70:目通りという名の邂逅。
喪失の。
レイモンドとの交戦中に割って入った式守は、井澄の前に進み出ると腰に提げていたもう一振りの軍刀を引きぬいた。そして右に高く構えると、両足をつま先立ちにさせて重心を低くとる。そう、八双ではなく、右蜻蛉のようだ。
「状況の変化、また総合的な人殺数の比較を考慮にいれた結果、呉郡一族である貴方の方が優先して執行すべき対象と判じられました。よってこれより自分が裁きを下しましょう」
地面を強く蹴りつけ、距離を置いたレイモンドに懸かる。軍刀を媒介にした式守の術によってか後退させられていたレイモンドは、崩れた体勢を立て直しながら鉄球を振りまわす。
「官憲でございますか。いやはや、大した殺気で――まるで殺人者側のようです」
「異なことをのたまいますな殺人者」
剣の間合いまであと三間。そこで、振りかざされた鉄球が右手より式守に襲いかかる。瞬時に左手を柄から離した式守は、例のケンキョウフカイなる術式によって己の周囲に圧力の結界を張り、鉄球を弾く。これに驚くレイモンドだが、すぐさま手元の柄を軽く旋回させることで式守の周囲に糸を巻く。
的確な行動だった。井澄も見切ったあの術式の弱点に、はやくも気づいている。
結界は強力に周囲を牽制するが、構築はわずかに一瞬。つまり連続する攻撃や威力が持続する攻撃には、めっぽう弱いのだ。
レイモンドが腕を引くと同時に、式守を囲む糸の輪が狭まる。上半身と下半身で、輪切りにせんと絞めあげた。
「ハっ――」
鋭い一喝で、式守は右片手のみで剣先を振り下ろす。まだ間合いには遠く、糸に当てたところでレイモンドは力加減により切られず受け流すだろう。井澄がそう思って鮮血の訪れに覚悟を固めていると、式守はためらわず軍刀を地面に叩き込んだ。
切っ先二寸が石畳に埋まる。そのまま、右肘を脇腹に押し付けるようにして両足を浮かす。前進の力を上に打ちあげた。
「おお?!」
驚嘆の声をあげるレイモンドの前で、柄頭を起点に式守は前方宙返りをこなした。糸の輪から逃れ、かつ頭上をとった。大きく振り上げた脚に遠心力を載せ、縦に一回転する。動作の中で被外套がはためき、次の瞬間、
「ェストォッッ!!」
背負い、襟元からうなじに伸びていた三振り目の軍刀を振るった。左逆手で鞘の鐺近くをつかみ、刀から鞘を抜く動き。回転により威力を上乗せし、しかも被外套により視界を遮られていたレイモンドは一瞬反応が遅れた。だけではない。
鞘を抜き終えたときに左手刀を下ろし、式守は三度目の結界の発動をなしていた。吹き飛んだレイモンドは、背後の壁に叩きつけられ防御も回避もままならない。左肩から脇腹までを軍刀に蹂躙された。
しかし、出血はしなかった。
「……危うい、ところだった」
汗を流して歯を食いしばるレイモンドの、身に着けていたシャツが裂ける。見れば、隙間からのぞいたのは肌着。黒く薄い光を照り返す、見慣れた色彩。
肌着にジグソウの糸を編みこんで、帷子と成していたのだ。
「浅知恵でありますな」
言いながら軍刀を、深く左後方まで振り切る。古流の袈裟切りに見られる、介者剣術などにも応用のきく重心の扱いだ。おそらく彼はいくつかの流派を身につけているのだろう。左手を添えて、式守は切り返す。
一瞬早く跳び退り、レイモンドは右脇腹を切られながらも刃圏を脱する。糸と鉄球を閃かせ、式守との距離一間の中に切断と殴打の風を巻き起こす。だが動きは精彩を欠いておりどこか気迫が足りない。どうやら、先の一撃で左鎖骨から肋骨の数本を砕かれているらしい。
「ああ、くそ。油断したなぁ」
血反吐を垂らしながらレイモンドは走っていく。途中、ひときわ大きな空気の膨張、爆発音に耳を打たれ三人とも動きが止まる。どうやら向こうでもなにがしかの決着がついたようだった。
「また失敗、か。これは呉郡も、いい加減おしまいかもしれないな……」
「殺人者など、はなからすべてが終わっているものであります」
毒づく式守に対してレイモンドは虚脱感にさいなまれた様子で、止めた足を動かす。式守がこれを追いかけ、井澄も慌ててつづいた。八千たちが戦っているはずの街路からは、いままた一発の銃声が聞こえてくる。先の爆発でもまだ決着がついていなかったのか。
「殺人者よ」
「……なんですか」
路地を走る中、式守は背後の井澄に話しかけてきた。まさかここできびすを返してこちらに斬りかかるのではと身構えたが、そういうわけではなさそうだった。
「これから我が主がこちらにいらっしゃるのです。あなたと橘八千草は、あの御方にお目通りかないます。なにやら話すことがあるようでしてな」
「べつに私は興味の欠片もありませんがね」
「橘八千草の身の安全について、というお題目がついてくるのなら、どうです」
返答に遅れた井澄を見て、放っておいても残ると感じたのか。それきりなにも語らず、式守は路地の脱出を急いだ。
どういう意図での話かはわからないが、いずれにせよ井澄も出血量を増やしたくない。助けだけ呼んでしばらくの間動かないというのは悪い案ではないのだが……しかし式守の言うことを信用していいのかわからない。また、レインとレイモンドがいまどうしているか……
はやる気持ち、迷う気持ちを抑えながら行けば、先ほどまで整然としていた街路は酷い有様だった。崩れ落ちた壁、砕けた窓、横倒しになった貯水塔。これが、これこそが、八千の持つ異能の真価なのだろう。焦げた空気を吸いながら、井澄は八千を探す。
そして見つけた彼女に駆けより、言葉を交わすうちに――その男は現れた。
「ほぅ、橘家の血脈。日輪の担い手。やっと、取り戻したようだな」
あまりに不吉な気配を伴って。式守の主だという老人は、その姿を二人の前にさらした。
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「視線を交わすのは初めてだな。橘八千草――そして、沢渡井澄、だったかな?」
快活にすぎて、つくりものじみた笑みが老人の顔いっぱいに広がっている。
「村上君の言葉に不安を覚えてきてはみたが、式守君が間に合ったこともあってか両者無事か。なによりだな」
言って老人が視線をやると、横に控えていた式守は深く頭を垂れて一礼し、この場を去ろうとしていた。あわてたようにおどけたように、老人は手を振って呼びとめる。
「ああ、待て、式守君! 経過報告をもらわねば帰ってもらっては困るぞ」
「お言葉ですが。自分はこの場に留まりつづけると、いつそこの殺人者を手にかけてしまうかわからないのであります。たとい貴方からの命があってとて、機構である己は行動指針と矛盾した行いに耐え難い」
「……ふむ、行きすぎた職務精神は難儀なものだな。まあ俺はそこが気に入ったから登用したのだが。わかった、行っていいぞ。あとから報告書を出せ」
「はっ。ああ、それとこれだけは先に報告いたします。設楽夜想が殉職しました。以上であります」
再度敬礼すると、式守は半歩引いた足を軸に反転し、素早くどこかへ消えていく。それにしても、詩神といい式守といい、よく追われる身で四つ葉の中に隠れていられたものだと、少し井澄は不思議に思った。
さて。
井澄たちの前に立ちつくした老人は、音も無く袖口に手を差し入れる。得物を出すつもりでは、と身構える井澄だが、そんな様子に気づくことすらなく、彼は燐寸を取りだしたのみだった。
そしてとんぼ玉のような根付で腰に吊るしていたかますより銀延べの煙管を取りだし、葉を詰めると静かに一服した。口から煙をあげる間、井澄たちに目もくれない。なにをしようとしているのかわからず、井澄は助け起こした八千と共に逃げる算段を立てるべきかと思案した。
だが。この老人が話しにきたのは、八千の身の安全についてだという。ならばむしろ先制すべきかと判じ、井澄は老人が煙を喫み終えたところで切り出した。
「我々に、話があるとのことですが」
燐寸の燃えかすで火皿の中から灰をかきだし、口にくわえてひと息吹き込む。一連の動きのあとにのんびりと、老人は井澄に一瞥くれた。八千はどこかおびえたように、井澄にすがった。後ろを見れば彼女は片手でこめかみを押さえており、耐えるように唇を噛んでいる。
「ああなに、話というのはそう難しいことではない。しかし現状はだいぶ差し迫っていたか……ここからどうしたものか、な?」
ぶつぶつと、ひとりごちてなにごとか言葉をまとめている。黙った井澄の前でしばし彼は沈黙を保ち、それからひとまずといった感じに名を名乗った。
「俺は日本国術法統合協会教論者〝鶴唳機関〟機関長。玉木往涯という」
「機関長……?」
読んで字のごとく、それは機関における首魁だ。梟首機関、鶯梭機関にならぶ統合協会の三権が一柱ということである。
もっとも、その機関すべてを動かす権力者の集いもあるとの噂だが、そちらは上層部に選ばれた人間のみで組織されており、所属者以外はだれがその会議に出席しているか知る者はない。
ともかくも。名乗りが事実ならこの往涯という男、この国で十指に入る権力者にはちがいない。
「そんな御方が、このような辺境の流刑島までどのような御用向きでいらっしゃったのでしょう」
「答える義理はないな……が、そう邪険に返していてはここから先の話が円滑に進められん。まあ一言でいうならば査察だが、これもどこまで話したものか」
「査察、とは。この政府不可侵の島を、統合協会の人間が見に来たと?」
「いや、それは目的の半分だな。査察の残り半分が、そちらだ」
言って往涯は井澄を指差す。けれど視線のずれと態度が、背後に隠れる八千を示していることを如実に物語っていた。
「橘八千草。日輪の担い手。お前の状態を観察した上で、保護しにきたのだよ」
次いで手招く。ますます八千は臆したようで、井澄のジャケツをぎゅうと握って背に隠れる。井澄も簡単に応じるわけはなく、自分の足の状態から周囲の状況までさまざまな事物を考慮に入れ、逃亡・相対・交渉などを選択肢に浮かべていた。
「あなたは先の戦闘を見ていたのですね」
「日輪のことを知ったのはもっと昔からさ。なにせ以前に式守君をけしかけたのも、俺なのだから」
「なんだと……」
言いつつ井澄の脳裏によぎるのはライト商会で唯一残った手掛かり、電信の切れはしである。あそこにはたしかに、末尾に「O」との記載があった。Ougai、往涯の綴りだったのだろうか。
「語気を荒げるなよ、少年。必要な手間だったのだから仕方あるまい……窮地に追い込まねば日輪の力が戻らないとあっては、他に手などなかったよ」
目を見開いて、井澄はよろける己の体を自覚する。後ろの八千に支えられ、なんとか踏みとどまると往涯は追い詰めるように一歩を進めてきた。彼は口の端に、ひたすらに快活さだけを極め他の情感の一切が乗らない奇妙な笑みを浮かべている。
「お前しか知らないと思っていたか? 情報屋というものどもの伝達力を甘く見過ぎだよ。さてなにはともあれそういうことだ、俺はお前たちの事情を知っている」
「事情、を」
「まあ当然のことだがな。そも、お前たちが矢田野山で〝陽炎事件〟を引き起こし、入院までの手続きをこなしたのはだれだね? 統合協会所属の人間だったろう。であるならば、そこの首魁であるこの俺が知らずいるはずはあるまい」
ほかにも含みがありそうな顔であったが、筋は通っている。いや、たとえ嘘であったとしても、いまの井澄には確かめる術がない。また、嘘であるとわかっても、彼が確信をもって八千の持つ日輪について情報を得ていることは変わらない。
「……ということは」
「ああ。橘八千草に力とともに記憶が戻っているのだとしたら――あのときの続きをお願いすることになるだろうな」
あのとき。つまり、矢田野山の放火と……病室で焼き殺した一人。
この咎について問い質されれば、もはや井澄にできる抵抗などない。相手は国家権力なのだ。ついていけない顔をしている八千を背にかばったまま、井澄は代理のごとく往涯に向きあった。
「話を」
「うん?」
「聞くしかなさそうですね」
「そうだな。そうしてくれるとありがたいものだね」
自分でこうなるよう仕向けておいて、往涯は平気でうれしそうな顔を見せた。他人の好意に触れたときを思わせる、優越感のような〝裏〟が無い、やわらかな表情だ。こんなときにどうしてそのような顔ができるのか、井澄にはわからない。
往涯は安らいだ顔のまま、井澄に話をはじめた。
「まあ、簡単なことだ。このままお前たち――必要なのは日輪だけだが、希望するならお前もいいぞ、亘理井澄」
「元の名まで割れているのですね」
「当然だ。お前は鶴唳にも鶯梭にも適性のある人材だったからな。落ちのびて、よもやこんなところに至っているとは思わなかったがね」
そうだ。井澄は、作戦行動中に逃げ出したことになっているはずなのだ。組織として行動する場に所属していた上で、これはあまりよくない事実である。井澄は確認のため、口を開く。
「逃亡への咎めは」
「本来ならばある。が、いまは火急の事態だ、多少の無理をしてでも周囲には目をつむってもらうよ。安心するといい、きみの生き先は未定だ」
どうにも含みを覚えて、にやりとした笑みに落ち着かない印象があった。とはいえこれ以上なにか訊いてものれんに腕押しと思われたため、こくりとひとつうなずくに留める。往涯は気をよくしたように、掌を開いて閉じた。
「して、お前たちには俺の指揮下、統合協会に参入してもらう。そこで指示通りの働きを、五年」
そして指を立てた右手を差し出した。掌越しに見える顔つきは変わらない。
「勤めてくれれば、そこからは好きに生きればよい。この島に戻るも本土で暮らすも、統合協会へ残るも街で他の職を探すも、自由だ」
「……その言葉を信用できるという保証は?」
「無論ない。本日はさわりだけ、面通しとしての意味合いのみだからな。乗り気になってくれれば詳細を語ることもあろう――ただひとつだけ確実なことを教えておいてあげよう。統合協会での職務は激しく苛烈ではあるものの、この島のそれよりは死亡率も低く安定した生活となる。これは、内部にいたお前なら、わかっているはずだよ」
井澄が統合協会で長く暮らしてきたことを考慮に入れた言葉だ。
たしかに、巨大な組織として群れ成して動く統合協会は、個々でまとまりもなく最後は己しか頼れない四つ葉での暮らしとはだいぶちがう。最初のうちはそれに慣れず、井澄もずいぶんこの島で危ない橋を渡ってきた。
だが多少知っているからといって、知っている場がすべてではない。
「日輪……橘八千草を欲する理由はなんです」
「それは深すぎる話だな。本日この場で詳しく話せるものではない」
「武力として用いるつもりですか」
彼は答えなかった。ただ、笑みのままに、掌を振りまわす。
「巨大なものには引力が存在する。わかるか?」
引きつけ離さず周囲を破壊するのだよ、と往涯は言う。
「しかし大きくなるほど、その一個の存在における外皮は弱くなる。端にいくほど分離しやすくなっている。何事にも中心となるものがあり、それこそが最も強固だ。どうしてかわかるか」
井澄が無言でいると、往涯は自らしびれを切らしたように語る。
「周囲が支え押し固めているからさ。すべては泥玉のようなものだ、中心は位置としては存在するが価値としては存在しない。だというのに、巨大なものはそこにそうあるだけで人に影響を与える。だから、見えないようにすべきなのだ」
煙にまいた物言いで、往涯は論を打ち切った。にこやかな中に、もう二度と、けっして変わらないだろう意志の結実がうかがえる。信念と呼ぶべきか、固執と呼ぶべきかは、見る人によって変わるのだろう。
「さて、つづきを欲するならばまた会う時にそう言ってくれ。また逆につづきを必要としないのならば……これきりもう会わないことを祈っておくといい」
往涯は懐から扇子を取りだすと、開いた上に数枚の符札を重ねおいた。
「行くのですか」
「ん。どうしたね、力ずくで連れ去るとでも思ったか?」
肯定する無言の間を、往涯の笑い声が駆け抜ける。
「心配することはないさ。俺も、準備の整わない者を連れていくほど非情では無い」
「そう、ですか」
「ああ。……いや、ひょっとして勘違いしているのか、亘理井澄」
急に笑みを引っ込めると、往涯の周囲に風が巻いた。舞う埃に目を細めていると、往涯は急に落胆したような面持ちで、口角を下げた。いっそ目に見えて肩を落としてくれればいいのだが、表情だけの感情変化はどうにも捉えづらい。ちぐはぐな感じが、作っている感情の匂いが、濃く香った。
「お前たちの心の準備などは、待たんよ。今日去るのは単純に、日輪の準備が不完全だったからだ」
「不完全?」
「見ればわかる。そいつ――日輪ではないな」
は、と息を吐き、一度口腔の空気を呑みこんで、井澄は後ろを振り返る。こめかみが痛むのか、彼女はまだ片手を頭に添えていて――苦悶の表情をわずか抜け出たと思しき、緩みを表して。眉根はまだ寄せたまま、不思議そうに口許に歪みをつけて、井澄に言う。
「……、……井澄……?」
彼の名を、呼んだ。
井澄の中に、細く小さく灯る気持ちがあった。
「時期尚早……もとい、まだ窮地が足りないのかもしれんな」
往涯は背後でのんびりと言い、井澄が向き直るときには扇子を一振り中空にかざして、視線を集める腕が残っているだけだった。
「また来るぞ。そのときまでに、どうするか決めておくのだよ」
扇子に載っていた符札が舞い散り、はらはらと彼の姿を隠す。それきり、音も風も無くなり、往涯は雲隠れしてしまった。つい今まで目の前にいたというのに、恐るべき早業。
いいや。恐るるべきは、彼などではない。
いまのこの状況をこそ、井澄は恐れていた。
「井澄……あれ、ぼくは……」
「八千草」
一言強く呼ぶと、ぽかんとした顔で間があった。だが次いで井澄が言葉を編むうち、彼女はこくんとうなずく。
「どうしたのだい……いや、ぼくのいまの状況も、どうしたのかよくわからないの、だけれど」
崩れ去った周囲の景色を見て、怖れをなしたようにおよび腰になっている。瞳に揺れる不安そうな光に、井澄は己の顔を押さえた。
記憶が戻った。以前の、〝八千草〟の状態に、戻ったのだ。
「……八千草」
「なんだい、何度も呼ばなくとも……ええと、ところでここはどこだっけ? そうだ、ぼく第六坑道に向かって、そこから……あれ、ええと……、」
自分の記憶の前後不覚に、戸惑い、徐々に焦りながら彼女は周囲を見回している。それはそうだろう。八千の話を聞く限り、八千草はあの場で崩落に巻き込まれ意識を失ってから、八千の意識に体を預けたままだったのだ。
「ここは……ってわぁ! お前、ひどい怪我を」
「……軽く止血は施してあります。ご安心を」
井澄ほどではないにせよ、彼女も怪我をしているのに。そんなことにはさっぱり気づかない様子で、表皮を削られた井澄の脚を心配そうに屈んで見つめている。いつも、そうだった。自分以上に他人を心配する。この島には似つかわしくない、橘八千草という人物。
八千草。八千。二人が――そう、井澄は彼女らを二人と、別個の存在と考えてしまっている――井澄の心を占めていた。
仕方のないことだった。なぜなら井澄の中で、八千との記憶は大きく……擦り切れてしまっている。レインに指摘された通りだった。世界を恨む理由として彼女をだしにしながらその実、井澄の中には八千との思い出はほとんど残っていないのだ。出会いと別れの記憶の影響だけが大きく、そのほかは失われた部分が多い。
代償。殺言権と言う言語魔術を手にした副作用。
井澄が失ったのは、記憶だった。いや、いまも失い続けている。記憶の穴は過去にいくほど多く大きくなるが、順番や法則というものはあまりないらしくところどころが虫食いのように抜け落ちている。つい最近の買い物の約束から、思い出すのに時間のかかる過去の悪戯まで、いつどこが消えるかは不規則だ。
だから残る部分部分の記憶から相手のことも思いだせるし、会話もいくつかは覚えていられる場合が多い。とはいえ、消えた部分が増えすぎればそれまでだ。現に井澄は、統合協会での生活の最後の方と、八千との出会いと別れ、あとはこの島に渡ってのちの記憶以外はほとんど擦り切れ消えている。
これによる悪影響を遅らせるためにこそ、井澄は手帖に情報と日記を記し続けたのである。周囲との齟齬が生じないように。細かな約束であっても、小さなやりとりであっても、仔細にすべてを記載した。自分を、すこしでも取りこぼさないために。
だから、いまの井澄が過去の井澄とまったく同一かというと、少しちがう。もちろん場面場面の感情――たとえば八千を銃撃の下に失ったあの場面を思い返せば、胸が張り裂けそうになる。けれどそれを感じるのは『その場面までの過程の記憶を失くした』いまの井澄だ。感じ方は少しだけ、異なる。自分であって、自分でない。自分の演じた戯曲をはたから見ているような感覚だ。
だから、なのだろうか。
実際の記憶を失い、手帖から得た記憶の延長として、井澄は過去の井澄を演じているように思えるのだ。沢渡井澄が、亘理井澄を演じている。もちろん感情はある。八千への思いもある。けれどどこか、作られたもののような思いはある。
だから、なのか。
繕うとし続けた生活、八千草への態度が、いつの間にか本物じみたものになっていたのは。
いたたまれなくなって、逃げ出してしまいそうになる。不実な自分がいやになる。
「本当に、怪我は心配ないのかい」
「ええ。あまり放置はできませんが、いますぐどうこうということは」
「また……ぼくをかばった、せいなの?」
「ちがいますよ」
ぎくしゃくした笑みを返すが、ぎこちなさが頬の震えに表れてしまう。八千草。目の前にいるのは、彼女の方なのだ。八千ではない。では自分は――沢渡井澄なのか。亘理井澄なのか。
これまでは、状況に流されてそれを決めれば心地よかった。八千草であれば沢渡のように接して、八千であれば亘理のように接して……だがいまや二人の境目はどちらに転ぶかわからない。井澄は決断を迫られていた。これまでずっと、決定的なことは言わずにきたというのに。
どちらでいるかを、どちらといるかを選び、気持ちを伝えねばならない。もう、なにも選ばないままではなにも得られないのだ。不実なままではいられない。
「ちがうんですよ」
けれど井澄はこう言って、おそれから逃れる。
――かくして、状況は確実に次の局面を迎え入れようと動いていく。井澄はもはや、状況に流されるままではいられない己を知って、ひとり考えに、思いに、沈んだ。




