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明治蒸気幻想パンク・ノスタルヂア  作者: 留龍隆
終幕 絢乱劫花
82/97

82:意地悪という名の約束。

「そう、きみは井澄いすみなんだね」


 確認するように言って、八千は悲しげに笑んだ。井澄はどう返事をすればいいかわからなくて、うなずくこともできず固まっていた。


 すると彼女は入って、と井澄にうながし、簡素で物の少ない室内へ招き入れようとした。もともと話をしに訪れたのだからありがたい申し出だったのだが、こちらが気構えをしてきたのにそうあっさりと受け入れられてしまうと、それはそれで調子が狂うのだった。まごついているうちに、八千は勘違いしたのか、眉根を寄せてつづけた。


「だから、もうそういうことはしないってば」


 ベッドの上の布団も畳んで片付けた部屋の中、座れる場所は壁際に置かれた小さなソファのみだった。距離が近すぎるのは問題に思われたが、しかし横を向いたまま話せるのは、わずかばかり気が楽になる。彼女に従うまま、井澄は部屋の扉を後ろ手に閉めた。


 ぽすりと軽い体重をのせてソファを軋ませ、八千は上目遣いのうちに無言で呼ぶ。腰を落ち着けると、二人の間には、狭いけれどたしかに空間があいていた。隙間を抜ける風を感じながら、井澄は気持ちを落ちつけようと数瞬の間を要した。


 だが数瞬のつもりだった逡巡は、引き伸ばされて何分もの時を連れ去った。喉の奥につかえて出てこない言葉たちは、井澄がいくら意志で押し出そうとしても、出てきてはくれない。


「島を出るための話し合いに、きたのかな」


「……ええ」


 気まずくて切り出せないでいたところ、八千から話題を振ってくれた。情けない、と自己嫌悪に陥りながらもほっとしていると、彼女は感情の無い声でつぶやく。


「きっと――いまみたいに。きみから話せずに消えていった言葉が、たくさんあったんだね」


 感情はない。けれど、批判の色めいたものが感じられる一言だった。井澄の心の臓を抉り抜く言葉は、彼女がこの数日にわたってずっと悩み恨みつづけてきた結果なのだろう。


 切り出せないままここまで来た。来てしまった。記憶を失うという代償を――告白せずに彼女と接し続けた。そうすることでこそ彼女をより深く傷つけると知りながら、現状を壊してしまうと怯えて無言を貫き通した。


 つけが回ってきたのだ。彼女の断罪に、その痛みに。井澄は耐えねばならない。


「……そうです。もはや、謝ろうにも。私はなにに謝ればいいかすら、思い出せない」


「ひどい話だよね」


「……はい」


「ひどいよ」


「…………、」


 返す言葉もないとはこのことだ。井澄はきっと、言葉を殺すこの力によって、己の言葉すら殺し、自らの内から消していったのだ。


 本来放てば二度と取り返せないはずのものに干渉した報い。言葉とは人とひととの関わり、社会における根幹を成すひとつであり、ゆえに触れてはならない領域だったのかもしれない。


「ねえ」


「はい」


「僕ときみの――いや、亘理井澄わたりせいととの間には、いくつもの思い出があった」


「存じております」


「覚えてないくせに」


 黙り込んで、横目で井澄は八千を見やる。だがこれを予期していたのか、彼女は厳しい目つきで井澄の沈黙と目線とを斬り捨てた。端正な横顔に宿る深い憤りと悲しみは、ともすれば彼女をも破滅に導きかねないほど逼迫した状況に追いたてていた。


「覚えてないよね」


「……はい」


「いくつも、本当にいくつも思い出があった……べつに、それが失われたことに文句を言うわけじゃない。いつか思い出が病によって白く染まることもあるだろうし、ふとしたことで記憶を遠く置いてくることもあると思うよ」


 でも、と区切って、彼女が震えた。膝の上に置かれた手が、ぎゅうと拳を形作る。


「覚悟と納得は、させて、ほしかったな」


「……申し訳ありません」


「謝ってほしくない、責めてるわけじゃないんだよ。ただ、言いたいだけ。愚痴だねこれは」


「愚痴、ですか」


「だれに向けるわけでもない。言うこと自体が目的で、吐き出すだけでなにも生まない。わかってるけどやめられない、これは、愚痴だよ」


 ひとこと一言を重く区切りながら、八千の感情と思いは井澄で抱えきれないほど、部屋の中を満たし尽くしていく。


 こうなると、わかっていたのに。


 抱えること背負うことも許されない状況になると、知っていたのに。


「どうして、言ってくれなかったのかな」


「……こわかったからです。記憶がなくなることを知ったあなたに、受け入れてもらえなくなるのが、」


「きみに訊いてない」


「では、だれに」


「だれに向けるわけでもない。これは僕の、愚痴だから」


 もう、答えることすら、許してはもらえない。


 答えられるのは亘理井澄だけだ。


 しかし井澄はもう、亘理井澄ではない。沢渡井澄となることを選んだのだ。なにもできない。聞き続けることすら、罪科であるのだろう。そう思えてしまった時点で、井澄は自分の心が端々から死に向かうのを感じた。


 目を閉じ、心を閉じ、井澄はただ、耳から入ってくる彼女の言葉に、懺悔した。


「答えないで過ごして、僕を騙して過ごして……よく笑顔でこれたものだよ。僕がどれだけ傷つくか、わかってたはずなのに」


 申し訳ありません。


「だれより近くにいるって言ってくれたのに、記憶をなくしたらだれより遠いってわからなかったの」


 すみません。


「僕を撃った奴のことも――忘れてたね」


 ごめんなさい。


「そのくせずっと、僕がもう一度戻ってくるようにって、この島まで追いかけてこの体を守ってさ。でもそれってぜんぶ、きみの自己満足だよね」


 ごめんなさい。


「だって戻ってきたところで、肝心のきみは擦り切れてどこにもいなかったじゃない」


 ごめんなさい。


「よく似た顔の、部分的にきみを真似てるだけのひとが、そこにいただけじゃない」


 ごめんなさい。


「僕を守りたかったのか傷つけたかったのか、もうわからないよ」


 ごめんなさい。


「いっそ殺言権で、きみのすべての言葉を、殺していってほしかった」


 ごめんなさい。


「きみは井澄いすみだ、井澄せいとじゃない……」


 ごめんなさい。


「……沢渡井澄さわたりいすみだ。わかってるけどきみも憎い」


 ごめんなさい。


「憎い」


 ごめんなさい。


「辛い」


 ごめんなさい。


「憎い」


 ごめんなさい。


「でも、だれより……きみをそうまでさせてしまった、自分が、憎い」


 …………、


「小雪路って子に、色々きいた。この島に来てからどういうことがあったか。そしてその都度、きみが、この体を――いや、橘八千草たちばなやちぐさを、どれだけ必死に守ろうとしてきたか」


 …………、


「時にその身を盾にしてでも、きみが彼女を守ってきたことを知った。彼女の代わりに幾度も手を血に染めてきたことも知った」


 …………、


「その思いの根底が僕へのものだとして、どこから橘八千草という別人(、、)へと対象が移り変わったのか。それはたぶん、きみが亘理井澄から沢渡井澄になったことと無関係ではないだろうし、この変化と同様に『どこから』と区分を設けることはできないんだろうね」


 …………、


「いずれにせよわかってることはひとつ。……亘理井澄は、もう、いない」


 …………、


「亘理井澄は、もう、死んだ」


 …………、


「……しんだ……死んじゃった……」


 …………、


「僕が……だいすき、だった……愛してた……彼は、もう……」


 …………、


「死んじゃったん、だよ……ばか、ばかだ、あいつ……あの、大馬鹿やろう……」


 ……井澄は目を開く。


 潤む視界は、亘理井澄を演じていたためのものだ。沢渡井澄のものではない。もうこれ以上、涙の一滴さえ、亘理井澄からかすめ取ってはならない。


 亘理井澄の行いは、言うなれば緩やかな自殺だった。彼という個人の意識は、沢渡井澄の幇助によって緩やかに削り取られていき、やがて消滅した。周囲に対してあまりにむごく、そして愚かな行いだった。けれど井澄は彼を――おそらくは八千よりもよく知るから、責めることはできなかった。


 過去が失われいましか無いから。村上、レインという繋がりも失って現状以外の人間関係をもたず、またいま持つ過去すら少しずつ掌をこぼれていくから。現状にて大きく繋がりを失う可能性をもたらす行動は、なにひとつとして耐えられなかったのだ。


 井澄も、そうだった。これ以上失いたくないから、八千を取り戻すまで必要以上の付き合いや愛着は周囲に抱かないようにと、そう思っていた。


 だが無理だった。橘八千草は、彼女との日々は、失われる八千との日々を埋めていった。彼女の仕草ひとつひとつが、彼女とのやりとりひとつひとつが、亘理井澄を押しのけて沢渡井澄を形作っていった。


 どこからが自分なのかすら曖昧な沢渡井澄という存在は、しかしいま確かに、自分の中に認められるようになってしまった。姿かたちはまったく同一の八千と八千草を別人として分けて考えるように、ごく自然に、当たり前のこととして。


 井澄は亘理井澄を過去の別人として、沢渡井澄をいま歩もうとしている。


「……でも、やっぱり僕も、大馬鹿だ……」


 涙声でつぶやく八千は、いっそう強く拳を握って、肩を大きく震わせた。


「……だってきみは、亘理井澄の記憶をほんの少し見聞きしてるだけなのに……僕がめざめたとき、すぐに僕だって、気づいてくれたね」


 赤火の船舶での、出来事だろう。


 本当に直感で理解したあのときの自分は、まだ亘理井澄だったのだろうか。


「でも僕は……きみに打ち明けられるまで、亘理井澄がもういないって――気づけなかったんだよ……!」


 なによりも悔しそうに、彼女は言った。


 だが八千と八千草のようにわかりやすい記憶の差異があるわけでもなく、同じ姿かたちで演じていたのだ。わからなくても当然だ、自分自身ですらどこから自分なのか曖昧なのだから――そんな言葉が頭をよぎるが、慰めにはならないのだろう。


 事実や論理を飛び越えて、実感はひとを支配する。逃れられないし抗えない。合理的思考では辿りつけないものが、たしかにそこにある。そこに準じて、八千は己を許せない。


 人を好きになるとは――そういうことだ。井澄は、やっと、そう感じた。


「……はい」


 やっと、井澄は口を開いた。


「亘理井澄はもう、いません。私は、どこから私なのかわかりませんが……胸にある実感と気持ちに沿って、少なくともいま、ここにいる私を、沢渡井澄であると思います。そして沢渡井澄はあなたではなく、この島で共に暮らした橘八千草が好きなのだと――そう思います」


 謝ることもなく、述べた。自分は自分なのだと。そして自分は、八千草のことが、好きなのだと。


 八千は声にならない声を腕で押さえて殺しながら、長く、長い時間を泣いて過ごした。


 井澄の涙は、先の一滴で止まった。亘理井澄が、持っていったのだろうと思った。


 やがて彼女が泣きやんだ頃、室内に満ちていた憤りと悲しみも、どこかへと消えていた。


「……ねえ」


「はい」


「さっき、亘理井澄のすべての言葉を殺してほしかった、って言ったけど。やっぱり、殺さないで」


「わかりました」


「……うん。きみは、きみの思う自分自身と気持ち、言葉を、大事にしてあげて。あの馬鹿みたいに、周りを疑って消えたりしないで」


「……はい」


 うつむく井澄の横で、八千はゆっくり立ち上がった。真っ赤に泣き腫らした眼でこちらを見下ろして、懸命に快活な笑みを浮かべようとしていた。


「立って。最後に、お願い」


 黙って立ち上がると、彼女は井澄を見上げながら、また泣きそうな顔をした。


「最後に、亘理井澄の代役、お願い。……言えなかったこと、言っておきたいの」


 うなずきを返すと、八千はありがとう、と小声で言った。亘理井澄に向けたものか、沢渡井澄に向けたものかは、判然としなかった。


 そしてちいさく胸を上下させて、息を深く吸い込む。そのとき、胸にあてた手首に輝いていた、かつて髪飾りだった腕環を見て――すっと手から外すと、井澄に渡した。安物の、ずっとむかしに亘理井澄が八千に送った品だった。


 まばたきのたびに涙をこぼしながら、けれどつっかえることはなく。彼女は最後の言葉を、つぶやきはじめた。


「ぼろぼろになって、僕にまた会おうとして。ばかだよ、本当にばかだ」


 井澄の胸を叩き、口の端を歪めて苦笑いを浮かべようとしている。


「挙句の果てに、僕がまた表に出てこれるようになっても、お前がいないなんて。本末転倒だよ」


 だが笑えない。二度と会えない事実は、彼女の胸に自分が死んだとき以上の傷をつけた。


「残る僕の気持ち、お前はよくわかってたはずなのに……傷だらけになって、記憶も擦り切れて、消えちゃって」


 それでも。亘理井澄はきっとなにかを、残したかったのだ。


「ばかだよ。いつまでも、いつまでも恨み続けてやる。いつまでも想い続けてやる。亘理井澄――さよなら、僕の唯一愛した、僕を唯一愛してくれたひと」


 別れのわずかな、ひととき。


 すべてを言い終えた八千は、力ない笑みを浮かべて。井澄の胸にからだを預けると、しばしじっとした後で、ぼそりと言った。


「後悔しないようにしてね」


「は……?」


「そういうのは、僕とあいつだけで十分」


 すいと視線をあげて。


 彼女は幽かな微笑みの中に、破滅のような色を混ぜた。


「僕は、消えるね……べつに、あとを追うわけじゃないよ。もともと僕は死人だった、それだけのこと」


「ちょっと、待っ」


「待たない。ありがと、沢渡井澄。今日までがんばってくれて」


「でもあなたが消えたらっ、亘理井澄のやったことは、」


「十二分に意味があった。僕はあいつの思いを、きみを通じて知ることができた。恨みもあるけど、満足なの。だから――このからだ、あの子にあげるよ」


 言葉に、井澄が固まる。


 それは……八千草に、からだを譲り渡すということか。できるのか、それが。戸惑っている間に距離をあけて、一歩ひいた八千は腰のところで手を組んだ姿勢ではにかんだような笑みを見せた。最後の最後で、笑顔を多く、見せていった。


「でも、最後に意地悪ひとつだけ。八千草に事情を伝えるのはいいけど……思いを伝えるのは、島を出てからにしてね。守りきって、この戦の場からあの子を逃がして。そこまでやれてようやく、僕の亘理井澄おとこと並べるから。それまで引き続き、がんばって」


「八千――」


「名前で呼ぶのは、馴れ馴れしいよ? ……というのは冗談で、まあ、きみになら、呼ばれてもいいかな……」


 八千の目が、虚ろに揺らめく。後ろ手を組んだ姿勢で、足下がふらつく。笑顔が少しずつちいさくなっていき、彼女が遠くなっていく。


「――ありがと、沢渡井澄。たぶんきみのこと、あいつの次に、好き」


 言い終えて、倒れ込んだ彼女を抱え込む。


 だらりと弛緩したからだはゆっくりと井澄に体重をかけ、端から抜けていく力が、いやでも別離の瞬間を感じさせた。かつんと、腕環が指を滑り落ち、床に砕けて広がった。


 涙は、もちろんなかった。それでも、どこか辛かった。


 崩れ落ちて二人して床に転がり、数瞬して。井澄の胸にのっていた彼女は、ふっと、目を覚ました。


「……井澄いすみ……?」


 いつもの不機嫌さで。さも不愉快そうに眉根を寄せて。


 半目でじろりと見据え、起き上がる。密着していたのに気づくと、あわてて距離をとっていぶかしげに自分のからだをあらためていた。そうしているうち、自分がいる状況の不可解さに気づいたか、ちょっとずつ周囲を見回して困惑にそわそわしはじめた。


 その様に、八千草の帰還を感じて。


 涙は――こらえられなかった。


「え? 井澄、なんだい、急に、どうしたの……」


「い、え。なんでも、ないんです……ただ、私は……私は」


 ずっと、見つめてきた。橘八千草という人間を。ここしばらく彼女と会えなかった時間は、あまりにも長く感じられた。


 だれよりも彼女を想っている。その自負と共に、沢渡井澄は沢渡井澄で在らんとする。


 思いを決意に変えて。八千の最後の〝意地悪〟を、井澄は〝約束〟として守ることにした。


「あなたを、守り通します。今度こそ」



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