75:収束という名の最後の始まり。
四天神同士が激突する瞬間、小雪路の背、両腕、両脚に向けて五枚の符札を貼り付ける。
靖周が見出した桜桃の弱点はひとつ。それは、伝達遅延が可能なのは一瞬のみであること。
でなければ突風に吹かれても、身に受ける圧力を遅延することで一切無視して襲いかかることが可能だったはずだ。あくまで体表に作用したごくわずかな瞬間の力しか遅延できないからこそ、二、三秒ほどではあるが吹き続ける風には対処できなかったのだろう。
ゆえに先ほど、天井を駆けた小雪路からのかかと落としも防ぎきれなかった。靖周が風で後押しすることで、小雪路の蹴り足と桜桃の前腕の接触時間を引き伸ばしたからだ。
しかし同じ手を二度食らうはずはなく。
「う、わ」
右手の甲を突き合わせ、直後に弾き合って乱打戦に持ち込んだはいいが、桜桃の攻めは剣呑にすぎた。足も腕も先刻までより自在にまわり、絡みつくように小雪路の手足を痛めつけていく。また防御も受けと流しが完全に一体化しており、先ほどのように接触時に風で押し込むことはできそうにない。
「ひけ、小雪路!」
靖周の指示で小雪路は体表の摩擦を弱め、滑ることで攻撃圏を脱する。だがほんのわずかな間競り合っただけで呼吸は乱れ、両腕が常よりも低い位置に構えられている。受けた技の威力の高さに、腕を掲げておくことすら辛いのだろう。肘先で、腹部を押さえているようにも見える。
いまだ先日の負傷を抱えていることによる僅かな差が、膨れ上がる高利の負債がごとく身に重さをかけつつある。靖周も、そしておそらくは小雪路も。
「うそみたいに、強い……」
息を荒げた小雪路は、まだ信じられないという風に自分の手を握ったり閉じたりしている。無理もない。傍で見ていた靖周も、自分の目にした光景に理解が追いつかない。
小雪路が手を開閉しているのは、痛みでしびれているためだ。なぜなら桜桃の突きや薙ぎのことごとくを、両手を用いなければ反らすこともできなかったからだ。
それは片手での突きがまるで鐘を突く撞木のごとき重さで、進行を逸らすしかできないということ。下手に摩纏廊による摩擦技など使おうと試みれば、たしかに皮膚を削ぐことはできるだろうが、そのまま胴のどこかを突かれて死に至る。そんな技と競り合ってきたのだ。
「肌が触れた瞬間、動きが読まれとる」
「……戦闘経験値の圧倒的な差、か」
いかに三船兄妹がこの島で生き抜いてきたといっても、桜桃はこの島へ来る以前から己を鍛え上げ、それを今日まで継続して生きてきている。絶望的なまでに経験の差がある。
だが、それは諦める理由にはならない。
「相手の死角をとれ、あとは好機だったら、わかるな」
「りょーかい」
短い指示のあとに二人が別れる。靖周が右、小雪路が左。ゆるりと構える桜桃はこれに応じて、靖周の方へと間合いを歩法で刻む。当然の対処と言える。まずはより弱っている方から片づける。定石だ。
定石だからこそわかっている。出し惜しみせず、靖周は風を用いて仕込み煙管から毒矢を飛ばす。前回でたねが割れている、牽制にすらならない一手だ。これに対する桜桃の出方をうかがい、易々と、けれど最小限の動きでかわされたのを見てとると即座に風を巻き起こして動きを止めようと試みる。
風が放出される機をはかり、桜桃はけっして目を離さない。寸分でも方向が狂い彼女を押さえられなければ、次の一撃が容易く己の命を摘むと感じて頬がひきつる。
やがて、幸いにも狙いを外さなかった突風が桜桃の動きを遮る。この瞬間に手にしていた短刀を投げつけ、喉笛を引き裂こうと刃を風で滑らせる。
「舐めんなッ」
風にわざと流されることで上体を振りまわし、桜桃は投擲による刺突をからくも避ける。だがこれも牽制に過ぎず、本命は背後の小雪路だ。
先ほどかわされた毒矢を指の間にとり、体勢を崩した桜桃に突き立てる。塗布されているのは近海で獲れた河豚の毒だ、わずかでも体内に入れば、まともに動くことはできなくなる。……赤火船舶の時に遭遇した金髪女のように、命中したにもかかわらず平気で動く奴もいたことはあるのだが。あんな人間ばかりではあるまい。
姿勢を崩した桜桃は突きだされる矢に冷たい目を向け、小さく力強く震脚を踏み込むことで体幹を安定させると拳で打ち払う。すくいあげるような打ち方に、小雪路は腕をもがれそうになって慌てて矢を手放す。
ところが矢は、地面に落ちなかった。小雪路の手をはなれたあと、側面が桜桃の左袖に貼り付く。鬱陶しそうに腕を振るって落とそうとするものの、針のように細い矢はどこへもいかなかった。
摩纏廊で、触れた側面の摩擦を強めてあったのだ。仕込みであったことから毒だと推察できているのだろう桜桃は、へたな動きが己に矢の先端を食いこませることになりかねないと判じたらしく、わずかに動作が鈍る。
「うらぁぁあああッ!」
この隙を逃さず靖周は踏みだし、片腕が扱いづらくなった桜桃に斬りかかる。短刀を右順手に構え、撫で斬るように右肘へ突きだしていった。
身をすくめ、桜桃は刀身側面をはたく。つかんで振り回されたのではないかと思うほど重たい払いで、なるほどこれが遅延したぶん上乗せされる力かと実感による納得を覚えた。震える手の内がしびれて、目で見ていなければ短刀を取り落としたかと錯覚しそうだった。
しかし続けざまに繰り出す。左中段回し蹴りを、風で加速させて長い接触時間をもたせるように打ち込む。桜桃は受けずに流しつつ、この間に左袖をつかんで引き裂くことで毒矢を払いのけた。小雪路にも気を配って足刀での鋭い蹴りを打ちこんでおり、どの方向もすべて見えているとしか思えない体捌きで空の隙間を縫って行く。
空転する二人はとうとう桜桃が間合いから抜け出たことで、衝突した。
「いったぁ」
「ぐ……」
挟み撃ちにしたはずが、遊ばれている。すぐに姿勢を正して場を離脱すると、桜桃が双掌を揃えて打ち込んでくるところだった。中段からすりあげるような動きで、まともに食らえば肋骨を砕き臓腑を掻きまぜられる一撃。
すんでのところで、寝転がったままの小雪路が桜桃の手首を蹴りあげた。小柄な靖周の頭上をすぎる形となり、千載一遇の、正中線をガラ空きにした一瞬が生まれる。
左掌底と同時に符札を叩き込み、密着状態からの突風を放つ。伝達遅延を発動させたのかわずかに踏ん張るが、耐えきれずに桜桃は吹き飛んだ――いやちがう。耐えきれないのではなく、またも自ら跳んだのだ。踏ん張りは跳躍のための力を溜める挙動に過ぎない。
自分から動いたことで風に乗りながらも上空へ舞い、桜桃は胸部を中心点として両足を天に振り上げた。さらに錐もみ回転して風を受け流し、天井に着地するとわずかに二歩だが、そのまま歩いた。体にかかる重力をも、伝達遅延で一時的に無効化している。
「穿、掌ッ!!」
とうとう重力に捕まった機を見計らい、腰だめに構えていた双掌を突きだしながら落下してくる。慌てて二人が飛び退くと、ちょうど二人から中間域に掌が叩き込まれる。畳が陥没し、その威力を物語った直後、両手をついたまま桜桃は脚を振りまわす。
速度のみに任せた蹴り足と思われたが、肩にかすめただけの小雪路はぶっとばされて柱に激突した。着地時の反作用を伝達遅延し、体捌きで蹴りに力の向きを定めて流し込んだのか。
「ぅぎっ、」
「小雪路!」
「目ェ逸らしてんじゃネェよ」
側転して天地を元に戻した桜桃が眼前にて笑みを強める。つづく開掌をかわせたのは、ひとえに靖周の首が痛んだことによる偶然の産物だ。体を崩してたたらを踏んで、のけ反りながら靖周は後退した。
強すぎる。挟撃によって力の逃げ場をなくせば討てると思ったのに、どこから襲われても隙を見出してかわしていく。宙に舞う木の葉を思わせる、動きだしの消えた流麗さ。
同じ四天神でも、こうまで差があるのか。小雪路だって、怪我があるとはいえ、以前危神とは一対一で打倒した強者だというのに。この女は実力を――必要最低限まで、隠してきたのか。
「……俺の剣がここまでいなされるか。お前、剣とかも使えそうだな」
「マァ専門外だが、門外漢じゃネェな。それがどうした、時間稼ぎの口先問答か?」
「いや、まさかとは思うが、この実力。桜桃、お前が緑風の初代危神を殺したのかと思ってよ」
かつての危神・桧原真備の殺害について、怪神はその兇暴性から考慮より外されていた。しかしこの理知的かつ冷静な態度を見るに、偽装工作なども容易く行える人物だと思われた。けれど桜桃はかんばしくない様子でこりこりと耳の裏を掻きながら、つまらなそうに靖周へ応える。
「はン。出来るか出来ないかで言やァ、出来たろうな。島に来た当初ならいざ知らず、ここ十年であの男、だいぶ鈍ッてたからよ。でも必要ないから、やらないッての」
「ああそうかい」
発言からして、いずれにせよ小雪路が倒したときの危神より強い可能性が高いわけだ。まったくもって厄介な奴を敵に回してしまったものである。この戦いのあとの事後処理などまで考えると、胸のうちにむかむかと負担と不安が湧きおこってくる感触があった。
……余計な憂いを一時はさんだことで、少し思考が澄んできた。ひとつ深呼吸して、靖周は左手に残る符札、右手に短刀を構えなおした。視線をやることなく、小雪路も構えていることを確信する。
「……もう短刀もこれ一本、符札も残り少ないんでな。逃げるなよ。最後の一合、きちんと向き合ってもらう」
「向き合うかどうかはあたしが決めることだゼ」
「いいや。是が非でも――だ」
断言したとき、気づいたか。桜桃が振り返ると、小雪路が帯を解いて鞭の如く振るっていた。
それだけならば、桜桃は己に届くまでに残る時間で悠々と回避を成せていただろう。
だが、帯は瞬時に鋭く、細長い槍のごとく伸びた。
小雪路が背に貼り付いていた符札を手元に移し、靖周に合図を送ったのだ。もちろん策などあってのことではない。その場の思いつきで、ただ互いが応ずること適うと判断しての行い。
だからこそ、桜桃の虚を突いた。すかさず靖周は桜桃にとっての右側に回り込み、抜き放った短刀で最後の猛攻を仕掛ける。
「――行くぞッ!」
「――面白ェ」
左側を、たなびく帯が塞ぐ。うかつに飛び込めば摩擦強化を施した表面に、体を削り取られる。右側からは靖周がとびかかり、完全な一騎打ちの様相を呈する。
場を固定し打ち合うだけの、捨て身の攻防。右手に短刀、左手には残り数枚の符札。これで動きを封じ込め、一気に決戦と成す――
と、
思わせて、からの。
「――〝空傘〟――!!」
長い帯の端が、二人をつつむように素早く回り込んでくる。桜桃が驚きに目を開く。
帯の先端にも、符札が貼り付けてあったのだ。それを発動させることで、帯の長さにて周囲を取り巻く。同時に、靖周は左手の符札を真下に向けて、自分だけ上空へ離脱する。
ぐるりと帯に上半身を巻かれ、一瞬の伝達遅延でこれを逃れようにももう遅い。帯の裏面、先ほど槍の如く伸びた際には桜桃から見えていなかった死角にも、残り三枚の符札が貼り付けられている。これらの空傘も発動し、三方向から桜桃は圧迫される。
桜桃は、真上の靖周を、睨みあげた。
「て、メェっ、きちんと向き合うと、」
「冗談よせ、搦め手以外でお前なんかに勝てっかよ」
「だあぁぁぁあああッ!!」
小雪路が絶叫と共に、桜桃の上半身に絡みついた帯を全力で引く。風で体に密着した帯は摩擦強化を施された状態で桜桃の体の上を横断し、桂剥きのごとく皮膚を引き裂いた。痛覚を根元から掻きむしられる衝撃に、桜桃は白目を剥いて唇を噛んだ。ぶちぶちと犬歯が食い込み、口の端から血を流す。
最後に、駄目押しで、靖周が真上から落ちる力を利して頭頂部に柄頭での一撃をくらわせた。完全に沈黙した桜桃は血の泡を吹いて失神し、どさりと畳に倒れ伏した。溢れだした血液が、じくじくと藺草を染めていく。
力が抜けて、靖周も腰から崩れ落ちた。一歩まちがえば、そう本当に一歩の間合いの差で死を拾いかねない領域が、何度もあった。そこから抜け出てこれたことは、まさに幸運の賜物だ。
妹がいたという、幸運の。
「……兄ちゃん!」
「おー、妹……」
駆け寄ってきた小雪路が、滑り込むようにひざまずいて両腕を伸ばしてくる。首にかじりついておぶさってきた彼女をなんとか支えようとはしたのだが、どうにも抜けた腰は働いてくれず、そのまま仰向けに倒れた。まだ恐怖の震えが残る体に、あたたかな妹の体が押し付けられる。
「いや、死角をとれ、とは言ったが、正直ああくるとは思わなかったぜ……」
わずかでもその意を読み違えていれば、いまごろ血に濡れていたのは靖周のほうだったろう。
だが妹は正確に、靖周の指示を守ったのだ。『俺が囮でとどめがお前』これを基軸にすれば自ずと導き出される答えに、靖周は従った。
体にしみつき勝手に動くほど繰り返してきた二人の連携が、自然と答えを与えてくれた。
「だがまあ……勝ちは勝ち、だよな」
とんでもない絡め手ではあったが。この島では、生きていた方の全取りだ。はー、と深く息をついて、身を投げ出したまま目を閉じる。しばらくは、このまますべて忘れていたかった。
すると、息が塞がれたのを感じて、一瞬状況を把握できず、それから顔を左右に振った。目を開いた。
小雪路が、自分でもなにをしたかわからないという顔で、そこにたたずんでいた。震える唇が、靖周の目をとらえた。
「……は、え、おい、なに、してんだ……?」
問えば、常の彼女らしからぬ表情で、たたずんでいた。ゆっくりと首から腕をほどいた小雪路は、正座を崩した姿勢で、膝の間に両手を重ねる。目を伏せ、思う様にならない言葉を口惜しそうに噛みしめていると映った。
「……なにより、大事ってゆった」
「それは、聞いたがよ」
「ねえ兄ちゃん。あの、ね……嘉田屋いくの、もうやめてくれん」
唐突な一言に、靖周は混乱の極みに至った。上体を起こして目線の高さを合わせようとしながら、頭の中にひとことの意味を巡らし続ける。嘉田屋。嘉田屋が、なぜいまここで出てくる。
「あー、……まあ、金のことはたしかに、迷惑かけてるかもしれんが」
「そうじゃない。そうじゃ、ないんよ」
「じゃあ、なんだ?」
「嘉田屋だから、嫌なのん」
嘉田屋だから。言葉とことばが繋がらず、わけがわからない数瞬がつづく。戸惑いばかりを増やす行動、言動にわずかな苛立ちさえ覚えながらも、しかしあまりに真面目な顔つき、物言いに、靖周は閉口せざるを得ない。桜桃との戦いに臨む直前は話したいことが山ほどあったというのに、先手をとられたせいでなにも言えなくなってしまった。
それでもやがて、沁み渡ったように、彼女の言葉の真意が、察せられた気がした。だが気がするだけで、それが正鵠を射るのかはわからない、なにより正答であることがこわくて、靖周は遠まわしにようよう言葉を継いだ。
「……金遣いの問題じゃなくて、周りに女たらしと思われるのが、嫌なのか?」
「ちがう」
ちがうらしい。遠回しの言葉が削られて、徐々に、先ほど思い浮かべた、察せられた気がした答えに近づいていく。おそろしくて、どうしようもなくて、靖周はさらに迂回するように言葉を並べた。
「黄土だから緑風の俺が通うのはまずい、ってことか」
「ちがう」
「二層はほかに歓楽街とかもあるからな、阿片窟なんかに潜り込むとでも」
「ちがう」
「前の西洋剣士たちとの一戦のときの、」
「ちがう!」
「……あー……」
じゃあなんなんだ、とは訊けない。決定的な答えを、妹の口から耳に入れるのはこわかった。
それでも、だとしても、いつかは来る日だった。それが今日だというだけで、心構えができていなかっただけで。後回しには、しておけない問題だったのだ。覚悟はしていた。今日のためだとは、思っていなかったが。
「小雪路」
名を呼ぶと、顔をあげた。本当になにからなにまで世話をしてきた、誰より大事な妹がそこにいた。仕事の同僚ではなく。たぶんどんなときも彼女は、妹として、靖周の傍らにいたのだ。
「嘉田屋がなにするところか、知ってんのか」
その妹が、うなずく。
彼女の知ることが、すべていい加減な、笑ってしまうようなおとぎ話であればと、靖周は心のどこかで願った。子供が桃や瓜から生まれるような、そんな……そんなことを知ったのではないだろうと思いつつ、願うだけはしておきたかった。
ぐらつく心根の最後の拠り所として。
「じゃあお前」
「うん」
「俺がなにしてきたか、知っちまってるのか」
「……うん。兄ちゃんが、どうやってうちを育ててくれたか、知っとった」
「……そうか」
不思議と、絶望はなかった。彼女が、ただまっすぐに靖周を見つめていたからだろうか。
そこに安心してしまい、靖周はいつものように軽口を叩いた。
「でも嘉田屋は、男が身を売るところじゃないぞ。安心しろ、いまはべつに辛い思いして、金稼いでるわけじゃねえ」
「そうじゃないんよ、嘉田屋がなにするとこかは、わかってるのん。その上で、いってほしく、ない……」
「……なぜ」
すぐに切り返せる軽口の代償は、すぐに訪れた。
「女の人、買ってほしく、ない……兄ちゃんが、とられちゃう気が、する」
「とられるって。時間と金とられてんのはむしろこっちだって、」
「大事なん。兄ちゃんが。だれより、なにより。だからなんでも我慢できた。だからうち、なんでも我慢するから、兄ちゃんだけはあげたくない。だれより、なにより――兄ちゃんが、ほしい」
とめどない言葉は、願望の終着に行きついて止まった。
――ほしい、とは。
いや、ことここに及んでまで真意を疑うのはよそうと、靖周は腹をくくった。小雪路は、すべてを知って、欲するとはどういうことかを知った上で、自分にその言葉を向けている。そのはずだ。この受け答えが、決定的に彼女のなにかを壊すか、あるいは――それを、もうわかっているのだ。
「……兄だぞ、俺は」
「それが普通とちがうのんは、わかっとるけど。でも無理なんよ、兄ちゃんにしか、そんな気持ち起きんの。でも、だから、どんな痛くても、辛くても、兄ちゃん守れるならって、がんばれた」
えぐ、と喉奥からへんな声を出して、小雪路は涙をこぼした。
「横いれれば、って。ずっと、守れたらって。それだけ、で、いいって。自分、誤魔化して、きとったけど。無理、なんよ……隠しとっても、嘉田屋行ったのきけば、腹立つし。うちのこと、見てくれんし。それでも、なんとか……騙しだまし、きたのに。兄ちゃん、死にかけるから!」
またも覆いかぶさるように、両拳を靖周の胸に打ち付ける。どうしようもなくて、なされるがままに、彼女の拳を受け入れた。痛みはない。ただ重たい。声音にすべて滲んでいる、この狂おしいほどの思いを抱いて、彼女は何年も、靖周とすれちがい続けてきたのだろう。
「いやだ、って! ぜったい、そんなの、許せんって! ……そう、思った、から……いままでより、強く、なって。兄ちゃん、傷つけるやつ、みんな倒して。そしたら、ずっと、横いられるかなあって、思っとって……」
「ああ」
「でも勝てんくって……結局、兄ちゃんに助けられたん……情けなくて、くやしくて、でも、そんなのより、このままでずっとおる方が、辛いって思ったから」
だから言う、と顔をあげて、小雪路は靖周の首に両手を回した。
「兄ちゃん、すき」
純粋さを重ねた言葉が、短く紡がれた。
「…………そうか」
かろうじて、それだけ返した。
しかと受け入れられるほど、靖周には準備が整っていない。小雪路の想いにこたえたい気持ちはたしかにあるが――まだ靖周にとって、小雪路は妹の域を出ていない。というより、靖周には女性という区分で接することのできる相手が、これまでひとりもいなかったのだ。
妹を守ろうと、そのことに懸命になりすぎたがためか。幼少期から少年期を、性別の区分を曖昧にされて過ごしたためか。だれひとり、まともに女性として見たことがない。
けれど。だからこそ。
「……女として見られるかは、まだわからねぇ」
ひとつだけ、確約できることがあった。
「でも、お前のそばを離れようと思ったことだけは、一度もない。これからも、ない」
そのために、靖周はこれまで生きてきたのだから。
#
瀬川は桜桃の戦闘が終わったことを感じながら、煙管で一服し深く嘆息した。縁側に腰掛け、砕け崩れた庭先を眺めている。これだけ暴れて負けたか、とわずかに落胆しながら。
ただ、もとより加勢するつもりはなかった。四天神を含むとはいえたかだか二人を相手に、四権候と四天神で挑むというのではこちらの格が下がる。もっとも、敗北の音を聞いたいまとなっては、どちらのほうがより面子を保てたのかは定かでないが。
「ままならぬものだ」
煙管を灰皿に打ち付け、振り返る。
ふすまを開けて奥まで光の届く室内には、袈裟に一閃されて仰向けに倒れ伏す詩神・呉郡黒衛の姿があった。傍らには彼の携えていた西洋剣が転がり、無残にも刀身が中ほどで折られている。
「……〝……よ……みよ……しい……のは……」
絶え絶えの息を繋いで、なにごとか口にしていた。末期の水でもくれてやるべきか、と思案しながら、瀬川はけれど動かない。水場が少し遠いということもあったが、それ以上に、最後に彼がつぶやく言葉を、耳にいれようと判じたためだ。
末期の言葉。どんな負け惜しみを囁くのかと、瀬川は耳を澄ました。
だが最期まで聴き終えて、それが彼の作った詩なのだと気づくと、途端に興味を失った。
「無意味な言の葉でおわりを飾るか。理解に苦しむな」
そしてすぐに、この現状に対してこれからなにが起こるか、どう対処すべきかの思案に時間を割いた。赤火から離反していたとはいえ、この剣客がこのように己を狙い動いたのは、九十九の差し金といっていいだろう。全面的な戦への布石、捨て駒としては十分な働きをなしたが、果たして。それに保守派である黄土の月見里はともかく、緑風の湊波もどのように動くかが気がかりだ……このように島の動向に、思いを巡らしていた。
ゆえに詩神、クロウ・グレゴリーの言葉は、だれに記録されることなく時の狭間に潰えていった。
しかし彼の死に顔が満足げであったことは、瀬川を含め埋葬に同席した者たちの記憶に残った。
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「く、そ……」
五層五区まで逃げのびて見つけた一軒の空き家に移り、無音銃による狙撃の傷をなんとか止血して、レインは傷口を押さえながらベッドの上に腰かけていた。額からはぽたぽたと、暑さによるものではない汗が流れ落ちている。
首筋には浅黒いまだら模様が、現れては消えるを繰り返している。傍らでこの様を見ているレイモンドもまた満身創痍ではあるが、少なくとも彼女のように死に直面するほど切迫してはいない。
こうして身を隠して病状の回復を待って、二日になる。
「レイン氏、回復の目途は立っていますか」
「……まだ、わからん、な……頼豪阿闍梨め、よくも、黒死病など……」
彼女の指先には、鼠に噛まれた傷痕がまだ残っている。推測では、ここからペスト菌を移され、この症状に至っていると思われた。
だがただのペストではない。普通の黒死病程度であるのなら、河豚の毒すらものの十数秒で回復するレインにとってはさほど苦にならない。問題なのは、これが黒死病の姿を借りた、一種の呪いであるという点だ。
残念ながら呪詛返しに精通していないレインは、応援を呼ぶこともできない現状、術者に与えられた魔力が尽きるまで、体力のみでこの呪いに対抗し続けねばならない。それを可能としているのは、彼女の基本戦型を支える道具にして切り札――手首や首元からすらのぞくほど全身に巡らした刺青による、身体強化術式だ。
とはいえ、兵糧攻めへの対応には苦慮していた。意識が途絶えると、術も消える。仕方なしに不眠で、レイモンドと会話をかわしながら意識を保っていた。
「しかしレイン氏、その、頼豪阿闍梨とはなんでございますか」
「……お前、この国にきて、長いというに。知らないのか…………頼豪は平安中期の僧でな、阿闍梨とはまあ、高僧に与えられる称号のようなものだ……そいつは、かつてある裏切りにあった際、怨みから己が身を石身鉄牙持つ八万四千の鼠に、変えたという…………その呪いを研究し、己が身に宿した狂気の術師が、この現代にいたということだ」
「身を、鼠に……? そのような化け物が、あの場にいたと?」
かちかちと、それこそ鼠のように歯を鳴らしながら、レインは薄目を開けて応える。
その目にはなにを映しているのか。過去を見ているのか。
「いたのは……分け身の鼠、一匹だけだがな。しかし一匹でも、十二分に殺傷力を、もたせるべく。奴は使節団について欧州を回った際に……黒死病を、己が身に移したのだ。そのほかにも、赤痢など、用途に応じてさまざまな病原菌を、背にのせた……あの呉郡黒羽を、洛鳴館で殺したのも」
燃え上がり、炭くずと化した洛鳴館で、最期に彼女を屠ったのも。
「湊波戸浪。往涯腹心の、四つ葉を作った者だ」
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「――おや、来たか」
湊波の視線の先には、沢渡井澄が立っている。どこから情報を得てきたかは知らないが、とりあえずはここまで来れたことを褒めてやるべきだと判じられた。
「あなた……その、姿は、」
沢渡井澄はこちらを見ている。餓鬼のように膨れた腹、異様に長い手足、顔を覆う仮面――そう、彼の師を殺した日の姿を見つめ、瞳孔が開いている。
絶句して立ちつくす彼の姿を、湊波は見る。見る。見る。
数万、数十万という瞳で、じろりと見据える。
「お前は……あのとき、師匠を……!」
「そうだ沢渡井澄。私が、お前たちの仇敵だ」
湊波はただ見つめる。
群れ成す、鼠の瞳を介して、ただ世界を見つめる。
引き続けた塩は、いつしか積もり積もっていた。
六幕終結