80:拒絶という名の再起。
己の両腕を押しとどめた井澄を見て、八千は戸惑いを覚えた顔をした。
「……井澄?」
「……すみません」
力が抜けたのを見計らい、彼女のからだをやんわりと押し返すと、井澄は一歩離れた。そのまま自室に入り、扉を閉める。
扉の向こうのうろたえた八千の息使いが、近いはずなのに遠く感じられる。
遠い。遠い。彼女が遠い。彼女の求める『亘理井澄』もまた――果てしなく、遠い。
井澄はこれまで、残りかすのような記憶がつづる手帖を、穴が空くほど見つめて暮らしてきた。重要な記憶、大事な事柄、特にそれらをまとめ記した一冊は、擦り切れて読めなくなれば書きうつして、もう五冊目にもなる。
だがそのどこにも、記されていなかった。先ほど八千が示唆したように……亘理井澄と橘八千草の間に、からだの交わりがあったのだということは。
「……そんな……そんなことまで、私はもう……忘れて……」
自分の頭を抱えて、扉に背を押しつけたままずり落ちる。
互いが互いを捧げたはずの、尊い記憶。これまで失われてきた、沢渡井澄に奪われ続けてきた亘理井澄の、最期の意趣返しだろうか。それとも、解放なのだろうか。
もう亘理井澄を演じることはできないし、しなくていい。そう言われたような気がしていた。
これ以上踏み込まなくていいし、踏み込んではならない。制止をかけられた気がしていた。
「……井澄」
震えた声が、井澄を現実に引き戻す。喉の奥から嗚咽がこぼれそうになるのを押さえながら、井澄は顔を上げる。
「……はい」
「ごめん、ね。急に、こんなこと、して」
ちがう。むしろ、遅すぎたのだ。
もはや亘理井澄の残滓を感じとることもできない井澄だが、推測はできる。亘理井澄は――そして亘理井澄から記憶を引き継ぎ、徐々に変貌していった沢渡井澄という存在は――八千に己の記憶の喪失を知られて、彼女が離れていってしまう可能性をこそ、忌避したのだ。
だから遅くなった。ここまで致命的な事態に陥るまで、真実を伝えることが遅れた。井澄という人間の過ちは、言語魔術の代償として記憶が奪われる事実を知ってすぐ、八千に伝えようとしなかったことだ。
彼女を心底から信じ切れていなかった。ひとりとひとり、互いに孤独を埋めあう関係性に依拠してはじまったがために。記憶が失われいずれ共有できなくなるはずの自分という存在が、彼女に受け入れられない可能性。それが、こわかったのだ。
愚か者め、と井澄は自分を呪う。その及び腰になった弱さこそが、いま八千を深く深く傷つけようとしているのだ。彼女を悲しげな声で泣かせているのだ。
「ごめんな、さい。……もう、そういうことはしないから。だからせめて、いつもみたく。一緒に寝るだけは、いいかな……」
もう、彼女を彼女として認められる者が、この世のどこにもいないことを告げねばならないのだから。
残酷で、あまりに辛くて。こんな役割を押しつけていった亘理井澄を恨むばかりだが……八千と八千草を別人と考えることはよくても、亘理井澄と沢渡井澄を分けて考えるのは、逃げだ。
井澄なのだ。彼女をよろこばせ、彼女と共にあり、そしていま悲しませようとしているのはすべて井澄なのだ。そこから逃げてはならない。
沢渡井澄をはじめるためには、亘理井澄を終わらせなくてはならない。
これまでそれができなかったから、ここまで来てしまった。いまなら靖周に言われたことを認められた。井澄はあの日、銃撃によって八千を失った日から今日まで――彼女を理由にして、世界に復讐しようとしていたのだ。彼女のためでなく、利己的に動いていた。
なんとおぞましいことか。
「……八千」
だから、これで最後にする。過ちによって釦をかけ違えたまま進んできてしまったのなら、
「なに」
「……私こそ、謝らねばなりません」
すべてを外さなくてはならない。
「これまであなたを、騙ってきたことを」
#
「まあ、以上がおおまかなこの国の行く末だ。先日亘理井澄にも話したことだがね」
感慨もなさげに語り終えた往涯の前で、レインは驚愕に色を失う。
きたる大国との戦乱。そのための準備としてこの島が作られた、そこまでは理解していたものの。まさかこの島で起こるすべて、そしてそこに井澄と橘八千草が絡む末路までもが、この男の予想の範疇であったとは。
「……国の大事がためとはいえ、いったい貴様はどれほどの民を手にかけた」
「間接的な被害者まで含めればいくらになるかわからんな、。戦乱が明けたあとに知れれば、民衆に吊るしあげを食らうことになる程度には殺したろうが」
べつにそうなることを毛ほども恐れぬ様子で、往涯はあごを撫でる。本当に、自分というものが存在していない。現象としてそこに巻き起こるだけの、周囲の力を試す者。
「お前の無軌道な力に、どれほどの人間を巻きこんだ」
「さてな、それもわからん。だが俺がここにこうして生まれ落ちてしまった以上、起こることだけは必然だ。社会というものを作り上げたときに、人は自らが代謝によって切り捨てられる可能性持つ存在と堕することをも飲みこんだのだよ。俺はそれを理解して生まれただけだ」
ひとつの生物として社会を捉えるならば、人間はそれを構成するひとつの細胞に過ぎない。肌の細胞であれば内臓を守るために傷つき剥がれ落ちることもあるだろうし、身の中枢に位置したところでいずれは代謝で入れ換わることが決定づけられている。
予言。未来視。それによって大局見据えることしかできないこの男は、人を個人として見なすことができていない。大軍ぶつかりあう戦場で、兵士の死を軍師がいちいち悼むことがないように。
「お前は……なぜそれを、わたしへ話しに現れた」
「本土で村上君と話している最中にお前の名が出てね。ひょっとすると橘八千草を殺害されているかもしれないと思って、島へ様子を見に来たそのついでだ」
だが、ひょっとすると、という言葉を耳にして、レインの顔色が変わる。
そうか、と思い当たることがあったのだ。まだ統合協会の人間の中では、レイン以外にその能力の詳細が知らされていないはずの村上の言語魔術〝思考錯誤〟。その発動があれば、ひょっとするとなどという曖昧な理由で往涯がこの島にきたのもうなずける。
「あと、近く俺は亘理井澄と橘八千草をあずかりに来る。止めたければその機会をものにするがいい、と発破をかけにな」
「あいつらの生殺与奪を己が握っている、と宣言したくせにか?」
「それはひとまずお前に話を聞いてもらうための方便さ。たしかに命を握ってはいるが。貴重な戦力をわざわざ殺すつもりはない。無論殺す気がないのはお前も含めてだよ、梟首機関所属の魔狩り随一の使い手、レイン・エンフィールド」
「それでも、村上ほどではない」
「そうか。まあ意志を研いでおくがいい。さまざまな強き意志のぶつかりあいこそが人間という種を磨き上げ、繁栄させる! 俺は生まれもったときからその意志に従いここまで生きてきた。他者を蹴落とし競い合い、統合協会次席まできた」
「…………、」
「競い合うべきは極大と極小という概念だ。俺は大局を、お前らは局部を。それぞれ見据え守り合い互い高め合っていこうではないか。そうすることで全体が生かされるのだよ」
「勝手をぬかすなッ!!」
ピイスメイカーが唸りをあげる。だがはらりと一枚の符札が落ちたあとには、往涯の姿は雲散霧消していた。ただどこか霧の向こうから届くように、往涯の声が響いていた。
『……次にまみえる時は、おそらく互いに総力戦となるだろう。銃撃の腕も、もう少し研ぎ澄ましておくことだ――』
そして気配も断絶した。あとに残されたレインはうなだれて、硝煙をあげる銃を、テエブルへ置いた。
「……次にまみえる時まで」
テエブルに手をついて、壁に残る弾痕を見やる。あの日のように――橘八千草を、仕留めなくてはならない。
居ても立ってもいられなくなったレインは、準備もそこそこにガンベルトを腰に巻き、ピイスメイカーとウエブリ・リヴォルヴァを腰に納める。ばさりとウエストコウトを羽織ってこれらを隠すと、狭い部屋の出入り口に迫った。
「っとぉ! な、なんですレイン氏。どっかお出かけで?」
だが扉を開いたところで足が止まった。ちょうど買い出しから戻ってきたところだったらしいレイモンドと、ぶつかるかたちになったのだ。舌打ちして、レインは彼を突き飛ばす。
「足音と気配を消してくるな、馬鹿」
「暗殺者に看板下ろさせるようなこと言いますな。しかしまあ、だいぶ元気になった様子でありがたい限りでございますよ」
「……ふん」
出鼻をくじかれたために、焦りがわずか心中から抜けていった。仕方なしに部屋の中へ戻り、テエブルに買ってきたもの――調理なしですぐに食べられるものが主だ――を並べ始めたレイモンドを見ながら、ベッドに腰掛ける。
「力を取り戻したことは否定しないが、であるからこそすぐに任務を再開に移したかったのだ」
「ああ、それならちょうど報せがきてました」
ひらりとレイモンドが紙袋から取り出したのは、一枚の電信紙だった。なに、と立ち上がってひったくると、村上からの暗号文書だった。
「本土から島には打てないので、わざわざ港の連絡屋を介して送ってくださったようでございますな。読めなかったんで、レイン氏解読をお願いします」
言われずともはじめている。解読用の符牒は、常の村上からの手紙と同じだった。上から下まで眺めていくと、どうやら意図するところが伝わってきた。
思考錯誤という切り札を用いてまで、往涯を本土から遠ざけて。その間に彼も、本土で決戦に備えて準備を進めている様子がうかがえた。
「……っ。時間はあまり無いらしいな」
「レイン氏、我々の今後の動きは」
「どうやら任務は続行らしい」
ただし、条件が付加されていた。
もはや戦争状態に持ちこまれてしまったこの島から、井澄をうまく逃がすこと。これには村上の私情としてではなく、殺言権が往涯の手に落ちれば必ずや世界の脅威となることがあげられていた。
殺言権は、ただ言葉をひとの記憶から消すものである。だがその言葉があったことを、本人すら含めたすべての人類から消し去るのであれば――それはもはや因果に手を加えるに等しいことだ。件の予言はなかったこととなり、歪められた世界への認識は元に戻る。未来の予言は改ざんできるようになるのだ。
そうなれば、往涯は世界のあらゆる物事に介入できる存在となってしまう。おそらくは、社会という概念生物を生かすための世話係として。
「さらにもう一件」
殺害対象が、橘八千草に加えて増えていた。
「戦争によって疲弊したところの四権候を、できる限り減らせ――と」
「あの、化け物集団をですか? 我々で?」
「ほかにだれがいる」
島の戦争が赤火、青水どちらの勝利に終わっても、状況は手に余るものとなる。場合によっては残党が本土へと押し寄せて、きたるべき大戦の前に厄介な駆除作業に手をまわさねばならなくなるかもしれない。
それを事前に防ぐための、殺処理。人々を束ねる才を持つ頭を潰すことで、できる限り群衆を無力化せよとのお達しだった。
「でも赤火は政府と癒着しているはずでは……それは村上氏の独断で?」
「いや、こちらは統合協会自体の判断でもある。大戦に際しての需要で市場が賑わうのが見えているのだ、これ以上商人が政に関わってくると、なにかと厄介だと判じたのだろう。もとの出自も所詮は四つ葉、おそらく最初から切り捨てられる駒だったのだ」
哀れな話ではあったが、同情している余裕はない。こちらも一挙に殺害対象が四名増えてしまったのだ。
「……だがこれで動くべき機も定まった、かな」
「と仰いますと」
「決まっている。我々の行動開始日時は――」
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「――役者が舞台に揃った、このときだ」
宣戦布告から十数日後。弥生の月、某日。
駒と準備を揃えた青水の者どもを前にして、瀬川進之亟は静かに、けれど重く告げた。
青水邸内に集った荒くれたちは野太い声でこれに応じ、三々五々に散っていく。戦の気配に周辺住民は声と窓を閉ざし、ただ嵐が過ぎ去るのを待っている。
もぬけの殻となった邸内に残っていたのは、瀬川と桜桃――まだ胴周りの皮膚を削ぎ落された怪我は回復しきっていない――だけだった。やがて、切創だらけの身にさらしを巻き終えた瀬川は、普段と変わらぬ仕立ての着物と羽織をまとう。脚絆を履いて腰に白鞘の長脇差一振り、菊花を模した打刀を一振り、そして匕首を胸元に入れると、いかめしい顔に鬼の気迫を漂わせてふすまを閉めた。
「行くのか、進ちゃん」
「……手前はどうする」
「まだ傷は癒えてねェがな。泣きごとほざくほど腑抜けちゃいねェサ」
長く結った三つ編みを揺らし、縁側の柱から背を離す。大陸風の衣裳に身を包み、くまのきつい三白眼で瀬川を見つめる。乱杭歯が、にいいと裂けたような笑みを浮かべた。
「前線で暴れて赤火のボケどもの目ェ引いちゃってやるよ。その隙に、頼むゼ」
「頼むのは乃公のほうだ、たわけが」
ばしんと頭をはたいて、縁側から降り立つ。不貞腐れた顔で彼を追って出る桜桃は、先月己が砕いたままとなっている壁の間から、港に向かうべく下り列車の方を目指した。
瀬川は、上りの列車に向く。だが列車に乗ることはなく、線路をひとり悠々と歩きだした。
「己の行く道、てめえの足で歩かんでどうする……」
もちろん、運行するはずの列車は轢くわけにもいかず進めない。……というより、進めなかった。
だれがその背を追い越せよう。だれがその圧に耐えきれよう。
たったひとりきり、青水とこの島の重責を背負った男は、時間をかけて一層までのぼっていった。
 




