83:再会という名の再起。
はじめて井澄と出会った日のことは、覚えている。
ある日、記憶のないまま白い部屋の中で目覚めた八千草は、諸事情によって自分が〝四つ葉〟という島で暮らさざるを得ないと聞かされた。
なにひとつとしてまともに記憶のない自分が落ち着くまでの猶予は与えられたが、それ以上のものはなにひとつとして与えられず。橘八千草という個人は、暴力と金銭と権力で成り立つ場へ放りこまれた。湊波と出会い、三船兄妹と出会い、山井に出会い、そして大路にあずけられた。
来る日も来る日も剣術を磨き――幸いにして八千草は天賦の才があったようで、みるみるうちに剣の腕は上がった――合間を縫ってこの国について、この島について、さまざまなものを学ぶ中で八千草は次第に、「己がなにかしらの罪科がためにこの島へ送られたのだ」と薄々勘付き始めた。
しかし前の自分を、恨むことはなかった。八千草はここ以外を知らない。だから劣悪な環境である四つ葉に前の自分の責任で送られたと言われても、いまいちぴんとこなかったのだ。
ただ、愚かだな、と思った。
なぜなら大路との修行の中で知ったのだが……傷つくとからだというものは痛むし、相手を傷つけても胸の内が痛むのだ。わずか一年にも満たない自意識の中でさえ当たり前のものとして学べたそれを、前の自分は学べなかったのか。そう思い、前の自分を憐れんだ。
だがすぐにそんな気持ちはけし飛ぶこととなる。生き抜くためには、この島で八千草も剣を振るい他者を傷つけねばならなかったのだ。
血風の中で銀の閃光が往来する。刃の息使いが肌を撫でる。ときには傷つけ、傷つき――ときには殺しを強いられて。
どうしても、八千草は命を摘み取ることはできなかった。傷つけることにさえ多大な恐怖と胸の痛みが伴うというのに、これに加えて相手を絶命に追いこんだら、どれほど心に負担がかかるのか。想像さえしえない。
だから卑怯だとは知りつつ、最期の止めだけは他のだれかにいつも任せていた。
靖周は「俺は割り切ってやってる。割り切ってやれ」と言う。
小雪路は「殺しちゃうんは残念だけど仕事だから」と言う。
山井は「生殺与奪はアタシに刃向けるか否かで決める」と言う。
湊波は黙っている。
そして、最後に現れた、彼だけはちがった。
「――はじめまして、沢渡井澄と申します」
目の奥だけは笑っていないように見える彼は、八千草の後輩、部下としてアンテイクにやってきた。おそらくは彼も、他者を傷つけ殺めることでこの島を無二の行き場としたのだろう……そんな推測と同時に、八千草はまた憐れみと不快感が己のうちに巻き起った。
だが彼は、そんな八千草の気などお構いなしで。図々しく馴れ馴れしく、いつも彼女の前に現れては軽薄に笑う。たまに目の奥までしっかりと笑う。書きとり魔で、時折なにを考えているかわからない顔で、周りをいつもうろうろした。
そのくせ仕事ぶりは、かなりよくできている。暗器術と、それを見せ札にすることで秘匿性を増したもうひとつの暗器、さらに奥の手で殺言権の異能。八千草よりよほど状況への対応力にも長けており、極めて優秀だった。
「――このために身に付けた、技ですから」
殺しにも、頓着しない。彼は自ら八千草のぶんまで、手を血に染めていった。
……最初のうちはそのことに感謝があった。自分がやらず済んだことに胸を撫でおろし、彼が割り切って仕事としてこなすのを、後ろから見ているのみだった。ところが徐々に、自分で人を傷つけるときよりも遥かに重たい感覚が、胸のうちに湧きおこるようになった。
だれかに任せ、自らの手を汚さない。その事実への罪悪感が、少しずつ八千草をさいなんでいった。
なのに彼は、その身でもって八千草を守り、戦い続ける。時にはその腕を八千草の前にかざし、身を呈してかばうこともあった。
どうしてそこまで、と思った。なにかと理屈をこねまわして八千草を無理に納得させて、どうしてそんなに守ろうとしてくれるのか。
なぜいつも、いつも。
泣きそうな顔で、笑うのか。
「……泣いてる、じゃないか。お前」
なぜ目が覚めたら眠りについた山井医院ではなく、自宅にいたのか。
部屋の内装がなぜ様変わりしているのか。
髪飾りを腕環にしたものはどうして足下で砕けているのか。
気になる問いはいくつも浮かんだが、なによりも優先して口に出したのは、目の前にへたりこんだ井澄を案ずる言葉だった。動揺をあらわにして狼狽する彼は、かぶりを振って声音を震わす。
「……泣いて、など」
へたな強がりを言って、彼は眼鏡の隙間から落ちる涙を掌でぬぐう。
彼の心は、いま間違いなく揺れ動いている。そう思って、八千草は自身が置かれている状況がさっぱりわからないことへの不安より、なお大きな不安に襲われた。彼はきっといま、なにかに心を痛めている。感じたら、もうじっとしてはいられなかった。
こんな様子の彼は初めて見る。いままでも、遠く物思いにふけっている様は幾度か目にしてきたが、こうも痛ましく、あまつさえ涙まで流していることは一度もなかった。いつも、いつでも、減らず口と軽口がやむことはなく。彼は自分に向き合ってくれていたのに。
自分が知らないところで、やはり彼も傷ついていたのだ。自分が、現状を把握できないほど記憶をなくしている間に。彼は傷ついたのだ。
また、守られたのではないか。
「井澄」
「はい」
「お前、いま。……辛いのかい?」
自然とそんな言葉が出てきた。もし彼が辛いのなら、自分ごときでは代わりに背負うことができないとしても、せめて分かち合いたかった。
共に暮らす気やすさ、近さに甘んじて、八千草は彼に大切なことを伝えそこなった気がしていた。いまここでそれを正しておかなければ、ずっとそのままであるような気もした。じっと見つめると、彼は涙を掌でぬぐいながら、八千草の前で肩を震わせている。背丈も大きく、いつも自分を守ってくれていた広い背持つ体が、いまはとても小さく見えた。
だから正直な己の気持ちを、包み隠さず彼に伝えた。
「辛かったら、言ってほしい。ぼくでは、お前の支えになれないのかもしれないけど。それでも黙って辛そうな顔は、見ていたくない」
「……いえ。大丈夫、です。辛いわけでは……、ないのです」
「じゃあどうして」
「あなたと、もう一度こうして相まみえた……今度こそ、守る機会を得られた。そのことが、ありがたいと、思っているのです」
「ぼくを、守る」
「ええ。……あなたが眠っている間に、もう一人のあなたと色々話をしました」
どきりとする言葉に、知らず八千草は居ずまいを正した。
もう一人の、自分。ここふた月ほどの間に幾度かあった、意識をなくしている間の自分。井澄はそれと、会ったのだという。胸の内からあたたかみがごっそりと抜き取られたような、おぞましい感覚が八千草の息を止めさせた。
失った、のだ。ただでさえ少ない、八千草としての記憶を。身の内に覚えたのは、途方もない喪失感だ。空っぽに近づく感覚が、胸を満たしていた。不確かな自分の存在が、また行き場を失いさまようような心地だった。
「……やっぱりぼくは、また。意識を失って、その間の記憶も失ったのか」
「最後に八千草が意識を保っていたのは」
「山井さんのところで眠りについて、それきり……であるね」
「ですか。そこから、だいぶ経ちました。島の中で情勢も変化し、我々緑風の置かれる立場なども揺れ動いているのですが……それよりも、重要なことがあります。私が話した、もう一人のあなたについて」
「もう一人、の」
「そうです。それは……この島に来る前の記憶を持った、あなたです」
前の、自分。
井澄は遠く見据えるようにして、彼女について語ろうとする。同時に、なぜか懐より、いつも持ち歩いていたひどくくたびれた手帖を、取り出した。深く息を吸って、彼は八千草の目をまっすぐに見据えた。
「彼女にあなたを、託されました。今後を生き抜けるようにと、私は守ることを誓いました。もっとも単純に言えば、純粋に、私がそうしたいと思っただけなのですが……過程としては色々に事情が絡み合ってのことです」
「事情って、ぼくが意識をなくしている間に、一体なにがあったんだい……」
こわごわ問うと、針先でつつかれたようなわずかな逡巡が感じられた。だが井澄は目を逸らすことはなく、八千草へ説明をはじめた。手を伸ばせば触れられる距離で、けれど普段の彼より半歩、遠いところで。
「少し、長い話になります。ある男とある女の……私ではないある男と、あなたではないある女の、話です。しかし、私という人間と、あなたという人間に、深く関わりのある話です」
お時間をいただけますか、と井澄は言い。
薄暗い部屋の中、八千草はうなずいた。
――それは、本当に、長い話だった。
彼の中に残る記憶をかき集めた手帖は、長くながく人生の物語を綴っていた。島抜けのことであるとか、湊波の正体であるとか、気にするべき点はいくつもあったが。やはり、一番に気にかかったのは、亘理井澄の半生と橘八千草という前の自分の存在だ。
亘理井澄の苦労は、話として聞くだけでも心折れてしまいそうに思えたし、実際に折れていてもだれも彼を咎めはしなかったろう。だがそれでも彼は、ここまで進んできた。八千草を――前の八千草、八千という彼女を守らんがため、一人の他人として八千草の前にやってきた。
どこかで擦り切れて、沢渡井澄となってからも。彼は、守り続けてくれた。
なぜいつも、いつも。
……口から出そうになったその問いを、八千草はぐっと飲みこんだ。行動こそがすべてだ。言葉よりも雄弁に、彼はその背でいままで語ってくれていた。『仕事であるから』『上司と部下であるから』――そんないくつもの、空虚な建前があったけれど。それだけではないのだろうと、八千草はやっと想い至った。いや、そうであってほしいと、想ったのだ。
「ずっと、お前が傍にいてくれたのだね」
「私では、ありませんよ。本土に暮らした時のあなたといたのは……それに島にきたばかりの頃の私も、」
「いいや。だとしてもぼくにとって傍にいてくれた人は、お前だよ」
亘理井澄というだれかが発端であれ、八千草はいま目の前にいる井澄を、自分が接してきた彼を信じる。
そこにいる彼が、無二の存在だと確信する。
「人間なんて、だれでも刻一刻と変化してる。変わらない者なんて、どこにもいない。その意味では、今後も記憶が失われる変化があったとて、お前もふつうの人となんら変わりないさ」
「……私は、私でいてもいいのでしょうか」
「だれかをだれかと認めるのは、たぶん当人以上に周りの人なのだよ。だからぼくは、お前のことを沢渡井澄だと、だれよりも強くそう認める」
だれよりも強く八千草を思い、行動してくれていた彼だから。自然とそんな言葉が口をついて出た。
「たとえお前が忘れても――こんどはぼくが、覚えている」
彼と亘理井澄が八千草と八千を守り続けてくれた。擦り切れてゆく記憶に耐えて、思いを形と遺していった。八千草がいまここにいること、八千が満足して消えていったこと、すべてが彼らの思いの形だ。
だからこんどは、八千草が守ろう。記憶を継いで、彼と共に在ろう。彼がいままで心を砕いてくれたことに、同じ行為で以て返そう。……好意で以て、返そう。
八千草はあまり表情をつくるのが得意でない。不機嫌そうにしている、と言われることがままある。だがいまは、自然と、笑顔をつくることができた。いやつくる必要などなかった。彼こそが、自分がもっとも感情を向けたい、そして感情を向けても許される存在なのだから。
自分が感じている、彼といる一秒一秒への重みを、彼も同じように感じていてほしいと、そんな風に願いながら言う。
「いまそこにいるお前が、だれより大事だよ」
言葉を聞き届けて、井澄は、静かに深くうつむいた。
表情が見えなくなって、とたんに八千草は不安になってしまう。もしや、もしや。自分の言葉は、彼にとって好ましくないものだったのだろうか? たったそれだけの小さな疑心が、たまらない恐怖として自分の中に広がる。
井澄は顔を上げないままに、八千草へ言葉を紡いだ。
「……この島を出ることができたら。そのときはあなたに、お伝えしたいことがあります」
内容を読ませない、そんな一言だった。余計に八千草の不安は募る。
けれど、よかった。なんでもいいのだ。もう八千草は定めている。彼の気持ちがどうであれ、どう動くかは決まっている。
周りに影響され、わずかな歳を経て、自分のなかでの考え方やものの価値は変わった。この島での生活が、彼との暮らしが、いまの八千草を育んでいた。いつだって傍にいてくれて、うつろだった八千草のすべてを認めてくれて。なにをおいても窮地には駆けつけてくれる、彼が。
形なきはずなのに形を見せた彼の気持ちこそが、八千草にとってはなにより尊い。そのためならきっと、なんだってできる気がした。
「うん。そのときはきっと、聞かせてもらうよ」
言いながら、八千草は、膝を突き合わせていた井澄の方へ、もうすこしだけ身を乗り出した。
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そして四つ葉の崩れ去る、もっとも長い一日がはじまった。