74:宝拳という名の絶招。
現れた靖周はじらすようにゆっくり、小雪路のほうに歩み寄る。岩から降りた桜桃は髪の毛を食んだような顔つきで、肩をいからせ苦々しげに地面を強く踏みにじっていた。
「にい、ちゃ」
ぽかんと口を開けてやってくる兄を見ていた小雪路は、しかし現状に理解が追いついて、かぶりを振って向き直る。彼の歩き方は重心を正すのに苦労していて、腕の振りにもかたさがある。遅い歩みは怪我のためで、余裕あってのものではない。
「なに、やって……なにやっとるの、兄ちゃん!」
「なにって。迎えに来たんだよ」
「ばか言わんでよ! そんなぼろぼろで、よりによってその怪我させた相手のとこ来るなんて、なに考えとるん!」
「お前のことに決まってるだろ」
断言されて、な、と小雪路はかたまった。靖周は厳しい目つきの中に、ごく一瞬だけ柔和さを取り戻して、小雪路の横に辿り着く。ふらつく小雪路を、そこにいることただそれだけで支えて、口を開く。
「……しかし、あれだな。お前がそんな風に声荒げるの、はじめて見たかもしれねぇ」
「なに、のんきなこと言っとるん……」
「呑気っていうほど、余裕あるつもりはねぇよ」
ほころばせた顔をすっと真顔に戻し、桜桃のほうへ向き直る。短刀と符札は油断なく向けたままであるが、とはいえ傷にまみれたいまの状態では警戒もどれほどの意味があるか。
だというのに小雪路は兄をひかせることができない。兄の姿があまりにもまぶしく、ともすれば固く決意し栓をしめたはずの涙が、あふれ出てしまいそうだった。
「話したいことが、いっぱいあるんだ。口に出さなきゃ、どっからかこぼれてきそうなくらいでな」
「なんなん、それ」
「俺とお前は、言い争いひとつせずにここまできちまったんだと思ってさ。……まいいや。とりあえずここ、切り抜けるぞ」
短刀を右逆手に、左手で符札をあたりに散らす。待っていたのか呆れていたのか、桜桃は岩にもたせかけるようにしていた背を離すと、見下すように背筋は反らしたまま、靖周と小雪路に吐き捨てる。
「話しあいは終わったか、クソども」
「おう。お待たせして悪かったな」
「どっちから死ぬかも決めてくれやがッたか?」
「それは最初から決まってるぜ」
短刀を構えたままの右手で、人差し指を立てる。
「お前だよ」
「上等だ風使い、テメェからぶち殺してやんゼ。――生意気言ってんじゃネェぞガキがッ」
もう二十四だけどなぁ、とぼやきながら靖周は足幅を広くとる。小雪路は再開してしまった以上巻き込まれる他になく、兄を守るべく一歩前に出ようとする。ところがこれを左腕で制して、靖周は小雪路の腕をつかんだ。
「っせぇあ!」
足下に散らした符札を発動させ、二人して身を浮かせる。砂塵の中で桜桃の左右の拳は空ぶったが、即座に真上に跳躍して靖周たちを追ってくる。
またも符札をばらまいて、風で急激な方向転換を成す。突風にあてられた桜桃は地上に向かって墜落し、ぎりぎりと顎が砕けそうなほど歯を鳴らした。
「真っ向からやるわけねぇって前も言ったろ、イノシシ馬鹿」
屋敷の屋根に着地した靖周は、小雪路の手を引いて走り出す。背後では声にならない声で、桜桃ががなりたてていた。肝が震えるような絶叫に怖気を感じながら、小雪路は手を引かれるまま走る。自分より背の低い後姿は、けれど幼いあの日と同じく、広く大きく見えた。
「に、にいちゃ、」
「お前な、あんなバケモンにひとりで挑んでんじゃねーよ」
背を向けたままなので顔は見えないが、明らかにあきれ果てた様子で靖周はつぶやいた。ぐ、と小雪路が言葉に詰まると、常よりいくらか遅い駆け足を止めて、また後ろに符札を放った。瓦屋根を踏み砕いてきた桜桃が、破片とひとまとめに風で薙ぎ払われる。
「この前全快だったときでもボコられたろうが。なんでそう無茶するんだよ」
「……だって」
「だってもあさってもねぇだろ。お前いなくなったって聞いてから、俺がどんな気持ちでいたか、想像つかないのかよ」
「それ言うなら、兄ちゃんがあいつにやられて、うちがどんな気持ちだったか」
「しょうがねーだろ、かばわなかったらお前がやられてた」
「へたしたら、兄ちゃん死んどったんよ!」
「お前もな!!」
怒鳴り合い、握る手に力がこもる。引っ張られて、小雪路は靖周と屋根から降りた。縁側を駆け抜け、屋敷の中に逃げ込む。一瞬遅れて、先ほどまで二人がいた位置にずん、と重たい着地の音がして、ぱらぱらと廊下に埃が舞った。
逃げ続け、駆け続け、屋敷の中をでたらめに回る。桜桃の接近をからくもかわしながら、二人は言いあいを続ける。
「だいたいからして勝手なんだよお前はよ。危ない戦いばっか挑みやがって、もうちょっとしおらしく大人しくしてることはできねぇのか」
「兄ちゃんだっていっつも戦ってばっか。大怪我して帰ってきたこと、一度や二度じゃなかったん」
「仕事だ、仕方ないだろ」
「うちだってもう、仕事なのん。子供じゃない。守られとるだけはいやなんよ」
「この前怪神に襲いかかったのは、仕事か?」
「……それは」
「線引きができてねぇから子供なんだよ。戦うのが楽しいか知らんが、そのへんの線引きはできてると思ってたぜ」
「楽しい、わけじゃ……」
「戦うの趣味だろ。大事なんだろ。でもよ、俺の気持ちもわかってくれ。俺は――」
「楽しいわけじゃない!」
怒鳴ったせいで、桜桃に見つかる。壁とふすまを打ち壊して、最終死拳が現れる。靖周は舌打ちして符札を撒き、狭い室内全土を吹き飛ばした。畳と書院造の光景が風で荒れ狂い、破片を飛び交わし、桜桃の進行をわずか緩める。風に押され続ける畳を、桜桃は身を屈めてかわした。
「いつまで逃げおおせてやがるつもりだぁ? 魔力切れまで待ってもいいンだゼ」
「最初からそのつもりだろお前、性格悪そうだし」
荒れた部屋を挟んで対峙した桜桃は、ポケットに手を入れた例の構えで立ち尽くす。二人を睥睨する目はいらいらと揺れ動き、いまにも跳びかからんとする足を抑えるのに自分でも苦労しているようだった。
「……話はあとだな。先に、倒すぞ」
靖周は腹をくくったらしい。短刀を口にくわえると符札を両手に取った。
「倒す? あたしをか? こりゃまた思いきってくれたモンだネ。いや思いあがってンのか。だったら――叩き潰すしかネェよなァ」
「兄ちゃん!」
「いいか小雪路、あいつの頭上をとれ」
小雪路の背中をぽんと叩き、靖周は風をまとって突っ込んだ。冗談だろう、とぞっとして、小雪路は動きが止まりそうになる。
だがここで止まってしまってはそれこそ、なんのために生涯をかけて強者に挑み続けたのかわからない。兄を、兄の背を守るためにこそ己の身命を賭すと誓ったあの日の自分を、裏切ることになる。
「――ッ、〝忌蝕獣〟!!」
全身に摩擦強化をまとい、跳ねた小雪路は欄間、天井と蹴りつけて駆けあがる。逆さに映る視界の中で靖周は愚直にまっすぐ桜桃に挑んでおり、いまにも危険域に到達しそうだった。
桜桃が拳を抜く。踏み込みが、先ほど乱れ飛んだ畳を浮かせる。衝撃で身動きが止まる前に自ら浮いた靖周は、空中で符札を繰って自分を後方に飛ばした。すぐに短刀をとり、正面に投げつける。
「小賢しいンだよ!」
手の甲で刃を弾いた桜桃は室内に踏み込み、後退した靖周を狙おうとする。だが視界を縦に断ち移動している小雪路にも気は配っているようで、視線こそないものの間合いに入れば捉えるだろう。
構わず、身をねじって頭上からかかと落としを繰り出す。桜桃は右前腕を掲げてこれを防御しようとしており、先刻から衣我得の一切が通用していない事実を鑑みるに、これも通じないのではないかと恐れがあった。だが通じなければそれまで、兄を信じてまた策を考えるのみ。
ところが、かかとが彼女の前腕と接触した瞬間。
「〝空傘〟」
小雪路の蹴り足が、真下に向けて圧力を増した。唐突な加重の増加に驚いたか、桜桃の眉根が動く。
先ほど背中を叩いた際に、靖周は小雪路に符札を貼り付けていたのだ。そして接触の瞬間真下に向けて術を起動し、風で圧力を増大させた。
「グッ、がぁ――!」
渾身の力で、桜桃は小雪路の蹴りを横に振りはらった。その上で逆の手による拳を打ち上げてきたのだが、これも靖周が風を起こして小雪路の体を浮かすことで回避する。
靖周よりわずか桜桃に近い場所に降りて、小雪路は我が目を疑った。
「……やっぱりな」
確信を強めた声音で、靖周が言う。言葉はこの光景を指していた。
かすり傷では、あるが。桜桃のまとう大陸風の衣服は前腕が削ぎ飛ばされ、皮膚に薄く血が滲んでいた。小雪路の蹴りが、摩纏廊の摩擦強化が通用していたのだ。
「なん、で? うち、いくら当ててもダメだったんに」
「接触時間が短すぎたんだよ。まあ素早く鋭く摩擦させる攻撃が主体のお前じゃ、仕方ねーことだがな」
後ろからの、解答へ近づく一言に反応したか、桜桃が右腕を振りながら靖周をにらむ。
「テメェ……気づきやがッたな」
「技ぁ見せすぎたな、怪神。ほかの四天神が全員無能力者だったことも災いして、てっきりお前も武術を極めた奴でしかないと勘違いされてたが……お前だけ、異能者だったんだな」
「逃げるフリして確認作業かよ。遁走しか能がネェ鼠かと思いきや、とんだ食わせモンだ」
「これでも、お前らと同じ年数この島で生きてんだよ。狡賢くならざるを得なかった」
「はン――そうかそうか」
言って、桜桃はすっと憤怒の表情を崩した。それはあまりに唐突だったので、一瞬小雪路は彼女がのっぺらぼうのように見えた。
感情をなくした、いや、律した。先ほどまでの、激情に駆られて拳を振るうだけの獣はどこにもいない。どこまでも深く冷たく理性的にことをなそうという、鉄のような鼓動の旋律が聞こえた気がした。
そしてポケットから両手を抜き、桜桃は五指を開いた両手を、左半身中段においた。重心は両足へ均等に。わずかに左膝を屈める姿勢に近づけた、天に伸びあがる構えだ。
「手ェ抜いて、手抜きやめるッてのも変な話だがよ」
声音にも必要以上の凶暴さは無い。ひどく熱いが爆ぜる音はしない、炉の中を思わせる空気をまとうのみだ。
変貌、変化。彼女の段階が上がったことだけを感じて、小雪路は身悶えする。
「なんなん、コレ」
「あの構えも、執拗なまでの攻撃性も、全部演技だったんだよ。わかりやすい暴力の顕現として君臨することで、恐怖政治をやりやすくした――てなとこか?」
「そこまで理解しちまったんじゃ、もう生きて帰すこたできネェぞ」
「だろうな。でも俺もこの怪我のぶんと、妹の腹ぁ蹴り飛ばしたぶんの落とし前つけるまでは、帰るつもりなんざなかったよ」
「クク。言ってろ」
ゆるりとした構えだが、五指にみなぎる力の活き様は隠しようがない。桜桃は深く息を吐いて、丹田に意識を集中させ始めた。
「〝延透勁〟、全力だ」
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あまりにも、怪力すぎる。かと思えば当たってもいなせる時がある。
それが靖周の最初に感じた疑問だった。怪神・桜桃。たしかにあまりに強力な武術家だが、技だけと言い切るには不自然と言っていい気がした。しかし身体能力強化術式というのは、井澄のように局所のみを超強化するか、全身を満遍なくそこそこに強化するかに限定され、あの桜桃の全身兵器じみた威力は成立しそうにない。
次に感じた疑問は、妹の攻撃をいなすことが可能だった点だ。撲身求の使い手との時に『接触面をずらさなければ摩擦の力も恐るるに足らず』ということを学び、新たに〝削裂装甲〟という技を得ていたにも関わらず、小雪路の拳足は桜桃に決定打を与えることができなかった。
これらから発想を飛躍させて、靖周は推測を立てた。
桜桃は武術だけでなく、なんらかの術式を使用している。
そしてそれは『力の流れ』になにかしらの干渉をするものではないか、と。つまり己の力を増幅させて怪力を得たり、相手の力を減衰させて力をいなしたり、ということだ。
推測を試すために、今回靖周は逃げに徹しながら風の攻撃で桜桃の様子を見た。前回の逃走時にもわかったことだが、打撃や斬撃には戸惑いなく対処する桜桃だが、靖周の操った風による攻撃では動きを止められていた。つまり、風は通用するのだ。
だから逃げながらさらに実験を重ねた。風で吹き飛ばした砂塵にはどう対処するか。瓦の破片の飛来には。畳など狭所での広範囲攻撃は。
これらへの対応から、靖周は仮説を立てた。
怪神・桜桃の能力は――
「力の伝達速度を遅延する能力」
わかりやすい派手さ、恐ろしさを取り除いた桜桃は、足を浮かせているように流麗な継ぎ足で迫ってきた。びくりと身をすくめて小雪路は跳び退り、その判断は間違っていない。
踏み込みの音は派手に重たいものではなく、長い時間をかけて地層がずれるようにゆっくり。みしり、と圧で物体を押し縮めるものだった。先ほどまでのような、大きく派手に周囲を爆砕するものではなく、
足の形に、畳がへこんだ。
拳が見えない。彼女の全身がぶれたと視界に映ったときには打ち終えている。しんと静寂の世界に、拳が風切る音だけが伸びた。
「……あたしの本気、ご覧の通り地味すぎンだよ。お前らくらい修羅場くぐってる奴は威力がわかるみてェだが、凡百の愚図どもにゃわからんらしい。当たってもほれ、こういう具合で」
次に、歩み寄って、角柱を小突いた。
小突いた。動作としてはそう見えるだけで、実際は――
「見た目なんも変わんネェからな。力ァ透して打つのに固執しすぎてヨ。当たっても相手が血を吐くことも骨が折れることもないッつーか」
中を、粉々にしている。なぜそう言えるかは、柱の上を見ればわかる。
外見は形を保っているはずの柱の上、天井が。一寸ほどではあるのだろうが、たしかに高さを下げていた。人体に当たればどうなるかなど、容易に想像つく。
「その気になりゃ打って三年後に殺せるとか、繊細すぎる技になっちまってナ。わーざわざあんな風に手ェ抜かなきゃならなかった」
あんな、戦うに不向きな構えで。明らかに手を抜いて戦うことで、青水の異様を知らしめていたのだ。
不自然な構えは、不機嫌な動きを隠すためのもの。苛立ちを常に隠しもしないことで、やたらに地団太踏んだり、肩をいからせたりなどの仕草を巧妙に隠していたが、あれこそが攻撃の予備動作だったのだ。
力の伝達速度遅延。桜桃は地団太を『踏み込みの力』として。肩をいからせることを『打ち込みの力』として。それぞれ遅延させることで、体に蓄積させていたのだ。
数回分の踏み込みの力を蓄積させた震脚、これを利した突きを支える肩甲骨周りの筋肉の動きの蓄積。すべてが相まって、最終死拳を形作っていた。奥の手を隠すため。わかりやすい恐怖を演出するため。看破されるまで、出すつもりはなく。
「さて、テメェらは合格だ。あたしの宝拳、抜いてやるよ」
にいと笑ってまた構える。靖周は笑わず、符札を投擲して桜桃を上空に跳ね飛ばそうとした。
ところが巧みな足捌きで符札の脇に入りこまれ、突風は空を突く。
「しかしテメェがあたしの延透勁を看破したのと同様に、あたしもテメェらの弱点は見抜いてンぞ」
「……らしいな」
風は一方向にしか出せず、放出したら途中で軌道を捻じ曲げることはできない。実験のためとはいえ度重なる使用で、向こうもこちらの手の内を暴くに易い状況だったのだ。
とくれば、やはり。
「いつも通りいくか」
靖周が囮となって撹乱し、動きを止めたところで小雪路がきめる。靖周の言葉から察したらしい小雪路はすぐに不服そうな顔をしたが、ほかに切り抜ける方法はないのだから仕方がない。
動きを止めたり隙を作ったりせずに小雪路単体でかかっても、桜桃の能力で摩擦が強く発生する前に伝達を遅延・いなしたあとで力だけ受ける、あるいは自分の攻撃時に威力を上乗せして返す、という方法で簡単に対処される。
……そもそも小雪路が不用意に不必要にこの場にあらわれて戦いを挑んでしまったのが自分のここにいる原因なのだから、あまり睨まないでほしいと思う。
「勝って帰って話のつづきだ」
「うん」
「……お前が大事なんだ。だから心配なんだ。それだけ、わかってくれ」
「うちもそうよ」
靖周より少し前で構えている小雪路の顔は、見えない。
「うちも兄ちゃんが、大事。戦いより、なにより、兄ちゃんが」
「……、」
「またあとで話そ」
「ああ」
桜桃は、にやにやとしながら掌を構えている。襲ってもよかったろうにひと段落するまで待っていたのは、ひさびさに全力を振るえることに、愉しみを見出しているからかもしれない。
「高みの見物、って言うケドよ。面白くネェんだよな、アレ。やっぱ……おなじ目線で、競える奴がいなくちゃァよ」
「二人一組でやっとだと思うが、ちょっくら倒させてもらうか」
「けっこうケッコウ。ちょうどいい負担だゼ」
歩法が滑らかに間合いを削り、桜桃と小雪路が接近する。息を呑んで、冷や汗を垂らし。
靖周が符札を擲ったところで、二人の手の甲が互いに弾きあった。
死拳終了