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明治蒸気幻想パンク・ノスタルヂア  作者: 留龍隆
六幕 鏖殺奸計
73/97

73:行き場という名の息場。

        #


「う、おおおおお!」


 果たし合いという名の襲撃当日。


 クロウはなるべく人の少ない場を抜けてこようとしたのだが、運の悪いことに外からの伝令を任とする男に出遭ってしまった。それでも相手が逃げるのなら追うつもりはなかったが――これは相手が運の悪いことに、刀を抜いてしまった。正眼と上段の間ほどの中途半端な構えで、男は懸かってくる。


 すい、と。巨人に切っ先をつままれ、持ちあげられただけのように力をこめず、クロウは正眼に構える。そして背筋を正し、わずかに目を細める。得物は十字鍔を持つ、全長三尺三寸、幅一寸半ほどの両刃西洋剣。剣をとるなら相手が誰であれ、クロウは加減も容赦も油断もしない。


「御免」


 右拳と左拳の間をほとんど空けない妙な握りで、クロウは脱力を無意識の中に意識させた。


 ゆるりとした構えだからこそ、速度と威力がある。脱力から締めることでこそ速度が上がる。はなから力を込めていると、体幹の力の伝達を阻害するからだ。腕や肩に力を込めた状態で振り下ろそうとしても、力んだ部分で足腰から伝達する力が滞る。


 腕の力、手の内を締める力は構えることと、送り込んだ力の行き先を御するためにのみ使う。初速は重力任せの全身落下から得て、体幹の力で加速させ、腕の力で方向を定める。すべての筋と肉の働きが一体となって、彼の斬撃は閃光の領域に至る。


 そうしてクロウはかすみ――相手の左こめかみに切りこんでいった。相手はこれに反応して受けに回るが、


「あがっ……」


 翻ったクロウの剣により己の左耳の裏を切り裂かれたと知って、男は仰天する。この剣はそもそも受けてはいけない(、、、、、、、、)のだ。


 西洋剣術の一手、裏刃の斬撃(ラップショット)


 裏刃の打ち込みだ。手順はひどく容易なものである。横薙ぎ、こめかみを狙って打ちこみ、相手の刀に防がれる前に刃を返すだけ。


 通常の横薙ぎの途中、左手を右腕の下にくぐらせるようにして、右手も手の甲を天に向けるようにすることで刃を返す。正眼の構えの際に己に向いていた側、刀で言う峰の部位を、相手に向けるのだ。瞬間、右手は引き、左手は押し込む動き。これにより切っ先は、受けようとした相手の刀を回り込むのである。


 しかしまた、気力くじけずに飛びかかる男。これに対しては、左足を前に出した下段脇構えより応戦した。攻め気を相手に感知させ、次の一合をにおわせる。約束のごとくたがえることなく、クロウは正直に切り上げを行った。すかさず相手は一歩ひいてかわし、死に体になったクロウに袈裟切りを見舞おうとして――己が先に逆袈裟がけに食らう。


 切り上げの中途で、またしても刃を返したのだ。こうしておけば、次の一刀のときに手首の返しの動きが省略される。かわされることを見越して、いや攻め気によって相手にかわすよう誘導しての、一撃。まさしく飛燕の返すがごとき素早さで彼の剣は閃く。


「く、お、ぉ」


 くずおれた男は、死の間際までクロウの手の動きを見つめていた。鍔元の右手に左手を寄せるようにし、両拳の間が半寸ほどしか離れない、独特の握り。


「なぜ、そんな、手の内で……」


「そんな手の内? むしろこれぞこの僕の鍛錬の結実でしょう」


 この握りによりクロウは梃子の力を用いた、右手を支点に左手を持ちあげる振りができなくなる。結果、彼の剣は起こりから終わりまで、『腕の脱力』を維持できる。これが体幹の力を、余すところなく利用させる要諦なのだ。


 実は両手の間を離した構えだと左手は移動距離、つまり構えた位置から振り下ろしの終点までで描く弧が右手よりも短くなるため、先に『腕を止める位置』に到達してしまう。これが終わりまで脱力を生まない問題点なのだ。


 たとえば上段から、半円を描いて垂直に振り下ろすとしよう。


 天を向いた切っ先一点が根発子(コンパス)における筆先。臍下三寸、つまり人間の重心の位置・丹田が針だとする。同様に右拳と丹田、左拳と丹田もこの関係になぞらえる。


 このとき半円描く運動において稼働範囲の弧がもっとも小さくなるのは、当然丹田に一番近い左手だ。引き手としての性質上、どうしても先んじて働いてしまうはずの左手の力み。両手の間隔を狭めれば、これをぎりぎりまで働かせないことが可能となる。


 すると力みの発動は右手の停止とほぼ同時にまで遅らせることができる。この握りを、クロウは〝二束ふつつか〟と呼んでいた。


「不自由を以て自由と成す。強さとは本来、そういうもの」


 ――かくして、体幹を利した斬撃は阻害を減らし速度を増す。仮に動きだしは読めたとしても、体幹を用いてからは急加速となるので対応もしづらくなる。なにひとつ隙はなく、技量において彼に剣で優るものは、この島のどこにもいない。


 あくまで、技量においては、だが。


「しかし強さもまた不自由。ゆえに見たい、知りたい。この僕に、敗北を教えてくれる者を――」


 言って、クロウは歩を進める。四天神同士の戦いが始まる脇を過ぎ、ふすまを開けて――



        #



 左半身のまま、瀬川は上体を沈めた。当然それも攻撃へ連なる動作であり、そして気配が一切変じないためにクロウは先読みすることができない。相手がなにをしてくるかわからない、予測もつかない――はるか昔、剣を手にしたばかりのころの感覚をクロウは思い出して、愉しんでいた。


 鋭く息を吐き出した瀬川の左足がほんの一寸浮いて、振り下ろされる。槌を落とすような威力は重く畳の端を打ち、跳ねあげる。目を見開くクロウの前で、立ち上がった畳が瀬川の姿を隠した。


 次いで、壁と化した畳が迫りくる。蹴り飛ばしたか、と判じて、クロウは視界を広くとる。正面を注視するのでなく、視界すべてを広く浅く見通し、変化の出だしを察知せんと努めた。


 瀬川は畳に身を隠し、左か、右か、あるいは上、どこから来るか。部屋の明かりとなる燭台はクロウの後ろにしかないため、向こうの影の変化から機先を制することはできない。となれば、待つしかない。眼前を埋めていく一瞬を、クロウは後の先をとるべく構えた。


 畳が迫る。目が数えられるほどに近づく。だがまだ来ない。まだ――考えるうちに、正眼に構えていた位置から逆袈裟に斬りおろしていた。意識はなかった。自分でも動きだしてから、気づいた。己の腕がなにを勘付いたのかはわからない。ただそこに、答えはあった。


 クロウが逆袈裟を選択した直後の、薄く短い時の切れ目。袈裟に打ち込んできた瀬川の一刀が、目隠しの畳ごとクロウを斬り伏せんと軌跡を描いてくる。己の剣と鎬を削る。


〝雷切落し〟の発動には至らなかったが、こうしてクロウは初撃をしのいだ。斜めがけまっぷたつになった畳が二人の間を舞い、上下に分かたれた隙間から、全身を沈ませて斬殺の構えを見せる瀬川が見えた。ぞくりとして、背筋が粟立つ。


「ぜぁっ――」


 瀬川は吐息で腕を震わし、踏み込みで右半身に入れ替えた低い姿勢から大きく腕を旋回させ、今度は逆袈裟に打ち込んでくる。振りまわしたぶんだけ重さの乗った斬撃はしかし、受け流したのみで動作の振れ幅が小さかったクロウには捉えること適う一撃だ。


 次こそ雷切落しを発動し、左腕をいただく……そう考えながら袈裟に打ってかかり、刃圏に瀬川を捉えようとする。


 そして互いの剣が擦れ合った、いざ、と意気込んだ瞬間。クロウの力の向きがあらぬ方向へ逸らされる。


 左片手のみに持ち替えた瀬川が、腕を縮め畳んでいく。腕と刀を振るう円運動の径を狭めることで、わずかながら剣速を上げた。これにより、わずかな拍子の狂いが生まれ、雷切落しは不発に終わる。とはいえ瀬川は片手持ちになってしまった上、腕を畳んでいるため剣先に力も載っていない。普通の袈裟切りでも十分に斬り伏せてしまう体勢だ、そのはずだ、ほかの可能性など……、しかし彼はクロウの予測を上回り、現実を捻じ曲げた。


 瀬川が左肩を、刀身の峰に押し付ける。そのまま腰を切って、体当たりの形で懐に飛び込んできた。左手と肩の二点で支えられた刀は、彼の全体重を載せて突進してくる。触れていた剣先は押し返され、互いの刃が触れ合う位置は剣先からずり下げられ、一気に鍔迫り合いに持ち込まれた。


 拮抗は一瞬であった。それで、十二分だった。


 瀬川は空だった右手に匕首を抜いて突きこむ構えを見せた。これをかわすべく身をひねり、わずかに重心の揺らいだいとまを彼は見逃さない。左手を押し下げ、菊花を模した鍔が、クロウの十字鍔の下にもぐりこんだ――しまった、とクロウは己の失策に気づく。


『攻撃の予備動作を要しない彼が、突きを繰り出すという()』を、読めるはずがないのだ(、、、、、、、、、、)。つまりこれは、彼がわざと読ませたということであり。


 ――途端に深く身を沈めて屈み、同時に左腕を突きあげる。瀬川の刀の鍔に載せられ、クロウの剣は上空高くへかち上げられた。素早く引き戻し、地を這う低い姿勢から瀬川の剣が左片手突きを繰り出す。狙いは首、頸動脈。すんでのところで頭を横に振ってかわすが、引き戻しで再度喉笛に白刃が迫る。


「ああぁッ――!」


 掲げていた剣を振り下ろし、柄頭で瀬川の刀を捉える。クロウの鎖骨に載っていた切っ先を支点に、刀身中ほどの側面を殴られたため刃は叩き折れる。窮地を脱した勢いのまま、クロウは手の内を握りこんで唐竹に打ち下ろした。


 折れた刀で素早く応じ、片手持ちのまま鍔で瀬川は受ける。直撃の瞬間に刃の上に鍔を滑らせるようにして、力を一点で受けきることのない配慮までこなし、外に薙いでクロウの剣を振り払った。


 動きに合わせて体の正面を開き、右手の匕首が閃く。今度は読めない一撃だった、が、読めないからこそクロウは最初から身も蓋もない回避をおこなう。懐に飛び込んで背後へ向かう前転で、瀬川の左脇を過ぎぬけた。


 起き上がりざま、横薙ぎに裏刃で払う牽制をなし、刃圏を確認する。瀬川はゆらりと立ち上がったところで、間合いからは一歩遠かった。


「……魔剣〝獅子嚇し(ししおどし)〟。かわされたのは初めてだ」


 折れた刀と匕首の二刀流のまま、無形の位とは言えない雑な無構えで、瀬川はのたまう。


 魔剣……先ほど、読める一撃を敢えて織り交ぜることでクロウの行動選択肢を縛ったことを言っているのだろう。


「わかっていても体が応じる……剣客として修練を積んでいればいるほど、泥沼のようにはまる剣でしょう」


「左様。その首、地に降ろせや」


 瀬川は折れた切っ先を蹴りあげて、急所を狙う。剣を八双に構え直し、その動作の中途で切っ先を打ち落としながらクロウは応じる。そのとき動きに鈍さを覚えた。先ほど刀をへし折る際に支点とした右肩が、傷んでいた。のみならず、左肩甲骨付近に熱さがある。おそらく前転で逃れる直前に、匕首で斬られていたのだ。


 少しずつ、半歩ずつ、すり足で追いすがるように局面を詰みに向けられていく。


 四権候であると同時に〝剣征〟と呼ばれた男、瀬川進之亟。彼はクロウよりも剣の頂に近い。この四合のやりとりで、骨身に響いてよくわかった。


 この先に待つのは……もしかすると、死の運命なのかもしれない。腹の奥底に膨れ上がったのは、期待に似た絶望だった。


 遥かな昔に飲み下した矛盾。生を渇望しながらも死合いの場に臨む精神についての問いかけは、いつしか己が強くなりすぎて死を遠ざけたことにより、腹の底で眠りについた。いままた危機的な戦いに身を投じたことで、クロウの中では矛と盾がせめぎあっている。より強く激しく、動揺は振れ幅を増していく。


 ああ、これが生きていることだと、少なくとも自分にとってはそうなのだと、クロウは確信する。たといこれが勘違いであったとしても、正すことなく進んでゆけばそれは己にとっての正当であり正道なのだ。


 この自己完結を、瀬川とも分かち合えれば、と思う。無理難題とはわかっているが、危神・桧原真備とは、たしかに一時分かち合えた、そんな気がしているのだ……。


 八分目まで満たされた己を思いながら、クロウは最後の一合に向きあう。


 おそらく次は無い。瀬川はクロウの太刀筋を見切りつつある。


「往くぞ。六文銭は持ったか」


「あいにく、この僕は浄土など信じておりません」


 この世以上に愉しめる場などあるまい。


 笑うクロウに怪訝な顔をして、けれど動きには微塵も揺れなく、瀬川が疾風の速さで彼我の距離を埋める。


 秘剣と魔剣が食らいあい、やがてすべてがおわった。



        #



 小雪路の眼前へ矢のように飛び込んできた桜桃は、身を沈めることでポケットより右手を抜き放ち、縦拳で打ちこんでくる。すでに摩纏廊の術式をかけて体の摩擦を操っていた小雪路は、後方へ滑りいくことでこれをかわした。


 滑るさなかに鼻先に回し蹴りがかすめる。一撃でも当たればそれでおしまいの体術だ、頭の中には兄の姿がよみがえる。ぎり、と強く歯噛みして、小雪路は鑢と化した腕を掲げて掌底を打ち下ろした。


 しかし、横からはたかれただけでいなされる。次々に繰り出す鉤手、拳槌、裏拳、手刀、どれもが軽く手を添え踏み込んでくるだけで逸らされていく。先日と同じだ。どうやらやはり、桜桃には衣我得の技が通じない。


「手遊びやってんじゃ、ネェんだよ!」


 とうとう掻き分けるように両手を外に流され、踏み込みで地面を陥没させた直後、膝蹴りが小雪路の腹部を襲う。あわてて間合いから抜け出すべく、足裏の摩擦を強化して飛び退く。だが桜桃が蹴り足を下ろしたとたん、爆発的な勢いで追いすがる。


 小雪路は身を縮めて、羽織をはためかせながら後方に宙返りを仕掛けた。ゆっくりと翻る布の幕に、桜桃はわずかに指先を触れて――すぐに引っ込めた。


「ちぃ」


 羽織に摩擦強化を施しておいたのだが、これをつかまぬようにしたらしい。目論見通りには運ばないなと思考をあらためながら、小雪路は足を滑らせていく。行く先にあったのは鯉の泳ぐ池で、跳躍しながら羽織を脱ぐと身も凍る寒さの池にこれを落とす。


 ざんぶと水に浸かって重くなった羽織を振りまわし、肩に担ぐようにして小雪路は構えた。


「〝纏え天地擦る力の流れ〟――」


「それが、どうしたァ!」


 膝まで池に浸かっている小雪路に向けて桜桃が襲いかかる。小雪路は池の傍に生える松に濡らした羽織を打ちつけ、摩擦を強めて巻きつけた。腕を引いて桜桃の落ちてくる領域から脱し、太い木の幹を両足の間で駆けのぼるように逃れる。


 桜桃は着水しながら首をめぐらし、すぐに小雪路へ跳びかかろうとして、


 そこでようやく自分が誘いこまれたことを知った。


「な、」


 着水した位置で、水しぶきが上がらない。それもそのはずだ、桜桃の両足は――水あめのように(、、、、、、、)粘性を増した池の水に、もったりとまとわりつかれていた。


 小雪路の術、摩纏廊は物体の摩擦力を操る。ただし一度に二つまで、そして小雪路の体の体積を越えるものには術の付与ができないという条件がある。


 この条件を満たすために小雪路は羽織を濡らして池の水から分離させ、術をかけて摩擦を弱めることで池の中へ戻し、桜桃が着水した瞬間にまた一気に摩擦を強めたのだ。結果、ただの水が、摩擦力を強められることで粘り気のある液体に変じた。


 見上げる桜桃の頭上をとり、小雪路はつぶやく。


「うちに攻撃される(かけられる)力を、あんたはうまく逃がしとるみたいだけど」


 前回も、今回もそうだ。小雪路に攻撃されるたび、桜桃は受け流しいなし逸らしていた。突きつめた武の研鑽が可能とさせる絶技なのだろうが、しかし体術の使い手として同質の存在である小雪路には、彼女の弱点が予想できていた。


 踏み込めず、足の駆動を制御できない場で。しかも一番攻撃を流しにくい、真上からの襲撃。人間にとって元来死角であり急所とも言える頭部への一撃。


 真上で縦に体を一回転させて、遠心力を載せながら羽織を、


「逃げられず踏ん張りが利かなかったら、どうなん」


 摩擦を強めた羽織を、鋭く振り薙ぐ。接触面積の大きい羽織により広く肌を削ぎ取る、残虐無比なる攻撃だった。


 そのはず、だった。


「……鬱陶しンだよ嬢ちゃん」


 触れるだけで皮膚が削り取られるはずの羽織は、桜桃の両手で真っ二つに引き裂かれていた。裂け目より現れた桜桃は、ひどく色の薄い三白眼で睨み上げ、開いた両腕で左右から張り手を放つ。羽織を振るために防御など一切できていなかった小雪路は、これをかわせず――


 ぱん、と軽い音と共に両のこめかみを打たれて、脳髄を揺らされた。


「っぁ……?」


「たしかにあたしに力は通じネェとは言ったが、小細工程度で挑んでくるたァずいぶん思いあがってくれてンじゃねぇの」


 意識が定かでなくなったため、摩纏廊の術式が解ける。足の自由が利くようになった桜桃は、落ちていく小雪路と目線をかわし続け――


「代償がコレだ。兄の犠牲出してもまだ、学んじゃいなかったか?」


 前蹴りが横腹に叩きつけられる。ぐぶ、と痛みが肺腑のほうまでのぼって、圧迫感で口から息が漏れた。水面を二度ほど跳ねるように吹っ飛び、派手に水しぶきを上げながら、池を囲む岩のひとつにぶち当たる。背骨が軋んで最後のひと息まで吐き出した。


「ン? 当たる直前で服と体表に術かけ直して、威力を滑らせやがッたか。小細工はホント巧いモンだな……感心しちまうゼ」


 げほげほと咳き込む小雪路の前に、一歩で間を詰めた桜桃が立つ。目には失望したような、酷薄な色合いが浮かんでいた。ぎり、と口の端を歪めると、唾を吐きかけて小雪路の腹部を踏みつけた。当たる瞬間にまた摩纏廊で摩擦を弱めたが、なぜだか力は滑ることなく内臓を掻きまわした。


「……ぁッ、あっ、ぅあぁ!」


「だが弱ェ。少なくともあたしの前に立てる段階じゃネェよ。自覚しろよ。出来ることとそうでないことに線引きをしやがれってンだ。イラつかせんな」


 二度、三度と踏みしめられ、いっそ踏まれ続けているほうが楽なほどの痛みが小雪路の体を折る。


 赤子のように丸まった小雪路を蹴り転がし、うつぶせになったところで背を一度踏みつけたあと、桜桃は小雪路の頭を踏みしめた。浅いとはいえ池の中へ沈み、正常な判断もつかなくなってまたも術式が消える。


 空気を求めて喉奥が震える。舌の根元が不自然な動きでからまりそうになる。冷たい水に全身を冷やされていく感覚、頭に血がのぼる感覚、肺腑がしぼんで痛む感覚。死を予感して、のぼった血がひいていく。


 やぶれかぶれで桜桃の足首をつかもうとしたところ、ようやく解放されて、這々の体で逃げ出す。ぜえひゅうと息が凍りつき、冬の寒さが体の芯まで冷やしていた。すぐに体表の摩擦を弱め、衣服と肌に沁みる水を地面に払い落した。


 桜桃は池からゆっくりとあがってきて、肩で息する小雪路を見ながら、ぽりぽりと耳を掻いていた。


「策は尽きたか? つまらネェな、くだらネェ」


「うる、さい」


「小細工の質もそうだがよ……お前、こないだ来たときより弱くなってやがンな」


「……うるさい」


「こないだもこないだで酷いモンだったがな。攻め気は感じたがそんだけだ。お前、なにがしてェのかさっぱりだよ。自殺志願なら勝手に腹切れ、あたしンとこに来んな」


「うるさい! うちだって、なにがしたいかなんて――!」


「泣きごとのたまうような気分でヤりに来んな。目ざわりだ」


 間もなく、桜桃がポケットに手を納めてやってくる。血が回りきらずふらつく頭で、それでもなんとか動きを認識した小雪路は左半身の構えのままに受けようとした。


 桜桃が間合いに入る。踏み込みが、地面を砕き割る。


「〝閃抜閃攻〟――」


 踏み落とす。玉砂利の敷き詰められた場が、小雪路の足下まで広く陥没する。


 足場を崩された、と察知したときには体が宙に浮いており、もはやどんな攻撃もかわせない。


「――〝最終死拳〟!」


 身を沈めることで抜き放たれた拳が加速し、踏み込みの重さを伴って突きこまれる。先日、すぐそこに見えている塀を粉砕した一撃だ。生身の小雪路の腹部に当たれば。臓腑は割れて単なる肉袋と化すだろう。


 ……半端、だったのだろうか。この前湯屋で兄の口から、恐れていた言葉を耳にしてしまったときから。


 戦にかける心持ちに訪れた変化は、自分の指針を曇らせた。戦い勝利し兄のためになればいいという思いが、行き場を失いさまよった。


 けれど他に表現の方法を知らないのだ。小雪路は、兄のために動きたいが、どうすれば兄が喜んでくれるかさえよくわからない。ならばせめて役に立てればと思ったのに、それを否定されてしまっては。


 小雪路には、やることも、なすべきことも、無くなってしまう。


「にいちゃ――」「〝空傘〟!!」


 言葉を断ち切って一陣の風が巻き起こる。桜桃の拳が直撃するまさに寸前で、二人の間を分かつ。二方向に弾けるように離れる直前、たしかに小雪路は目の前に飛来した短刀を見た。


 後方に飛ばされた桜桃は池の岩にやわらかく着地し、いらついた顔で拳をしまう。小雪路はというと、吹き飛んだ先で風に受け止められ、ゆっくりと地面に下ろされた。


「間に合ったか」


 先日桜桃が崩した塀の隙間から、重たい足取りで現れる。風の吹きあげた砂塵の向こうから、現れたのは。


「……遅くなって悪かったな。お前にやられた怪我が痛んだせいだぜ、怪神」


 満身創痍で符札と短刀を構える、三船靖周の姿だった。


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