66:報導者という名の窮鼠。
報せ導く者。
坑道での落盤に際して、八千草はまたも生命の危機に陥ったにちがいない。追い込まれた体が己を守るために、またも八千の意識を呼び起こしたのだ。井澄はそう推察して、なにかに怯えている彼女を引き寄せた。坑道でなにがあったにせよ、いまこうして彼女は井澄の傍にいる。
「よかった……」
無事を喜び、再会を愛しく思う。しかし、井澄の中には戸惑いがあった。
原因は自分が「八千草」と呼びかけたこと。いや、それ自体はなんら問題ないのだ。八千と再び出逢うためには〝橘八千草〟に無事でいてもらわなければならない。だから心配するのは当然なのだ。けれど――目覚めた八千と再会できたとき、安堵した井澄の気持ちの中には、また別の安堵があった気がした。
その正体がわからなくて……、井澄はうつむいた。八千の手を握りながら、どこか自分に対して空々しい態度をとってしまっていた。空いた手で、胸元に納まる手帖を握る。大丈夫だ。亘理井澄はそこにいる。
とにもかくにも、いまはいまだ。井澄は彼女が目覚めた朝から数時間を、現状把握させるに努めた。幸いにも彼女は聡明で、一度注いだ知識は漏らすことなく蓄えることができる。四つ葉という島のこと、アンテイクのこと、いま置かれている現状のこと……話した事柄のすべてを覚えて、うなずきを返してくれた。
ただ、知識だけではどうにもならないこともある。起き上がれるようになった彼女と今後について話す中で、井澄は八千草と八千の差異を知った。
「刀は、使えないようですね」
井澄が見るのは八千草愛用のアンブレイラ。
奇匠・佐々木助真作の発条仕込み刀〝朱鳥〟。これを用いた戦闘術の一切を、彼女は失っていた。正確に言うと剣筋は悪くない。剣に相対することには長けている井澄から見て、八千の剣は八千草を彷彿させる、鋭い太刀筋を誇っていた。体が、多少は覚えているのだろう。
とはいえ実践経験の記憶が伴わない以上、戦闘技能は無いに等しい。間合いを詰める技術、相手の隙をうかがう技術、攻め手を読んで己の呼吸に巻きこむ技術。四つ葉での過酷な暮らしに裏打ちされた各種技能は、彼女の内から霧消していた。
剣を用いて戦うことは、できないだろう。
「でも、焔を使うのは、ちょっと」
「いただけませんね」
言って弱気な顔を見せる八千に、井澄はかぶりを振った。焔はなるべくなら使わせたくない。どうやら船のときとはちがい、火種なしでも使用可能となったようだが、その力は人目をひく。ここではかつての矢田野山のように異能を白眼視する者こそいないが、強力な異能だと目をつけられれば利用価値ありと判断されて身動きがとりにくくなる。
ただでさえ葉閥間で緊張状態を強いられつつある現状だ、視界内を好きに焼き払える八千の能力は戦を目論む者には魅力的に映るだろう。湊波は考えの読めない男だが、そうであるがゆえに戦への関心もどの程度かわからない。もしかすると、八千の能力を知れば『では他葉閥を制圧する一手に使おう』と言いだすかもしれない。
それでは、島を出にくくなる。
……そう、もはや八千が取り戻された以上、彼女を危険にさらすためこの島にいる必要性はなくなったのだ。目覚めてしばらくの間は、また眠りに落ちるとともに彼女が失われるのではないかと危惧していたが。どうやら異能が完全なものとなったと同時に八千の意識が体に固定されたらしい。もちろん彼女の言を信じるならば、だが……井澄にとって彼女の言葉以上に重いものなどない。
治療室のベッドに並んで腰かけ、井澄は己の膝に頬杖ついて考え込んだ。
「ひとまずの課題は、島を出る方法になります」
「船で、普通に出ることはできないの」
「普段ならば、ある程度の手順をとれば出航はできます。現に少し前にも緑風所属だった散薬師と人外が島をあとにしました。ですがいまは青水によって、緑風アンテイクには見張りがついています」
昨日居留地に降りた際に気づいた。仮にも呉郡から暗殺の技能を学んでいた井澄だ、相当の手練が相手でもなければ、自分に近づいたり離れたりする気配にはすぐ察知する。追走してくる相手に気づかれぬよう確認すれば、物陰に姿を隠しながら迫っていたのは、明らかに青水の手の者だった。
「居留地でぎりぎり。その先にある港に行こうとすれば、張り込んでいる連中が妨害するでしょうね。幻灯機の一件で、我々の信用は地に落ちています。貿易流通の関係から赤火の人間が多い港に、緑風が助力を乞いに行ったとの見方をされかねません」
下手をすれば、と井澄は手刀で自分の首を落とす仕草をした。八千はこわごわと、まだ痛むらしい喉をおさえて小さな声を出す。
「となると、まずはその青水? とかいうところと、僕たちのいる緑風が、争いを収めなきゃいけないんだね」
「そうなります。かといって赤火に不利益を出すようなことをすれば、今度は向こうに睨まれる。まあすでに幻灯機を手に入れていたこと、それを黄土に盗まれたこと、銀世界の所在をあなたが爆破したことから、向こうの不興を買わずに済むとは思えませんが」
「さ、最後のは、ごめん」
「冗談です。もぬけのからだったというならむしろ、爆破して細かな証拠を消してくれたということで感謝されるんじゃないですか」
おどけた口調で言ってみせると、落ち込んでいた八千は一転して不機嫌そうな表情に移行した。ふざけすぎたかな、と内心舌を出しながら、井澄は続けた。
「……その細かな証拠、を手に入れていることもまた、うちの微妙な立ち位置の形成に一役買ってしまっているのですがね」
かたわらのロウテエブルに置かれていた銀の鋳塊を手に、井澄は言う。八千は曇り顔で、肩身狭そうに身をよじった。
この鋳塊があることにより、緑風は青水に対して一歩先んじていると言える。だがこれの存在は赤火にとっては危険極まりない障害物だ。つまるところ諸刃の剣、両葉閥の間で板挟みになる可能性を生む、扱いどころの難しい代物と言えた。
「だとしても行動の選択肢を増やしておくに越したことはない。あなたが起きる前、湊波含めた四人で話しあってそう決めました」
「湊波」
「ええ。奴が、どうかしましたか?」
「ううん……えと、中身がわからない見た目してるから、どうも怪しいなと思っただけ」
「たしかに、そうですね。けれどあれほど鬱陶しい喋りと気配を持つ者は他にいません。信頼はできませんが強さの信用はできますよ」
「そう」
「なんだか煮え切らないですね……まさかここまで運ばれる途中で、なにかされたのですか」
「ないけど。なんか、ちょっと怖くて」
「ああ」
そういうことなら、納得できなくもない。奴の雰囲気になれるまでには、井澄も相当な時間を要した。
あの得体の知れなさは、ちょっと人とさえ思えない時がある。
「ともかく……、錬金術師に頼んで、これが本当に錬成された品なのかを鑑定してもらうことで話はついています。その先については、明日詩神との対峙を終えた瀬川一家の様子によりますかね」
「赤火と青水、どっちに肩入れするか決める、ってこと?」
「肩入れというよりは、流れに沿うための舵取りですか。鋳塊の扱いによってどちらからも恨まれぬよう、加えて両者の力の均衡がとれることが目標です。少し前までのような均衡状態にもっていければ、我々が島を脱するにも難がなくなりますから」
均衡状態。いまにして思えばこの島は、非常に微妙な天秤の上で成り立っていたのだと、井澄は自分の言葉から感じとった。
「一瞬でも均衡の隙があれば。そこで逃げ出しましょう」
「うまく、いくのかな」
「やり遂げるしかありません。力の無い我々が、そこまでこの島を動かせるかはわかりませんが……」
大きな、力。天秤に作用できる強者の力が、井澄たちには無い。
四権候。四天神。彼ら強者の位置がたまたまうまく天秤の均衡状態を示しただけで、それが黎明期の混乱を抜けたこの島の葉閥同士を停戦に持ちこませた。だが以後数年にわたり保たれてきた均衡も、結局のところ錘である強者の動向ひとつで脆くも崩れ去るのだ。
詩神が青水を襲撃したという、たったひとりの個人の動きで、眠っていた戦という獣のいびきが止んだ。……いや、ちがう、のか。またも井澄は自分の言葉がもたらした思考結果を原因に反映させ、思考に沈む。
流れ、だ。黎明期の混乱があり、安定期の秩序があり、いままた混乱に入ろうとしているこの島。そこにはひとつの大きな、人々の流れがある。
これまで幾度となく、色々な人々から耳にした言葉である〝流れ〟。これを捻じ曲げる契機。もとを辿ればそれは、しばらく前の緑風が危神の交代、および初代危神の殺害に端を発するのではないか。
以前靖周は、冥探偵との戦いから危神殺害まで一連の流れは、緑風の情勢を動かすための行いだったのではないか、と推測していた。次に船舶での一件で八千草がこの推測への反論を述べ、井澄もそれに半ば賛同の意を示したが……本当は靖周が、合っていたのではないか。
いまの状況まで含めて。すべてはこの島に、だれかが波乱を巻き起こそうとしている結果なのではないか。流れに手を加え渦巻かせ、この島を陥れようとしている、だれかが。
――すべては当て推量に過ぎない。だが時々の状況に、作為的なものを感じていたのは確かだ。
「井澄?」
八千の呼び声で、我に返る。
考察するのはいい。でもそれで現状への対処がおろそかになるようではだめだ。ひとつ深く呼吸して、懐中時計を見る。レインとの、待ち合わせの時刻が迫っていた。井澄は鋳塊を懐におさめると襟巻を首に巻いた。
「……そろそろ、いきましょうか。大方の事情は八千ものみこめたようですし、あとは手早く錬金術師とのやりとりを済ませます。向こうも仕事で来ているようなので、あまり長い時間を割いてもらうわけにはいきませんからね」
「ああ、島外から来てる人なんだっけ」
「ええ。統合協会の監査の仕事だとか。代理とはいえアンテイク店主であるあなたにも会いたいとおっしゃっていたので、共に参りましょう」
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踊場宗嗣は新聞記者である。それもただのブンヤではない。この過酷な島で黎明期から各所に疎まれ続け、なおも生き残ってきた『やり手の』新聞記者である。
その情報収集の手管を買われて情報屋も副業として営んでいるが、本人としては報道によって人々の知る権利を満たすことこそ本懐であると自任していた。
人々の権利を守るためならば権力者にも噛みつくし、面白おかしく書くことはあっても私見は交えず淡々と情報を撒く。情報という力の一極集中を防ぎ、強者だけでなく弱き民にも意見の機会を与えられる立場――そうあることに誇りをもっていたし、そのために生きているというふしもあった。
それが、身の危険を感じて島から抜けようとした途端にこれだ。攻め続けてきた人生で、急に守りに入るとやはり人間、野生の勘が鈍るらしい。
「やぁれやれ、だ……」
鳥打帽を目深にかぶった踊場は、畳の上の布団に寝転がったまま身じろぎひとつできない。島抜けの手立てとして六層で密航船を探して、その間も普段からのクセで情報収集を続けて。そうしているうちに彼は、この島の〝流れ〟が危うい方向に向かいつつあることを悟った。鉄道でいうなら、分岐が見えてきている。
踊場はそれを、止めるつもりはなかった。
彼は新聞記者であり、政治屋でも革命家でもない。
だからただ、明日の飯のために得た情報を民衆に還元し、民に上への意志を問うだけだ。……だがそれこそが流れに一石を投じる行いであり、政治屋にとっては迷惑この上ないらしい。間一髪のところで逃れることはできたが、死の瀬戸際まで追いつめられ、いまも境目を漂っている。
「情報屋の相次ぐ変死を聞いて、対応策を講じてなお、このザマとは……」
全身を、黒いあざが覆っている。かびのように皮膚の肌色を蝕む点描は、踊場の命を吸い続けていた。策を講じた結果こうして食いとめてはいるものの、いずれ体内の兵糧は尽きる……。
情報屋にして抜刀術の達人、〝罰刀〟の大路晴代。彼女は正体不明の病におかされて死亡したと伝えられており、周囲への二次感染を防ぐべくほとんど人目に触れることなく荼毘に付された。
それでも目撃者というものは、いる。踊場は己の身を守る意図から大路の死にざまについて聞き及び、その死因について調べた。日本人の医者からの回答は得られなかったが、居留地で話した異国の医者は、遺体の状態を話すと簡単に回答をくれた。どうやら日本国では、ほとんど親しみのない病らしい。
――黒死病。ペストという。かつて欧州で猛威を奮い、凄まじい数の死者を出したという大病だ。そしてその病の感染経路は、ねずみによるものだそうだ。
残念ながら特効薬はなく、予防策は鼠やその血を吸った蚊やダニやノミに近づかないようにする他ないとの言葉をもらった。そしてどうしてもまずそうな時にだけ使え、と、魔草の抽出成分を用いて作った秘薬のアンプルを渡された。それは呪力を込められた薄緑の魔法薬で、服用すればほとんど身動きがとれなくなるが、体内の回復力を高める効果があるという。
ありがたくこれを頂戴し(十円ほどとられた)、踊場はさらに調べを進め……この島の流れ、ここ最近の事件の裏に隠された意図について推論を得た頃に、襲われた。
情報を探っているときに接触してきた、警官然とした格好の男に渡された手紙にまんまとおびき出され。差し出し人の「O」なる人物に遭遇できるかと思いきや、ある男に鼠をけしかけられた。
潜伏期間などなく、黒死病は即座に全身を覆った。異常な即効性に、踊場はこれが呪いであると気づく。そして体の自由を奪われる寸前でアンプルの中身を口に含み、踊場は死んだふりをしてやりすごした。男は、すぐにそこから去った。己の術に絶対的な自信があったのだろう。症状に身もだえしながら、踊場はしばし耐えた。
その後は……、なるほど説明の通りほとんど身動きがとれなくなり、仕方なく踊場はなめくじのごとく這って移動した。とはいえ、体内の回復に力を回している以上長くはもたない。もうだめか、と思っているときに、彼は警笛を耳にした。
幻影列車。己が記事にした存在をじかに目の当たりにして、呆けていた彼を助け起こす者があった。
……この僕に協力することを許しましょう。
ひどく乱暴に偉そうな語調で彼は言い、肩を貸して引きずるように幻影列車に連れ込んだ。ひげの目立つ店主は薄く笑ったような顔をしていたが、二人が車内におさまると扉に人払いの術を施していた。どんな人間でも客は拒まないという、職務精神だろうか。列車の進行方向に位置する畳座敷の席に寝かされ、踊場はやっと一息つけた。
さて情報屋。青水の邸宅に攻め入ろうという際に、弱所となるだろう場をお教え願いたい。
寝かしたとたん続けざまに言い、踊場の救い手である彼はロングソウドの切っ先をこちらに向けた。ものを頼む態度ではなく、脅し取ろうという意志が乗っかっていた。だが反抗できるはずもなく、踊場は喘ぎつつうなずいた。
よろしい。ではここでゆるりと休むがよいでしょう。なに、ここは幻影の中。追われていても見つかることはない。情報吐かねば蹴り落とすもやむなしと思っておりましたが、運が良い。
勝手なことを言って、剣を引く。
しかしなるほど、幻影の中。彼はそもそも人に見つかりにくいこの列車に、ずっと潜伏していたのか。いまさらながらその事実に気づいて、踊場は剣の主――詩神・黒衛を見上げた……
……そんなことがあったのも、数日前のことだ。踊場の体は弱る一方で、ひとたび目を閉じればそのまま闇に落ちるのではないかと危なげな状態で生きながらえていた。
黒衛ももういない。彼は踊場に教えられた情報を元に瀬川邸へ単身襲撃に向かって以来、戻っていない。だが店主がぽつりぽつり語る四つ葉の動向によると、果たし状を叩きつけて一旦ひいたそうだ。つくづく、無茶苦茶をやる人物だと思う。
いや、無茶と言えば、自分もか……思い、重いまぶたをわずかに開く。
今日の目覚めの時から、いよいよという予感はあった。鳥打帽の縁から見る視界に、闇が増えている。今度こそ、だめだろう。もはや呪いは全身を駆け廻り、踊場の体は耐えられない。ひしひしと迫る死という捕食者に恐れをなして、巻くべき尻尾も動かぬ弱者だ。
それでも口だけは、動く。
「……店主」
「はい」
「……済みません、でしたね。病に、しかも、伝染する病におかされているのに。今日までここに置いてくれた、こと。感謝いたします」
「うちは、店ですからね。飯食う奴には等しく席をあけますよ」
「職務……精神、というやつ、ですか」
「主義、ですかね」
店主は、踊場のためにとこしらえていた粥を鍋からすくいあげると、白い器にうつして枕元まで持ってきてくれた。受け取って食べることもできず、踊場はされるがまま口に含む。だが、胸にこみあげた感覚と共に、内臓が痙攣して吐いた。白い粥のなか、赤い色が、混ざり込んでいる。
「すみ、ません」
「食べることも、ままならないですか。では飲むことは、どうでしょう」
「難しい、ようで」
「……私にできることは、もうないようですな」
店主が少しだけ落ち込んだ。この人のいい男にそのような表情をさせているのが心苦しく、踊場は申し訳ない気持ちで自分の胸元に散らかった粥を見た。店主が手ぬぐいを添えて、拭っていった。
「あの男、黒衛とは多少付き合いがありましてね」
粥を片づけながら、店主は言う。
「この列車を開いてから、今日まで。よく来てくれていました。いつも飄々として、カウンタの端に腰かけていてね。そんなあいつが、危神の訃報以降は沈んだ様子で、じっと酒を傾けては、なんだかよくわからない詩を書き連ねて。ふとある日、覚悟ができたと言って、赤火を離反したわけです」
「……瀬川進之亟との一戦を、死に場とする、のでしょうか」
「死ぬためではなく、己を試すためだと言っていました。ただあそこも手練の連中が揃っているから、果たし状を渡しにいくのは難儀する、と頭を悩ませていて。そんなとき、こうしてあなたを拾った」
情報屋のあなたを。言って、含みのある顔で、店主は踊場を見た。
「あなたには感謝しています。我が友の望みの実現に、手を貸してくださった」
「……なにも。大した、ことは」
「そしてなにより、私はあなたの職務精神に感銘を受けました。だから、正体を明かしましょう」
結局最後まであいつには言えませんでしたが。店主は踊場の傍らに膝をついた。
「私は、四つ葉の人間ではありません」
よくわからないことを言いだしたので、踊場はいよいよ幻聴などに頭をおかされはじめたのかと我を疑った。しかし店主ははっきりとした語調で、踊場に続ける。
「日本国術法統合協会対師館は〝鶯梭機関〟所属、幸徳井朋樹と申します」
愕然と、した。
本土のことに踊場はあまり詳しくないが、それでも統合協会は知っている。明治政府の裏で動く陰陽寮を継ぐ部署であり、つまりは政府不干渉の四つ葉には似合わない人間だ。なぜそれが、ここに。
「……あっしが、もうじき死ぬから、出自を明かしたのですか」
「いいえ。先ほども述べましたが、同じ情報を扱う職責を担う人間として、あなたの職務精神に感銘を受けたからです。あなたは最後まで、この島の闇に立ち向かおうとした――」「クセです。大した、意味はない」
断ち切って、踊場は言う。
「大した、ことはない。これはただの――主義です」
にっと笑って、言った。幸徳井はなにかに驚かされたような顔で、深く頭を垂れた。
「いいん、ですか。そんな、あっしなんぞに頭下げて」
「今日はもう、仕事の日ではありませんのでね。統合協会の立場ある者としては難しいですが、幸徳井という私個人の行動としてなら、許されるでしょう」
「仕事、とは」
「なに、ほんの小さなものです。平時デマゴギイの伝達実験……」
この短い一言で、踊場は勘付いた。向こうも、それだけで伝わると判じてのことだったのだろう。すべてが繋がった感覚に、どっと疲れを催しながら踊場は顎を天に向けた。
そうか。情報を扱う職責。納得と共に、状況がひっ迫している事実を噛みしめる。
「……そうですか。あっしと、おそらくは大路晴代も、辿り着いたから消された、と」
「そう、なります」
「……なるほど……〝流れ〟はやはり、意図して生みだされたもの、でしたか」
この島は、もう危ない。
均衡状態を取り戻すことは、二度とないだろう。考えの終着に、踊場は目を閉じた。
「……最期に、ことづけだけでも、よろしいですかね。すべてを知る、しかも島外の任を預かるあなたに頼むのも、へんな話ですが」
「かまいません。あなたの言葉をこそ伝えましょう。まあ……事実から率直に申し上げると、私の仕事はすべて終わっておりますので。十六年前より進められてきた〝四つ葉計画〟もすでに最終段階に入っています。よって申し訳ないが、あなたのことづけもさほど意味を成さないかもしれません」
十六年前からの計画で、名を〝四つ葉計画〟か。葉閥に分かれ四つの勢力となったからついた名ではなく、最初から意図されていた名称だったわけだ。
この答え合わせも済んで、踊場はなおも己の言葉を残すこととした。
思いついたのは一人。彼ならば、うまくこの情報を扱える気がした。かつ、この店を存じているので、情報の受け渡しもなんとかなるだろう。
「緑風アンテイク、沢渡井澄へ。伝言をお願いします。『この島の敵にして生みの親は統合協会だ』」
「私という鼠のことは、お伝えしなくても?」
「……仕事が終わった人にまで、噛みついている時間の余裕は、ないでしょう」
「これは然り」
「加えて、もう一点。『統合協会より潜り込んでいる〝流れの担い手〟は、黒死病の呪い師・湊波戸浪。そしてもう一人いる――九十九美加登』だと」
承りました、と、幸徳井の言葉が聞こえると、途端に動きの鈍かった体が、ふっと軽くなった。
おわりだな、と悟って、最後の最期のやりとりが、あった。
「ことづけの相手はご友人ですか」
「まあ。そんなとこ、ですが……それ以上に彼も。知る権利持つ、民のひとりですから」




