていた小雪路は、問いに対する井澄の答えにふうんと返した。


 あれから。長い物語としてこれまでを語り尽くし、井澄は二人に日輪の異能と、それをめぐる亘理井澄、八千、沢渡井澄、橘八千草の実情について説明した。


 二人もさすがに、井澄が記憶を失い続けているという事実には驚いた様子だった。また理由は語らなかったものの、先ほど現れたレインが井澄にとって家族に等しい存在だったことにも、妙な驚きを見せていた。


 けれど八千草と同様に。たとえ何があっても、いま彼らの接している井澄こそが彼らの信じてきた沢渡井澄に他ならないのだと、理解を示してくれた。やはり話せて――話すことができて、よかった。心から、そう思った。


「ま、そもそも昏倒させられてんだから、異能なんざ使えねぇか。さあ早いとこ見つけねぇと、無防備な八千草も戦火に巻き込まれちまうぜ」


「……すみませんね、危険域まで引っ張ってしまって」


「いまさら気にせんよ。八千草ん見捨てるなんてしたら、うちらきっと後悔するん」


「腐れ縁とはいえここまで来ちまったしな」


 にっと笑って、口の端にくわえた煙管を上下させながら靖周は言う。


「俺にとっちゃ、一番大事なのが小雪路であるこた不変の事実だが……んでも、お前らがいたからこそそれに気づけて伝えあうことできたし、お前らいねぇとハリがねーよ」


「うちも。先のことはよぉわからんけど、でも、みんなで一緒にいたい。そう思っとるんよ」


 良く似た笑顔で、二人は言う。


 ……失いつづけて、ここまで来た。レインと村上との繋がりを、八千との繋がりを、師との繋がりを、そして己の記憶を。


 だから他のなににも目をむけず、欠片ほどの過去でもいいからと八千草にすがり、その他すべてを見ないふりして進んできた。けれど、あったのだ。確かにここで、この島で。井澄はあたらしい繋がりを、手に入れていた。


「ありがとう、ございます」


「礼はあとにしとけ」


 静かな井澄のつぶやきに、靖周は片手で制して応じた。片手には符札、もう片手に短刀の、いつもの構えをとっていた。すでに戦闘領域、この先なにが起きても即座に対応できるよう、気構えを成していた。


「まずは、この島から生き残らにゃな」


 小雪路も詠唱して摩擦力の操作をはじめ、井澄も手に手に硬貨幣を構える。のんびり感傷に浸るのは、あとにするべきだ。心を鎮めて、井澄も臨戦態勢を取り直す。走る先へ顔をあげ、視界をくまなく睥睨した。しかし、うまく隠れているのか湊波を発見することはない。ここで合っているのだろうか。


 あの場から逃亡したのは、日輪たる八千草をつけ狙うレインに殺させないためなのだろう。しかし逃亡先に選ぶのが戦闘の最前線である居留地というのは、どうにもちぐはぐな感じがしたのだ。どうせなら戦闘が行われていない六層の奥地などへ行くべきだろうに、なぜそこら中で刃振るわれる場を選んだのか。


 わからないまま気配を探るうち、顎伝う汗をふきながら靖周はつぶやく。


「いやだね、ぴりぴりした空気はそんだけで体力削られんぜ」


「でもさっきからぜんぜん人影見んよ。ここ、いま最前線なんよね?」


「そのはずですが……じり貧になった青水が退いたのでしょうか」


「あの青水に限ってんなことしねぇだろ。追い詰められたら玉砕覚悟で突っ込むって」


 言いながら、靖周も不穏な空気を感じているのか周囲を見回しては疑問ばかり浮かんでいる顔だった。


 あの青水に限って――という言葉は、この四つ葉では重たい。そう思わせて裏をかくようなことをする人間の集いならば、まだこうまで恐れられていないはずだ。折れず曲がらずただ貫く。一念以て障りを斬る。単純すぎて、ほかの人間では辿りつけない精神の極致に、彼らはいる。


 退却。策があっての退却ならば、考えられるのだろうか。


「いえ、しかし議論の時間はありませんね。して、小雪路。近付いてはいるのですか」


「鼠の気配はこの道ずっとつづいてっとるけど……ん? 人がおるよ」


 言われて、靖周と井澄は視線を遠く結ぶ。相手が銃など遠距離に対応する得物を持っていたら厄介だ。


 しかし小雪路の戦闘勘が反応していないということからも察せられるように、そこにいたのは非戦闘員だった。常ならば身だしなみもしかと整えているのだろう、あでやかな衣裳に身を包み、簪とこうがいで飾り立てた頭髪。黄土の人間と見受けられた。


「黄土はこの戦、非戦闘員ばかりゆえ引きこもっていると聞き及んでいますが」


「俺もそう聞いてたよ。となるとこりゃ砲撃で焼け出されたかなんかか……そうだ、仕立屋を見てないか訊いてみるか」


 首をかしげながら、ごく自然に靖周は彼女に近づいていった。小雪路が少しむっとする気配を横に感じて、井澄は本当に彼女は感情表現豊かになったな、と感慨深く思った。


 ゆらめく足取りが危なっかしい女性は、短刀をひとまず腰の鞘に戻した靖周に、ゆらゆらと近づく。これへ応じて、彼も距離を詰めた。


「ようどうした、危ねぇぞこんなとこいると」


「……靖周、さま」


「ん? 俺をご存知か。って、よく見りゃ篠奴しのやっこじゃねぇか」


「お知り合いですか」


「んぁ、まーな。馴染みの娼枝だよ」


 小雪路の暗い気配を察したのか、伸ばしかけていた腕をぱっと引っ込めつつ靖周は言う。


 娼枝、なるほど非戦闘員も極まれりだ。だが避難すべき場があるだろうに、なぜここをうろうろしているのだろう。近づいた靖周は井澄と同じ疑問を抱いたらしく、彼女に問うていた。


「こんなとこでまた会うたぁな。避難場所はどうなった?」


 するとびくりと身をすくめる。焼け出されて、よほどひどい目に遭ったのか。さまよい歩いた果てに知り合いと出くわしたのなら、すがろうとするのも当然か……そう思って井澄は見ていた、が、中途でなにかおかしいと勘付く。


 女性の目線の挙動、手足の凝り固まった動きには、恐怖や焦り以外の不純物がまぎれこんでいる気がしたのだ。それは――ずいぶん前、八千草と店番をしている最中に、依頼に来たと見せかけて運び屋としてやってきた少女のような。


 自分自身に、怖れを成している者の動き。


「避難所……は――」


 残り一歩で肌が触れ合う間合い、到達すると同時に娼枝の彼女は刃を抜いた。どこの家にもあるだろう小出刃を、豪奢に飾り立てた腰帯から取り出し突きだしてくる。腰だめに両手で構えた、体重を乗せた刺突だった。唐突な出来ごとに、全員が瞠目する。


「にいちゃんっ!!」


 小雪路が叫ぶと同時、二人の影が交叉した。


 だが崩れ落ちたのは、娼枝のほうだった。


 胸へ繰り出された突きを靖周は半歩斜め前に出てかわし、右腋の下へ腕で挟みこんでから反撃の左肘を鳩尾に叩き込んでいた。胸骨がみしりと音を立て、体にしなだれかかって崩れる彼女をゆっくり地面に下ろしてから、靖周は怪訝な顔で小出刃を取り上げた。駆け寄った小雪路はぱたぱたと彼の体を触って、首っ玉にかじりつく。


「無事なん?」


「はは。いくら女で顔見知りで油断してたって、素人の突きなんざ寝てても避けられるよ……しっかし、なンだこりゃあ。最近通わなくなったからって、刺しにくるかよフツー」


「いやさすがにそれが理由ではないでしょう」


「んー、だよなぁ……でも俺、こんなに恨み買ってる覚えも、ねぇんだけどなぁ」


 言って、靖周は腰より短刀を抜いた。わずか遅れて井澄も気配を察し、両手首から先を活かした。小雪路も、靖周に抱きついたままではあるが、とっくに摩纏廊の術式は起動させている。


 見回すまでもなく、三人は群衆に囲まれていた。それぞれが手に手に得物を持ち、苦々しげな表情で井澄たちへ向けている。顔ぶれや服装から察するに、黄土の娼枝や、緑風の技術者だ。ここらの避難所におもむいていた非戦闘員の面々だろう。


「あー、うん。いくら素人の集まりっても、この数は……、捌ききれねぇな」


「ど真ん中だけ蹴散らして突破しやん」


「そりゃできなかねぇが、符札は無駄撃ちできん。こっから仕立屋追ってどう戦闘が起こるか知れねぇんだ、いざってときに弾切れは避けたい」


「と言いますと」


「ま、こうするわな――」


 靖周が目配せして、井澄は従った。群衆が殺到する前に、三船兄妹へ身を寄せる。その間に小雪路と靖周は互いに片手を離して肩を組む姿勢となって、足下へ符札を振り下ろしていた。記された術式が織り込み済みの魔力をたらふく飲みこみ、これを圧縮された空気の塊へと変じて吐き出す。


「――〝空傘〟!」


 地面を叩く暴風に、二人の体が上空へ撃ちだされた。群衆はどよめいたが、しかしまだ攻撃対象は残っている。風の加護を受けられなかった井澄へと、残る人々は各々の得物を向け迫り来た。


 可能な限り振りかざされる殺気の切っ先を引きつけ、ながら、井澄は右腕を軽く振り上げる。するとカフス釦を錘として糸が真上に伸び、すでに上空へ逃げ去った靖周の脚に、しゅるりと巻きついた。


「おい斬るなよ」


「加減してます」


 靖周とぼやきあう短い暇のあと。伸びきった糸は張力の限界を試すこの機、主の重さに対して勝利を納めた。風で舞い飛ぶ靖周らに引っ張られ、井澄も空中を突きぬいていく。


 そして手近な建物の二階と同じ高さに達したところで、左手の糸を振るって三階テラスの柵へ巻きつけた。右手の糸を緩め、左手の糸にぶら下がるかたちで二階のテラスへ降りた。振りかえると得物の行き先を失った群衆はぽかんとしており、うち数名がはやくもこの建物の内部へ侵入しようと走り出すところだった。上から、指示が飛ぶ。


「上がってこい井澄! 屋根伝いに行くぜ」


「こういう戦地ではあまり高いところに姿を晒すと狙撃が怖いのですが……まあやむを得ませんか」


 三階のテラスに着地した靖周たちは、井澄が柵に身を乗り出して上を目指し始めるのを尻目に四階へ到達していた。井澄も外壁の突起や配管を頼りによじのぼり、地上から遠く離れゆく。指先の力が術式で強化されている井澄にとっては容易いことだ。


 四階から屋根にあがると、靖周と小雪路はさっさと次の建物へと跳躍しようとしていた。彼らほど身軽さや機動力のない井澄は閉口しながらあとに続き、隣に位置する三階建てのホテル屋上へ着地する。横長なホテルの上を駆けながら、井澄は周囲の高い建物などから銃の目が向いていないか気を配った。


 遠く、水平線と共に戦艦が見えているが、砲撃は減りつつあった。居留地にも届いていたあの砲撃の意図がなんだったのかはわからない。だがあの砲火によって、居留地での赤火青水の戦闘にもいくらか影響が出たことは予想された。先ほどからの静けさは、両者が降り注ぐ砲弾によって戦闘どころでなくなったためかもしれない。


「なんにせよ、走り回るならこの機」


 益体もない想像はほどほどに。ただ在る現実を在るがまま受け止め、現状への対処に思考を用いる。はやくこの群衆を振りきり、また八千草と湊波を捜索せねば。再び迫る屋上の端へ踏み切り、井澄は通りを眼下に見下ろし身を躍らせた。


 一瞬の浮遊感、腹の奥底から重力につかまれ、爪先より引かれていく。先行く靖周と小雪路が足をつけていたのはメゾネットの屋根だ。一階分の落下の衝撃を膝の屈伸で殺しきった井澄は、傾く屋根を駆けてさらに舞う。


「っとと、」


 が、なぜか二人が行き先である松の木の枝へ留まっていたので、着地場所に窮する。仕方なく井澄は糸を枝に巻いて、振り子のごとく身を揺らす。


 松の木があるのは、漆喰の塀で周囲から隔絶された屋敷の庭内だ。二度ほど揺れて動きを御した井澄は塀に降りると、上に居る二人に向けて問いを飛ばした。


「なぜ止まっているんです?」


「……なんか聞こえるんよ。得物打ち下ろしとるような、かたい音」


「もう追いつかれてるとは、あんま思いたくねぇが」


 跳んできた建物とこの塀の間にある通りを見やるが、まだ人影はない。二人も塀の上に降り、上をつたって音のする方へ動く。なにか嫌な予感がしていたが、けれど井澄はそれを言葉にすることかなわぬまま彼らと共に走った。


「だいたいなんだ、あの群衆はよ。俺たちなんかしたか?」


「わかりません。ただ、彼らの顔つきは兇暴性などとは縁遠かったですね」


 理由のわからない存在というのは、それだけでわずかながら恐怖を抱かせる。さしもの井澄たちも、あのような群衆に囲まれるのは慮外の経験だった。


「ですが、考えても仕方ないでしょう。小雪路、仕立屋はまだ追えますか?」


「ううん。場所がずれたのもあって、だいぶ気配薄くなってきとる……けど、なんだろ。なんか近くに、覚えのある感じするん」


「覚えのある……?」


 言いながら靖周が目を走らせ、あ、とつぶやいたので井澄も彼の顔向く方を睨んだ。


 黒煙が、上がっている。すわ火事か、と思ったが、ちがう。煙は高く伸びることもなく、一定の領域を取り巻くように漂っているのだ。塀の先、門扉のあたりにそれはある。


 留まり漂う黒煙。まさか、と思い井澄たちは塀沿いに門扉の前に向かった。すると眼下の通りを、何匹もの鼠が通り過ぎていく。


「う、わっ! こいつ、仕立屋の!」


「屋敷の方に降りるべきですか」


「待って、屋敷ん中も走っとる!」


 ずらりと居並ぶ鼠たちは、しかし井澄たちにまだ気づいていないのか三々五々に散っていく。


 ここにきて追いついたはいいが、群れ成さずばらばらになっているのはどういうことか。わけがわからぬままとりあえず走った井澄たちは、やがて、門扉の上に至った。


 黒煙が色濃く、辺りを満たしている。中をのぞきこむと――


「山井!」


 叫んだ靖周に目を上げて、彼女は振るっていた杖をわずかに止めた。


 片足には血のにじむ手ぬぐいを巻いており、地面にしゃがみこんだままで得物をつかんでいる。全身いたるところから出血が見られ、長い間あの鼠と消耗戦を繰り広げていたことをうかがわせる。息も荒い状態で、彼女は井澄たちに呆れ声をかけた。


「なに、こんなとこ、来てんの……ばか」


「兄ちゃん」


「わぁってる!」


 すぐさま靖周が突風で鼠を薙ぎ払い、一瞬の空白ができた隙に小雪路が飛び降り、山井を抱え上げて塀の上に戻る。すると鼠は山井を狙い、こちらめがけて塀をよじのぼりはじめた。数成して襲い来る群れというのは、どうにもぞっとさせられた。


「逃げろ逃げろっ!」


 やむなく塀より跳び、平屋の屋敷の屋根を駆けのぼる。周囲を見渡せば四方の塀を越え鼠が井澄たちを狙っており、厄介なことこの上ない。舌うちしながら、靖周は符札を握りしめていた。


「もっかい空傘で逃げるか……」


「でも、この辺に高い建物って他にないんよ」


「まったく、八方塞が――」


 言い終わる前に、井澄の体ががくんと落ち込む。なにが、と思って足下を見た時には遅かった。砕けた屋根瓦を突きぬけ、二歩目が空をかいている。


 屋根を突きぬいた井澄は落下し、瓦の破片を交えて床に向かう。とっさに糸を梁へ巻きつけて減速したが、ぐっと臓腑にまたがる重たさは逃れ得ない。少々気分を悪くしながら、糸を解いた井澄は室内に降り立った。


「い、井澄ん! だいじょぶ?!」


「ええ、なんとか……しかしまあ」


 正面に立っていたのは、見覚えのない巨漢だった。文字通りに仰天の様を見せており、表情にも怯えがある。


 そしてその奥、こちらは覚えのある女性が一人。


「……あなた、アンテイクの」


「その節はどうも。こんなところでお目にかかるとは、奇遇ですね」


 黄土四権候・月見里さと。数ヵ月ぶりの対面を、戦地の中で果たすことと相成った。


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